2011年08月24日

人体が伝わる

azumaru8/10

先日、舞踏家・東丸さんの振り付けが組み込まれた演劇の稽古場に見学にいきました。
お世話になったハンザキの生野くんも役者として出演すると言う事で、どんな事やってるか気になって…。

踊りの部分を東丸さんが振り付けているので、六人くらいの役者陣が動くと、全て“東丸っぽい動き”に満ちあふれ、“振り付け”の不思議を感じました。
人にはそれぞれの“クセ”があって、東丸さんにも踊りのクセがある。それが東丸さんらしさになっているのですが、他人に振り付けても、その東丸さんらしさが、そこに再現されているのです。これは、長く東丸さんを観てきた僕にとってたいへん面白いものでした。「確かに舞踏家・東丸は舞踏的蓄積を重ねて、ここに在るんだなぁ」なんて尊敬にも似た感動があったりした。

どんなものでも、人体が介在する伝達方法は面白い。

今、TOKYO MXで『ハートキャッチプリキュア!』が再放送されているけれど、そのエンディングはCGで描かれたプリキュア達が踊るというもの。その踊りを振り付けているのが、松浦亜弥のものまねで有名な芸人・前田健だ。その振りをよく観てみると、面白いことに確かに“前田健っぽさ”が出ている。画面は全体で「可愛い」を表現していて、CGで描かれた四人のキャラクターもそれぞれの「可愛い」を体現している。しかし、それを通して僕に観えて来るのは、あのオジサン前田健が踊っている姿だ。「プリキュアとして、この事態はどうなんだ?」と一瞬思った。…が、『ハートキャッチプリキュア!』とういう作品のラディカルさと変身少女モノの王道な明るさを同時に体現できるベストな起用なのだと今は考えを改めた。CGやデフォルメされたキャラクターを通しても人体は伝わる。そして、それを見越した表現もあり得る。

これも“振り付けが起こす面白さ”の一つだろうけど、今はどれくらいの面白さが発見されているのだろうか?

興和株式會社の虫さされかゆみ緩和液『プチウナ』のCMの踊りは、一つの“面白さ”があった。
ピクニックに来た様な出で立ちの三人の男女がそれぞれ違った振りで踊り出すのだが、ある時、手を叩く振りと共に三人の動きが同じになるCM。単純にカウントでもって振りを割って、最後に三人の動きが合う様な組み合わせで振り付けをしているのだが、このCMの面白さはそこではない。
三人(若い細身の女の子・中年太り気味の男性・中年太り気味の女性)が、それぞれ踊りの素人丸出しの身体で、振り付けられた振り以上の無駄な情報が踊りに乗っている所がこのCMの肝だ。止めや切れが(一生懸命やってはいるが)まったく出来てなく、動きがぶれぶれにブレて、ゆるゆるな身体と相まって全体がヘンテコな空気を醸し出している。振り付けられた振りが踊り手の身体の事情(限界)によって「出来ない」という事を踏まえた踊りになっているのだ。
ただ「出来ない」だけでは不完全であるだけだが、これが意図的な戦略だと気付かされるのは、上記した「手を叩く振りと共に三人の動きが同じになる」という振りが最後に用意され、しっかり踊りとしてまとめられるているから。コントロール外のものを取り入れて、不完全さを作品にする。これも人体が介在する“振り付けが起こす面白さ”の一つだろう。

韓国系のアイドルユニットが人気の現在、踊りの価値と言えば、ああ言う完璧にこなす系のダンスが容易に思いつくけれど、もう少し違った視点の“面白さ”も発見したい今日この頃です。


東丸さん振り付け・生野くん出演の舞台の情報はこちら↓
裏庭巣箱ホームページ  
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2011年06月27日

数段、上に見えるもの

告知していたイベントへの出演が無事終了しました。
来てくれた方々には御礼もうしあげます。
また、僕を指名してくれたハンザキ主宰・生野和人くんと、イベントの主催者でありノアノオモチャバコ主宰・寺戸隆之くんに感謝いたします。


公演終えてみて、いつもながら“自分でコントロール出来ることの少なさ”を感じます。

実は今回、最初に話をもらった時、自分の中で「ピン」とくるものがなかったのが実際の所でした。
あの日以来、色々なものを観ても「ピン」とこない、的を外している感覚がついてまわっていて、今回の話も「何故、今、これなのか?」について解消しておきたい思いがありました。(生野くんには「めんどくさい」思いをさせました)
もう一つ僕を躊躇させたのが「入場料の一部を東日本大震災義援金として日本赤十字社に寄付」するチャリティー公演への参加。ここには幾つか考えたい点があります。
もちろん継続的な支援が必要なのは理解しているし、僕が役に立つのなら使ってほしい思いもある。しかしながら、自分の責任を担える所はどこかを考えた時、僕は僕の周りの“多くの事を許してくれる人達”しか客として呼べないなと感じたのです。それを感じた一番の理由は「義援金は“本当に”寄付されるのか?」という僕のひねくれた不安です。
今回のチャリティー公演は会場として使われた“絵空箱”が主催するチャリティー公演を支援する催しに、ノアノオモチャバコが応募して実現したイベントでした。そのゲストにハンザキが呼ばれ、そのハンザキ一人芝居出演に僕が指名されるという、イベントの責任からは少し遠い存在としての参加です。にも関わらず、自分が呼ぶ客には自動的にチャリティーへの参加をさせるので、僕にもチャリティー公演の責任の一端は発生する。普通の公演の参加とは少しちがうものを感じた次第です。
なので「義援金は“本当に”寄付されるのか?」という不安をどうやって解消するかという事は、小さい事ながら末端の者にも重要な問題だと感じました。
幸い、公演の前説で、義援金寄付の報告がノアノオモチャバコのホームページ上でなされる旨が語られたので、一先ずはノアノオモチャバコを信じるという事で僕は安堵しています。

これはこれから続くであろう永い支え合いの中で、些細だけれど重要な心遣いだなと思います。
事後的にお金の流れをたどれる回路を用意する事と、末端の者にも十分な説明をし、納得して参加させる事。
これからのチャリティー公演の行方が気になる所です。


“義援金”という支援しか自分には無い事にも、苛立ちに似た思いはあります。
「分相応な出来る事しか出来ない」のは言うまでもない事ですが、それ以外の事も頭の隅に置きながら出来る事をやりたい。
具体的には、被災した方々が現地でこれからも生きて行く為には、お金を渡し続けるだけではいけないと言う事。「仕事がほしい」最近やっと報道にものぼってきた声ですね。
大きな力の無い僕には、もちろん大した事は出来ないのだけれど、そのヒントになりそうな事はいつも頭の隅に置いておきたい。

僕が語らずとも多くの方が知っているとは思いますが、僕がヒントになりそうだと感じている事例は、継続的にアフガニスタン支援をしているペシャワール会の灌漑事業です。
ODA(政府開発援助)として発展途上国に対してお金を支援するという事を日本も含め多くの国が行っているが、お金が切れたとたんに生活が破綻するという事例もある。それに対して、ペシャワール会を率いる中村哲氏は、自分たちで仕事をつくり農業をおこし食料を確保する、一連の生活を築く為のローテク(古い技術)による用水路建設を考え実行し、自立させる支援をしているという事です。
もちろん僕個人にこんな大それた支援がいきなり出来るはずもありませんし、もっとやるべき事が僕にはあるのかもしれない。しかし、多くの人が「「仕事がほしい」という声には国や大きな企業しか答える事ができない」と思い込んでしまう事や、「義援金しか術が無い」と思って思考を自由に出来ない事はもったいないと思う。
義援金は義援金として継続しつつ、他にも生活を根付かせる為の支援は無いか、頭の隅に持ち続ける事の必要を感じます。

この記事自体が「分不相応だぜ松下!」という自分の声も聴こえますが、これが取りあえずはこのチャリティー公演で考えた事の一つです。
何かを開ける鍵になれたら、これ幸いです。  
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2011年06月14日

アレをどう名指すのか?

“アレ”についての話

皆は“アレ”の事を、なんて呼んでいるのだろうか?


今、六月の終盤に一人芝居などを行うので、稽古しております。
以前出演した団体・ハンザキ関係で、主宰の生野和人くん脚本の一人芝居。
荷の重さを感じながら精進してゆきますので、どうぞよろしく。

今日、生野くんと話していて、ふと「皆は“アレ”の事を、なんて呼んでいるのだろうか?」と疑問が生まれた。
僕はアレの事を暫定的に“ブンガク”または“ブンガクセイ”なんて呼ぶ事があるのですが、どうもしっくり来ていないというのが現状です。
漢字で“文学”や“文学性”などと書くと「時代遅れな価値観」的なイメージを与えてしまいそうで、カタカナにしてみるのですが、どうも小癪な悪あがき感がいなめない。
何故、“ブンガク”なのかと言えば、アレは小説なり、演劇なりの中によく現れる事があり、言葉を紡ぎながらも、言葉では直接示される事が無く、にも関わらず観る者の中に生まれゆくアレの事だからである。
“読後感”に似ている気もするし、まったく的をはずしている気もする。なにせ必ずしも読後に現れるというわけでもないし。
アレを“感動”などと言うと豪快な空振りもいいところで、もはや何も語らず、打席に立つなと言われるに違いない。

“小説”や“演劇”と書いたが他のものでも現れたりするはずだ。
“音楽”や“絵画”にだって現れるし、“踊り”や“ダンス”にだって“ブンガクセイ”が宿る。
言葉を紡ぐものだけではなくて、言葉をいっさい使わなくても「“ブンガクセイ”がある」と感じてしまう。これは僕の語彙の少なさから来る誤りだろうか?他の言葉があるのだろうか?

「今期一番“ブンガクセイ”を感じるアニメは何だ?」と問われれば、それは現在放映中の『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』だと答えるだろう。
幼い頃亡くなった女の子が成長した姿で現れ、今はバラバラになってしまった秘密基地の仲間達を再びつなげていく青春回復譚。描かれるものすべてに“ブンガク”を感じる。

ラジオを聴いていたって、人の語りに“ブンガクセイ”を見出す事がある。
菊地成孔氏のTBSラジオの番組『菊地成孔の粋な夜電波』で語られた、“亡くなった叔母の話”は“ブンガク”だと感じたし、同じくTBSラジオの伊集院光氏の番組『JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力』には毎回、“ブンガクセイ”がほとばしる。

漠然とした“何か”を捉えようと、言葉や音や絵の具や振りを使って造る精神的構築物=“ブンガク”〉と暫定的にしておこうか。
これを皆は何と呼んでいるのだろう?是非、教えてほしい。

最近、改めて「アレでしか救えないもの(掬いとれないもの)」があると、感じる次第です。
すなわち“ブンガク”でしか救えない(掬いとれない)感情などがある。
“宗教”や“信仰”が、アレを救っていた時代もあっただろう。(今も「救われる」と言うなら、それはそれで良いのです…)
日々出会う矛盾や不条理に対して、どんなに精緻に政治システムを整えても、こぼれ落ちていくものが有る。(もちろん政治でしか救えないものもあるから、僕は政治をあきらめないけれど…)そう言うこぼれ落ちていくものの事を暗黒舞踏の創始者・土方巽は“はぐれていくもの”と言ったのでした。人が見て見ぬ振りをして無かった事にしているものを集めて“おどり”をつくる。“忘れ去られた身振り手振りの採集”とは麿赤兒の言葉。社会では生きられないはぐれ者達が河原に集まって見世物小屋を開いたのが、我々役者の始まりだと説くのは唐十朗。家も子も親も流されて、辺り一面河原になる様な不条理を“ブンガク”も救いとらにゃ(掬いとらにゃ)ならんだろうと、改めて感じる次第なのです。
それが前回書いた「虚構にしか出来ない事」の一端ですよね。

…荷が重いったらないですわな〜。



公演情報(チラシより)↓

『晴れ。 時々 アザラシ』
ノアノオモチャバコmeets絵空箱企画

◎場所:パフォーミングギャラリー&カフェ「絵空箱」

◎日時:2011年6月24日(金)〜26日(日)
 24日(金) 19:30
☆25日(土) 15:00 / 19:00
 26日(日) 15:00 / 18:00

◎チケット:前売り・当日 2000円(ドリンク込)
 ※入場料の一部を東日本大震災義援金として日本赤十字社に寄付します。


※松下千暁が出演するのは☆マークのついた25日(土)の15時と19時の本編終了後アフターイベント2回だけです。
自分の時間くらいは責任とれる様に力を尽くします!  
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2011年03月19日

自分の分

今回の地震・津波・火災・原子力発電所のニュースに触れるたび、胸が締め付けられる思いだ。
地震から一週間が経ち、現地の被災された方々はもちろん、今なお多くの人が様々な不安を抱いている事だろう。僕もその一人です。

先ずは、この様な状況に冷静に対処する為の本を紹介しておきます。

『ダメ情報の見分けかた』


『ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために』
荻上チキ 飯田泰之 鈴木謙介 著(NHK出版 生活人新書)

著者たちがそれぞれの分野から〈メディア・リテラシー〉について論じている本です。
特に参考になるのは第一章の評論家・荻上チキ氏が〈デマ・流言・うわさ〉について書いている章。

荻上チキ氏の〈デマ・流言・うわさ〉の言葉の解説を抜粋します。
「まず、「デマ」は、「デマゴギズム」(煽動政治)という言葉があることからも分かるように、政治的意図や悪意に基づいて情報を捏造することを指します。「流言」は自然発生的に生まれた情報で、根拠のないままに広がっていく情報のことを指します。「うわさ」は「流言」に似ていますが、流言が「社会にとって好ましくない結果をもたらすもの」という意味を持つのに対し、「うわさ」は小さな集団内にとどまるものを指します。」


これらはあくまで便宜的なもので「厳密に区別することはとても難しい」と言います。
そして震災状況がまだまだ落ち着かない現状において、情報を取得、又その情報を広める側に立つ人達が押さえておかなくてはいけない点が書かれています。

「流言やデマの難しいところは、「最初に嘘をついた人」だけでなく、「騙されて信じた人」もまた、その流言のさらなる拡大に力を貸してしまう点にあります。誰もが情報発信できるウェブ上では、「メディアに騙されて損をする」心配だけでなく、「流言の加担者となって誰かに損をさせる」心配もまた必要になります。」


荻上チキ氏はTBSラジオの報道系番組『Dig』の木曜日パーソナリティを担当しており、番組内でも震災から生じたデマとその検証について報告していました。

自分が接した情報が「本物らしい」かどうかを判断するには、まず冷静になり、情報元への確認などの作業が不可欠です。その時間も能力も無い僕の様な情報素人は、うかつな情報の拡散には関わらない方が良いと思った次第です。判断を保留して情報の確度を高めた上で行動する方が、現場を混乱させず、誰かを救える事もあるのです。少なくとも僕の今の能力は、判断し、行動に移すには至らないものです。

ネット上でのデマと検証について荻上氏のブログで確認できます。

詳しくは荻上チキ氏の公式ブログ↓
『荻上式BLOG』http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/


一連の報道や出て来る情報、それに対しての反応を見る限り、今の僕に出来る事はそう多くないと感じています。
地震当日は家で家族と過ごしていて、地震後、刻一刻と報道される映像に眼を疑いました。特に忘れられないのは、津波が仙台の家や田畑や道路や車を巻き込みながら進んで行く中継映像です。編集されていない、今まさに進行している津波の様は、自分の無力と自然の不条理さに打ちのめされる長い長い時間でした。その後も被災された方々の撮影した映像や、現地からの報道映像を前に呆然とするばかりです。自分が今までかかわってきた“虚構を造る”意味が分からなくなる程の圧倒的な現実です。他の多くの“虚構”にかかわる人々も、この現実にどう立ち向かえば良いか分からない日々を過ごしているのではないだろうか?
荻上チキ氏はTBSラジオ『Dig』にて月曜日パーソナリティのカンニング竹山氏に言いました。「今は災害のプロ達が現地に入って救助を行っている。笑いのプロである竹山さんは、その後に必ず出番があるから、それに備えよう。」と。
“それぞれがそれぞれの立場で(能力に見合った)出来る事をやる”当たり前な事です。今、震災を前にした全ての人が“自分に出来る事”について考えていると思う。そこにはやはり、当たり前な事が広がっている。けれどそんな当たり前な事にプラスして、これからは明確に思い浮かぶ様になるのだろう。“届けたい人”や“守りたい人”の姿が。(単に仕事してたって、日本のGDPに貢献して被災された方々が生むはずだった価値を少しでも補填するんだから、がんばろう!)
そして、今まさに“虚構を造る”事にかかわっている人達にエールをおくりたい。圧倒的な現実を前にすると虚構が機能しなくなる時がある。それこそ虚しいものに感じてしまう時があるし、そう見られる事もある。それでも造る立場にあり、造る能力があるなら造り続けてほしい。虚構には虚構にしか出来ない事があるはずだから。(「お前に言われなくてもやってるよ」って悪態つくくらい元気であってほしい)僕もがんばります。

最後に、被災された方々にお見舞い申し上げます。
そして今、現地で救助にあたっている方々に、無力な僕は祈る様な気持ちで応援しています。  
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2010年12月14日

収穫祭的文章

今年も後わずかになりました。
年越しの前に、出演した公演についての考察をまとめておかなくてはいけませんね。

ハンザキ公演・伍ノ噺『広目の眼』、無事終了する事ができました。
劇場にお越し下さった方々にお礼申し上げます。

この公演に参加する前から、
デズモンド・モリス 著『マンウォッチング』を読んでいた事もあり、
“人間が知らず知らずに発してしまう信号”について考えながらの稽古を続けていました。
その結果が本番であり、このブログの前回の記事を書かせたわけです。

『マンウォッチング』と並んで前回の記事を書かせた要因として、
今の僕に影響を与えているのがこの本。
『ロボット演劇』

『ロボット演劇』(大阪大学出版会)
この本は、2008年11月に大阪大学構内で上演された、
『働く私』という演劇について紹介するものです。
これは情報としては古いものになりますが、
とても面白いお題を僕らに突きつけていると思います。

この『働く私』という演劇は、
二体のロボットと二人の人間の役者による20分くらいの短編だそうで、
戯曲と演出を平田オリザ氏が担当している。
発端は、㈱イーガー取締役会長の黒木一成氏から、
大阪大学大学院工学研究科教授の石黒造氏に、
「新しいロボットの産業に取り組みたい」という話から始まったプロジェクトで、
その後に大学に赴任してきた平田オリザ氏にロボットを使った演劇を依頼する、
というのが経緯であるらしい。

僕自身は実際の舞台を観ていなくて漏れ聞くぐらいだったが、
批評家・佐々木敦氏の『エクス・ポ』にて平田氏のインタビューを読んで興味をもった。

佐々木氏は紙上で
「例えば数年後に青年団の劇団員が大半ロボットになったりとか(笑)」
という、未来に俳優はロボットになるか?という問いを投げかけると平田氏は、
「100年後はそうでしょうね。理論的に言えば、取って代わられるのは間違いないんですよ。」
と答えている。
石黒造氏は『ロボット演劇』紙上において、
「平田先生は、将来、少なくとも役者の半分はロボットに置き換わると、大胆な意見を言う。」
と平田氏の言葉を伝えている。

これを読んだ方はどう思っただろうか?
『エクス・ポ』にて平田氏も、
「僕が生きている間は人間の方が優れた機能を持っている。」として、
今すぐ取って代わる話ではない事を語っているし、
100年も経てば自分は居ないのだから自分の問題ではないと思われるだろうか?
僕はもう少しこの問題を面白く受け取りたいと思う。

平田氏は面白い例題を僕らに提示してくれたのだ。
ロボットには心が無い。
なのに観客は、そのロボットに心があると感じ、涙を流す人も居たと言う。
演技に関わる俳優の半数が、“心を動かせるロボットになってもいい”という状況が、
すぐそこまで来ている今、
ロボットは何を担い、残った半数の生身の人間は何を担うのか?
これは“取って代わられるだろう未来”の話ではなく、
生身の我々に突きつけられる“今”の話なのだ。
少なくとも僕は、そう受け取る事にした。
(その方が面白いからだ)


僕はまず“ロボット演劇”からロボットが担う演劇での役割を考えた。
彼らはとにかく、その形を造る所から設定すれば、
どんな形にもなれるし、どんな機能をも持ち合わせる事ができる。
よって、広義の“身体性能”または“身体機能”について、
ロボットに並ぶ事ができる人間はいない。
そして、一度プログラムしてしまえば、動作を誤差無く何度でも繰り返す事ができる。
よって、“再現性”についてロボットに並ぶ事ができる人間はいない。

1:“身体性能・機能”=スペック
2:“再現性”

差し当たって、これらについては近い未来、ロボットが担当する事が解る。

演劇の稽古や、舞踏家・東丸さんと作品作りなどして踊りに関わっていると、
この二つが演者に要求される事の多くを占めているのが解る。
台詞を覚える事。動作を覚える事。速く動く事。力強く動く事。その為の身体づくり。etc…。
稽古と名がつく事の多くの時間は、この二つに費やされる。

しかしこれらはロボットにかなわないのだから、それだけに特化した演者は淘汰される。
生身である残りの演者は、それ以外を担当する者でなければならない。

そう。ここで初めて前回の記事の“生身である利点”について考える必要が出て来るのだ。

僕はとりあえずその利点について“未知のものに辿り着く能力”という言葉を与えたが、
その事が具体的に何を導くのか?

僕らが今回『広目の眼』にて、まず導きだしたのはありきたりの話だ。
「一人では辿り着けない所に、他者という存在がある事によって辿り着ける」
自分が思ってもいない事を相手が持って来る可能性があるという、至極当然な出来事に感動した。
そんなありきたりな話だ。
しかし、「未知のものに辿り着く」という事はそれだけに留まらない。
以前にも紹介した木村覚 著『未来のダンスを開発する』にて描かれる、
“失敗する(かもしれない)身体”も「未知のもの」に含まれるのだ。

ロボットは失敗しない。
失敗があったとすれば、それはロボットを造った人間か、
プログラミングした人間が起こした失敗だ。

人間は失敗する。
何千回、何万回と稽古したとしても、失敗する時は失敗する。
その可能性をいつも持っている。
それを利点と考えれば、それを組み込んだ演目を作ればいい。
例えば「失敗するかもしれないドキドキ感を観客と共有する演目」
『未来のダンスを開発する』にもいくつか紹介されている。

しかしそれを突き詰めて行くと、
“作品”というよりも限りなく“コミュニケーション”に近づいて行く。
というのが以前の僕が観た光景だったのだ。

この“作品”と“コミュニケーション”を分けたくなる思考は何なのか?とか、
分けたいと思うこの思考は古い思考による時代遅れなものなのか?とか、
東丸さんと音響家・寿島宅弥さんと出た現代美術系のコンペを通して考えていた事でもある。
これはこれで面白い問いを含んでいると思う。それはまた別の話…。

今回の『広目の眼』では“失敗する(かもしれない)身体”を抱えた、
生身の利点がもう一つ観えてきた。
ハンザキの生野くんが書いた『広目の眼』は二人芝居で、
互いが一枚向こうに相手に見せないものを抱えながら表層でやり取りをする脚本になっている。
だから一見するとコミュニケーションがうまくいっていない様に見えなくもない。
稽古に入る前から複雑な読みが必要な本だと思いながらも、実際稽古に入って、
こんなにも出演する者に危うい本だったとは思わなかった。
“うまくいってない”ものをうまく出来ないと、本当にヘタに見えるのだ!(笑)
だから前回の記事に書いた様に役者個人の生理が入る余地がない演技が必要だった。

観に来てくれた観客の中に生野くんの演技に不安を感じた人がいた。
それは生野くんの台詞の出し方が「フワッ」としていたからだと言う。
その不安は一見、「演技がうまくいってないんじゃないか?」という不安にも見える。
僕が思うに、それは脚本が描く、
「うまくいかないコミュニケーション」による所が大きいのではないだろうか。
一応、最後の方にうまくいかない理由が語られる箇所がある、
(脚本として成功かどうかは解らないが)ので、
“うまくいかない演技”のコントロールがうまく出来ていれば回収できる形にはなっている。
なので設計上は、“うまくいっていないんじゃないのかという不安”が、
良い意味で機能してくるはずなのだ。
(そこまで“うまく”僕らが出来たかどうかは…解りませんが(笑))
(否…、不安を不安として伝えてきたって事は…失敗したって事!?)

ここで重要なのは、“失敗する(かもしれない)身体”と向き合う事が観客に及ぼす影響を、
利用した脚本の形が他にもあり得るのではないか、という事。
これはロボットの俳優では得られない感覚だろう。
“生身の利点”を考えながら演技に関わっていくと言う事は、
そういう生々しいものに寄り添っていくと言う事なのだろう。
今は、そんな所だ。

まだまだ多くの事を含みながらそれを言葉に出来ないでいる。
今後も自分にとっての考えが進む事を望む。
今回の様な問いを抱きながら生きていく事ができるだろうと思うと嬉しいし、
これからが楽しみだ。

そんな年末!  
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2010年11月27日

『どこかへ行こう』とするヒューマニズム

生野和人くんの二人芝居劇団・ハンザキの公演
『広目の眼』の稽古も終盤であります。

稽古は基本的に二人しかいない場で、二人とも舞台に立つので、
稽古を観る人がいません。
なので僕は毎稽古を自主的に持参のビデオカメラで撮っています。

自分の演技を自分で観て、
自分でダメ出しをして、
自分で直した演技を実際に身体を動かしてやって、
自分で確認します。
セルフ演劇稽古?
(まぁ一応、主宰である生野くんもダメ出しはしてくれますが…)

しかし、この“自分で自分を観る稽古”なかなか勉強になります。
自分の無意識が見えるんですよね。
やった覚えの無い動きを発見できるんです。

当たり前の話ですが、
お芝居の中で生きている登場人物達は、意識的にも無意識的にも生きている。
それを演じる役者達は、その両方を意識的に演技しなきゃならない。
つまりは“無意識な動き”を意識して演技しなきゃならないわけで、
やっている役者自身の無意識な動きが入る余地など無いはずなんです。
お尻がカユいからって、野方図にかいたらダメって事です。
そこにはもう、“必要”なものしか無い。

平田オリザは「それ以外のものに見えなければ、それでいい」と言う。
まずは戯曲の意図しているものに見えていなければならない。
それが出来ているなら基本的には何をやってもいいと言うのだ。

セルフ演劇稽古を続けてきて思うのは、
そうは言っても「ちょっとした事でイメージは崩れる」と言う事。
少し首が動くだけで違うものに観えてしまう事が多々ある。
そう考えると、舞台上で可能な動きはそう多くない。

もちろんその舞台世界が、どのレベルにリアルを設定しているかで、
許容されるものは違ってくる。
お尻がカユそうな世界なら、役者の生理でかいたって、そこそこ許される。
(「お尻がカユそうな世界」って、どんな世界だ…?)

今回の舞台世界は基本的には書いた生野くんが設定している。
そう言う意味では、本番で描かれる世界は生野くんの許容範囲だ。
しかし、ハンザキの稽古は稽古以外に二人で話す時間も多い。
そこでは、ぜんぜん関係の無い話が展開される事の方が多いけれど、
大抵は稽古に続く助走時間。互いの感じた事を伝え合う。
僕も舞台世界のリアルレベル設定に荷担している。
今回は他の舞台に出ている時よりも演技に対する責任感が違うのだ。
だから自分で自分を演出する。

ふと思うのは「これは良い」「これはダメ」と、いつも判断しているのだけれど、
何を基準にして良い・悪いが決められているのか?
自分個人の判断も、二人で合意していく判断も。

「やってみた末に出てきた」としか言いようが無いものがある。
僕らは“最高なもの”や“最上なもの”を始めから知っているワケではない。
書き始めた生野くんは、ぼんやりと辿り着く先が観えたのかもしれないけれど、
その生野くんも思ってもいない“良いもの”が出てきている。
僕はここに舞台に立つ役者が“生身である利点”を見つける事が出来ると思う。

僕ら生身の身体は、“再現性”も“身体機能”も限界があり、はっきり言って使いづらい。
そんな使いづらい身体の利点を、ここ最近ずっと探している。
それは多くの身体表現する者が、お払い箱になる未来に、
きっと問われる能力だと思うからだ。

これを読んだ人達は、それぞれ何を見つけるだろうか?
今の所、僕が思いついたものに言葉を与えるなら…
それは“未知のものに辿り着く能力”かな。



ハンザキ公演『広目の眼』
2010年11月30日〜12月1日(二日間)

11/30・19:30〜
12/1・19:00〜

高田馬場 プロト・シアター
新宿高田馬場3-38-3
03-3368-0490


お暇でしたら観にきてください。  
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2010年11月03日

『広目の眼』

目(ネガ)


写真は僕が学生の頃に造った球体間接人形の目です。
人形の世界では、ガラス等で造る一品モノの目の方が価値がある様ですね。
僕が使ったのは市販されている出来合いのモノです。
それでも、それなりに思い入れが有って、
今も首だけ本棚の引き戸の中に飾っています。

人形全体の価値まで左右するのが目で、
それだけ人を魅了する重要な存在なんです。


さて、今月、久しぶりに自分で舞台に立ちます。
或る映画の撮影で意気投合した生野和人くんの主宰する、
ハンザキ”という所で、生野くんと二人芝居です。

今回、“目”が関係してくる話なんで、
人形の目を改めて写真に撮らせてもらった次第。

芝居は男二人だけですからムワッとするかもしれませんが、
興味がある人は是非、足をお運びください。


公演情報↓

ハンザキ
伍ノ噺『広目の眼』
日時:
11月30日19:30〜
12月1日19:00〜

料金:
980円

場所:
プロトシアター
新宿区高田馬場3ー38ー3
0333680490


僕に言ってくれればチケット取ります。
よろしくです。  
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2010年10月08日

失われた野性について

ヤモリ

あの暑かった夏の終わりに我が部屋にやって来た者がいる。
爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ属に分類されるトカゲ=ヤモリだ。
単4電池くらいの大きさで、自分が見てきたヤモリに比べると小さい様に思う。
今年、生まれたばかりだろうか?
夜な夜な床面を歩いている。

最初見た時は驚いたが、次第に情がわいてきて、
「今日はどこに居るのか?」と床に目をおとす事が多くなった。

そんな数日を過ごした後に、僕は奇跡的な場面に立ち会う事になる。

その夜、いつもの様にラジオを聴きながらベットに横たわっていると、
ベット下の床に小さなゴキ◯リが歩いているのが見えた。
退治する為に動こうとした瞬間、ゴキ◯リの後を何かが追いかけて来るのが見える。
何を隠そう噂のヤモリである。
彼は慎重に、そして時に大胆に、ゴキ◯リとの距離を詰めて行く。
そしてついに、電気コードのたるみで出来たどん詰まりにゴキ◯リを追い込み…
「パクッ」と、捕食する事に成功したのである。
ここには、ちょっとした感動があった。

僕がまだ小さかった頃、近所に爬虫類を飼っている友達がいて、
正直、何が楽しいのか解らなかったが、
爬虫類との同居が始まった今ならその一部を理解する事ができる。
爬虫類は可愛い!

「生きた虫を追いつめ、食べる爬虫類」
字にするとおぞましいのだが、
そのプロセスに爬虫類を愛でる快感があると知る。
それは普段人間が発動させる事が少なくなった“狩りについての暴力性”にあるのではないか。

ヤモリが捕食に成功した瞬間、自分の中の小さな暴力性が満足するのを感じた。
そこでは軽いシュミレーションが行われているのだ。
ゴキ◯リを追いつめるヤモリに自分を投影して、「パクッ」と食いついた瞬間に快感を覚える。
僕はあの時、狩りをするヤモリそのものになっていた。

そんな事があってから虫を見かけると、
「これは彼の餌になるだろうか?」なんて思ってしまう。
気がかりなのは、虫が少なくなっていくこれからの季節、
彼の生活は大丈夫なのかという事。
冬になると冬眠するとの事だから、それまでにできるだけ栄養をとっておいてほしい。
しかし、それだけの栄養が我が部屋にあるのだろうか?
見つけたら外に出してやった方が良いのだろうか?
ん〜、悩ましい秋です。  
Posted by hanarete1 at 02:03Comments(0)TrackBack(0)

2010年07月02日

送る日の事を想う

『献花』『旗日のダリア』2010

今月、僕がお世話になった舞踏集団の公演があります。

とりふね舞踏舎
『献花』『旗日のダリア』二本立
期日:2010年7月16日(金)・17日(土)
劇場:シアターΧ

詳しくは、とりふね舞踏舎のHPで↓
http://w01.tp1.jp/~a150397531/

『献花』は幾度か踊られている三上賀代さんのソロです。
今ここで再演する事の意味は色々あると思われます。
それを考えると胸がつまる想いです。

僕は冷静に観られるか解らないけれど、
見届けに行きたいと思っています。
これをご覧の方もお時間に余裕があれば是非。
素敵な公演になる事を祈っております。

その日は晴れると良いのだけれど。
  
Posted by hanarete1 at 08:46Comments(0)TrackBack(0)

2010年06月25日

自我、撮り

matusita02-1


最近の自分の写真が手元に無い事に気付き、自分で撮ってみた。
役者をやってくのに、そう言えば写真って、必要なんだったな。
リモートスイッチのコードがバッチリ見えてるけど、使えるのかな?

ん〜、恥ずかしい。自我が、恥ずかしい。
matusita03-1

恥ずかしい…けど、何か文句あるか!?
matusita01-1

今後ともよろしく。  
Posted by hanarete1 at 18:36Comments(6)TrackBack(0)