s-20170809幻の原爆ドーム
s-20170809樺太
s-20170809大空襲
s-20170809石井細菌部隊
s-20170816インパール


■NHKスペシャルの再放送予定です。
・本土空襲 全記録 8/16
2017年8月16日(水)午前0時10分〜0時59分(15日深夜)

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・731部隊の真実 〜エリート医学者と人体実験〜 8/17
2017年8月17日(木)午前1時00分〜1時49分(16日深夜)

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・樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇 8/18
2017年8月18日(金)午前1時25分〜2時08分(17日深夜)

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・戦慄の記録 インパール 8/26
2017年8月26日(土)午前0時50分〜2時03分(25日深夜)
http://www6.nhk.or.jp/special/rebroadcast/index.html …


モミーがいなくなった今年の夏の【NHKスペシャル】は、
積年の思いの丈が迸っているようです。
やれば出来るんだよね!
後世に残る出色の出来栄えのドキュメンタリー番組ばかりだわ。

本当に、
ここまで取材したなって思います。
メディア人であるという矜持を持って制作していただきたい!
これからも、これだけは、お願いしたいと思う。

それにしても、
これだけ力のある制作人を活用できなかったモミーは大バカだって!
モミーのバカ!!
ホンマにあいつはバカだと思います!!!

それにしても、
この矜持が、
NHK政治部の記者連中に10分の1でもあれば、
日本のニュースも変わるだろうにって思うわ。
特に、えらい権力を持ってるらしい岩田明子。
この女の御用ニュース、御用解説なんか見たくも聞きたくも無いよ。
岩田明子が出て来たらテレビぶっ壊したくなるもんな、マジで!

で、
「NHKスペシャル」の件で。


「なぜ特攻に学徒兵や少年兵が選ばれ、職業軍人が少ないのか。
『給料40円、50円の時代に、軍人を育てるのに千円、二千円を使っていたのだ。
そういう軍人を、どうして特攻で死なせることができるのかね』という元参謀の答え」
(保阪正康『昭和のかたち』

「昭和史のかたち」には他にも次のような記述がある。
広島では原爆投下の翌日に近在の旧制中学や高等女学校の生徒が広島入りを命じられ
遺体処理を行ってるがなぜか江田島海軍兵学校の生徒たちは免除された。
それについてさる海軍首脳部は「彼らは次代のエリートだ。そんな事はさせない」
と言い放ってる。

「そういえば死体には兵軍属が多い」
「確かに将校下士官は死んでいない」

ノンフィクション作家・保阪正康さんの言葉。
一番責任感を感じるのは、一番下の人なんですね。
国民、庶民、或いは戦闘隊に組み込まれた人たちです。
その人たちが最も、太平洋戦争ですね犠牲が多い。
ところが命令を出した人、命令を出したのを受けて、
それをさらに具体的な行動を指示した人、
このところの責任の方が、恐るべきほど日本は欠けている。
それは、ある意味で、私たちは悲しくなる。
こんなことをしてまで戦わされた、国民義勇兵、本土決戦というのは、何なのかと。
そういった資料を基に、この責任はどこにあるのか?
或いは、この史実として何を語り継ぐべきかというのは、やらなきゃいけないですよね。
本当は。


うん、
NHKの製作者が言いたかったこと、描きたかったことは。

命令を出した人、命令を出したのを受けて、それをさらに具体的な行動を指示した人、
このところの責任の方が、恐るべきほど日本は欠けている。

そう!
真の戦犯に責任を問うべきだと訴えている。
そして、そんな戦争好きな人物に騙されてはならないって思いとが、
根底に、そういう思い、気持ちが流れていて、
執念のような番組を作り上げたのではないかなって強く思う。


国を誤らせた責任はとらせよーぜ!


「補給は無理です」
「お前に大和魂はあるのかっ!」
「…」
もう死ぬほど愚かな日本人。
こんなの世界史を眺め回してもこんなバカな議論で戦争をしている国ない。
=ネットから=

本当に、
日本の軍隊ほど愚かな組織はないのかもしれない、…。
何も悪いことしてないのに、

上官がね、
何か言うと、
「お前に大和魂はあるのかっ!」ってね。
往復ビンタ!
それも毎日毎日で頬が腫れ上がった兵隊さんがいたんだと聞きました。

2,3日前にも書きましたが、
父が怒ってね、
「ここに来てる奴はみーんな命懸けで来ているのだ。
理不尽なことは止めーい!」
って怒鳴りつけたんだと、…。

それから父の居たところは、(父が目の届く範囲だとは思うけれど)
「お前に大和魂はあるのかっ!」ってことと、
往復ビンタ!は無くなったと、…。
父のバックに大隊長がいるから恐いわな、そら。

でもね、
そら、もう、びっくりするようなこと言ってたりしてね、
その、大隊長に意見したり忠告したりしてるんだわ。

「よくそれで、軍法会議にかけられなかったことやね?」
って、不思議に思ったので言ったりしたことあるんだけど、
「うん、そら、大丈夫や!」って自信満々だったけどね。

要するに、
大隊長と父とは馬が合ったんだと思いますね。



■【NHK・戦争証言 アーカイブス】全編の映像があります。
2009年7月25日[証言記録 兵士たちの戦争]
インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち 〜京都 陸軍第15師団〜

2008年7月28日[証言記録 兵士たちの戦争]
インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 〜新潟県・高田歩兵第58連隊〜

2007年8月20日[証言記録 兵士たちの戦争]
ビルマ 退却戦の悲闘 〜福井県・敦賀歩兵第119連隊〜

2008年10月26日[証言記録 兵士たちの戦争]
ビルマ濁流に散った敵中突破作戦 〜徳島県・歩兵第143連隊〜

太平洋戦争で、激しい戦闘が繰り広げられたかつてのビルマ。
太平洋戦争終盤、攻勢に転じた連合軍を前に、
日本軍は苦しい闘いを余儀なくされ、戦死者は16万人にのぼった。

その中でも、過酷な退却戦を強いられた徳島県の郷土部隊、歩兵第143連隊。
武器も食糧も補給されず、四方を連合軍に囲まれる中、決死の覚悟で、
連合軍の包囲網を突破しようとした。

「もう少しで味方の部隊に合流できる。」
そこに立ちふさがったのが、川幅が200メートルを超えるシッタン河。
雨季で増水した濁流に、多くの兵士たちが飲み込まれていった。

部隊が孤立したのは、いち早く撤退した日本軍司令部によって、
前線に置き去りにされたからである。

退路を断たれたうえに、追い討ちをかける事態も進む。
日本に味方していたビルマ軍が、連合軍側に寝返ったのだ。
第143連隊の将兵の証言から崩壊していくビルマ戦線の実態に迫る。
関連する地図
ビルマ (シンゼイワ盆地、ラングーン、モールメン、シッタン河)



    当  ブ  ロ  グ  へ  の
    皆 様 の ご 支 援 に 感 謝 致 し ま す! あ り が と う ご ざ い ま す!










  牟田口中将のお孫さん
  「父は祖父と違ってアンチ(戦争)だったが、
  (遺品を)捨ててはいけないという思いがあったのではないか。
  見たくはないが、捨ててはいけない」

  インパール作戦のドキュメンタリーを見てナニが憂鬱になるって、
  この日本軍みたいな意志決定機構が、
  今の日本にもほとんどそのまま残ってるってことなんだよなあ…

  インパール作戦がいかに無謀な戦争だったか。
  戦死者の6割が作戦中止後、撤退中に死亡。
  死者の半数は病死、餓死だった。
  8月15日のNスペ「戦慄の記録 インパール」より。

  NHKスペシャル「戦慄の記録インパール」を見ました。
  おびただしい犠牲と悲劇に言葉もありません。
  ただ、戦後72年をへて、90歳を超えた生存者の証言を提供したと共に、
  イギリスの記録や将校の供述、また戦後の録音による述懐等、
  貴重な歴史ドキュメントでした。この史実を伝えていかねば。

  「インパール作戦は、いかなる犠牲を払っても精神的価値として続ける意義があった」
  (ビルマ方面軍 中永太郎参謀長)
  牟田口司令官への取材対応は
  「『やったー、日本はやった』と景気よくやらないかんと、うそでもええと」
  (第15軍司令部元少尉)

  NHKスペシャル「戦慄の記録インパール」で、、
  参謀たちが語っていた「5000人殺せば取れるか」という言葉が、
  自軍の犠牲者だったということに衝撃を受けました。
  「兵隊の生命はその程度」という感覚が、
  戦後にどのように明らかにされ、検証されたのか…。
  司令官も大本営も誰もが責任を認めない。
  =以上 ネット=

  ホンマ、
  無能を頭に頂いたとき、
  悲劇がはじまるのだと!!!

  そして、
  最前線の歩兵部隊の兵隊さんを見放して、
  自分らはサッサと撤退していく。
  そして、後々、責任を問われない、…。
  (部隊が孤立したのは、いち早く撤退した日本軍司令部によって、
  前線に置き去りにされたからである。)



s-20170816インパール







音ズレなし!NHKスペシャル 170815 2017年8月15日 「全記録 インパール作戦」前半





音ズレなし!NHKスペシャル 170815 2017年8月15日 「全記録 インパール作戦」後半




音ズレなし! dailymotion. NHKスペシャル 2017.8.15 「全記録 インパール作戦」前半
音ズレなし! dailymotion. NHKスペシャル 2017.8.15 「全記録 インパール作戦」後半


■【NHKスペシャル】戦慄の記録 インパール【2017.08.15】
2017年8月15日(火) 午後7時30分〜8時43分
相手の戦力や兵站を軽視した無謀な戦いで甚大な死傷者を出し、旧日本軍の体質を象徴的に示したとされる「インパール作戦」。「援蒋ルート」の遮断を主目的とし、ミャンマー(当時ビルマ)からイギリス軍の拠点があったインド北東部のインパールの攻略を目指した日本軍は、この作戦で歴史的敗北を喫した。餓死・戦病死した日本兵の死屍累々が並んだ道が「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨な戦いの実態はどのようなものだったのか。これまでインドとミャンマーの国境地帯は戦後長く未踏の地だったが、今回、両政府との長年の交渉の末に現地取材が可能となった。さらに、新たに見つかった一次資料や作戦を指揮した将官の肉声テープなどから「陸軍史上最悪」とされる作戦の全貌が浮かび上がってきた。数々のスクープ映像と新資料、証言からなる「インパール作戦」の全記録は、決して忘却してはならない悲劇の記憶を、未来へと継承していく。
【語り】山根基世、小林勝也
【朗読】文学座
番組HP:http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170815


■【NHKスペシャル】戦慄の記録 インパール【2017.08.15】
書き起こし!


【語り】小林勝也:インドとミャンマーの国境地帯。川幅600メートルにも及ぶ大河と、2,000メートル級の山々が連なる。今から73年前、日本軍はこの険しい山岳地帯を越え、470キロを行軍するという、前代未聞の作戦を決行した。目指したのはインド北東部の町インパール。しかし、誰一人この地には辿り着けず、およそ約3万人が命を落としたという。太平洋戦争で、最も無謀といわれたインパール作戦である。日本と戦ったイギリス軍が撮影した、10時間を超えるフィルムが残されていた。3週間という短期決戦をもくろんだ作戦は数か月に及んだ。補給を度外視したため、兵士は密林の中で飢え病に倒れていった。

<インパール作戦での映像>

元日本兵Aさん:水を飲むでしょう。アメーバ赤痢で、1日か2日でみんな死んじゃう。

元日本兵Bさん:日本人同士で殺してさ、(一人でいると)肉切って食われてしまう。

【語り】小林勝也:兵士が戦いを強いられたのは、世界一といわれる豪雨地帯。飢えた兵士たちが生き倒れた道は、白骨街道と呼ばれた。敗走した兵士たちは、濁流の大河を渡れぬまま命を落としていった。

元日本兵Cさん:(仲間を)置きっ放して来ちゃってるからね、それが今一番寂しいんですよ。

【語り】小林勝也:戦場の現実を無視して、作戦を強行した陸軍の上層部。戦後、責任に向き合おうとはしていなかった。

<資料が保管されているイギリス・ケンブリッジの映像>

【語り】小林勝也:イギリスで発見された、インパール作戦に関する膨大な機密資料。終戦直後連合軍が、大本営の参謀現地軍の司令官ら、17人を尋問していたのである。自らを正当化していた。

第15軍司令官・牟田口廉也中将:戦況の潮目を変える最も有効な計画だと言う強い信念が私にはあった。

ビルマ方面部・中 永太郎参謀長(最終階級は陸軍中将):インパール作戦はいかなる犠牲を払っても、精神的価値として続ける意義があった。


【語り】小林勝也:新たな資料や兵士の証言から浮かび上がる、日本軍の実相。この地で無念の死を遂げた幾多の魂は、私たちに何を突きつけているのだろうか。

<戦慄の記録 インパール(タイトルの表示がされる)>

<ミャンマーの映像>

【語り】山根基世:インドシナ半島の西に位置するミャンマー。かつてはビルマと呼ばれていました。1944年に決行されたインパール作戦は、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点を攻略する計画でした。インドとミャンマーの国境地帯は、武装勢力が活動しているため、今も外国人の立ち入りが制限されています。今回私たちは特別な許可を得て、インパール作戦の全行程を初めて記録しました。

ミャンマーの現地の人・ラム ザ チンさん:これは日本軍の戦車のキャタピラーだ。雨の日に地面に置くと滑らずに歩けるんだ。

【語り】山根基世:73年前に日本軍が敗走した、インパールから150キロの地点。かつてはこうした道もありませんでした。周辺には、少数民族の村が点在しています。

ミャンマーの現地の人・ヒューズイテューシング ラオさん:日本兵は向こうの川を渡り、山を越えて、この村にきた。

【語り】山根基世:この付近では、イギリス軍の攻撃で1,000人の日本兵が死傷しました。

ミャンマーの現地の人・ぺウ カヌ カップさん:この辺りには、日本兵の霊がさまよっている。軍服を着た日本兵をよく見るが、近づくと消えてしまう。

【語り】山根基世:多くの村人が、日本兵が突然やって来た73年前の戦争を記憶していました。

<インパール作戦の資料>

【語り】小林勝也:インパール作戦はどれほど無謀な戦いだったのか。今回私たちは、インパール作戦で戦死した3万人のうち、1万3,577人分の戦没者名簿を入手した。そして、一人一人の死を場所や日時を特定して地図に示した。作戦は1944年3月に始まり、3週間でインパール攻略する計画だった。しかし日本軍は、イギリス軍の猛攻の前に、インパールに到達する事さえできなかった。多くの戦死者を出し、作戦が中止されたのは開始から4か月後の事だった。作戦中止後の死者を青で示す。
そのほとんどが、病死や餓死だった。撤退は中止から半年がたった、その年の12月になっても完了しなかった。戦死した兵士のうち、実に6割が作戦中止後の撤退中に亡くなるという、無残な戦いだった。陸軍史上類を見ないインパール作戦を決行したのは、牟田口廉也中将である。日中戦争のきっかけとなった、1937年の盧溝橋事件では、連隊長として戦闘を指揮するなど、強気の作戦指導で知られていた。牟田口中将の自宅から、大量の遺品が見つかった。陸軍時代に贈られた数々の勲章。今回、歴史の事実を検証してほしいと、牟田口中将の孫が初めて取材に応じた。

<牟田口中将の自宅から>

牟田口廉也中将の孫:(祖父と違い)父はアンチ(反戦争)でしたけども、歴史物として捨ててはいけないというか、思いがあったのではなかったでしょうかね。見たくないけれど、捨ててはいけない。

【語り】小林勝也:終戦から20年がたった1965年。牟田口中将が、インパール作戦について語った肉声が残されていた。

牟田口司令官:私の作戦発起の動機は「大東亜戦争に勝ちたい」と言う一念に他なりません。戦争全般の形勢が、各方面とも不振である当時の形勢に鑑み、作戦指導如何によっては、戦争全局面を好転させたいとの念願をもっていたからである。

<ビルマ侵攻の映像>

【語り】小林勝也:インパール作戦、それは極めて曖昧な意思決定をもとに、進められた計画だった。事の始まりは1942年1月。日本軍は、イギリス領ビルマに進攻し、全土を制圧。イギリス軍はインドに敗走する。

ラジオの音声?:皇軍、ついにラングーンを完全に制圧す。

【語り】小林勝也:勝利の余勢をかって、日本軍の最高統帥機関である大本営は、インド進攻を検討するもののすぐに保留する。

<ガダルカナル島の戦闘映像>

【語り】小林勝也:しかし戦況の悪化が、再び計画を浮上させる。1943年に入ると、太平洋でアメリカ軍に連敗。その後、戦線は急速に後退していった。そのころアジアでも、態勢を立て直したイギリス軍が、ビルマ奪還を目指し反撃に出ていた。1943年3月、大本営は、ビルマ防衛を固めるために、ビルマ方面軍を新設。河辺正三中将が司令官に就任する。着任前、河辺司令官は、首相の東條英機大将と会っていた。2人は陸軍大学校で同期の仲だった。河辺司令官の部下が語った音声テープ。東條首相は、太平洋戦線で悪化した戦局を、打開してほしいと告げていた。

<河辺司令官の部下が語った音声テープ>

ビルマ方面隊・片倉衷 高級参謀:今、ガ島(ガダルカナル島)、その他、みんな落ち目になっているから、せめてビルマで一旗揚げてくれ、というようなことを言われたんですよ。ほれで、そのことが頭に来ていて(インパール作戦を)出来たらやりたいと。

【語り】小林勝也:同じ時期牟田口中将が、ビルマ方面軍隷下の第15軍司令官に昇進。インパールへの進攻を強硬に主張するのである。

ビルマ方面隊・後 勝参謀:これ(インド侵攻)は大本営の希望だったということを、牟田口さんは耳にしたわけですね。何としてでも、大本営のご希望に沿うようにやってみようというような。それはもう牟田口さんが何としてもやりたいと。

【語り】小林勝也:軍の上層部が作戦に前のめりになる中で、反対意見はことごとく退けられていった。牟田口司令官の直属の部下、小畑信良参謀長は強硬に作戦に反対した。小畑参謀長の娘道子さん。「やらなくていい作戦だった」という父親の言葉を覚えている。

小畑信良参謀長の娘・道子さん:(父は)本当に一生懸命やったんです。

【語り】小林勝也:小畑参謀長が残していたアルバム。小畑参謀長は、陸軍の中でも数少ない兵站の専門家だった。兵站とは前線の部隊に食糧や弾薬を補給する任務のことである。小畑参謀長は兵站の観点から「作戦は実施すべきではない」と、牟田口司令官に進言した。しかし、牟田口司令官から「消極的だ」と叱責され、就任から僅か1か月半で更迭されたのである。

<小畑参謀長が残していたアルバムから>

小畑参謀長が残していたアルバムの中の言葉:「第15軍参謀長としてビルマに赴任するも、牟田口軍司令官と、作戦上の見解が異なり左遷させられビルマを去った」

【語り】小林勝也:牟田口司令官が作戦を遂行するために頼ったのが、ビルマ方面軍の河辺司令官だった。2人は盧溝橋事件の際に、上司と部下の間柄だった。河辺司令官は「牟田口に作戦をやらせてやりたい」と語るようになる。東條首相の意も受けていた河辺司令官は作戦を認可。南方軍の寺内総司令官も同調していった。しかし、このころ大本営ではビルマ防衛に徹するべきだとして、作戦実行に消極的な声も多くなっていた。大本営の杉山参謀総長が、作戦を最終的に認可した理由が、作戦部長の手記に書き残されていた。

<作戦部長の手記>

眞田穣一郎少将手記:「杉山(参謀)総長が、「寺内さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ」と、切に私に翻意を促された。結局杉山総長の人情論に負けたのだから」

【語り】小林勝也:大本営の参謀たちによる数々の押印。1944年1月7日インパール作戦は認可された。冷静な分析よりも、組織内の人間関係が優先されたのである。

<ミャンマー中部の都市メイミョーの映像>

【語り】山根基世:ミャンマー中部の都市メイミョー。牟田口司令官は、ここに第15軍の司令部を置きました。司令部は当時のまま残されています。今回内部の撮影が初めて許されました。

<残されていた旧第15連司令部の建物の映像>

【語り】山根基世:1944年2月、作戦開始の1か月前に、陸軍経理学校を卒業したばかりの、一人の若者が配属されました。23歳の齋藤博圀少尉。牟田口司令官に仕えました。今回、現地で綴っていた日誌や回想録が見つかりました。司令部内の一挙一動を知る事ができる、貴重な記録です。

齋藤博圀少尉の日誌や回想録より:「牟田口中将は、平生 盧溝橋事件は私が始めた。大東亜戦争は私が結末をつけるのが、私の責任だ。将校官舎の昼食時によく訓示されました」

【語り】山根基世:当時の司令部の映像です。作戦を検討する参謀たち。牟田口司令官と同じように、反対意見を封じていく様を、齋藤少尉は記録しています。

齋藤博圀少尉の回想録より:「経理部長さえも「補給はまったく不可能」と明言しました。全員が大声で「大和魂はあるのか」と怒鳴りつけ、従うしかない状況だった」

【語り】山根基世:インパール作戦は、雨期の到来を避けるために3週間の短期決戦を想定していました。第15軍に編成された3つの師団を中心に、9万の将兵によって実行されました。南から第33師団、中央から第15師団が、インパールへ。北の第31師団はインパールを孤立させるため、北部の都市コヒマの攻略を目指しました。大河と山を越え、最大470キロを踏破する前例のない作戦でした。
日本軍が駐屯していた川沿いの村です。作戦開始前の兵士の姿を、村人が記憶していました。

村人・ティン チーさん:ジローという若い兵士は面白い人で、私たち子どもに、とても人気があった。ニワトリというビルマ語が分からず、必死にまねをするので大笑いでした。

【語り】山根基世:短期決戦を期した日本兵は、3週間分の食糧しか持たされていませんでした。

村人・タン テンさん:戦争に時に使った日本のお金だよ。

【語り】山根基世:兵士たちが軍票を配って食糧を調達していた姿を、村の人たちは覚えています。

村人・ドー テーさん:日本兵が各家に来て牛を連れて行った。大切な牛は返ってこず、途方に暮れた。

【語り】山根基世:牟田口司令官は荷物の運搬と、食用のために牛を集めさせました。更に、敵から食糧や武器を奪えと命令したのです。

牟田口司令官:食糧そのものが、歩いてくれるものが欲しいと思いまして、私、各師団に一万頭ずつ羊とヤギと牛を携行させてやったのでございます。補給が至難なる作戦においては特に糧秣、弾薬、兵器等、いわゆる”敵の糧による”が絶対に必要である。放胆な作戦であればあるほど危険はつきものである。

<インパール作戦敢行された時の想像を絶する映像>

【語り】山根基世:1944年3月8日インパール作戦は敢行されます。兵士たちの前に、川幅最長600メートルに及ぶ、チンドウィン河が立ちはだかります。兵士たちが夜間に川を渡ろうとした渡河地点です。イギリス軍の空襲を避けるための、夜間の渡河。集めた牛は、その半数が流されたといいます。川を渡った兵士たちの目の前にあったのは、標高2,000メートルを超える山が幾重にも連なるアラカン山系です。山越えする、当時の日本軍を撮影したニュース映像です。車が走れる道はほとんどないため、トラックや大砲は解体して持ち運ぶしかありませんでした。山砲隊に属していた山田直夫さん、崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだったといいます。

山砲隊元上等兵・山田直夫さん:まー大体、馬の背中へ積むわけですけんな、ほして大砲としては小さい方ですけんな、んまーその全部分解してしもうてですな、ほで馬の背中へ、4頭ぐらいに積めると思った。こんな急なところを、道を行くわけですけんな、ほたら馬が今度踏み外してですな、それでもう崖から転落したりして、…。

【語り】山根基世:インパールまで150キロ地点の山岳地帯の村。作戦開始から1週間後日本軍は、この村に到達しました。日本兵はここでも食糧を調達しようとしていました。

村人・ルイ ファオさん:何でもいいので食糧を集めて前線に送ってくれと言われた。しかし、数千人の食糧を賄えるはずがないじゃないか。

【語り】山根基世:大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たち。戦いを前に消耗していきました。作戦開始から2週間。インパールまで直線距離110キロのこの一帯で、日本軍とイギリス軍の、最初の大規模な戦闘が起きました。南からインパールを目指した、第33師団です。激戦を物語る場所に、村人が連れていってくれました。日本軍の戦車と見られる残骸。ここで、第33師団は、イギリス軍の戦車砲や機関銃を浴び、1,000人以上の死傷者を出す大敗北を喫しました。ここでは今も、日本兵の遺骨が見つかっています。

村人・タン ション ハンさん:5人の日本兵の遺骨がでた、この辺に2人、向こうに3人、多くの日本兵がここで亡くなったと、父から聞いていた。

【語り】山根基世:部下1,000人の死傷者を出した第33師団の柳田元三師団長です。インパールを、予定通り3週間で攻略するのは不可能だとしました。牟田口司令官に作戦の変更を強く進言しました。

柳田元三師団長から牟田口司令官への電報:「いまだ敵拠点を占領するに至らず、突撃隊を玉砕に瀕せしめた、至急適切なる対策を講ずるの要ありと認め、忍びがたきを忍びてあえて具申す」

【語り】山根基世:牟田口司令官のもとには、ほかの師団からも作戦の変更を求める訴えが、相次ぎました。司令部にはいつも、牟田口司令官の怒号が響いていたといいます。牟田口司令官に仕えていた齋藤少尉の記録です。

(第15軍司令部)齋藤博圀少尉の回想録より:「師団長と牟田口司令官とのけんかのやりとりが続いた」「司令官は”善処しろとは何事かバカヤロウ”の応答だった」

【語り】山根基世:齋藤少尉は牟田口司令官と参謀との間で、頻繁に語られていたある言葉を記録していました。

(第15軍司令部)齋藤博圀少尉の回想録より:「牟田口司令官から作戦参謀に”どれぐらいの損害が出るか”と質問があり、”ハイ、5,000人殺せばとれると思います”と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から”何千人殺せばどこがとれる”という言葉をよく耳にした」

<イギリスなど連合軍が、インパール作戦に関わった日本軍の指導者から、その内実をひそかに聞き取っていた。対象は司令官や幕僚17人に及んでいた。>

【語り】小林勝也:兵站を度外視したインパール作戦。それは敵国イギリス軍の戦力を軽視した戦いでもあった。今回、この作戦を検証した膨大な資料が、イギリスに残されている事が分かった。終戦直後、イギリスなど連合軍が、インパール作戦に関わった日本軍の指導者から、その内実をひそかに聞き取っていたのだ。その対象は、司令官や幕僚17人に及んでいた。この中で、インパール作戦の勝敗の鍵を握った、ある戦いについて細かく聞き取られていた。北から進攻した第31師団、1万7,000人がイギリス軍側と激突したコヒマの戦いである。
コヒマの戦いについての牟田口司令官の調書。

牟田口司令官の調書:「インド国内の連合軍の軍事力に関して、一定の情報を収集していたが、得られた正確な数字を覚えていない。コヒマを取ることによって、インパールの敵軍に圧力をかけられ、その攻略ができると考えていた」

<「緬印戰線」大本営によるインパール作戦の当時の映像?>

例によって大本営発表:敵イギリス第4軍主力をインパール盆地に追い込み、ジリジリと包囲環を締め上げている皇軍。

【語り】小林勝也:作戦開始から丁度3週間。第31師団の一大隊が、ついにコヒマに到達する。しかし、イギリス軍の戦力は、太平洋戦争の緒戦でビルマから敗走した時から一変していた。イギリス軍が、撮影していたインパール作戦にまつわる、10時間を超える映像が残されていた。短期決戦を期した日本軍に対し、イギリス軍は航空機による補給で、持久戦に持ち込む作戦を周到に立てていた。武器や食糧医薬品など、1日250トンもの物資を、前線に投下できる態勢を整えていたのである。コヒマに攻め込んだ第31師団の、佐藤幸徳師団長の調書。コヒマに至った時点で、戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言している。

第31師団・佐藤幸徳師団長の調書:コヒマに到着するまでに、補給されていた食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。

【語り】山根基世:第31師団が、イギリス軍と激突したインド・コヒマです。日本軍に協力したという、少数民族の男性が、日本の歌を覚えていました。

コヒマ現地の人・プコホ ロヌフさん:123、白地に赤く日の丸染めて♪、ああうつくしや、日本の旗は♪

<コヒマからインパールへとつながる三差路での闘いの映像>

【語り】山根基世:コヒマからインパールへとつながる三差路。ここでの戦いを記録した映像です。イギリス軍は、三差路を見下ろす丘の上に強固な陣地を築き、突撃を繰り返す日本軍を火力で圧倒しました。3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えました。

英 第14軍 第2師団 元一等兵・ジョン スキーさん:私は40人を殺しました。大げさを言っているわけではありません。我々には極めて強力な武器がありました。

<コヒマの戦いに参加した兵隊さんの述懐>

【語り】山根基世:コヒマの戦いに参加した元少尉平山良映さんです。部下に突撃命令を下しました。

第31師団 第58連隊 元少尉・平山良映さん:これ(突撃)に失敗するとそこで死ぬんです。と言いながら、お前ここから登って、あそこの爆弾投げてこい、その中から俺は生き残った。うん、…。一番悪い方だ。

【語り】山根基世:武器弾薬が不足する中で、兵士が命じられたのは肉薄攻撃。爆薬を抱えたまま、敵の戦車に飛び込むという、命懸けの攻撃でした。

山砲隊元上等兵・山田直夫さん:肉薄攻撃というのは行けというたらもう、死ぬのがわかっとって行くんですけんな。まぁー…、もう9.9分まで死ぬのが分かとって、行けと言ったら、もうこれは行かないかんわけです。

【語り】山根基世:山田直夫さんが突撃する直前で、命令は中止されました。先に肉薄攻撃をした10人の戦友は、全員命を落としました。突然戦場となった町。現地の人々は、私たちも大変な目に遭ったと、口々に話しました。

<被害にあったコヒマの人びと>

コヒマの人・ダニエル キキさん:そらから爆弾が降ってくるなんて思いもしませんでした。仲間が死んでいき、村は悲しみにくれるしかありませんでした。

<コヒマでの戦いは日本では華々しく報道されていた>

【語り】山根基世:太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは、日本では華々しく報道されました。インパールから遠く離れた、メイミョーで指揮をとっていた牟田口司令官。司令部には、新聞社の記者が詰めていました。牟田口司令官への取材対応を取りしきっていた、元少尉の山教興さんです。

第15軍司令部元少尉・山教興さん:朝日(新聞)とか、毎日(新聞)とかいう、そういう大きく、あのーやるとことは、非常にいいお話をする。とにかく国の人たちが、「おー、やったー、日本はやった」と、こういう景気よくやらないかんと。でも、…、うそでもええと!。

【語り】小林勝也:日本軍の、最高統帥機関大本営は、戦場の現実を顧みる事なく、一度始めた作戦の継続に固執していた。イギリスに残されていた、東條英機大将の元秘書官の証言。現地で戦況を視察した大本営の秦中将が、東條大将に報告した時の様子を語っていた。

(陸軍省軍事課長・西浦遵大佐の証言より)参謀次長・秦彦三郎中将:「報告を開始した秦中将は、「インパール作戦が成功する公算は極めて低い」と語った」「東條大将は即座に彼の発言を制止し、話題を変えた」「わずかにしらけた空気が会議室内に流れた」「秦中将は報告を半分ほどで終えた」

【語り】小林勝也:この翌日東條大将は天皇への上奏で、現実を覆い隠す。

上奏文:「現況においては辛うじて常続補給をなし得る状況。剛毅不屈、万策を尽くして、既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」

【語り】小林勝也:インパール作戦に関わった現地軍の参謀は、その後の陸軍の空気をこう語っている。

ビルマ方面隊・後 勝参謀:(たとえ)牟田口さんが、(作戦を)もう止めたいと思ってもやめられない。方面軍司令部としてもやめようと思っても、やめられない状態が起こったわけです。もう(作戦の)変更の余地ないわけです。どんな犠牲を払っても、ええちゅうんですから、極端に言えば全滅してもいいから取れという雰囲気。これでもう、インパールの運命は勝負ありになったわけです。

【語り】山根基世:作戦開始から2ヶ月が経過した1944年5月上旬。牟田口司令官は苦戦の原因は、現場の指揮官にあるとして、3人の師団長を次々と更迭していきます。作戦中に、全ての師団長を更迭するという、異常な事態でした。国境近くに司令部を移した牟田口司令官。その跡地です。ここにあった野戦病院は、前線で傷ついた兵士たちで溢れていました。牟田口司令官に仕えていた、齋藤博圀少尉は、司令官の異様な姿も記録しています。

(第15軍司令部)齋藤博圀少尉の回想録より:「私たちの朝は道路上の兵隊の仕分けから始まります。司令部では毎朝牟田口司令官の戦勝祈願の祝詞から始まります」「”インパールを落とさせ賜え”の神がかりでした」

<インパールまで15キロでの第33師団>

【語り】山根基世:更に、牟田口司令官は自ら最前線に赴きます。南からインパールを目指した第33師団で、陣頭指揮をとったのです。

牟田口司令官の調書:「全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画を立てたのである」

【語り】山根基世:しかし、牟田口司令官の作戦指導は、イギリス軍の思惑どおりでした。ビルマ奪還に当たっていたイギリス軍のスリム司令官の証言が残されていました。

英 第14軍・ウィリアム スリム司令官:我々は、日本の補給線が脆弱になったところで叩くと決めていた。敵が雨期までにインパールを占拠できなければ、補給物資を一切得られなくなることは計算し尽していた。

【語り】山根基世:インパールまで15キロ、第33師団は、この丘の上に陣取ったイギリス軍を、突破しようとしました。日本兵の多くの血が流れた事から「レッドヒル」と呼ばれています。作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていませんでした。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め「100メートルでも前に進め」と、総突撃を指示し続けたのです。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たち。一週間あまりで少なくとも、800人が命を落としました。

現地の住人・ケイシャム バディーさん:日本兵は木や竹を叩いて、ダダダダダッ、機関銃のような音を作っていた。その音によってイギリス軍に多くの兵士がいるように見せかけていた。

現地の住人・クオレム ゴロモホンさん:丘の上のイギリス軍を目指して日本兵は麓から頂上へ突撃して行った。

現地の住人のみなさん:これは銃の引き金だよ。

現地の住人のみなさん:日本の遺族が来たときに、遺品を渡せるように大事に取ってあるんだ。

【語り】山根基世:血と土がこびりついた戦陣日誌が見つかりました。書いたのはここで戦死した、山川政徳准尉・28歳。兵士の功績や、戦死した時の状況を記録する任務に就いていました。砲弾を受け「クヤシイ」といいつつ戦死す。負傷後「誰か来てくれ」と呼ぶ。仲間の所に赴き、二人同壕中にて戦士す。

第33師団 第214連隊 元兵長・高雄市郎さん:最後にひと暴れしておしまいになっていく、いわゆる玉砕だな。一つの統制のとれたあれじゃなく、何かむちゃくちゃっていうような感じを受けたね。最後の頃は、むちゃだと。

第33師団 第214連隊 元軍曹・鈴木公さん:かわいそうだっつうか、なんていうか、「天皇陛下万歳」って言う人は少ないですから、「天皇陛下万歳」えー。たいがい、お母さんの名前。お母さんいない人は、お父さんの名前を呼んで死んで行きますね。えぇー。

【語り】山根基世:牟田口司令官の指揮の下レッドヒルに突撃した、元上等兵・小口和ニさん。

第33師団 第214連隊 元上等兵・小口和ニさん:おい、元気か?おー、俺は元気でやってるぜ。うん。お前を、毎日、思い出してるから死んだなんて思ってないよ。生きてると思ってるから。インパール戦死、イシダタダシ、ヨシノコウイチ、イシハラヒロシ、…。

【語り】山根基世:小口さんの部隊で生き残ったのは40人余り。460人が戦死しました。

第33師団 第214連隊 元上等兵・小口和ニさん:あの顔が、もう痛〜い痛〜いって、顔が忘れられません。「おい、小口やられた」って、言って、…、やっぱり思いだしちゃって涙がでますね。

<1944年6月インパール作戦開始から3カ月・雨期に入った>

【語り】小林勝也:1944年6月、インドビルマ国境地帯は、日本軍が恐れていた雨期に入っていた。この地方の降水量は世界一といわれている。当時の降水量のデータを解析すると、その前のひとつきの降水量は、既に1,000ミリを超えていた事が分かった。30年に一度の大雨が降った。戦死した兵士を示した地図だ。3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月。1万人近くが命を落としていたと見られる。司令官たちはそれでも作戦中止を判断しなかった。6月5日、牟田口司令官の元に、ビルマ方面軍の河辺司令官が訪れた。お互い作戦の続行は厳しいと感じながら、その場しのぎの会話に終始した。

連合軍の調書から:「私は作戦が成功するかどうかは疑わしいと、包み隠さず報告したいと言う突然の衝動を覚えたが、私の良識が、そのような重大な報告しょうとする私自身を制止した」「私たちは互いに胸の内を伝えず、作戦の成功へ向かうために、必死に努力するよう励まし合った」「なぜならば、任務の遂行が軍の絶対原理だったからである」

【語り】小林勝也:2人が作戦中止の判断を避けたあとも、戦死者は更に増えていった。大本営が、作戦中止をようやく決定したのは7月1日。開始から4か月が経っていた。インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。青は、作戦中止後に亡くなった人を示す。実に、戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていくのである。

<レッドヒル一帯の戦いで敗北した第33師団の悲惨>

【語り】山根基世:レッドヒル一帯の戦いで敗北した、第33師団。激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされました。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路。イギリス軍の追撃は、その間も執拗に続きました。第33師団の撤退路の一つです。兵士は次々に倒れ、日本兵の死体が積み重なっていきました。

現地の住人・ゴー ヌアンさん:みんなひどい下痢で歩けなかった。葉っぱでお尻を拭いてあげた。世話をしている兵士が毎日死ぬので、とても恐かった。

【語り】山根基世:撤退中の第33師団を捉えた、イギリス軍の映像が見つかりました。腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ。凄惨な光景は、イギリス軍の兵士の記憶にも、焼き付いていました。

英軍 第14軍 第254戦車旅団 元一等兵・マルコム コノリーさん:数え切れないほどの日本兵が自殺を図って、崖へ飛び込み死んでいきました。あのたくさんの遺体は、長い間放置されたに違いありません。

【語り】山根基世:撤退中に、イギリス軍の追撃で足に大けがを負った持田菊太郎さん。戦友を置き去りにせざるを得なかったと明かしました。

第33師団通信隊元上等兵・持田菊太郎さん:「一緒に連れて行ってくれ」と言ったわけですよ。「ああいいよ」って言って簡単に言ったんだけども、5m歩きゃ休み、これじゃね、こっちがとても持たないから、「だから、悪いけどよ、俺たちはまだ、こっちにね…」。悪いことしたな、申しわけなかったって、もう本当にね、いつもね、…。

【語り】山根基世:自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を白骨街道と呼びました。雨が遺体の腐敗を進め、10日ほどで骨にしたといいます。作戦中止後、牟田口司令官は、兵士たちに先駆けて現場を離脱します。そして、その任を解かれ帰国しました。
牟田口司令官に仕え「味方5,000人を殺せば陣地をとれる」という言葉を記録していた、第15軍司令部齋藤博圀少尉。前線でマラリアに罹り、置き去りにされました。

(第15軍司令部)齋藤博圀少尉の日誌より:密林中に雨はやまぬ。喘ぎ喘ぎ10m歩いては休む。20m行っては転がるように座る。道端の死体が、俺の行く末を暗示する。

【語り】山根基世:雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えていきました。死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで、命を奪われていたのです。一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団。後方の村に、食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退しました。しかしようやくたどりついた村に、食糧はありませんでした。

現地の住人・フリングさん:この村では多くの日本兵が亡くなった。至るところに遺体があった。この村だけでも200人以上の日本兵が死んだ。

【語り】山根基世:分隊長だった佐藤哲雄さんは、隊員たちと山中を彷徨いました。密林に生息する猛獣が、弱った兵士たちを襲うのを、何度も目にしました。

第31師団 第58連隊 元軍曹・佐藤哲雄さん:(インドヒョウが)人間を食うてるとこはあるよ。見たことあったですよ。2回も3回も見ることあったんです。ハゲタカもそうだよ。転ばないうちは、人間が立って歩いてるうちは、ハゲタカもかかってこねぇけども、転んでしまえばダメだ、いきなり飛びついてくる。

【語り】山根基世:衛生隊にいた望月耕一さんが、戦場から持ち帰った飯ごうです。武器は捨てても、煮炊きのできる飯ごうを手放す兵士は、一人もいませんでした。望月さんは戦場で目にしたものを絵にしてきました。最も多く描いたのが、飢えた仲間たちの姿でした。

第31師団 衛生隊 元上等兵・望月耕一さん:(一人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。日本同士でんね、殺してさ、その肉をもって物々交換とか、それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本兵がね。友軍の肉を切ってとって物々交換したり、売り行ったりね、そんな軍隊だった。それがインパール戦だ。

【語り】山根基世:作戦開始時に渡ったチンドウィン河。この河のほとりに、死者の3割が集中していた事が分かりました。白骨街道をようやく抜けた先に立ちはだかった濁流。兵士たちは、ここで力尽きたのです。

第31師団 衛生隊 元上等兵・望月耕一さん:雨どんどん降るで、(川の)幅があるんだよ。そんなの渡れるわけない。体が浮いちゃうからね。焦るんだ、やっぱり、何もないから、食べ物もないし、船もない、いつ渡れるかわからない。ただ、これじゃ、死を待つだけだから、…。

【語り】山根基世:チンドウィン河にたどりついた山砲隊の山田直夫さん。病死と記された、戦友の一人を指してその最期を語りました。

山砲隊元上等兵・山田直夫さん:これは病死ですな、病死やな。病死や言うたら病死かもしれんけど、自殺みたいなもんよ。剣を心臓にぶち込んだ。ぶち込む力はなかったけどな。剣を上向けといてな、自分の体を上に乗せたんよ。もう、あっと言う間じゃったわな。これはわしも、実際のことは絶対話さなんだんよ。お母さんがおったけんな。かわいそうだけんな。病気で死んだぐらいしか言わなんだ。

【語り】山根基世:前線に置き去りにされた齋藤博圀さん、チンドウィン河の近くで、死のふちを彷徨っていました。

(第15軍司令部)齋藤博圀少尉:「7月26日。死ねば往来する兵がすぐ裸にして、一切の装具を褌に至る迄、剥いで持っていってしまう。修羅場である。生きんがためには皇軍同志もない。死体さえも食えば腹がはるんだと兵が言う」。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に、最後の乾パン一食分と、小銃弾、手榴弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしょう。

【語り】山根基世:一体何人が、この川を渡る事ができたのか。国の公式の戦史にも、その記録はありません。

【語り】小林勝也:太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万。傷病者はおよそ4万ともいわれている。この事実と軍の上層部は、戦後、どう向き合ったのか?

<牟田口廉也司令官の回想録>

【語り】小林勝也:牟田口廉也司令官が残していた回想録。そこには「インパール作戦は上司の指示だった」と綴られていた。一方、日本軍の最高統帥機関大本営。インパール作戦を認可した大陸指には、大本営上級幹部の数々の押印がある。その一人、大本営服部卓四郎作戦課長。イギリスの尋問を受けた際こう問われている。

イギリス側の尋問:日本のどのセクションがインパール作戦を計画をした責任を引き受けるのか?

大本営・服部卓四郎作戦課長:インド侵攻という点では、大本営はどの時点であれ、一度もいかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、そして第15軍の責任範囲の拡大である。

【語り】小林勝也:牟田口司令官の遺品の中に一冊の古い洋書があった。著者はインド国境で戦った、イギリス軍の、アーサー・バーカー元中佐。晩年2人は手紙をやり取りしていた。牟田口司令官は、バーカー中佐が自らの作戦を、評価してくれていると感じた。70歳を過ぎた牟田口司令官は、国会図書館に赴き作戦の正当性を記録に残した。

牟田口廉也司令官:終戦後、19年間私は苦しみ抜いて日本国内で、「牟田口の馬鹿野郎、馬鹿野郎」と、すべての雑誌でも、戦記ものでも、叩かれておったんですが、それをバーカー、私は神のお告げではないか、と、いうぐらいにこのバーカーの手紙を喜びました。私ども戦争当事者として作戦の方針ならびに指導なりが時宜に的中していたことは、事実に薇して証拠立てられた場合、その喜びはいかなるものであるかをお察し願いたい。

<(第15軍司令部)齋藤博圀少尉の入院先>

【語り】小林勝也:1966年牟田口廉也司令官は77歳でこの世を去った。牟田口司令官に仕え、味方5,000人を殺せば陣地がとれるという会話を記録していた、齋藤博圀少尉。敗戦後連合軍の捕虜となり、1946年に帰国した。その後結婚し、家族に恵まれたが戦争について語る事はなかった。

(第15軍司令部)齋藤博圀少尉・ご本人:よく見つけたなぁ、あんまり見たくないね。あんまりね。あぁ〜、インパール、…。

【語り】小林勝也:73年前23歳だった齋藤博圀少尉は、死線を彷徨いながら戦慄の記録を、書き続けた。

齋藤博圀少尉の日誌より:「片足を泥中に突っ込んだまま力尽きて死んでいる者」
「水を飲まんとして水に打たれている死体」
「そういえば死体には兵軍属が多い」
「確かに将校下士官は死んでいない」

(第15軍司令部)齋藤博圀少尉・ご本人:日本の軍人がこれだけ死ねば、(敵陣が)とれる。自分たちが計画した戦が成功した。だから、日本の軍隊の上層部が、うーん、悔しいけれど、兵隊に対する考えは、そんなもんです。だから、(その内実を)知っちゃったら辛いです。

生き残りたる悲しみは、
死んでいった者への哀悼以上に、
深く寂しい。

国家の指導者層の理念に疑いを抱く、
望みなき戦を戦う、
世にこれほどの悲惨事があろうか、。。。


<エンドロール>

全73分、書き起こし終わりました。
これは、私にとって、後々、すごい資料になるかもしれない。
以上、オシマイ!






■【NHKスペシャル・選】ドキュメント・太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 〜ビルマ・インパール〜【1993.06.13】



  父がこんな替え歌?を歌ってました。
  「消灯ラッパ」の替え歌?

  新兵さんは可哀想だねー、
  寝てまた泣くのかよーーー。

  「戦友」とか、
  「麦と兵隊」とか、
  「異国の丘」とか、
  父を思い出させてくれる歌でもあるわけよ、…。



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