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樺太(サハリンはロシア語)は明治8年「千島樺太交換条約」によってロシア領にされましたが日露戦争で日本が勝利すると北緯50度以南が日本に返還されました。日本政府は樺太に多額な投資をして産業を興しました。戦争の影響もあり、石炭の需要はどんどん増えていきました。樺太の人口は明治43年には2万8千人あまり、昭和3年には一気に増えて22万人、昭和16年にはなんと! 40万人を数えました。日韓併合によって朝鮮が日本の領土となると、一旗揚げようと樺太に渡る朝鮮人もたくさんいました。大正3年、朝鮮・京畿道に生れた朴魯学もそんな1人でした。
日本人と朝鮮人が共存して暮らしていた樺太にソ連が突然、侵攻してきたのは昭和20年8月9日でした。戦争中とは思えないほどのどかだった樺太はあっという間にソ連に占領され、朴魯学はソ連占領下の樺太に取り残されました。戦後、日本を占領したGHQとソ連が取り決めた「米ソ引き揚げ協定」によって日本国籍を持つ者は引き上げが実現しました。朝鮮人の引き揚げに関しては韓国政府とソ連との間で解決すべきでしたが、両国に国交がなく、朝鮮人は行き場を失いました。しかし朴魯学は日本人女性、堀江和子と結婚したことにより、日本に引き揚げることができました。日本に帰った朴魯学は、樺太に置き去りにされた同胞たちのうち、韓国に帰りたいと望む者を何とか帰還させたいと必死の努力を続けました。
樺太に取り残された朝鮮人の帰還運動に半生をささげた朴魯学夫妻の足跡を追った『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのかー帰還運動にかけたある夫婦の40年』(草思社・1,900円)を読みました。著者である新井佐和子さんは朴夫妻と共に帰還運動を続け、朴魯学の死後は堀江和子さんと共に「サハリン再会支援会」を設立した方です。運動に直接、関わった人が書いた文章だけに描写が具体的で生き生きとしています。そしてこの本には驚くべきことが書かれています。
昭和50年、朴魯学はひょんなことから高木健一という弁護士と知り合います。高木弁護士は既に帰還運動のことを知っていました。やがて「樺太に朝鮮人が取り残されたのは日本政府の責任なのだから日本政府を訴えよう」という話になり「樺太抑留韓国人帰還請求訴訟」という訴訟が起こされることになります。この高木弁護士がのちに「慰安婦問題」の火付け人となった弁護士であることは、今では多くの人が知っています。そして、裁判を進めていくうちに「朝鮮人の帰還運動」だったはずのものはいつしか「日本の植民地支配」「日本の戦争責任」さらには「朝鮮人の強制連行」という、ねつ造された日本の歴史を糾弾するものへと変質していってしまうのです。
今、韓国は相変わらず「慰安婦問題の解決」を日本政府に求め続けています。もし「慰安婦問題」で日本から賠償金を引き出せそうもないと知れば、次は「徴用工への賠償」を言い出すでしょう。次から次へと繰り出してくる中韓による「謝罪と賠償を求める歴史戦争」の原点は「樺太残留朝鮮人帰還運動」にあったのではないでしょうか? 改めて慰安婦問題の根深さを思い知らされる一冊です。
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