家紋研究者

研究家じゃありません、研究者です。

『深夜散歩』

 旅行のとき、どうにも気持ちがハイになってしまい、よく眠れないものです。
 前に京都を旅行した時も同様で、どうしようもなかったので、普段はできない夜中散歩をしたりしました。
 今回も同様です(;^^) 
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 本通り商店街
 歩いている人はまばらで、開いているのは居酒屋だけです。
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 昼間はこんな感じ。
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 元安橋
 ここを渡って、深夜のドームを見に行きます。

『午前零時のドーム』

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 時刻は午前零時
 元安川にドームが写っています。
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 昼間見る姿よりも、廃墟である侘しさを感じました。
 光に照らされた露出した鉄骨も、痛々しいです。
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 正面玄関より見た、ドームの真下部分。
 あたたかいオレンジ色の光りが使われています。なんだか命の色にも見える。
 時間も時間なことがありましたが、人がまったくいない分、じっくりと見物することができました。 
 
『広島城の人々』

 ドームの北方にある広島城にも足を運びました。
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「門、閉まってるのかなあ」
 そんなひとりごとを呟きながら、とりあえず橋まで行ってみました。
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 開いていました。
 入城にお金がかかっていたら閉まってたんでしょうね。
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 いざ入城です。
 入ってみると、若い男性が二人。一人はなにか大きなものを背負っていました。私の存在に気づいていたかどうかは知りませんが、私より先に城の奥に入っていきました。私もそのあとに続いて、本丸に向かいます。
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 本丸に鎮座する広島護国神社
 深夜でも明かりが煌々と輝いていて、なんだかホッとしました。
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 先ほどの二人組は近くの自販機で飲み物を買い、さらに城の奥へ。
 そしてまた、今度は複数人の男女が入城。なんだかわいわいがやがや話している。
 ともかく、私は天守の方へ。
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 もちろん中には入れません。たとえ入れても、最上階からはほとんど暗い城下しか見えないですし(;^^)
 まっくらな天守をじゅうぶん見物して、本丸をあちこち歩いていると、ギターの音色と歌声らしいものが聞こえてきた。その方へ行ってみると、先ほどの二人組だった。どうやら夜な夜な、ここで練習をしているよう。
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 またあの男女の集団も、カラオケとか居酒屋とかいう言葉を使っていたから、ただ単に私同様、真夜中のお城を見物に来ただけらしい。
 よかった怖い人たちじゃなくて……(-。-;

 夜中のお城には、(私のような観光客を含めて)いろんな人が来るものですね。

『19年ぶりの広島』

 今月の18日から20日まで、広島を旅行してきました。
 私は19年前、ほんのわずかな期間でしたが広島県に住んでいました。
 正確には江田島という島で、海上自衛隊の幹部育成学校があることで知られています。その前身は旧日本海軍の兵学校で、戦前は「日本一の難関校」として知られていました。
 ですが母が言うには「何もなく、スーパーも一軒ぐらいしかない」という、実に辺鄙なところ。それも19年も前のことなので、現在は変わっているとは思いますが……。

 幼少の私は母に連れられて、広島市へ行ったそうです。
〝そうです〟というのは、私の中でその記憶がないからです。原爆ドームにも行ったのですが、その記憶もありません。写真でしかその事実を留めていないのです。なんだかそのことが、私の中で心残りになっていました。
 以前、私は広島を題材とした絵を描きました。出来には満足しましたが、絵の資料となったのは本やネットで拾った写真ばかりで、私の記憶の中にある情報で描いたものがひとつもないことも心残りになっていました。
 広島は、私たち日本人にとって特別な意味のある土地であり、誰もが一度は訪れるべき場所だと私は思っています。
 訪れた事実はありながらも、記憶にはまるでない。私はそのことに悩むようになり、愈々「行かなければならないな」と思い立ったのです。
 これはあくまで私的な旅行記なので、あまり大きな期待はせず、広島旅行をされる際の参考にでもしていただければと思います。

『広島東照宮』

 広島に着いてまず向かったのは、広島駅の北方にある広島東照宮です。
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 広島東照宮は、徳川家康没後33年後、広島藩主・浅野光晟によって、広島城の鬼門を守護する社として造営されました。
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 「観望の美麗なるは、毛利氏広島に築城以来、第一のもの」と云われた社殿。
 これらの美しい建築物も、昭和20年8月6日の悲劇によってすべて破壊され、この社殿は昭和40年、家康没後350年の節目に再建されたものです。
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 参道には原爆慰霊碑が建立されていました。
 原爆犠牲者の慰霊碑には、ほとんど必ずお水がお供えされています。
 原爆の被害に遭った人々は、熱線によって体を焼かれ、必死に水を求めました。
 『原爆の子』という本では、水槽の中に顔をうずめ、そのまま息絶えた人々、また、川に身を投げて死んでゆく人々の姿が克明に記されています。だから、お水をお供えするのです。
広島東照宮
 御朱印はこちら。
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 それとスタンプも置いてあったので、使い始めたばかりの集印帳に押しました(裏に押したものとかぶってしまった……)

『鶴羽根神社』

 東照宮から見て西に、鶴羽根神社(つるはね)はあります。
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 建久年間(1190~1191年)に建立され、祭神は八幡様。
 鶴羽根の名の由来は、裏手にある二葉山の形が「鶴が羽を広げたよう」に見えたことからだそうです。
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 鳥居をくぐって太鼓橋を渡ったすぐ脇にある手水舎、これは被爆建造物です。
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 本殿も拝殿も、やはり原爆で一度は失われました。
 よく見ると、賽銭箱の巴紋が上下逆です。

 拝殿脇の社務所には御朱印帳やお守りが置いてあったのですが、残念ながら神職の方は不在で、御朱印はもらえませんでした。スタンプは置いてあったので、こちらはもらいました。
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『明星院』
 鶴羽根神社より西の方に明星院はあります。
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 京都の仁和寺を総本山とする真言宗御室派の寺院で、当初は毛利輝元の生母・妙寿院の位牌所・妙寿寺として建てられ、福島正則によって明星院と改称、その後広島藩主となった浅野家の加護を受けました。
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 右の門柱には関連寺院の名前と寺紋。
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 左の門柱には寺に関わってきた武家一族の名前と紋所。
 細かいことを言うと、正則さんの沢瀉はこれじゃないし、毛利さんは丸なしのはずだし……まあ、いいです(;^^)
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 ここ明星院には、赤穂義士の木造が祀られています。
 広島藩主の浅野家は、赤穂藩主の浅野家の本家。その縁もあり、赤穂義士にゆかりある寺院が広島にはいくつかあり、ここ明星院はそのひとつです。
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 本堂内に義士像はあります。拝観料はなく、お参りをしてから上がります。
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 本堂の左右に像は安置されていました。こちらは大石主税を主将とした吉良邸裏門襲撃部隊。
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 こちらが大石内蔵助を総大将とした、表門襲撃部隊。
 一人だけ座っているのは天野屋利兵衛の像です。
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 大石内蔵助良雄。

「あなたが吉良を殺したのか…」

 像を前にして思わず、そう呟いてしまいました。
 私は赤穂事件について、吉良側に同情しています。浅野内匠頭は癇癪持ちの出来た殿様ではなかったし、そもそも大石と浅野の関係もよくなかったのが事実(大石は「昼行灯」と揶揄された凡庸な男で、浅野でさえ「あの昼行灯」と名指している)。
 それに引き換え吉良は、高家肝煎として大名に儀礼作法を伝授する特異な地位を持ち、仕事もよく出来た人物。領民からも愛され、彼の悪い噂の大多数は、彼が浅野に斬られたあとや、彼の死後、そして忠臣蔵が誕生して以後、捏造を繰り返して膨れ上がったものの結果。これは失脚後の田沼意次の悪評の作られ方に似ています。
 たまに忠臣蔵がドラマなどになるけど、一度くらい大々的に「吉良側の赤穂事件」を映像化してほしいものです。

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 御朱印は書置きが用意されていました。
 もちろん300円を納めていただきました。どうしても、払わずにもらう不届きものがいないかどうか、こういうシステムだと疑ってしまいます(;^^)
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 日付は手書き。
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 スタンプ。

『饒津神社』
 明星院のすぐ西隣に饒津神社はあります。
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 読みはニギツです。
 元々ここは明星院の土地で、江戸時代後期に浅野家の先祖供養のために建立されました。
 祭神は浅野長政(武将・豊臣家五奉行の一人)・幸長(長政の長男・紀州藩初代藩主)・長晟(長政次男・広島藩初代藩主)・長勲(広島藩最後の藩主)の四公。
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 境内には、被爆したマツの切り株が保存されています。
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 この松は2003年に枯れてしまったそうですが、樹齢は約170年で、神社の建立時に植樹されたとのことです。
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 被爆時、ここには大勢の避難者が集まりました。
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 建物は根こそぎ破壊され、石段と手水鉢しか残されなかった。
 当時の惨状を想像すると、胸が詰まります……。
饒津神社
 御朱印とスタンプはこちら。
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『稲生神社』
 広島駅から見て南西に稲生神社はあります。
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 読みはイナリです。
 祭神は豊作の神である豊受大神、出雲大社の御祭神として有名な大国主大神、そして稲生武太夫という江戸時代の人物です。
 稲生武太夫は広島藩の支藩である三次藩の藩士で、16歳のときに体験した怪異談をまとめた『稲生物怪録』の主人公として知られています。
 今回の旅でぜひとも訪れたかった場所のひとつです。
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 幟旗には妖怪研究の錚々たるお名前。
 水木先生、一度でいいからお目にかかりたかった……。
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 ぜひとも御朱印をもらいたかったのですが、このときは社務所がお留守でした。
 せっかく東国から足を運んできたので、また明日来ることにしました。

『ドーム』
 ホテルにチェックインし、しばし休んでから、ふたたび出かけました。
 今度は寺社ではなく、平和公園にです。
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 園内はそこここに外国からの人々で溢れ、日本人を探すのが困難なくらいでした。
 慰霊碑の奥にはドームが見えます。
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 慰霊碑を過ぎてしばらく歩いたところにあるレストハウス
 元々は呉服店として建てられ、戦中に県燃料配給統制組合によって買い取られて組合事務所となり、1945年8月6日に被爆、現在平和公園として整備されている中島地区で唯一残った建物です。
 現在は地下部分のみ当時のままで、地上建物は建て替えられたものです。
 レストハウスを過ぎれば、ドームはすぐそこです。
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 はぁ…………。

 自然と息が漏れて、しばらく微動だにせず、対岸の廃墟を眺めていました。
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 在りし日はこんなに立派だった建物も、たった1発の爆弾で様相が変わってしまいました。
 ただ忘れてはならないのは、こうして形が残った建物はごくわずかであり、ほとんどはすべて瓦礫になったということ。
 爆発から壊滅まで、わずか10秒ほどの時間。
 その10秒間を耐え抜き、こうして形を残してくれたことは、原爆の威力とおぞましさを伝えていくのに多大な意義があります。
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 相生橋を渡って対岸へ。
 この相生橋は珍しいT字型の橋で、原爆投下の際、投下地点の目印にもされたのです。
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 渡り終えるとすぐ、広島出身の文人・鈴木三重吉の碑があります。
 彼は夏目漱石門下の作家で、彼が漱石に文鳥を贈ったことが、漱石の小編小説『文鳥』の題材になっています。
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 ドーム内では保存のために工事がされていました。
 モノを永久に残すことはたいへん困難なことだと思いますが、この建物はそれほどの価値があります。
 どうかそのために、これからも努めていただきたいです。
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 間近で見ると、すこし印象が変わってきます。
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 正面玄関。
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 戦争末期、ここには公的機関の役所と建築関係の会社の事務所が入っていました。
 被爆時、館内にどれだけの人がいて、どれだけの人が亡くなったのか、今でも正確な数字はわかっていません。
 ただ、爆心地が200メートル先とすぐそこにあり、熱線によって建物は火災にも見舞われたために、甚大であったのは言うまでもありません。様々な記録に目を通しましたが、生還した人はいなかったとのことです。
 広島県産業奨励館跡――広島にもし、原子爆弾が落とされていなかったら、きっとこの建物はそういう名前で史跡に登録され、戦争を生き抜いた美しい建築物として残ったことでしょう。
 それが原爆投下によって、終戦後からすでに「ドーム」の呼び方が定着し、一時は撤去運動も起こりながらも、戦争と原爆の恐怖を後世に残すべく人々が努力し、私が生まれた1995年に国の史跡となり、その翌年に世界文化遺産に登録され、現在に至ります。
 世界遺産の中でも、このドームは負の遺産として登録されています。人類の悲惨な出来事を後世に残すための遺産です。その負の遺産の中で、原子爆弾の被害を訴えるものとして登録されている建造物は、このドームだけです。いかに時代が進もうと、このドームだけは昭和20年8月6日という時を残し続けています。それもひとつ、このドームが残されてゆく使命であると、私は思います。

 つづく

 法制史学者の利光三津夫さんの著書に『古貨幣夜話』という本があります。
 ちょっと調べもので図書館で読んだのですが、その中にひとつ気になるお話がありました。
 それは、幕末の江戸幕府が外国のコインを意識した貨幣の鋳造を計画していた、とされる資料についてです。
 その資料の出処は、かつて山城国淀藩を治めていた稲葉家の資料『淀稲葉家文書』の中にあります(リンク先で国立国会図書館所蔵の資料が閲覧可能。コマ番号は275)
 同書の中で、なんの説明書きもなしに下の図が掲載されていました。
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 図は「表」と「裏」の両デザイン、「表」には必ず葵の紋所が描かれています。
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      (写真左上の図案を元に作成)
 年号の記載もあり、これもすべて「慶應三年」、徳川慶喜が政権を朝廷に返上、坂本龍馬が暗殺された激動の年です。
 稲葉家文書の中では、この図案がなんであるのかは何も記載がないのですが、何らかの下図であることは間違いないと思われます。その点を先述の『古貨幣夜話』の中で、江戸幕府が西洋式貨幣の鋳造を考えていた、と推測しているのです。
 実際、この図案は貨幣のものであることは間違いないとされています。写真の左中列にある図案中央には「一両」の文字があります。とすれば、これは小判と同等のものとして鋳造され、素材も金が使われるであろうことから、世界的に見れば金貨に分類されるのでしょう。
 『古貨幣夜話』では、この貨幣は日本国内で鋳造せず、外国に発注する予定であったのではとも予想されています。
 というのは、この図案にはどこにも日本の金貨鋳造の御用達である後藤家の関わりが見られないからです。
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 江戸幕府は、小判などの金貨鋳造を金座に任せ、その金座の管理者が後藤家でした。江戸幕府が鋳造した小判をよく見ると、すべてに下記図のような桐紋後藤家の花押が押されています。これは、現在紙幣や貨幣に「日本国」と印字されるのと同じで、鋳造元をはっきりとさせる証明のようなものでした。
 ところが、稲葉家文書にある一両コイン図案には、どこにも桐紋も花押もありません。『古貨幣夜話』では、江戸幕府は軍事的支援も受けていた友好国フランスに頼む予定だったのではないか、という推測をしています。たしかに西洋式コイン鋳造を委託するのであれば、技術的に優れた外国に頼むのは当然だと思えます。フランスにとっても鋳造のために代価が支払われるはずでしょうから、不可能なことではなかったと思います。
 また、一両コインに葵の紋を全面的に押し出したのは、倒幕の風潮が高まり、皇室の紋でもある桐の紋を配するのを取りやめたのではないか、というのは私の勝手な予想です。前述のフランスのように外国に鋳造を委託するのであれば、金座管理者の印は必要ないので、まあ私の説はないでしょうね(;^^)

 末期の江戸幕府は、必死だったのでしょう。
 組織としての権威と存続を図るため、あらゆることを試みたと思われます。
 一両コインもそうですが、実は勲章も江戸幕府は作ろうとしていたのです。
 千葉県松戸市のホームページでは、このように説明をしています。
葵勲章
 幕末、江戸幕府より先行して薩摩藩が勲章を作り、それに対抗する形で作ったのでしょう。いや、作ろうとしたというべきでしょう。勲章は結局完成せず、大政奉還により江戸幕府は終焉を迎えました。
 これも外国から技師などを招くか、製造そのものを外国に委託するなどしようとしたのでしょうか。
 しかし、幕府は出だしが遅れていました。開国精神も、技術革新も、地方勢力の方が優り、その結果は言うまでもないことです。
 歴史に「もしも」はありませんが、一両コイン、葵勲章がもし完成していたら、それは日本の歴史にどんな風に関わり、影響したのだろう。
 初めて一両コインの存在を知ってから、ふとそのように思いました。劇的な変化は生まなかったかもしれませんが、江戸幕府が生き残るために努力した証としては、残ったことでしょう。

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