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 93日、秋晴れの下、水戸市住吉町にある「関東鉄道バス水戸営業所」の敷地内で藤田多美子さんの顕彰式が執り行われました。ここは今でこそ「関東鉄道バス」となっていますが戦前は「水戸陸軍航空通信学校」が建っていました。「航空通信学校」というのは飛行機の安全航行のための通信や機上無線通信、地対空通信、基地間の指揮通信などを教える学校だったそうです。ところが訓練中の飛行機が墜落する事故が非常に多く、多くの若い隊員が訓練中の事故で亡くなっていたそうです。

 昭和15年(1940年)1128日、水戸市に住む藤田多美子さんという22歳の女性が、学校の飛行場近くの井戸に入水する、という事件が起きました。多美子さんは学校関係者に宛てて遺書を残していました。遺書には「訓練中の事故の根絶を願って井戸に身を投げます」「この身を飛行場の見える場所に、どこでも結構ですから埋めて下さい」という意味のことが書かれていました。うら若い女性の純粋さ、愛国心、勇気は多くの人の心を打ち、当時、新聞記事にもなりました。彼女の胸像と辞世の句二首を刻んだ慰霊碑も建立されました。

昭和17年には三笠宮殿下が学校を訪れた際に多美子さんのことに言及されました。昭和17年には航空総監であった土肥原賢二陸軍大将が学校を訪れ、遺族に労いの言葉をかけています。しかし昭和20年の日本の敗戦とともに、世の中は一変しました。

 「水戸陸軍航空通信学校」の飛行機や各種設備はGHQ(連合国軍総司令部)によって接収され、多美子さんの胸像も歌碑もいつの間にかなくなっていました。そして70年以上の歳月が流れ、「大空の女神」と讃えられた多美子さんの名前も人々の記憶から消えてゆきました。

 しかし藤田さんのことを戦後もずっーと覚えていた人がいました。朝鮮半島から志願して、16歳で入校した崔三然さんでした。崔少年は入校して間もなく、上官から「君たちの飛行の安全を願って人柱になられた乙女がいるぞ」と聞かされ、同期生とともにお参りしたことがあったそうです。多美子さんの自己犠牲の精神は崔少年に忘れられない衝撃を残しました。崔さんは戦後、韓国へ帰国、朝鮮戦争を韓国の軍人として戦い、海軍大佐で除隊されました。除隊後は日本と韓国を行ったり来たりして活躍していらっしゃいます。

 もう一人、多美子さんのことを気にかけていた人がいました。歴史作家であり兵法研究家である拳骨拓史さんです拳骨さんは国会図書館で自衛隊の広報誌「朝雲」を読んでいた時、偶然、多美子さんのことを書いた記事を目にしたそうです。「亡き娘に父の悲願、飛行場の見える処に」という記事でした。多美子さんの胸像や歌碑を何とかして見つけ出し、霊を安らかに眠らせてあげたい、という拳骨さんの気持ちが崔さんとの奇跡的な出会いを生みました。

 崔さんと拳骨さんは多美子さんの遺族を探そうとしてあちらこちらに手がかりを探し、ようやく多美子さんの妹さんを見つけ出しました。胸像と歌碑は無事でした。そこからはトントン拍子にことが進み、4年前の平成25413日、戦後初めて、有志によって多美子さんの鎮魂式が執り行われたのです。

多美子さんの胸像と歌碑は今、陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地に移設され、展示されています。多美子さんの望み通り、飛行場の見えるところに。

  歌碑に刻まれている辞世の句です。

    大君の 御盾となれる 益荒男(ますらお)の

       空の勇士に  この身捧げん

    大空に 産声挙げし 吉田原

       此の身捧げて 守りまつらん

 

 

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