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大東亜戦争の時、日本に落下傘部隊があったことを知っていますか? 落下傘部隊は当時「空挺隊」と呼ばれていました。夜陰にまぎれて敵地に潜入し、敵に気づかれないようにこっそりと作戦を遂行するというのは並大抵のことではありません。そのための訓練すらも敵に知られてはいけないので、未だに日本に空挺隊があったことはほとんど知られていません。しかし、昭和20年(1945年)5月24日夜、沖縄戦の最中、決死の特攻攻撃を行った「義烈空挺隊」という部隊がありました。
24日18時10分、九州・熊本の健軍飛行場から12機の爆撃機が沖縄めざして出撃しました。搭乗していたのは「挺身第一聯隊第四中隊」を中心とする136名と、彼らを輸送するパイロット32名の、計168名でした。めざすのは沖縄の読谷にある「北飛行場」と嘉手納の「中飛行場」でした。両飛行場は既に米軍に占領されていましたが、奇襲して一時的にでも飛行場を使用不能にした上で、航空機による特攻攻撃を行う作戦が練られたのです。もう占領されている飛行場を奪還する、というのですからまさに命懸け! 捨て身の作戦です。
12機の爆撃機は出撃したものの、うち4機は故障のため引き返し、残りの機体は米軍の対空砲火で撃ち落とされました。しかし22時11分、建軍飛行場の通信基地に「只今突入す」という短い暗号無線が入りました。たった一機だけが対空砲火の中をかいくぐり、強行着陸に成功したのです。このあと、飛行場で何が起きたのか、は生存者がいないために長く不明でした。しかし、米軍は記録していました。以下、米海兵隊の記録からの抜粋です。
「第5番目の航空機は、指揮塔より約25フィート北東より南西に伸びた滑走路に車輪を下ろさず着陸した。推定12名の日本兵は無事着陸し、少数の勇敢な者が如何なることを成し遂げるかを実際に示した。着陸とほとんど同時に爆薬による飛行場航空機の炎上が始まった。(中略)航空機33機が損害を受け、7万ガロン(ドラム缶約600本)のガソリンが燃えた。この物凄い捨て駒による混乱はほとんどの者が想像する事が出来ないだろう。(中略)合計69名の日本兵の遺体は海軍設営隊の手により埋葬された。捕虜は一名もなく、在る者は自決した。全体的に評価するならばこの「義烈空挺」作戦は成功とみなすことができる」(米海兵隊航空史MA巻―31より)
5月25日、熊本の陸上自衛隊駐屯地の中で「義烈空挺隊74周年記念慰霊祭」がありました。多くの参加者がいましたが、残念ながら国会議員は一名だけでした。来年はもっと多くの国会議員に参列してほしいです。そして5月24日が「義烈空挺隊」出撃の日であること、中隊長の奥山道郎大尉(死後、大佐に昇進)が若干26歳であったことを周知・拡散してほしいものです。
慰霊祭。御祭神はパラシュートだった。
現在の沖縄は左翼のプロパガンダによって、多くの島民が「沖縄は本土の捨て石にされた」という嘘を信じているようです。しかし、実際は九州から沖縄を救うべく陸・海軍航空隊が次々と出撃していました。しかし、その多くが沖縄にたどり着く前に米軍機に撃墜されてしまったのです。これが歴史の真実です。
現在も陸上自衛隊には「第一空挺団」という部隊があります。習志野の駐屯地には「空挺館」があり、出撃直前の隊員たちの笑顔の写真を見ることができます。
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