映画「シェイプ・オブ・ウォーター」を観ました。とてもいい作品なので、いくつか気付いた点について感想を綴ってみます。

声を出すことができないイライザと半魚人とのファンタジー・ロマンスで、研究所に連れて来られた半魚人に興味を抱き、次第に愛情が芽生えるとともに協力者の支援を得て救出を図り、海に返すまでのストーリーです。
イライザは、言葉が分からない半魚人が知性を持っている可能性があることを感じ取り、何とかコミュニケーションを取ろうと試みます。言葉を教えて理解してもらおうとしたり、音楽を流して聴いてもらおうとするなど、何とかして繋がろうとします。声を掛けることができないので、いくつかの手段を用いて意思の疎通を図ろうとする姿が愛らしいです。
奇異な面に嫌悪感を持って遠ざけるか、それとも何かの可能性のほうに注目するのかという点において、半魚人の奇異な部分ではなく、知性のほうに興味を示したイライザは素晴らしいですね。声を発することができないという欠落を抱えた彼女にとって、半魚人と相通ずるものを感じ取ったのかもしれません。実は、イライザは人魚だったのではないか、そんなファンタジックな空想も浮かんできます。

イライザが半魚人への愛情を抱き始めるようになったのは、体形の美しさに魅了されたからではないかと思っています。ずっと水の中で生きてきた半魚人の身体は、イライザの眼には人間よりも数段たくましく精悍な姿に映り、そこに惚れたのでしょう。水というのはどんな形のものでも、その本来の美しさを引き出すものです。一切の無駄をはぎ取り、ありのままの姿を映し出します。人間にとっては奇形に見える半魚人の形相が、水の力によって美しさをまとったのではないでしょうか。水中でイライザと半魚人が交わる姿が官能性を帯びて見えるのは、そのような理由があるからかもしれません。

悪役であるストリックランドですが、上長にはいい顔をしようと振る舞い、科学者や掃除婦には威圧的な態度を取り、挙句の果てには暴力も辞さないという目に余る悪党ぶりを見せます。エリートと言われる人にありがちな威圧的な目ざとい人物として描かれます。研究所の内部を隅から隅まで知っている掃除婦たちを軽視したことで、イライザたちによる半魚人の救出作戦も制止できませんでした。救出劇のシーンはスリルもあり痛快でもあります。
とはいうものの、このストリックランドは悪役にしてはイケメンなので、少し違和感があります。悪役というよりはどちらかというと渋い紳士役などのほうが合っているように思います。悪役でありながら、その端正な容姿とのギャップが意外に思えるところが、悪党ぶりに対する嫌悪感を緩和させているように感じます。そして、このストリックランド自身もまた、組織の理不尽さの犠牲者でもあるというように複雑な側面も持っています。

イライザの友人であるゼルダが夫婦の間でほとんど会話がないことを嘆き、自分の夫に不満をぶつける場面があります。ここで感じたのは、伝えたい事があるのに声にできないイライザと、声を掛けられるのに伝えられないままでいるゼルダ夫婦が対比されていることです。思いを伝える、思いが伝わるということの意味について考えました。伝達手段の有無や相手との距離というのは、必ずしも意思の疎通を果たす条件になるわけではないということです。声という手段、方法があっても、それを活かさなければ意味がないのだと。人は自分に欠落しているものがあると思えば、それを他のもので補おうとします。一方で、既に持っているものを本当に最大限活かしているかと問われると、意外とそうでないこともあるものです。声を活かすためには、まず相手と向き合おうとする姿勢を持つことが必要なのかなと思います。ゼルダ夫婦の短い会話にも、相互理解を考えるヒントがあるように感じました。

映画の背景に流れる音楽も素敵です。どこかファンタジックな雰囲気があって、まるで遊園地のメリーゴーランドに乗ってゆっくりと回転している光景が浮かんでくるような、そんな陽気で温かいメロディです。
テーマ音楽もさることながら、この映画では「音」がキーワードではないかと感じます。「声」「水」「雨」などの音が持つ意味は大きいようです。雨のシーンも多く、ラストの場面も大雨です。水中で無言のまま結ばれる二人と、豪雨の中でゼルダの居場所を突きとめようとして声を張り上げるストリックランド。水中の静寂と激しい豪雨の音。形が変われば静寂にも轟音にもなるという水の変幻自在な性質は、あらゆるものを受け入れる寛容さの象徴として描かれています。半魚人というのは魚としても人としてもどちらの存在でもあり得るという意味では水の持つ性質と似ていて、それを実体化させた存在が半魚人だと見ることができます。それにしても、半魚人といい、ストリックランドといい、役柄に反してかっこ良く見えてしまうところが、ファンタジックな雰囲気にさらに輪をかけていることは間違いありません。

映画「シェイプ・オブ・ウォーター」を観て、そんなふうに考えました。