4月19日~23日、第19回李登輝学校研修団に参加して台湾に行って来ました。この研修団に参加するのは3回目ですが、今回も非常に実りある、楽しい旅でした。研修団の参加者は35名でした。前半の3日間は台湾の東南の海に浮かぶ「緑島」へ行き、後半の2日間は台北で座学、つまり講義を受けました。
1895年、わが国は日清戦争に勝って清から台湾を割譲されました。1895年~1945年のちょうど50年間、台湾は日本領でした。日本統治時代に台湾に生を受けた、いわゆる「日本語世代」の方たちは生まれた時から日本人だったので私たちと同じように、あるいは私たちよりももっと流暢な日本語を話されます。その方たちの講義をナマで聞けるのもこの旅行の楽しみの一つです。最終日には李登輝元総統の特別講義もあったんですよ~。御年90歳になられる李登輝元総統、大変お元気で気迫のこもった講義をして下さいました
さて19日、私たちは台湾の首都・台北に着くと国内線の飛行機に乗り換えて台湾の東南にある都市、台東に飛びました。台東に1泊して翌日、船に乗って約1時間、「緑島」に向かいました。船に乗る前、「海が荒れると3Dの揺れが経験できますよ~」と「日本李登輝友の会」の片木さんにさんざん脅かされていましたが、何とか無事に到着してホッとひと安心。港からバスで「緑島人権文化園区」に向かいました。
「緑島」は政治犯収容所があった島です。しかし緑島に政治犯収容所があったことは台湾人でもごく一部の人しか知らず、ましてや外国人の団体がここを訪れるのは空前絶後、前代未聞だそうです。
1945年、わが国は大東亜戦争に負けてGHQ(連合国司令部)に7年近く占領されました。GHQというのはつまりはアメリカ軍です。アメリカ軍の占領下で私たちの先人は筆舌に尽くしがたい苦難の日々を過ごしたことでしょう。しかしそれでも日本はまだ幸いな方でした。日本人は変わらず日本人を名乗ることもできたし、皇室も存続できたからです。台湾の人たちの運命はもっと過酷でした。日本の敗戦によって台湾人はある日突然、中国人にされてしまったのです。中国共産党との戦いに敗れた蒋介石率いる中国国民党が大陸から台湾に逃げ込んできて、台湾を占領したからです。
国民党軍は大陸から追いだされた屈辱感や怒りを台湾の人たちにぶつけました。人種的にも中国人と台湾人はまったく違うし、台湾人はすっかり日本人になっていました。中国語の話せない台湾人(本省人)と大陸からやって来た中国人(外省人)は意思の疎通もできず、習慣も価値観も違うので当然ぶつかります。台湾人の不満が積もり積もって1947年2月28日、爆発しました。いわゆる「2・28事件」です。「2・28事件」で一体何人の台湾人が犠牲になったのか未だに分かっていません。そして「2・28事件」によって本省人と外省人の間にある対立はいっそう深くなりました。
1949年5月19日、国民党政権は戒厳令を布告しました。その翌日から1987年7月15日までのなんと38年間台湾は世界史上もっとも長い戒厳令下に置かれたのです。戒厳令下では普通の法律ではなく軍法が適用されます。国民は自由と権利を奪われ、何の理由もなくある日突然、逮捕・連行されるという恐怖政治が続きました。政府による国民への迫害や抑圧を「白色テロ」といいます。「白色テロ」の時代、政治犯に仕立て上げられたのは日本統治時代に高等教育を受けたエリートたちでした。蒋介石は台湾を支配するために台湾から日本的なものを排除しようとしました。台湾人を中国人に改造するためには日本人の価値観や倫理観を消さなければならない、と考えたのです。
私たちが「緑島人権文化園区」に着くと、3人の紳士がにこにこしながら迎えてくれました。この方たちは、かつて政治犯収容所に囚われていた方たちです。私たちに収容所の説明をするために今日、わざわざ台北から駆けつけて下さったそうです。