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家で何か書きたいことがある時はメモブロックの紙を使って書いています。今はノベルティでなく、少し小さめで紙の色が3色に分かれているものを机に置いています。


ブロック型の形状には存在感があって、ひとつ置いてあるだけで何か訴えてくるものを感じます。どっしりと構えながら書かれる時を今か今かと待っている余裕を見せながら、いつ書かれても大丈夫、常にスタンバイしている臨戦態勢でいるところが頼もしいです。何も書かれていない白紙のタワーを見ると無限に思考が広がっていきます。書きたいことを瞬時に受け止めてもらえるという安心感があり、本当に力強い相棒となっています。
書くことが好きなタレントの壇蜜さんは「忘れるために書いている」と言ってますが、どこかに書いてあるというのはそれだけで安心できるものです。


側面に広告が入っていれば、一枚使うごとに図柄などが次第に欠けていきます。切り離した一枚の紙を見ているときは表面しか意識することはありませんが、ブロックの状態になると、側面がまるでカンバスやスクリーンのような表現の媒体となります。書くときは薄い平面の紙なのにブロックになると側面に新たな価値が生まれるというように、立体として見たときの可能性の拡がりにも注目できます。


広告の図案が次第に欠けていく様子は寂しいような気もしますが、それでいいのです。メモが使われるごとに少しずつ消えていって最後はなくなってしまうという儚さがノべルティとしてのメモブロックらしいところですから。上から下まで同じロゴが続けて表記されていて、低い状態になっても同じように文字が見えるような賢いデザインのものもあります。


紙を上から一枚取ったその瞬間には何も変わっていないように見えるのに、ふとあるとき高さが低くなっていて結構な枚数を使ったことに気付くことがあります。高さの変化への反応の仕方が、成長するにつれて背が伸びていく子どもを見ていることと似ているように思えます。


使えば使うほど減っていくところは鉛筆や消しゴムと似ています。減っていくにつれて存在感も薄れていくという儚さが偏愛を抱く要因となっているのかもしれません。それでもいつも変わらぬ姿でそこに佇んでいる姿が愛らしく思えるのです。


四角いものだけでなく、他に円形や三角、何かを模った形状をしたブロックなどもあるといいですね。デスクの上がさらに楽しくなりそうです。


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紙片のメモは必要がなくなれば大抵は破棄していますが、どうしても取っておきたいと思ったものだけはノートに書き写しています。ただ、それも結構時間がかかるのでなかなかすぐには実行できず、しばらくの間は紙片のまま取っておくことになります。それにはいくつかのやり方があって、ノートの間に挟む、コルクボードに錨やマグネットで留める、集めてケースに入れておくなど様々です。なかにはきちんと保管しておかなかったがために後で意外な場所から見つかって、あわよくばその存在を知らないままでいるところだったと偶然にも見つけられて安堵することもあります。


古いメモから順に書き写しているわけではなく、新旧にかかわらず気まぐれに任せて時間のある時にまとめて書いています。そうすると「いつかノートに書こう」と思いながら紙片のまま残ってしまっているメモが次第に増えていくという状況になっていきます。


ノートに書き写すときには、関係のありそうなものを組み合わせてまとめて書こうかと考えたりもするのですが、内容が多岐にわたっていて集約などできません。ある程度の枚数を無造作にまとめて書き写していますが、なぜか全部いっぺんに書こうとは思わないのです。

紙片のまま残るものは「いつかノートに書こう」メモとして分類され溜まっていきます。でも、この状態はそれほど嫌ではありません。いくつものメモが重なり合い、緩やかに盛り上がっていく光景を見るのを楽しんでいるところもあります。未整理で乱雑な状態に魅かれるものがあるのです。


紙片が散逸している風景というのはどこか心地良いものがあって、むしろノートに書かずにそのままの状態にしておきたいという願望があるのかもしれません。一気に全部をノートに書いてしまわないのは、そうした環境を残しておきたいと望んでいるからなのでしょう。


すっきりと整った姿をしているメモブロックには、書くたびにメモが増えて乱雑さが増していくという期待が詰め込まれているのです。あの存在感はその期待値の塊なのです。じっと眺めているとそんな期待が膨らんできます。立体的な形は混沌と乱雑という香りをまとっているのです。その存在感ある佇まいは書くことを誘惑してやみません。