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明治28年(1895年)、日清戦争に勝ってわが国は清から台湾を割譲されました。台湾に野球が持ち込まれたのは1897年~8年頃、台湾総督府の官吏や日本銀行の駐在員たちが休みの時にやっていたから、という説もありますが、台湾初の正式な野球チームは1906年、台湾総督府国語学校中学部(現在の台北建国中学)校長の田中敬一によって作られたそうです。その年に台湾総督府国語師範部にも野球部ができ、夜学校台北中学会も野球部を結成、台北に三つの野球チームができました。この3チームが台湾野球の発信地となったわけです。
元中日の選手だった郭源治や元日本ハムの選手だった陽岱鋼など、日本のプロ野球の選手の中には台湾の原住民が少なくありません。原住民は脚が早くて敏捷です。なかでもアミ族は身体能力が高かったそうです。台湾の東岸にある花蓮港庁長だった江口良三郎はこのことに興味を引かれ、アミ族だけの野球チームを作って「能高団」と名付けました。野球を奨励した江口らによって野球は地方にも広がり、一つの娯楽として台湾に定着しました。「能高団」は内地に遠征して早稲田中学と対戦し、引き分けるほど高い実力を持っていたそうです。
嘉義農林が甲子園で準優勝した時の楯のレプリカ
しかし1945年の日本の敗戦後、蒋介石は200万の軍隊をつれて台湾へやって来ました。野球は「日本文化」と見なされて迫害を受け、長い空白の時間がありました。1949年~87年、台湾には世界でもっとも長い戒厳令が敷かれていました。その間、日本語や日本文化、日本の歴史など、日本人が台湾に残した痕跡は消され、神社は破壊され、日本精神は否定されました。1987年7月15日、戒厳令が解除され、台湾の民主化が始まると同時に日本統治時代の研究も復活しました。
映画「KANO」のヒットによって日本統治時代の日本人と台湾人の良好だった関係を多くの人が知ることを北京政府は警戒しているようです。「KANO」を見れば台湾が中国の一部ではなかったことが台湾人に分かってしまうからでしょう。
近藤監督はあくまで教育の一環として生徒たちに野球を教えていたようです。スパルタ式の練習は肉体の鍛錬であると同時に精神の鍛錬でした。近藤監督が野球を通じて嘉義農林学校に残した精神は今の嘉義大学に継承されています。嘉義大学のOB、蔡清輝さんはそれを「嘉農精神」という言葉で表現していました。「嘉農精神」とは「自力更生」「質実剛健」「社会に対する貢献」だそうです。
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