――宿命論者は絶望し、神を喪失し、かくて自分の自己を喪失している、――神をもたぬものはまた自己をももたぬからである。さて宿命論者は神をもっていない。或いは同じことであるが、彼の神は必然性である。もともと神にとっては一切が可能であるということは、一切が可能であるというそのことが神だということである。それ故に宿命論者の礼拝はせいぜいのところ一つの間投詞であり、本質的には沈黙、沈黙の服従である。宿命論者は祈ることができない。
―キェルケゴール著/斎藤信治訳『死に至る病』

つまり『猿の手』は典型的に、宿命論者の絶望を描いた物語である。

必然性ばかりで希望・可能性がない宿命論者というのは、しかし
ある程度の知性がないとなれない。
 宿命論と決定論とはそれでもなお可能性に絶望するに足るだけの想像力を、不可能性を発見するに足るだけの可能性を所有している。
―キェルケゴール著/斎藤信治訳『死に至る病』

それに対して、そもそも知性を持たない人々というのがいて
キェルケゴールは《俗物》とアッサリ呼んでますけど
 俗物性と日常性にもまた本質的に可能性が欠けている、ただしこの場合には事情がいささか異なっている。俗物性は無精神性であり、決定論と宿命論とは精神の絶望である、――尤も無精神性もまた絶望である。俗物性は精神の一切の規定を欠いていて蓋然的なるものに終始するので、そこでは可能的なるものにもちょっとばかり場所が与えられている。ところが神に着目するに至るような可能性はそれには欠けている。想像力がないから――俗物的な人間はいつもそうである(酒屋の主人でも国務大臣でも)――彼は、世の中がどういうものであるか、何が可能であるか、普通どんなことが起るものであるか、というようないろいろな経験の或る種の通俗的な寄せ集めのうちに生きている。
―キェルケゴール著/斎藤信治訳『死に至る病』
想像力がないから――俗物的な人間はいつもそうである(酒屋の主人でも国務大臣でも)――彼は、世の中がどういうものであるか、何が可能であるか、普通どんなことが起るものであるか、というようないろいろな経験の或る種の通俗的な寄せ集めのうちに生きている。
これって
 もちろん、その相手に羞恥心はない。「自分」を消して、既定の「正しい」を選択し続けただけの相手なのである。この種の人物に「知性」は無い。「知性」の代わりに、「ひたすら自分を消して、他人の言う“正しい”を選択し続ける」という種類の「人生」がある。
―橋本治著『「日本が変わってゆく」の論』
「モラルなき時代に突出する人々2―鈴木宗男」
「知性」の代わりに、「人生」がある。……ってやつですよね?
キェルケゴールは1813〜1855年の人ですけど、
『死に至る病』を読むと、あまりにも今の日本なので
デンマークの「先進国」ぶりを感じさせます。

それはさておき、知性というものを持ってしまった人は
知性を持ってない人が感じないような痛みを感じることになる。
「知性は痛覚神経みたいなもんだからね」と一番上の子は言った。
「だから『痛い』のを感じたくなくて、みんな知性をすりへらして
いくんだね」

『猿の手』系の作品に感じる悪意というものの正体は
要するに、この知性の痛みなのである。

ぶっちゃけ「どうせダメさ……ほら、やっぱりね」という冷笑である。

これが好きな人というのは少なからずいて
三島由紀夫症候群という。(私が勝手に今作った)。

三島由紀夫作品の独特のイジワルさというのもこれである。
 それでなんなのかと言うと、今の時代に三島由紀夫を読む人はそんなにも多くはないかもしれないが、三島由紀夫みたいな人間は結構多くなってしまったかもしれないな、ということである。

 私によれば、三島由紀夫は「塔の中に閉じ込められた王子さま」である。

 「彼に助けに来てもらいたいけど、でもきっと彼は助けに来てくれない。それにはかくかくしかじかの根拠があって、その不在を納得することは、かくかくしかじかの美学にもかなうことであって、運命とは、悲劇とは、愛とは、美とは、ああたらこうたら……」―そう考えて、塔の外の王子さまが塔の外壁を登って来るところを想像して、「途中で落っこちるかもしれない」と考えて、その落っこちるところを想像して、「ほーらやっぱり僕の考えていた事は正しかった」と納得してしまうのである。三島由紀夫の人生はそこから始まって「そんな悲劇的なことばっかり考えているのはへんだな」という軌道修正があって、結局また元に戻ってしまう。
 どうしてそうなるのかと言えば、この塔の中の王子さまが、塔の中の生活に適応してしまって、「助けられたいけど、出るのはいや」と考えているからだ。
―橋本治著『失楽園の向こう側』
インテリはどうしても「塔の中の王子様」的にならざるを得ない
ところがあるので、一億総インテリ状態とまではいかないが
インテリがやたら多い日本という国では、
「塔の中の王子様」メンタリティの人つまりは宿命論者が、
けっこういるんだな〜ということである。
だからNHKでクランプなんかやるんだろうな。

でも、それって「死に至る病」。
絶望は罪である。
―キェルケゴール著/斎藤信治訳『死に至る病』

一番下の子がクランプがどうも好きらしいと
私が知った時結構意外に思ったのは、
彼はそういうインテリキャラじゃない、と思ってたからだ。
まあ、一番下の子いわく「絵がうまい人が好き」なんだそうだが。
そういう職人的な技術に対する憧れというのはさて置いても、
『xxxHOLiC』的な世界に心惹かれるようになったことは
彼が勉強を真面目にやり始めたということと関係があるに違いない。

ということは、秩序というものがこの世にある限り
この手の抑圧(キェルケゴール風に言うなら
必然性が可能性を押し潰すこと)というのは存在し続けるわけで、
『猿の手』系作品は永遠に不滅です――ってわけだ。
秩序というものが抑圧を強いるものではなくなるような
そういう局面において初めて『猿の手』系作品は不要になる。
心の欲する所に従えども矩を踰えず―by孔子
の境地に、みんながなっちゃえば、
こういう作品は過去の教養としてのみの存在意義となり、
新たに類似作品を自らが生み出す動機はなくなる。
《三島由紀夫を読む人はそんなにも多くはないかもしれないが、三島由紀夫みたいな人間は結構多くなってしま》うのではなくて、逆に
三島由紀夫を読む人は多いが、三島由紀夫みたいな人間はそんなに多くない
世の中になるんだろう。