【日本人とこころ】東儀祐二と教育(上)クラシック牽引に雅楽の礎

 神尾真由子五嶋龍…世界で活躍する個性豊かな音楽家たち。その系譜をさかのぼると必ず名前が出てくるのが、東儀(とうぎ)祐二だ。教育者として日本のクラシック音楽を牽引(けんいん)し続けた祐二だが、その音楽家としてのスタートは意外にも、雅楽にあった。
 父親、正は京都府立大などで教鞭(きょうべん)を執る数学者だったが、東儀家は奈良時代からの雅楽の流れをくむ「天王寺楽所」につながる家系だったことから、祐二が小学校5年生のとき、宮内省からの要請を受けて故郷の京都から単身上京し、昭和16年に宮内省楽部に入る。楽部での専門は篳篥(ひちりき)で、神楽歌や舞なども学んだが、バイオリンと出合ったのも上京してからだった。  ※(写真):東儀祐二先生、昭和36年、産経会館でのリサイタル控え室で  産経新聞社 朝刊 主要ニュース 文化 【学術】 2010年02月28日 07:38:00 この記事は参考資料です。転載等は各自の責任で判断下さい。
 現代の日本では、3歳ごろからピアノやバイオリンを学ぶ子供も多いが、祐二はフランスのロン=ティボー国際コンクールや英国の音楽祭を視察したさいの経験から《わが国のバイオリンを始める年齢が異常なほどに早い》(バイオリン教育に関する考察)と、違和感を示している。実際、祐二がバイオリンを本格的に学んだのは、楽部に入った13才のころ。

 楽師には、皇居における洋楽演奏も課せられていたため、楽生たちはオーケストラを構成する楽器を学ぶ必要があった。当時、洋楽のレッスンには、イタリアからガエタノ・コメッリというプッチーニ最後の弟子も招聘(しょうへい)されていた。

 授業は厳しく、ピアノ教則本「バイエル」の練習の際は、硬貨を手の甲に乗せ、落とすと手をたたかれた。楽部の1学年下で、親しかった元NHK交響楽団主席ビオラ奏者の嶋田英康さん(81)は「けれど祐二君は器用で、よくご褒美のくるみをどっさりもらっていて、うらやましく思っていました」と話す。同じく1学年下で、のちに宮内庁楽部首席楽長までつとめた東儀俊美さん(80)は当時を「中には天才肌の人もいましたが祐二君は努力の人だったと思う」と振り返る。そこではプッチーニ最後の弟子という一流の芸術家のもとで、厳しく、そして誠実に、西洋音楽を学ぶ祐二の姿が見えてくる。

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 皇居の楽師たちが西洋音楽を演奏するようになったのは、日本に西洋音楽が輸入されて間もない明治7(1874)年のこと。「楽師たちが雅楽はもちろん日本の西洋音楽受容の先駆者になったと言えます」と、俊美さんは話す。9年の天長節には「欧州楽」が演奏されたと楽部には記録が残り、楽師が洋楽を学び始めてわずか約10年後の18年7月には「カルテットを演奏した」とある。37年には楽生の山井基清が東京音楽学校に入学、ドイツ留学も果たした。楽師たちは猛烈な勢いで洋楽を吸収していった。 

 明治3年から大正10年まで楽師として活躍した上真行(うえ・さねみち)は漢詩「音律由来彼我同 区々何必限東西 取他長所補吾短 始見洋々盈耳功」(音楽の由来は洋の東西を問う必要がない。互いの長所をとれば洋々とした音楽になる)と残し、自然に、積極的に西洋音楽を吸収し、音楽そのものを高めようとする楽人の心意気と気概を表している。

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 そんな歴史の延長線上で祐二は育ち、昭和21年には楽師になるが、やがて大きな転機を迎えることになる。

 宮内省楽部の定員が減ったことや、オーケストラの方がより高給だったことで、多くの仲間たちが、相次いで楽部を離れ、オーケストラに就職した。祐二も東宝交響楽団(現・東京交響楽団)に入ろうとしたが、先に入団していた先輩の山井清雄さん(87)に「音楽家は隊を組むことで満足したらだめだ」と諭されたのだった。山井さんは「当時のオケは、技術的に満足いく状態ではなかったから、もっと勉強をするべきだと思った」とその真意を語る。

 祐二はその言葉に従うかのように、故郷・京都に戻り、京都市立堀川高校音楽科に転入する。「生徒」として関西で学んだ祐二は、楽部での当時最高級の音楽教育を思いだして、ある種の違和感を覚えたに違いない。数年後に、妻になる幸に「関西には良い先生がいないから、僕が帰って良い先生になるんだ」と繰り返し言っていたという。

 おそらく祐二は、この時初めて教育者の必要性を感じていたのではないだろうか。やがてその思いは日増しに強くなっていく。(安田奈緒美

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 ■妻は夫の没後25年記念演奏会確かめ逝った

 祐二の妻、幸(さち)さんが昨秋79才で亡くなったのをしのび、2月7日、大阪・いずみホールで、「千里フィルハーモニア・大阪」による追悼演奏会が開かれた。

 千里フィルは、祐二が自らが住んだ大阪・千里ニュータウンに作ったプロとアマが集うオーケストラ。バイオリニストの幸さんもコンサートミストレスとして、常任指揮者だった祐二とコンビを組んだ。

 東京芸大で祐二の後輩だった幸さん。生前、祐二の第一印象を「なんだか怖い人だと思っていた」と語っていた。しかし2人は芸大オーケストラで共演を重ねるうちに親しくなり、幸さんが専攻科を修了するのを待って結婚、同時に関西に移って夫婦で後進の指導にあたった。

 幸さんは昨年10月11日、千里フィルが行った祐二没後25年の記念演奏会のインターネット中継を病室で見て、翌日亡くなった。夫婦の絆(きずな)の深さを物語り、長女の森島裕子さん(53)は「演奏会を楽しみにしていましたから。何かドラマみたいですね」とほほえむ。 

 幸さんの追悼演奏会では、2人の孫、阿部響子さん(22)もソリストとして登場した。現在、東京芸大で声楽を学ぶ響子さんに、周囲は祐二と幸さんのDNAを色濃く見る。本人も「祖父や祖母の話を聞くと、音楽に対する情熱、学び続ける姿勢に尊敬の念を抱きます」と引き継いだものを大切にする。ヘンデル『私を泣かせてください』などを、深い響きで叙情的に歌いあげ、「ソリストとして歌っているというより、祖父と祖母の残したオケの温かい響きと一体になった感じでした」と話した。

 千里フィルの滋味ある豊かな音色はプロにもまねできないものがある。今年10月11日にも、昨年から続く祐二没後25年記念演奏会シリーズを開く。

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【プロフィル】東儀祐二
 とうぎ・ゆうじ 昭和3年、京都生まれ。21年、宮内省楽部卒業。その後楽師として活動したのち22年に退官。京都市立堀川高校を経て29年、東京芸術大学卒業。2年間、東京フィルハーモニー交響楽団で第2バイオリン首席を務めるが31年3月に帰郷。以来、関西で後進の指導にあたり、相愛大学教授を務めた。教え子に小栗まち絵、店村眞積、澤和樹、若い世代では漆原朝子葉加瀬太郎五嶋みどりらがいる。60年4月没。