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 毎年、815日は「終戦の日」だと私たちは教えられています。しかし1945815日、天皇陛下の玉音放送を聞いて、日本軍は泣く泣く武器を置きましたが、ここぞとばかり攻めてきた軍隊もあったのです。89日に「日ソ中立条約」を破って参戦してきたソ連です。

 今、日本はロシアと国境を接していませんが1945年の段階では国境線がありました。一つは満洲、もう一つは南樺太(サハリン)です。満洲にも南樺太にも当時、多くの邦人が住んでいました。8月に入っても、ソ連が参戦するという情報を知らなかった日本人居留民は突然、ソ連軍の戦車部隊に襲われ、なす術もありませんでした。満州の居留民がいかにむごい目に遭ったか、は既によく知られています。武装解除した関東軍は丸腰です。いくら強い軍隊でも武装解除すれば何もできません。捕らえられた兵士の多くが帰国できず、シベリアやソ連のあちこちの僻地へ送られました。これこそが「強制連行」でしょう。

 しかし河北省・張家口にいた部隊は武装解除しませんでした。司令官、根本博が「すべての責任は自分が負う。戦え!」と命令したからです。819日に雪崩れ込んできたソ連軍を三日間、釘付けにしている間に在留邦人は天津へ脱出することに成功しました。このエピソードはかなり広く知られています。

 一方、南樺太の悲劇は戦後、ほとんど語られませんでした。南樺太といえば真岡郵便局で電話交換手をしていた乙女たちの集団自決が有名です。彼女たちの悲劇を描いた映画『氷雪の門』は現在、靖国神社の中にある「遊就館」で上映されています。しかし、これもほとんどの人が知らないでしょう。

 日本軍が降伏した後もソ連軍の侵攻は止まりませんでした。822日、南樺太の大泊港から北海道の小樽へ向かう一般の人を乗せた疎開船が出港しました。ところが、留萌の沖合でソ連軍の潜水艦と見られる軍艦から発射された魚雷が命中したのです。「小笠原丸」「泰東丸」「第二新興丸」三隻が魚雷にやられ、北海道を目の前にしてなんと!計約1700名の人たちが海の藻屑と消えてしまいました。もう戦争は終わった、これからは平和になるんだと考えていたのは日本人だけだったのです。

 822日、留萌市の了善寺で行なわれた「樺太引揚三船遭難慰霊祭」に参加しました。遺族、といっても当時はまだ小さかった方たち約50名が参列なさいました。戦後77年経っても慰霊祭は続けられていたのです。それだけ大事件だったということでしょう。しかし、私はこの事件をまったく知りませんでしたが。

 当時はソ連の軍艦なのかアメリカの軍艦なのか分かりませんでした。しかし冷戦が終結後、ソ連時代の文書が公開され、魚雷を発射した潜水艦はソ連のものだったことが判明しました。しかしロシア政府も日本政府も公式にはそれを認めていません。

 この悲劇から何を学ぶべきでしょうか。結局、国際政治でモノを言うのは武力だけだということです。話し合いもルールも武力の後ろ盾があってこそ効力を発揮します。国際政治は弱肉強食の世界であり、それは今も変わりません。国際法違反、ということがよく言われますが、国際法というのは紳士協定に過ぎません。

戦争を開始する時は宣戦布告をする、とか捕虜を虐待してはいけない、とか民間人を殺傷してはいけない、とかいうことは一応、決めてありますが、それを律儀に守って戦争をするのは日本人ぐらいでしょう。

 ロシアとウクライナの紛争においても国際法が守られているとはとても言えませんが、国連は無力です。常任理事国の中にロシアも入っているのですが、戦争を止めることは出来ません。自分の国を守れるのは自国の軍隊だけです。敗戦後の日本人は「戦うことは悪」という奇妙な、異常な反戦思想を刷り込まれましたが、戦わなければどういう目に遭うか、ということはソ連の魚雷によって沈められた1700名の御霊が語っています。犠牲者の御霊に報いるためには、国防の体制をきちんと整えることしかありません。

 

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「岡真樹子の日本人に生まれて良かった」

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