マダムの部屋

愛国女性のつどい花時計代表でもあるマダムが思った事など書いています。

2014年11月

台湾の野球の歴史

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 明治28年(1895年)、日清戦争に勝ってわが国は清から台湾を割譲されました。台湾に野球が持ち込まれたのは1897年~8年頃、台湾総督府の官吏や日本銀行の駐在員たちが休みの時にやっていたから、という説もありますが、台湾初の正式な野球チームは1906年、台湾総督府国語学校中学部(現在の台北建国中学)校長の田中敬一によって作られたそうです。その年に台湾総督府国語師範部にも野球部ができ、夜学校台北中学会も野球部を結成、台北に三つの野球チームができました。この3チームが台湾野球の発信地となったわけです。

 元中日の選手だった郭源治や元日本ハムの選手だった陽岱鋼など、日本のプロ野球の選手の中には台湾の原住民が少なくありません。原住民は脚が早くて敏捷です。なかでもアミ族は身体能力が高かったそうです。台湾の東岸にある花蓮港庁長だった江口良三郎はこのことに興味を引かれ、アミ族だけの野球チームを作って「能高団」と名付けました。野球を奨励した江口らによって野球は地方にも広がり、一つの娯楽として台湾に定着しました。「能高団」は内地に遠征して早稲田中学と対戦し、引き分けるほど高い実力を持っていたそうです。

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嘉義農林が甲子園で準優勝した時の楯のレプリカ
 しかし
1945年の日本の敗戦後、蒋介石は200万の軍隊をつれて台湾へやって来ました。野球は「日本文化」と見なされて迫害を受け、長い空白の時間がありました。1949年~87年、台湾には世界でもっとも長い戒厳令が敷かれていました。その間、日本語や日本文化、日本の歴史など、日本人が台湾に残した痕跡は消され、神社は破壊され、日本精神は否定されました。1987715日、戒厳令が解除され、台湾の民主化が始まると同時に日本統治時代の研究も復活しました。

 映画「KANO」のヒットによって日本統治時代の日本人と台湾人の良好だった関係を多くの人が知ることを北京政府は警戒しているようです。「KANO」を見れば台湾が中国の一部ではなかったことが台湾人に分かってしまうからでしょう。

 近藤監督はあくまで教育の一環として生徒たちに野球を教えていたようです。スパルタ式の練習は肉体の鍛錬であると同時に精神の鍛錬でした。近藤監督が野球を通じて嘉義農林学校に残した精神は今の嘉義大学に継承されています。嘉義大学のOB、蔡清輝さんはそれを「嘉農精神」という言葉で表現していました。「嘉農精神」とは「自力更生」「質実剛健」「社会に対する貢献」だそうです。


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嘉義大学を訪問しました

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 嘉義農林学校は現在、国立嘉義大学になっています。私たちは嘉義大学を訪問させてもらえることになりました。バスが学校に着くと、白いユニフォーム姿の蔡清輝さんがニコニコして出迎えてくれました。蔡清輝さんは嘉義大学校友会顧問で、野球部のOBでもあります。近藤監督の指導を直接、受けた時間は短かったけれども印象は鮮明に覚えているそうです。「近藤監督は非常に厳しい人でしたけど殴ることはしませんでした。怪我をした者には気を配ってくれて、優しかったです。また民族が違うからといって選手を差別することは一切、ありませんでした」

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      蔡清輝さん
 近藤監督が嘉義農林学校野球部の監督に就任したのは昭和
3年(1928年)でしたが、その前から既に台湾全土を回って素質のありそうな選手をスカウトしていました。台湾にはたくさんの原住民(台湾では先住民といわず原住民といいます。この言葉には差別的なニュアンスはありません)がいます。いくつかの部族は山に住んでいて脚が早く、敏捷です。近藤監督はそこに目をつけました。甲子園で準優勝した時の三塁手だった真山卯一は「1927年、私は台東の数人の高砂族の青年とともに台東からはるばる長い道程を越えて、憧れの嘉義農林学校に入学した」と語っています。

 準優勝した時の選手の構成は漢人3人、原住民4人、日本人7人です。農林学校に日本人の生徒がたくさんいたのはちょっと意外でした。エースの呉明捷投手は漢人でした。漢人は体格が大きくがっしりしています。日本人は守備が得意です。近藤監督はそのような、それぞれの民族の得意技を組み合わせたら、どこのチームにも負けない強いチームができるのではないか、と考えたのです。その狙いは見事に当たりました

 近藤監督の指導はスパルタ式ではありましたが、ただ厳しいだけではなく合理的に考えられたものでもあったようです。近藤監督は選手に自分の弱点の原因を考えさせ、選手が納得するまで練習させたそうです。さらに選手の視力を弱めるようなことを禁止しました。映画は目に良くないだけでなく闘争心を弱らせる可能性があるということで禁止したそうです。

 台湾では北部の学校の野球部が強い時代が長く続きました。もともと野球は日本人によって台湾に持ち込まれたものであり、日本人が多く住む北部のほうが強いのは当然でした。南部にある嘉義農林学校の野球部は万年弱小チームでした。それが近藤監督によって生まれ変わり台湾代表チームになり、さらにはなんと! 甲子園で準優勝という奇跡を成し遂げたのです。嘉義の人たちの歓喜はどれほどのものだったでしょうか? 是非、多くの日本人に映画「KANO」を見ていただいて、その歓喜と感動を台湾の人たちと共有していただきたいです。


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 PB101011近藤兵太郎監督

台湾映画「KANO」

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今年227日、台湾で「KANO」という映画が公開され、たちまち大ヒットになりました。私たちは台北の中心街にある映画館でこの映画を見ました。映画館は小さな個室がいくつもある、アパートのような感じで、入り口でコカコーラとポップコーンがサービスされました。椅子はゆったりとして快適で、3時間に及ぶ長編映画もあっという間に感じられました。

 KANO」=嘉農=嘉義農林学校、という意味です。昭和6年(1931年)、日本統治下の嘉義市にある嘉義農林学校の野球部が台湾での予選を勝ち抜きなんと! 甲子園で行われた「第17回全国中等学校優勝野球大会(現在は夏の全国高校選抜野球大会)」に台湾代表として初出場、見事準優勝を勝ち取ったのです! 「KANO」はこの実話を映画化したものです。

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 映画「
KANO」のプロヂューサーは2009年「海角七号 君想う、国境の南」を作り、2013年「セデック・バレ」を製作した魏徳聖氏、監督は馬志翔氏です。野球一筋の鬼監督、近藤兵太郎役には永瀬正敏、近藤兵太郎の妻役には坂井真紀、八田與一役に大沢たかおと、日本人の俳優が主要な役を熱演しています。台詞も半分以上、日本語なので、字幕がなくても十分、理解できました。

 「KANO」は来年124日、日本で封切りになりますので詳しいあらすじは書きませんが、見終わって感動の涙にくれることは確実です。いや、もしかしたら最初から最後まで涙が止まらないかも知れません。来年1月、是非、是非、見に行って下さいね~

 準優勝したのは1回だけでしたが嘉義農林学校の野球部は甲子園に春と夏をあわせて通算、5回出場しました。当時の強豪チームだったわけです。甲子園球場に併設されている「甲子園歴史館」に映画の撮影で使ったユニホームのレプリカや準優勝したときのエース、呉明捷投手の銅像などを飾ったところ、4月ぐらいから目に見えて台湾からの観光客が増えてきたそうです。台湾の留学生も甲子園歴史館を訪ねてくるそうです。映画「KANO」がきっかけとなって、来年は日本で台湾ブームが巻き起こると良いなあ、と思います。

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八田與一の銅像

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八田與一の銅像はダムを見下ろす小高い丘の上にあります。私たちは銅像に献花をしに行きました。ちょっと変わった銅像でした。八田與一が作業服に地下足袋、ゲートルを巻いた姿で座り込んでいるのです。これは八田與一自身が「仕事中、考え事をしているときの自分の姿をありのまま作って欲しい」と希望して、八田と同じ金沢出身の彫刻家、都賀田勇馬が製作したものだそうです。銅像は昭和6年に完成し、731日に除幕式が行われました。しかしその後、この銅像は30年余りも人の目に触れず倉庫の中で眠ることになってしまったのです。

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     八田與一の銅像
 昭和
20年(1945年)大東亜戦争が終わり、台湾は日本の統治から離れることになりました。日本人が去るのと入れ替わりに大陸から蒋介石ひきいる中国国民党の軍隊が入ってきました。日本領であった台湾はある日突然、中華民国になりました。国民党政府は前支配者である日本人の痕跡を消そうと躍起になりました。神社は破壊され、石碑は倒され、碑文は書き直されました。なかには統治者が変わったことをわざと民衆に印象づけるために石碑はそのままにして碑文だけを削ったり、セメントで固めたりもしました。八田與一の銅像も破壊を免れないだろう、と考えた村人は駅の倉庫の中に銅像を隠しました。銅像が日の目をみたのはなんと! 1981年の元旦でした。

 さてダムが完成したあと八田與一は総督府に戻り、台湾各地の産業開発に従事していました。そして昭和17年(1942年)、陸軍省の要請を受けて南方開発派遣団の一員としてフィリピンに向かいました。この南方開発派遣団は第1回目の派遣で、各界の優秀な、選りすぐりの人材ばかりが集められていたそうです。しかし八田たちが乗った「大洋丸」は長崎県五島列島沖でアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没します。八田は56歳でこの世を去ることになります。八田の命日である58日には今も毎年、烏山頭で追悼式が行われています。

 アメリカは戦闘員だけを攻撃していたわけではありませんでした。アメリカの魚雷攻撃によって沈められた船は軍艦よりもむしろ輸送船のほうが多かったのです。それによって多くの民間人が犠牲になりました。日本の将来を担うはずだった技術者や学者、子供までもが犠牲になったことを私たちは決して忘れてはいけないと思います。

最近、台湾では八田夫妻の夫婦愛が讃えられ、二人を「理想の夫婦」と考える人が増えているそうです。八田夫妻は8人の子供に恵まれ、仲むつまじい夫婦としても有名でした。しかし昭和17年に八田與一が亡くなり、日本が敗戦するという衝撃の中で妻の外代樹さんは次第に精神的に不安定になっていきます。昭和2091日、外代樹さんは八田家の家紋が入った和服を着て家を出ました。そして烏水頭ダムの放水口に身を投げました。外代樹さんの遺体は約6キロも離れた地点で発見されました。奇しくも91日は25年前にダムの建設工事が始まった日だったそうです。なぜ外代樹さんが死を選んだのかは謎ですが、家には簡単な遺書が残されていたそうです。







 

 

 

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   外代樹夫人の銅像                        

烏水頭ダムを造った八田與一

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119日、台北から新幹線に乗って南へ向かいました。降りた駅は「嘉義」、台北よりかなり日ざしがきつくて暑い! 私たちはバスで烏山頭ダムへ向かいました。この巨大なダムが完成したのは昭和5年(1930年)で、当時「東洋一」と讃えられました。約10年の歳月をかけてこのダムを設計し、完成させたのはなんと! 日本人の技師、八田與一です。今でも台湾では知らない人はいない、といわれる有名な人で、地元では神様のように尊敬されています。

 台湾南部には嘉南平野という広大な平野が広がっています。嘉南=嘉義と台南の間、という意味で南北90キロ、東西30キロというとてつもない広さです。ここは今でこそ台湾最大の農業地帯ですが、実は長く「石ころだらけの不毛の地」でした。台湾というと緑が豊かでフルーツの宝庫、というイメージではないでしょうか? しかしわが国が日清戦争に勝って清から台湾を割譲された1985年当時はそうではありませんでした。台湾の降雨量は多いですが夏に偏っていて、冬場はほとんど降りません。嘉南平野には台湾最長の河である濁水渓をはじめとして何本も河がありますが流水量の偏りがあるので灌漑に使うことはできませんでした。沿岸部には塩害という問題もあり、農法も原始的なもので生産量は上がりませんでした。

 一緒に旅をした「李登輝友の会」の台湾人スタッフの李久惟さんがバスの中で話してくれました。「祖父から水のありがたさ、水がないことの辛さを教えられたものです。ご飯を食べる前に祖父が何かぶつぶつ、いつも言っていたんです。小さい頃は何を言っているか分からなかったのですが、僕が日本語を覚えてようやく意味が分かったんです。祖父は日本語で言っていたんです。天地(あめつち)の恵みに感謝し、この食べ物を作ってくれた人たちに感謝して、いただきますって言っていたんです」。李久惟さんのお祖父さんが小さい頃、親は農作業で忙しいので水汲みに行くのは子供の仕事だったそうです。子供たちは2~3時間かけて、水を汲みに山を越えて行かなければならなかったそうです。

 八田與一は明治43年(1910年)、東京帝国大学工学部土木科を卒業し、台湾へ渡りました。台湾総督府の内務局土木課の技手(技術者)として各地の上下水道施設の工事、発電所や交通施設、灌漑用設備の工事などに携わりました。そして大正7年(1918年)から嘉南平野の調査を始めました。八田與一は濁水渓から水を引くことを思いつきました。嘉南平野の耕作可能な土地は15万ヘクタールあるので、そのうち5万ヘクタールは濁水渓からの水で灌漑し、残りについては官田渓の上流にある烏山頭にダムを設け、ダムからの水で潤そう、という壮大な計画を立てました。

 関東大震災によって途中、工事の予算が減らされたりもしましたが昭和53月、難工事の末、ついにダムは完成しました。3月に完成したダムに水が満ちるまで2カ月もかかった、ということからも、いかに巨大なダムだったか、が分かります。嘉南平野に網の目のように張り巡らされた灌漑用水路の総延長はなんと! 1万キロだそうです。さらに塩害の起きていた地域には塩分を洗い流すための排水路も6千キロ、設けられました。すべての水路に水が伝わるまでには3日、かかったそうです。

 烏水頭ダムと灌漑用水路は竣工から80年以上経った今でも、変わらず嘉南の大地を潤し続けています。このこともまた、驚嘆すべきことだと思います


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