マダムの部屋

愛国女性のつどい花時計代表でもあるマダムが思った事など書いています。

2013年12月

靖国神社を国立に

 国を守るために国民が命を捧げれば、国家は国民を神として神社に祀る、というのが戦前の国家と国民との約束でした。自分が死んでも魂は英霊(英でた霊)として残り、のちの世代の日本人が大切にしてくれるだろうと信じていたからこそ、多くの先人が日本を守るために戦って下さったのです。それなのに靖国神社に7年間も首相が参拝しない、という異常な事態が続いていました。マスコミは「中国や韓国が文句を言うから」という、とんでもない理由で首相の靖国参拝を阻止すべく、ほとんど恫喝のようなことを言っていました。靖国神社は日本人の心の拠り所であり、そこに外国が口を出すのは内政干渉です。

 安倍首相が1226日、靖国神社に参拝したことをご自身のツイッタ―で報告したところ、その日のうちになんと! 4万件の「いいね!」があったそうです。29日の段階では74千件の「いいね!」があったそうです。もともと首相のツイッタ―は人気がありますが、このリツイートの多さは東京オリンピック招致が決まった時のリツイートの数に次いで2番目に多いそうです。多くの国民が首相の靖国参拝を問題視していないこと、それどころかこの日を待っていたことが分かります。

 安倍首相は今回の参拝で英霊との約束を果たし、選挙公約に掲げていた「靖国神社公式参拝」も実現されました。参拝後の首相の表情はとても穏やかで、心の重荷を下ろしてほっとされたのではないか、と思います。思い起こせば1年数か月前の自民党の総裁選挙の日、ジャーナリストの山際澄夫さんの呼びかけに応じて何人かの女性が自民党本部前で「安倍さんを総裁に選んで下さい!」と声を張り上げていました。私もその中の1人でした。

 最初は「せいぜい3番目ぐらいじゃないか」と言われていた安倍さんが最初の投票で思いがけず2位になり、決選投票に持ち込むことができました。そして決選投票で石破さんを破ってなんと! 総裁に返り咲いたのです。その後の衆議院選挙で自民党は大勝して安倍さんは首相に選ばれました。今年の参議院選挙でも自民党が勝って、国会のねじれも解消されました。前回、みじめな形で総理を辞任した安倍さんのこの1年間の歩みを振り返ると、まさに逆転ホームランのような奇跡が起きた気がします。もしかしたらこれも靖国神社の英霊のご加護のお蔭ではないでしょうか?

 この次、安倍首相に実現していただきたいことは靖国神社を国立にしてほしい、ということです。靖国神社が他の神社やお寺と同じ宗教法人、というのはどう考えてもおかしな話です。靖国神社は戦前は海軍省と陸軍省の管轄でした。しかしマッカーサーは靖国神社を燃やしてしまいたい、と思っていたようです。大東亜戦争の敗戦後、GHQの「神道指令」によって靖国神社は宗教法人となることで、かろうじて存続を許されました。しかし、どこの国でも公のために亡くなった方を祀る場所は国立です。それが世界の常識です。そのことは外国へ行ってみればすぐに分かります。

 毎年、815日には武道館で政府主催の「戦没者追悼式典」が行われます。首相も天皇陛下も武道館には足を運ばれるのに、武道館と目と鼻の先にある靖国神社に行かれないというのはあまりに不自然です。天皇陛下がご親拝なさる環境を整えるためにも靖国神社は国立であるべきだと思います。

 花時計のQ&Aコーナーに「靖国問題について」まとめてありますので、こちらもご覧くださいね!

http://www.hanadokei2010.com/faq_detail.php?faq_category_no=9

 

 

 

聖徳記念絵画館

 明治神宮外苑の中、神宮球場のすぐ隣に「聖徳記念絵画館」という建物があるのをご存知ですか? ちょっと国会議事堂に似た建物です。中央にドームがあり、どっしりとした石造りのとても立派な建物です。見かけはごつい感じですが中に入るとその華麗さ、美しさに圧倒されます。ドームの高さは約32メートル、天井を見上げるとステンドガラスがきらきら輝いています。「聖徳記念絵画館」は大正8年(1919年)に工事が着工され、大正15年に完成しました。全国から公募された設計図の中から一等に入選した小林正紹氏の原図が元になっています。中央広間の壁や床には国産の天然大理石が使われています。

 展示室は右が日本画、左は洋画です。縦3メートル、横2.7メートルの巨大な壁画がずらっと並んでいます。「聖徳記念絵画館」は明治天皇と皇后である昭憲皇后の生涯の事績を時代順に描いた絵画を展示しているのです。日本画40枚、洋画40枚、計80枚を描いた画家たちはいずれも当時、一流の画家です。私でも名前を知っているほど有名な人も何人かいます。絵が好きな人だったら、一日いても飽きない場所だと思います。しかも入場料たったの500円! 単に絵画を鑑賞するというだけでなく、絵を見ながら幕末から明治の歴史を楽しく学ぶことができます。

 欧米列強がアジアに押し寄せてきた時代、この国難によくもタイミングよく名君が現われたものだ、と思うほど明治天皇は立派な君主でした。明治天皇の一生はまさに日本の近代そのものです。「聖徳記念絵画館」に飾られている絵は明治天皇のご生誕から薨去まで、一生のうちに起きた歴史的名場面をできるだけ忠実に再現しています。登場人物の顔も服装も実にリアルで、まるで歴史の一場面に立ち会っているような錯覚を覚えます。芸術的価値も高いものばかりです。

 昭憲皇后もさまざまな分野にご関心を持って行動なさる皇后でした。お茶ノ水女子大学の前身である東京女子師範学校の設立、慈恵医大の前身である慈恵病院の設立、日本赤十字社の設立などに積極的に関わられました。今、美智子皇后が皇居の中でなさっている養蚕も、もとはといえば昭憲皇后が始められたものだそうです。

「聖徳記念絵画館」を出て斜め右に歩いていくと石の標識のようなものがあります。これは日露戦争のあとの明治38年、日露講和条約の締結によって樺太の南(北緯50度以南)半分が日本の領土と決められた時、境界を決めるために建てた標石のレプリカだそうです。石の片側には「大日本帝国」、反対側には「露国」と書かれてあるそうです。

 「聖徳記念絵画館」は年中無休です。お正月休みに足を運ばれてはいかがでしょうか?

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 聖徳記念絵画館               樺太日露国境天測標                  


中国はモンゴルに何をしたのか

 モンゴル、と聞いて皆さんはどんなことを連想するでしょうか? 大相撲で活躍する力士のことを思い浮かべる人もいると思います。しかし、力士たちの祖国は独立国のモンゴルですが、中国の領地の中に組み入れられた「内モンゴル自治区(南モンゴル)」というのがあります。そこは名前こそ「自治区」ですが、モンゴル人は漢人に支配されて仕事も資源も奪われ、人権などまったく認められない生活を強いられています。チベット人やウイグル人の中国支配に対する抵抗運動のことは多少はニュースになりますが、モンゴルの悲惨な状況はニュースにすらなりません。モンゴル人はもはや抵抗する気力も失ってしまったようです。

 中国がモンゴル人に対して何をしたのか、当事者であるモンゴル人が告発する文章が今、発売中の雑誌「WILL」に掲載されています。著者の楊海英さんは帰化して日本名は大野旭さん、静岡大学教授です。実は私は以前、楊さんの講演をお聞きしたことがあるのです。あまりに日本語がお上手なので、外国人とは信じられませんでした。そして風貌も日本人とモンゴル人はそっくりです。その時、楊さんが淡々と語られた「文化大革命で弾圧されたモンゴル人」のお話は今でも忘れられないほどの衝撃を私に与えました。

 1966年、中国で文化大革命が勃発した時、内モンゴル自治区には約150万人のモンゴル人が住んでいました。しかし、南からその9倍近い人数の漢人が入ってきました。その結果、モンゴル人は自分たちの父祖の地に住みながら少数民族になってしまいました。そして、全員が中国共産党による粛清の対象となりました。1976年までの10年間でなんと! 346千人のモンゴル人が逮捕され、12万人が身体障害者となり、27,900人が殺害されました。ただしこれは中国政府が公式発表した数字ですから、実際の被害者はもっと多いと思われます。楊さんは「少なくとも10万人が殺害された」とおっしゃっています。すぐに殺されないまでも逮捕されて拷問され、家に帰れたとしてもその時の傷がもとで亡くなった人もいれれば、文化大革命で殺されたモンゴル人はおよそ30万人に上るだろう、と言われているそうです。まさに「現代のホロコースト」です。しかし、このようなことは日本のマスコミではまったく報じられません。

 文化大革命は中国共産党内部の権力闘争でした。そのとばっちりを本来、まったく関係ないはずのモンゴル人が受けたのです。ではなぜモンゴル人はそれほど迫害されたのでしょうか? 彼らが中国共産党に弾圧された理由は「モンゴル人は親日的だから」なのです。つまり中国人はモンゴル人を殺すことによって、かつて日本人とモンゴル人が仲良くしていた歴史そのものを抹殺しようとしたわけです。ですから、これは私たち日本人に関係ない話ではないのです。

 戦前、帝国陸軍は満州をロシアの脅威から守るためにモンゴル独立を支援していました。モンゴルの王族ドムチョクドンロプ(徳王)を擁立して蒙古聯合自治政府を樹立しました。これは日本の安全保障のためでもありましたが、モンゴル人の独立したいという願いの実現でもありました。しかし日本の敗戦後、ここはそのまま中国の領土となってしまいました。モンゴル人たちは今もかつての日本人の支援に感謝し、今でも非常に親日的です。

 安倍政権がもし長期政権になったらチベット、ウイグル、モンゴルの独立を支援することはできないでしょうか? モンゴル人たちは日本が強い国になり、自分たちを助けてくれることをきっと待っていると思うのです。

 

 

救援物資・第11弾のご報告


すっかり風の冷たい季節になりましたね。先日、被災地の世話人さんと電話でお話したところ、今年の冬は例年よりも寒さが厳しく感じるとのことでした。今から春が待ち遠しいですねと笑い合って、すっかり親戚のようなお付き合いをさせてもらっています。

さて、ご報告が遅くなりましたが、12月23日に南三陸町に11回目の救援物資をお届けすることができました。今回はクリスマス会や忘年会などで楽しんでもらえるようにと、いろいろなお菓子を詰め合わせてみました。幼稚園など子供の集まる場所で配ってもらえるそうです。

この活動を支え続けて下さっている皆様、長い間本当にありがとうございます。メールなどでいただく応援のお言葉も励みになっています。どうぞ皆様、風邪などに気をつけてお過ごし下さい。良いお年を。


                                            花時計・会計担当 結城

(花時計では、山際澄夫さんの「ダンボール一箱支援!」http://minamisanriku1.blogspot.jp/の活動に賛同し、皆様からの寄付金を元に救援物資を送り続けています。)

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世話人様より写真をいただきました。
小分けにして保育園に届けて下さったそうです。
小分け

クリスマスと天皇誕生日

 毎年、この時期になるとスーパーやデパートに行くのが嫌になります。入り口には大きなツリーがあり、店内にはクリスマスソングが流れています。どの店もみんな同じ。どこか一店舗ぐらいはクリスマスの飾りつけをしていない店がないものか、クリスマスソングの流れていない店はないものか、と思ってしまいます。日曜日に教会に行ったこともない人たちが、なぜこの日だけクリスチャンの気分になれるのか不思議です。日本人の付和雷同はもうそろそろ止めたらどうでしょうか?

 そもそも1225日がイエス・キリストの誕生日だなんて、クリスチャンでも信じている人はあまりいないのではないでしょうか? まさかマリアがイエス・キリストの出生届を出したわけでもないでしょう。ではなぜ1225日がキリストの誕生日とされているか、ですが、私が本で読んだところによると、これは冬至と関係があるそうです。

 日本は(特に太平洋側の地域では)冬でも快晴が多く、陽射しが暖かく降り注ぎます。今日も昼間は本当に暖かかったです。でもヨーロッパでは夏が短く、秋から冬にかけて厳しい寒さが続きます。晴れる日はめったにないそうです。冬至は一年でもっとも昼が短い日です。一年でもっとも暗い、陰鬱な季節にイエス・キリストは生まれたわけです。おそらく闇に光をもたらす聖人の誕生物語には冬至がもっともふさわしい、ということから1225日が選ばれたのではないでしょうか?

 イエス・キリストが実在したことは確かだろうと思います。でも、マリアの処女懐胎やキリストの復活なんて絶対に信じられません。私だけでなく、ほとんどの日本人には信じられないはずです。やはり日本人には一神教というのは、どうも肌に合わないものなのです。だから日本人のクリスチャンというのは常に人口の1%程度しかいないそうです。戦前も戦後も、なぜか1%以上には増えません。やはり私たちのDNAには八百万の神のほうがシックリ来るのだと思います。

 ところで1223日は今上陛下のお誕生日でした。イエス・キリストとは違ってこれは紛れもない事実です 今上陛下はなんと、御年80歳! 父君である昭和天皇は87歳というご長寿でしたからそれに比べればまだまだですが、それにしても80歳であの過密なスケジュールをこなされているのは驚異的です。先日は、皇后陛下と共にインドへのご訪問も果たされました。長いご旅行をこなされるだけの体力、素晴らしいですね~

 23日には皇居で一般参賀が行われました。うす曇りの寒い日でしたが28,945人もの人がお祝いに皇居に足を運びました。宮内庁によれば、これは平成21年に次いで2番目に多いそうです。長和殿のバルコニーに陛下が姿をお見せになると、一斉に日の丸の小旗が振られます。皇室をいただく国の民に生まれた喜びをかみしめる瞬間です。

 陛下のご長寿と皇室の弥栄をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

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