映画「マイ・ブックショップ」を見ました。
英ブッカー賞受賞作家ペネロピ・フィッツジェラルド原作の映画化です。
イギリス東部にある海辺の小さな町に書店を開いて読書の楽しさを広めようと奮闘する女性店主、フローレンスの物語です。店を良く思わない町の有力者からの嫌がらせを受けながらも、味方になる人の力に支えられて店を守ろうとします。物言わぬ本たちの魅力が随所から感じられる作品です。
乾いた地面に豊かな水がじわじわと沁み込んで、それが養分となって新しい芽が育つように、本が人々の心を耕していくのです。表向きは決して煌びやかでないものの、本の底知れぬ力によって町に灯りがともされていきます。
長年、邸宅に引きこもっている老紳士は、読書によって豊かな見識を培い、フローレンスの味方となって苦境にある彼女の支えになります。時代の空気に風穴を開けるような行動を促すきっかけにもなり得る本の力に吸い寄せられる感覚に浸りました。
太古から滔々と続いている穏やかで豊かな自然の風景と本とが共鳴しています。風景を見て感じることと本から読み取るものがつながっている感じです。命を引き継いできた自然と、知の営みの蓄積から生まれた本とが重なり合うように見えてきました。
滔々と流れる川の水、風に大きく揺れる樹々など、一瞬たりとも同じ形に留まっていないように見えて、でも遠方から眺めればまったく動じることのない自然の佇まいを見ていると、店に並べられている本の様子もそれと同様に思えてきます。棚に整然と陳列されている本も、たくさんの人の手に取られて閲覧され、新しい本と入れ替わったり、あるいは元の場所に戻されたりするという動きは自然の光景と重なり合うのです。一冊一冊の本はめまぐるしく動いているのに大きな棚はいつも厳然とそこにある、というように。
時折映し出されるイギリスの自然の姿は本棚を表現する背景としてぴったりです。こ以上ふさわしい光景はないというほどにはまっているのです。
湖水地方や田園風景など、平坦な景観が遠くまで拡がっていくような風景を思い起こします。セブン・シスターズの白い崖は本を横に寝かせた状態に似ているかも、などと想像しました。旅心が刺激されてきますね。
フローレンスと老紳士はともに一人で暮らしていますが、本を通じて交流する二人は決して孤独を感じていないのです。読書の楽しみによる交流が二人の支えになっています。
そこに店があることによって人々が交流し、人を通して良い物を知り、興味を抱き、引き継がれていく。これはブックショップに限らず、店主の熱い思いが注がれている店すべてに通じることではないでしょうか。映画の舞台である1959年という時代に特有なものではなく、今でも変わらない法則だと思います。
店がある場所に芸術センターを作ろうと目論む有力者たちは、人だかりができるほどの人気店を運営するフローレンスに対して嫉妬にも似た白い眼差しを向けて店を潰そうと追い詰めるのです。これは文化の名を借りて保身を図ろうとする魂胆が透けて見え、決して町の活性化につなごうという意思があるわけではないのです。店に行列ができるほど町の人々が本に魅了されている光景を前にしてそれを踏み潰そうとするのです。
庶民が芸術に親しもうとする意識が芽生えつつある中で、表面的にはそれを支援するようでいて、実は有利な立場を温存させようとする保守的な階級意識が蔓延する時代状況がここに映し出されています。
店で働くことになる少女クリスティーンも彼女の支えになります。本は嫌いだけど地理と数学は好きという彼女は、店の雰囲気とフローレンスの人柄を気に入って彼女を手伝うようになり本の世界に魅了されていくのです。
映画のなかでウラジミール・ナボコフの小説「ロリータ」が登場します。この作品のテーマを紐解くカギが、実はこの小説にあることに気づきました。
小説とこの映画は非常に密接な関係にありそうです。というよりも、このふたつは完全にセットになっていると言ってもいいのではないかと思います。この映画は映画だけを見ても完結せず、小説「ロリータ」を読んでこそ初めて映画の全体像が理解できるのです。鑑賞していてどこか消化不良のようなものを感じていたのですが、自分がこの小説の内容を知らないからなのだと分かりました。この映画は小説と合わせて鑑賞すべき作品なのです。小説の世界と深くつながっていて、小説を読むことを誘う映画なのです。
「ロリータ」は文明批評にもつががるような大きなテーマが背景にある作品のようなので、読みこなすのはかなり手ごわそうな気がしています。理解できるかどうか読むのを躊躇するところもありますが、読んだ後もう一度見れば、さらに深く味わうことができるように思います。
この映画は、たんに女性がひとりで店を経営していくことの困難さや、襲い来る様々な逆境を跳ね返して自分の信念を貫いていく店主の生き方を称賛するだけではないのです。単調に思われるストーリーの奥には、小説「ロリータ」に描かれる内容とシンクロする世界がありそうです。そこを見なければ真の面白さは味わえないということですね。小説を読んでから鑑賞することでその深遠な世界が見えてくる、そんな奥深さを持った映画なのです。
音楽が素晴らしいです。目を閉じてずっと聴いていたくなるような心地よさを覚えました。ストーリーのトーンとは異なる陽気な感じが、怯むことのないフローレンスの健気さを讃えているようでユーモラスにも響きます。