『美しい痕跡』という本を読みました。
著者のフランチェスカ・ビアゼットンは数十年にわたり書くことと向き合ってきたイタリアのカリグラファーです。手書き文字の魅力と文字をデザインすることの楽しさについて綴られています。
「文字自体が、書く身ぶりの視覚的な形跡」であるとして身体を使う活動であることを指摘しています。「字を書くのは複合的な活動で、いくつかの能力を強調させながら働かせなければならない」と言っています。精神と肉体を調和させることで、認識力を平板化させない内省的思考を発達させる」と述べ、手の感覚を鍛えることが本質的に重要であることを強調しています。
書かれた文書のひとつである手紙に注目しています。「手書きの手紙は物語を宿し、届くまでの旅を語る」ものであり「驚きであり、時間をかけた旅である」と言っています。
新しいシステム環境に囲まれた今は、「速さという誘惑に身を任せ、質や唯一性、物語といったものを犠牲にしている」と言い、「なにかを学んだり、想像したり、考えたり、社会生活の中で他人と関わったり、それから退屈したりする時間を犠牲にしている」とも話し、時間感覚の錯綜を危惧しています。書くことに夢中になる、「ゆっくりと流れる貴重な時間」を使って考えたり表現したりすることの大切さを訴えています。そして「退屈する贅沢、だらだらと過ごし、物思いにふける大切さ」を失うことへの警鐘を鳴らしています。
書き方や素材など、紙や鉛筆の物質性にも注目していて、「書いた人の思考の筋道」をたどれることや「考えが紙の上でどうのように発展したのか」など、「とらえきれない思考の流れ」が分かり、文章ができあがっていく「創作の過程」が見えてくることが紙の文書の大きな魅力だと言っています。
そしてこの物質性こそが動きを記憶させることに寄与するものであるとし、身体が思考に与える影響の大きさを強調しています。
「Letter」という文字をいろいろなバージョンで書いてあるページがあります。どの書体もそれぞれの美しさが表れていて素敵です。サインするときなどこんなふうに何通りかさらっと書き分けられたらいいですね。筆記具を変えれば多少は字体も変わるかもしれませんが、これは書き方そのものがデザインされていて芸術的とも言える素晴らしい文字です。
著者は「手紙には期待が隠されている」と言っています。これは小説を読むときによく言われる「行間を読む」というものとは異なる体験のように思われます。物語から想像する世界ではなく、物語など何もなくてもあなたと私の間にある敬意と信頼のような関係を立ち昇らせるものがあるのです。それは手紙だからこそ理解できることであり手書きの筆跡だから伝わるものだと思います。字体のバリエーションを「Letter」の文字で表現しているのはそんな思いがあるからではないかと考えます。
文字を見てきれいだと感じる経験が減ってきていることが文章の理解の仕方にどのように影響しているかというのは以前から気にしているテーマになっていて、ずっと考えを巡らせています。
デジタルで作成した文章のように常に最新のものに更新されていく文字に「痕跡」という時間の累積を見ることは困難です。
デジタル化が加速していながらそれでも筆記具で書こうとするのは、手書きの美しさを目の前で確認できることが大きな喜びであるからでしょう。自分固有のオリジナルなもの、また誰かが持っているユニークさを発見したいという欲求からは離れられないですね。手書きにはオリジナルなものへの敬意と憧憬の念が宿っているのです。
医療の現場では水彩療法や手紙療法といった治療法が取り入れられていることが紹介されています。書くことの効用が医療の場で実証されていることを初めて知りました。視覚と触覚が統合された情報が脳に伝わることによって身体機能が回復されるというのは、そのメカニズムこそはっきりしていませんが、効果のほどははっきりしているということなのでしょう。そのときしか表現できない一回性の動きなので、より快適により上手に表現しようという意欲が刺激されて良い影響を及ぼしているんですね。何回繰り返し表現しても一つとして同じものはできないという手書きの特性が生かされているのだと思います。手の動きや触覚が他の感覚器官と融合することのすることの効果というのは想像以上に大きいようです。
線の美しさだけでなくインクの沁み具合がきれいだったりするなど芸術作品のように見えてきます。さらっと書いているようなのに驚くほど均整のとれたきれいな文字が並んでいるのを見たりすると惚れ惚れしますね。
自分が書いたときでも、上手く書こうと意識して書いた文字ではなく無造作に書きつけた文字なのにとびっきり美しく見える文字を見つけることがあります。再現しようとしても書けない文字。そのときにしか表現できなかった線。目の前にある文字を見て、その「痕跡」に特別な思いを馳せるというのは手書きならではの体験です。書かれている言葉の文字の形によって、その示す意味も違った形で引き出されてくるような気がします。同じ言葉でも文字の形によって意味するところが変わるような。そんなふうに言葉から生まれる想像の拡がりを楽しめるのも手書きならではですね。