IMG_20220520_155335

映画「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」を見ました。
出版エージェンシーで働くことになったジョアンナは辣腕編集者マーガレットのもとで読者から送られてくる大量の手紙を整理する任務にあたります。自身も作家を目指していているものの、思うように作品を書けずに悶々としています。英国に恋人を残しながら新恋人と営む同棲生活、街を離れて郊外へ引っ越していく友人など、慌ただしく変化する生活の中で自分の将来を見つめ直しながら前に進んで行く日々を描いた作品です。

小説「ライ麦畑でつかまえて」の作者として著名なJ・D・サリンジャーを抱える出版エージェンシーを舞台に、カリスマ的な存在である作家宛てに尋常ではない思い入れを持つ読者から、全魂込められた手紙が毎日届きます。そのすべてに目を通すことと返信は定型文のみという規定のなかで、サリンジャーのもとには届けられない旨の返信を繰り返す日々が続きます。

サリンジャーほどの作家に宛てて書く手紙となれば、さすがに読んでもらえないことは想定のうえで送っているのだとは思いますが、それぞれの手紙にはそれだけでひとつとの小説が書けてしまうほどの物語があるだろうし、作家志望のジョアンナであればなおさらその内容に没入してしまうのはもっともなことですね。サリンジャー自身もそうなることは分かっているので、あえて目にしないように抑制していたのではないかと想像します。

ひとつの作品が多くの人々の共感を得て、新しい物語が生まれて作者のもとに還元されていくという流れを思うと、「ライ麦畑でつかまえて」の影響力の大きさもさることながら、長く読み継がれていく小説の懐の深さを垣間見たような感じがします。

ジョアンナの上司であるマーガレットはデジタル機器を敬遠していて、「コンピュータは無駄な仕事を作る」と話すほど。ずっとPCなしで通してきて、ようやく1台導入することにしたというほどの根っからの紙派です。彼女の意見は一面の真理を突いてはいますが、会社を運営していくうえでは完全に時代の波に逆らうわけにはいきませんね。

ジョアンナはサリンジャーに宛ててある質問を書いてきた手紙に気を留め、規定に反して返事を書いてしまいます。しかし、その返信が届いた後、手紙の差出人から会社に猛烈なクレームが入るのです。「これはサリンジャーが書いた手紙ではない」と。
手紙に書かれていた質問に対してジョアンナが書いた返答はいたって定型的な模範解答といえる内容でした。誰が読んでも納得できる的確で無駄のない誠実な表現で記されています。しかし手紙を書いた読者は返信を読んで気づいたのです。何かおかしいと。

定型的な返信に嫌気がさして行ったことなのに、自分で書いた返信の内容も結局ありきたりでお行儀のよいアドバイスに終始していたのです。誰にでも当てはまるような間違いのない助言。尊敬する作家から返信が来るなんてそれだけで舞い上がってしまうところですが、文面を読んで違和感を感じたというのは凄いと思います。本人からの返信なら絶対こうは書かないだろうということだけは確信があると言わんばかりにジョアンナに猛抗議する場面を見ていて、熱烈なサリンジャーのファンに安易な小細工は通用するはずもなく、さすが分かっているなと感嘆します。

この作品を見て感じたことのひとつは距離と時間の長さが意味しているものです。人嫌いで有名なサリンジャーは郊外に住んで孤高の生活を送っています。会社との連絡も電話のみ。読者から送られてくる手紙、遠く離れた英国にいる恋人、ニューヨークから離れた郊外へ移る決断をした友人、会社に1台だけ配備されたPCなど、ジョアンナを取り巻く環境や出来事を見ていると、距離の長さが意味するものが際立って感じられてくるのです。

それを最も象徴するアイテムが小説ではないでしょうか。かなり昔に書かれた作品が長く読み継がれていて、時を経てもなお新たな読者が生まれ、引きも切らずにファンレターが届く。時と場所を選ばずに作品と向き合うことができる。長い距離をものともせずに、いや、だからこそ生み出されるのが小説の面白さであること改めて感じました。

距離の長さに思いを馳せると、この映画がニューヨークを舞台にしていることは逆説的に思えてきます。仕事も生活もすべてがめまぐるしく変化する大都市で、距離も短く時間の流れも極めて速く、立ち止まることが許されないような環境のなかで現実を生きていかねばならないジョアンナにとって、この仕事は過酷とも言えるものだったのでしょう。

映画の中でもジョアンナの知り合いが「街のことについてはあまり語りたくない」という意味の言葉を話しています。時間を顧みたい思いはありながらも今ここにある現実に背を向けてはいられないという苛立ちのようなものが渦巻いている様子が感じ取れます。

距離の長さとスピードの速さの挟間で自分の進む道を見出していこうとする姿は、ますますデジタル機器との付き合い方が高度になっていく生活のなかで、様々なものとの距離をうまく取りながら進んで行かねばならない困難さはありながらも、ジョアンナのように華麗に突き進んでいけるという面白さにも満ちている、そう考えることもできるように思いました。

シーンごとに変わるジョアンナの衣装も見どころのひとつです。どちらかというとお堅いほうに入る業界を舞台にしていることもあってフォーマルな服装が中心ですが、キレイめな衣装の豊富なバリエーションを堪能できるところも見逃がせないポイントです。