地鎮祭に参列した事がありますか? 新しい建築物を建てる前に、その土地の「大地主神(おおとこぬしのかみ)」という大地の神様や、その地域を護る氏神様を鎮める祭りです。こないだ私はたまたま地鎮祭に参列する機会がありました。近所の神社の神主が来て、式次第に従ってとても厳かな雰囲気の中で執り行われました。仏教の法事とはまた違う、独特の雰囲気がありました。でも私自身がこのような神事についてほとんど何も知らないことに愕然としました。ほとんどの日本人はお正月には初詣をするし、子供の七五三や結婚式などで神社のお世話になっているにもかかわらず、神道についてほとんど無知だし無関心なのではないでしょうか?
今年は伊勢神宮の20年に一度の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が執り行われる年です。島根の出雲大社の60年に一度の「大遷宮」も今年の5月10日、無事に執り行われました。その他にも4月9日には熊野の熊野本宮大社で120年ぶりの「本殿正遷座祭」があったし、5月8日には名古屋の熱田神宮で「創祀千九百年大祭」が盛大に執り行われました。今年はまさに神道の重要な祭事が続く「神道の当たり年」で、伊勢神宮の参拝者の数もうなぎ上りで増えているそうです。このタイミングで発売された神道の入門書ともいうべき本があります。『本当はすごい神道』(宝島社新書・743円)です。著者はジャーナリストの山村明義さんです。
戦後の日本社会は戦前を否定するところから始まってしまったために、神道は何か危険な宗教、遅れた宗教というような誤った思い込みが未だに続いています。しかしこの本を読むと、そのような思い込みがいかに根拠のない、戦後作られた偏見であるか、が分かります。そもそも神道は宗教といえるのでしょうか? 神道は宗教というよりはむしろ日本人の習慣や哲学なのではないか、という気がしてきます。私たちの日常の価値判断や習慣の根底には実は神道があるのですが、それが空気のようにあまりにも当たり前すぎて却って意識することが難しくなっているのではないでしょうか?
宗教は本来、悩める人を救うものであるはずですが、歴史を振り返るとむしろ宗教は戦争の原因であることが多かったようです。今も中東で繰り返される争いの根底にはキリスト教徒とイスラム教の対立や同じ宗教の中の宗派の違いなどがあります。では、なぜ宗教が戦争の元になるのでしょうか? 私はこれは一神教の弱点だと思います。一神教の神は唯一絶対神です。キリスト教徒は聖書の教えに逆らうことは許されませんが、しかし聖書を書いたのはキリストではなく信者ですから、書いた人によって教義の解釈は微妙に違って来ます。その微妙な解釈の違いをめぐって争いが起きます。それが口げんか程度ではなく、血で血を洗う戦争になるのは唯一絶対神だからです。
神道は唯一絶対神ではなく八百万神(やおよろずのかみ)です。神社に祭られている神様は山の神様や海の神様、神話の中の神々もいれば歴史上の偉人もいます。つまり何でも神様になってしまうのです。こんな宗教があるのは世界中で日本だけでしょう。教祖もなければ教義もなく、信者の義務もありません。寄付をするもしないも自由です。これほどゆるい宗教はないでしょう。
神道はそのゆるさの中に無限の寛容性を持っています。「神仏習合」などという離れ業ができるのも神道が寛大で何でも受け入れるからです。もしかしたら世界から争いをなくせるのは神道かも知れません。この本のタイトルのように神道は本当にスゴイ! と思います。
なお山村さんはインターネットテレビ「channel grand stratedy(CGS)」でも神道について語っていらっしゃいます。ソフトな語り口でとっても分かりやすい解説が聞けます。こちらもお勧めですよ!
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6mu43UnNThDJOSnMHPYjNtRC4KXLtNnT