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 今から112年前の明治38年(1905年)527日、大日本帝国海軍は対馬沖でロシアのバルチック艦隊を迎え撃ちこれを破り、日露戦争での勝利を確実なものにしました。この日を記念して翌年、527日は「海軍記念日」に制定されました。しかし大東亜戦争の敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって「海軍記念日」は廃止されました。

当時の日本海軍とロシア海軍の戦力を比較すると日本は戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、巡洋艦12であるのに対してバルチック艦隊は戦艦8、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3、巡洋艦6戦艦の数では日本海軍はロシアの半分に過ぎませんでした。白人国家の大国であるロシアと極東の小国、日本では勝負にならない、との観測が圧倒的でした。では、なぜわが国はロシアに勝つことができたのでしょうか?

バルチック艦隊がロシアのリバウ軍港を出航したのは明治37年(1904年)1015日でした。それは陸軍の乃木希助率いる第三軍が旅順要塞に対する第2回総攻撃を開始する11日前でした。ロシア海軍にしてみればバルチック艦隊を極東に派遣して、旅順港にいる太平洋艦隊と合流して日本海軍と戦えば、日本のほぼ2倍の戦力となるので、勝利して制海権を確保できる、と考えたわけですが、バルチック海から極東に向かう航海は地球を半周するほどの距離があり、苛酷な長旅でした。

当時の艦船の燃料は石炭でした。石炭は燃料効率が悪いので途中の港で大量の石炭を何度も補給しなければなりませんでした。しかし、太平洋の主な石炭保有港はイギリスの植民地にあり、イギリスは日本と日英同盟を結んでいました。バルチック艦隊は思うように燃料補給ができず、寄港を断られた港もあり、水兵は陸に上がることもままならなかったそうです。そんな航海を半年以上続けたのですから、ロシアの将兵は疲労困憊していたことでしょう。

ロシアの同盟国であるフランス領のマダガスカル島のノシベ港にたどりついたバルチック艦隊は物資の補給を行なった後、316日にノシベ港を出港しましたが、この時点では乃木軍の活躍で既に旅順要塞は陥落していました。旅順港に停泊していたロシアの太平洋艦隊も壊滅していたため、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するというロシア軍の当初の目論見は完全に外れました

 そして、決め手になったのは東郷平八郎の判断の正確さでした。当時はレーダーなどないのでバルチック艦隊の航路を知る術はありませんでした。バルチック艦隊がウラジオストックに戻るのに、果たしてどういう航路を取るのか? しかし東郷平八郎は「長旅で疲労しているバルチック艦隊が津軽海峡や宗谷海峡を通るはずがない」と考え、対馬海峡に全艦隊を集結させました。これが勝敗を分けました。 

 対馬沖海戦でバルチック艦隊を構成していた8隻の戦艦のうち6隻が沈没し2隻が捕獲されました。装甲巡洋艦5隻が沈み1隻が自沈、巡洋艦アルマーズがウラジオストックに、海防艦3隻がマニラに逃げ、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され、2隻がウラジオストックに逃げました。ロシア側の人的被害は戦死5046名、負傷809名、捕虜6106名。対する日本側の損害は、水雷艇3隻、戦死者116名、負傷538名。まさに完勝でした。

 527日は私たち日本人が決して忘れてはいけない日です。

 ※ブログ「しばやんの日々」を参考にさせていただきました。

 

 

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