家紋研究者

研究家じゃありません、研究者です。

 法制史学者の利光三津夫さんの著書に『古貨幣夜話』という本があります。
 ちょっと調べもので図書館で読んだのですが、その中にひとつ気になるお話がありました。
 それは、幕末の江戸幕府が外国のコインを意識した貨幣の鋳造を計画していた、とされる資料についてです。
 その資料の出処は、かつて山城国淀藩を治めていた稲葉家の資料『淀稲葉家文書』の中にあります(リンク先で国立国会図書館所蔵の資料が閲覧可能。コマ番号は275)
 同書の中で、なんの説明書きもなしに下の図が掲載されていました。
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 図は「表」と「裏」の両デザイン、「表」には必ず葵の紋所が描かれています。
葵コイン
      (写真左上の図案を元に作成)
 年号の記載もあり、これもすべて「慶應三年」、徳川慶喜が政権を朝廷に返上、坂本龍馬が暗殺された激動の年です。
 稲葉家文書の中では、この図案がなんであるのかは何も記載がないのですが、何らかの下図であることは間違いないと思われます。その点を先述の『古貨幣夜話』の中で、江戸幕府が西洋式貨幣の鋳造を考えていた、と推測しているのです。
 実際、この図案は貨幣のものであることは間違いないとされています。写真の左中列にある図案中央には「一両」の文字があります。とすれば、これは小判と同等のものとして鋳造され、素材も金が使われるであろうことから、世界的に見れば金貨に分類されるのでしょう。
 『古貨幣夜話』では、この貨幣は日本国内で鋳造せず、外国に発注する予定であったのではとも予想されています。
 というのは、この図案にはどこにも日本の金貨鋳造の御用達である後藤家の関わりが見られないからです。
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 江戸幕府は、小判などの金貨鋳造を金座に任せ、その金座の管理者が後藤家でした。江戸幕府が鋳造した小判をよく見ると、すべてに下記図のような桐紋後藤家の花押が押されています。これは、現在紙幣や貨幣に「日本国」と印字されるのと同じで、鋳造元をはっきりとさせる証明のようなものでした。
 ところが、稲葉家文書にある一両コイン図案には、どこにも桐紋も花押もありません。『古貨幣夜話』では、江戸幕府は軍事的支援も受けていた友好国フランスに頼む予定だったのではないか、という推測をしています。たしかに西洋式コイン鋳造を委託するのであれば、技術的に優れた外国に頼むのは当然だと思えます。フランスにとっても鋳造のために代価が支払われるはずでしょうから、不可能なことではなかったと思います。
 また、一両コインに葵の紋を全面的に押し出したのは、倒幕の風潮が高まり、皇室の紋でもある桐の紋を配するのを取りやめたのではないか、というのは私の勝手な予想です。前述のフランスのように外国に鋳造を委託するのであれば、金座管理者の印は必要ないので、まあ私の説はないでしょうね(;^^)

 末期の江戸幕府は、必死だったのでしょう。
 組織としての権威と存続を図るため、あらゆることを試みたと思われます。
 一両コインもそうですが、実は勲章も江戸幕府は作ろうとしていたのです。
 千葉県松戸市のホームページでは、このように説明をしています。
葵勲章
 幕末、江戸幕府より先行して薩摩藩が勲章を作り、それに対抗する形で作ったのでしょう。いや、作ろうとしたというべきでしょう。勲章は結局完成せず、大政奉還により江戸幕府は終焉を迎えました。
 これも外国から技師などを招くか、製造そのものを外国に委託するなどしようとしたのでしょうか。
 しかし、幕府は出だしが遅れていました。開国精神も、技術革新も、地方勢力の方が優り、その結果は言うまでもないことです。
 歴史に「もしも」はありませんが、一両コイン、葵勲章がもし完成していたら、それは日本の歴史にどんな風に関わり、影響したのだろう。
 初めて一両コインの存在を知ってから、ふとそのように思いました。劇的な変化は生まなかったかもしれませんが、江戸幕府が生き残るために努力した証としては、残ったことでしょう。

 絵を描く人にはそれぞれ画風という個性があります。
 これは描き手にとって絵を描く上で自然と出る癖だと思います。
 また鑑賞者にとっては、好き嫌いをはっきりさせる材料だと思います。
 どんなに著名な画家が描いたものでも、どんなに有名な絵画でも、見る人がすべてそれを賞賛するわけではありません(それは絵に限らず、小説や音楽などの芸術全般においても言えること)。
 だから私も、自分が描くものが万人受けするものだとは露ほども思っていません。
 私は自分自身が持つ画風について、自分にとっての自信と安心の材料だと捉えています。
 私は専門的に絵を習ってきたわけではないので、何を描くにしてもまずは手探りになります。
 致命的なことに、私はモノを写実的に捉えて描くことを苦手としているので、自然とその筆の運びは実物よりも簡略したものになります。
 ただ、簡略しただけでは面白みがなく、そこに自分らしい何かが欲しい。
 それが私の画風が出来た過程だと思います。

密集島

 中学時代に描いたこの絵が、私の画風を確立させたものでした。
 この作品を描いてからは、この作品を基礎としたものを好んで描くようになり、いつしか私にとってこの作品の特徴が私の画風となりました。
軍艦の町

雲の上の町

大楓神社の参道

栄螺堂のある風景

銀河鉄道駅の夜

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都市

密集島 2014

 今年は公私とも繁多に日々が過ぎ、筆を握る時間が少なく、あまり作品を残すことができませんでした(上記掲載のものはすべて過去のもの)。
 来年の目標としては、七作以上よくて十くらい、としたいです。
 また来年は、絵巻物も作ってみたいと思います。
 いろいろと新しい試みをして、表現力に磨きをかけたいです。

 今年も本日で終わり、明日からは新しい年が始まります。
 皆々様のご多幸を祈りつつ、ここで締めくくりたいと思います。
 それでは、また来年に。

 私の祖父は城が好きな人で、そのDNAからか、私も自然〝城〟が好きになりました。
 画題としてもよく城を描き、瓦の表現や石垣の描き方などを自己流に学んできました。
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 最初は写真を参考にして描くことが多かったです。

彦根

熊本城

安土城天守閣

 ですが慣れてくると、自分の世界観を意識したものを描きだすようになりました。

島城

小田原城と石垣山城

江戸城

 また、城だけではなく、寺社仏閣の建築も画題とするようになりました。

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巨大な寺院

仏教建築の島

紋所社

権現様の門前島

大きな桜の町

 古いものから順々に見ていくと、やはり線の描き方、細い太い、陰影の施しなどが違うことがわかります。成長したんだなと実感します。
 最初のうちは、ただお寺や神社が好きで描いていたのですが、だんだん絵に対して思いが強くなると、たとえば塔のある絵の場合、誰かの供養や自分の願望などを祈念しながら描くようにもなりました。それは直接、作品への投影につながることはなく、私だけが知る作品への思いです。

 今現在、仏塔を主軸としたものを描いています。これもひとつ祈念することがあって描いているのですが、迷いなく日本の伝統的な建築を描けるのは、長く描き続けた腕が身についているからです。単なる趣味ではありますが、誇れる特技だと自負しています。

 次で最終回です。

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