六本木21_21 DESIGN SIGHTギャラリーで開催中の「トランスれーションズ」展を観てきました。サブサイトルに「わかりあえなさをわかりあおう」とあるように、言葉による理解をテーマにした企画となっています。トランスレーション(翻訳)というので異なる言語間の関係性かと想像していたのですが、言葉だけでなく広く情報が伝達される現象を対象とするもので、様々なアーティストの先進的な作品が披露されています。
言葉は人間だけが使用する意思疎通の知恵ですが、ひとつの単語やフレーズが示す意味というのは人によって違うことも多いものです。一般的に理解されている意味でとらえる場合もあれば、先入観や偏見が入り込むことで同じ言葉でも感じ方が異なる場合もあります。
様々な情報が行き来する今のような時代では、ひとつの言葉はいろんな雑情報を纏っていることが多く、意図を正確に理解することが困難だと感じる場面も多いです。それは言葉の意味が豊かであると見ることもできますが、一方では理解へと至る道がより複雑になっているとも考えられます。
かえって言葉に拠らない伝達方法のほうが素直に関係を結べるということもあるのではないかとも考えました。手話などの身体表現のみでの伝達方法を実験的に探究した作品などを見ると、意思を伝える手段としての言葉の役割とは何なのかと疑問が湧きました。
人が普段会話しているときに話す言葉というのは、実はそれほど多くの語彙を使用してはおらず、ある程度の範囲の語数に収まるような気がします。辞書を開けば分かるように膨大な語彙があることは知っているのですが、実際に使っている単語やフレーズというのは実はほんの限られた範囲に収まっていることも事実でしょう。どんな言葉を使うかということ以上に、話すタイミングやトーンや間合いなどのほうに重要な意味があるということもありそうです。声や表情といった身体表現と連動した動きの中で伝わっていくものであるように思います。
短文でのやり取りが頻繁に行われるようになっている今、字面の外にあるものに大きく影響されるということもあります。翻訳といっても文学のような異言語どうしをつなぐということだけでなく、同じ言語の中でも意味を探るように翻訳を行うようになっているのかもしれません。言いたいこと、聞きたいことと、実際に発せられる言葉が必ずしもつながりを持たないような場面が増えているのではないでしょうか。
情報技術が発達し、対面以外の方法でも言葉を伝達しています。家にいる時間が増えた今、その傾向はさらに高まっているようです。どんな手段で伝えるかが伝わり方に影響を及ぼす面もありそうです。外国語を橋渡しする意味での翻訳よりも同じ言語を話す人どうしのつながり方のほうに強く関心が向きました。
植物が呼吸するときに葉っぱの気孔が開閉する様子の映像がありました。話をするときの人の唇の動きに似ていると考え、言葉を話していると見立てて意味を探ろうとする作品がありました。植物が言葉を使って話しているという、なさそうでありそうな発想は面白いアイデアだと思いました。
数か国語を話す多言語話者の思考様式に迫ろうとする作品にも興味を持ちました。いくつもの言語を短く切り替えながら話している映像が流れていました。5~6カ国語を駆使して話しています。話された言葉の文字が同時に画面にも表示されるのですが、聞いていても文字を読み取ろうとしても何を話しているのかさっぱり分かりません。字体の異なる単語が連なっているのを見ていると余計に混乱してきます。話している内容は話者の中では一貫した論理で構成され出来上がっているのだと思いますが、こちらは他の言語が理解できないので意味を読み取るのは困難です。日本語が含まれていることが分かる程度です。このように多言語を織り交ぜて、言いたいことのニュアンスに対応する言葉を即座に選んで話せる能力には驚きました。
2カ国語を話す人がひとつの言語で長く話をするというのは普通にあることですが、入れ替えながら話している光景はとても稀有なものでした。どのように頭を切り替えているのか本当に不思議です。
一連の作品を見て、言葉を話すときに遭遇する疎通と困惑という異なる場面を体験しました。葉っぱの気孔の動きを言葉を話していると考えた作品にも見られるように、まだまだ知らない言葉がたくさんあるということは、自分の思考の枠が広がる余地がまだまだ多く残されていることなのだと改めて思い返しました。