片岡義男の「万年筆インク紙」という本を読みました。
小説を書くためにたくさんのメモを書いている体験を通して、メモの取り方や道具としての万年筆、またインクや紙についてのこだわりを綴った内容です。「書く」ことに対する作家ならではの創作背景が垣間見えて、またひとつ新たな「書く」風景に触れることができました。
本書の要旨を紹介しながら、感じたことを書いてみます。
断片的に考えたことをつなげて、ひとつの文章を作り出す。
メモには2種類ある。これから書く文章のためのメモと、いずれ必要になるかもしれない断片を書きとめたメモである。
原稿用紙に手書きしていくと、書いた文章がそのまま決定的になっていく度合が高いと思う。原稿自分の手で原稿用紙に書いたぶんだけ、その人にとっては決定感が強いのではないか。手書きは、それをする人にとって心理的な拘束力を持つのかもしれない。
メモは横書きしている。原稿を書き始めた頃から既に、原稿そのものは縦書きでありながら、メモは横書きでとおし、いまでも横書きしている。これを縦にする意思はまったくない。縦書きは原稿用紙への本番のときだけだった。自分で書く小説のメモを縦書きしてみたいとは、まったく思わない。
日本語の字で縦につながって外に出てくる思考は、書かれたそのときすでに、かなりのところまで完成されたものなのではないか。横書きすると、それは完成されたものではなく、アイデアの段階での断片なのではないか。断片ではあるけれど、ひとつの小説としての論理的なつながり、という連続性のなかでの断片だから、おたがいにまったく無関係な断片の集積ではない。しかし、完成してはいない。つなぎかたは自在に変わるし、必要のないものは捨てられる。断片はいくら重ねても、それがぜんたいとして完成することはない。おたがいがどのように関連するかに関して、あとでどうにでもなる、という自由度が高い。
横に書くことによって、日本文字に内蔵されている縦の秩序が、なにほどか中和されることはあるのかもしれない。なにほどか中和されることによって、思考は自由になるだろうか。字を書いているのではなく、考えを書いているのだから。
自由なメモを横書きすることによって、縦の秩序から僕を解放することすら可能にしてくれる万年筆がある。
ロディアの方眼の刷り色に負けない字を書きたいと思ってパイロットのカスタム・ヘリテイジ92にラミーのブルーを入れて書いてみたら、方眼に負けぎみという印象はなくなった。この色のインクを他の万年筆でも試してみたいと思うようになった。ペン先の先端で紙に触れる部分であるペンポイントと、紙、そしてインクの三者が作り出す相性という世界への、それは入り口だった。
そのとき自分が書いた字、そのときの自分の書きかた、そのときの自分の思考など、自分のすべてがそこにある。そこに重なるのは、ペンポイントの出来ばえ、紙とインクとそのペンポイントとの相性、万年筆ぜんたいの出来具合など、微細ないくつもの要素だ。
万年筆は日常的な道具でありながら同時に、きわめて特殊な道具である。書いていく文字が思考の結果としてあらわれてくるものだとすると、紙の上にインクによってひと文字ずつ固定されていくという特殊な営みのための道具である。そこへさらに僕という個人の特殊性すべてが加わった世界がある。
万年筆で字を書くとは、人によって書かれる文字というものが持つ、普遍的なものへと近づいていく営みなのではないか。だからこそ、万年筆で書くためのもっともいいかたち、というものがじつはとっくに出来上がっていて、ペンポイントやペン先の出来ばえ、ぜんたいのデザイン、紙やインクとの相性、持ちかた、書きかたなどにいたるまで、この普遍性へと接近していくための、さまざまな経路なのではないか。
ノートブックに万年筆で自由に書くメモは、仮のものだ。定まってはいないもの、まだアイデアの段階にとどまっているものだ。それゆえに、それは自由だ。好きなように書きたい。
メモのための文字を書いていくときに自分の手に伝わる感触が、自分の好みと一致していないと、自由は感じられない。自由とは、自分の好みなのだ。万年筆だけの問題ではない。
自分が万年筆で、ひとつにつながった世界を作る文字を大量に書くとき、インクの色には、視覚をとおして気持ちに働きかける力、というものがあるはずだ、と僕は考える。
視覚をとおして気持ちに働きかける、思考のぜんたいへの働きかけかたがもっとも安定している色が、ブルーである。広い意味で青い色である。
小学校低学年のときに学校で青という文字を習ったときに、窓から外を眺めたときそこに青空があった。
この色を青というのかと認識したときのその認識は、子供が世界を認識するにあたっての基礎になったと僕は思う。青は認識の色なのだ。認識を思考と言い換えるなら、青は思考の色だ。思考の跡は青いインクによる文字として残る。
まっ黒い字を書きたい気持ちは、僕にもわからないわけではない。自分のなかみを主張したいというよりも、字で書いたことを確定事項としてこれ以上になれないほどに、はっきりさせたいのだろう。
まっ黒いインクで文字を書いているとき、あるいは、書き終えた文字がまっ黒くそこにあるとき、その黒さには、行き止まり感、とも言うべきものを、僕は強く感じる。まっ黒い黒さが少しずつ薄らいでいくと、行き止まり感も弱くなっていく。
黒いインクは社会制度のためのものだ。それへの順応の証だ。その内部に現実を囲い込む黒いインクという枠は、したがって、あり得べき最高度の限定力を持ったものでなくてはいけない。不明確なものを求めると、いろんな色、つまり多様性という可能性が、目の前にあらわれる。
活字とは、書かれたものは確定されきっているがゆえに、もはやどのようにも動かしがたい現実の一部分であるという、もっとも硬い枠のことだ。その枠に入らないもの、つまり不明確なもの、不定形なもの、不確実なるものなどは、排除された結果として、存在すらしていないものとして扱われる。
相性の良い紙に万年筆で、ブルーのインクを使って自分が書いた文字に感じるのは、その文字が自分という個人によって書かれた個人的なものであることが持つ、良さのようなものだ。個人的、とはどういうことか。そのときの心情のようなものか。ちょっとした表情、なんらかの雰囲気、といったものか。それだけではない、と僕は思う。それらをひっくるめて、書いたそのときの自分の思考としか言いようのない、じぶんそのものぜんたいの痕跡だ。
ノートブック類を買うにあたって、自分の使う万年筆とそのインクとの相性がどうであるかは、誰もがもっとも考えないことなのではないか。
ブルーブラックという色は、ブルーとブラックとの結合や溶け合いではなく、時間の経過なのだ。紙に書いたときはブルーだが、紙の上で文字となって空気に触れると、インクのなかの成分が化学変化を起こす結果としてブラックに近い色になるから、ブルーブラックと呼ばれる。音声や字面も含めて、いい言葉だ、と僕は思う。
自分の頭のなかから、自分の思考をもっともよく引き出しくれる色、というものはかならずあるはずだし、人や状況によっては、その色は一色とはかぎらない。思いがけない色が、とんでもないことを引き出しくれる可能性は、十分にある。
以上が特に関心を持った内容の部分です。読んで感じたこと書いてみます。
片岡義男は小説を書くためのメモを重要視しています。小説を書くための素材集めをはじめ、メモは、あらゆる場面においてアイデアを生み出す最強のツールだと思います。メモや付箋に書かれたワンフレーズを重ね合わせながら、しだいにはっきりとした形に組み立てていく過程というのは、小説のストーリーを構想するうえでも生かされていることが分かります。
ふと思いついたことを思いついたままに書き留めておく最適なツールとして、メモ帳以上のものはありません。その時は何となくしっくりこない表現だったとしても、今感じた感覚だけでも忘れないようにとりあえず書き留めておきたいと思うことはけっこうあります。メモ帳に書きつけたワンフレーズが、後になって大事なことを思い出すきっかけになることも多いです。ひとつのキーワードから思考を膨らませていって、その言葉が次第に洗練され、最終的に「これだ!」と思える表現に行きあたる感じが楽しいですね。自分の思考の中で、ふっと生まれた言葉やアイデアが、いくつかの感性のフックにひっかかりながら研ぎ澄まされて最終地点に到達するという、思考の旅とでも言えるような感覚に浸ることができるのです。
横書きの自由度ということで言えば、私の場合は横開きのノートより縦開きのタイプほうに自由度を感じています。書いていく方向よりもページをめくる向きのほうにこだわりを持っています。学校で使っていたノートはほとんど横開きタイプだったので、今使おうとすると勉強の延長にあるような気がして、型にはまるような雰囲気があってどうも違和感が拭えず、敬遠しがちです。何か既に確定している事柄を「写す」、あるいは「まとめる」といったイメージがあって、自分の思考が硬くなるような気がするのです。縦にめくっていくタイプのほうがよりカジュアルでフランクな感じがあって、思考が柔らかくなる気がします。上にめくっていきながら、文字は横に書いていくという自由なスタイルが、自分の中ではバランスが取れていていいのかな、と思います。
以前、縦罫線が引いてあるノートに、あえて横書きで書いていたりもしました。ほとんど落書きに近い書き方でしたが、枠にとらわれない自由さが柔軟な発想につながると考えていたからです。今は罫線のない無地のノートに書くことが多くなりましたが。
レポート用紙や便箋のような縦開きのタイプが一番好きなのですが、メモ帳やノートと比べて「これだ!」と思えるものがなかなかないのが残念です。海外へ出かけたときに、良いものを見つけて購入してくることのほうが多いです。日本製のものは品質は最高で申し分ないのですが、デザインの部分でまだまだ工夫の余地があるような気がします。市販のものよりノベルティに魅かれる理由もこのようなところにあります。もっと、手に取ってみたい、書いてみたい、と思えるようなデザインを望んでいます。
万年筆というのは傑出した道具性を持った筆記具だと思います。本体を分解してインクを差し、その書き味を調整し、自分の手になじませていく。書くことに対して「手をかける」アイテムであるところが、まさに「道具的」という表現にふさわしほどにメカニカルな存在と言えます。単に書きやすいといった次元ではなく、「文字を書く」ことに美的感覚を与え、楽しませてくれるものなのです。手に取った感触、書かれていく文字の美しさ、インクの匂い、ペン先が紙に触れる音など、五感すべてが刺激される愉しみを味わうことができます。
これは「時を知る」ことを芸術の域に引き込むような、時計が持つ小宇宙とも似ているように感じます。
ウォッシャブルブルーというデッドストックのインクを求めて、思いつく限りのお店を探し回り、ひとつ、またひとつと手に入れていく様子が本書のところどころに挿入されています。インクというパーツひとつへのこだわり方は、万年筆が持つ道具性をより際立たせるものとなっています。古いものの中に、時代を経ても色褪せない本物の価値を見いだそうとする姿勢は、使い慣れた道具に惚れ込む職人を彷彿とさせるものがあります。希望のインクを探しあてて手に入れていくシーンは、エッセイである本書の中で、ひとつの物語として展開されているように感じます。
インクの品質の違いから美しい文字が生まれるわけではありませんが、自分の気に入った色であることによって、文字をきれいに書こうと思いたくなるということはあるかもしれません。お気に入りの道具であればこそ、「書く」ことを特別な行為として意識できるようになるわけです。
ペン先、インクの色、紙の弾力・・・。更にはペンを持つ角度や紙に触れる強度。「書く」ための道具にこだわることで書き方も変え、納得のいく一文字を綴る。この一連の行為は、おいしいコーヒーを淹れる光景とも似ているように思われます。コーヒー・湯・ミルク・砂糖の分量、湯の温度、注ぎ方、この加減にこだわり、極上の一杯を注ぐ。どちらの行為も新鮮で新しいものを生み出す過程を楽しむことができるものです。
ペン先からはインクの匂いが、コーヒーカップの上からは湯気に沸き立つコーヒーの芳香な香りが、それぞれの仕草に充実感を与えてくれます。インクの匂いというのはコーヒーの香りとは性格を異にするものですが、自由で真摯な創造活動を大いに刺激するものです。また、紙に書いた時のインクが滲む感じは、コーヒーに落としたミルクが拡がっていく光景とも重なって見えてくるようです。
相性の良い組み合わせというのは様々あり、尽きることはないですね。
「万年筆インク紙」を読んで、そんなふうに考えました。