平成23年3月9日午後2時ごろ、本日を持って僕は「中学生」を卒業いたしました!!!
かれこれ3年という中学生生活が、とうとう終わってしまいました。なんだか「まだ物足りない」というのが正直なところですが、何を言っても卒業したことは、もはや変わることはありません。
卒業式自体は、普通の生徒が午前中に終わってから、午後より別教室でこじんまりと行われました。僕を入れて3名の卒業生、そのために10人近い先生方が来てくれました。本当に感謝しました。
卒業証書授与後は、僕の担任の先生(紋・丸にオモダカ)によるギター演奏の歌で、ちょっと悲しいムードの部屋を和ませてくれました。
それにしても、本当にいろんなことがありました。
最初に思い出すのは中学1年生のころ、まだ中学生成りたての僕は、とにかく「青春」という言葉に惹かれていた。部活かなんかで、なにか自分の心に残るようなことをしたいと、そのときは強く思っていました。
でも、確か一番最初に入りたかった部活は、なんと入学して早々に廃部、仕方ないという気持ちで、僕は担任の先生が顧問をしている「自然科学部」というところに入りました。ちなみに、このとき僕は副部長になっています。
入りたかった部はなくなれど、自然科学部での活動は想像よりも楽しかった。もともと理科は好きだったから、実験も見たりやったり、楽しい部活動でした。僕が研究していたのはシャボン玉、割れないシャボン玉の作り方を研究したり、色つきシャボン玉を作ったりしていました(前者は成功、後者は失敗)。
また、部活だけではなく、ここでようやく家紋との出会いがやってきます!
あれは、たしかまだ夏に入るか入らないかの間の季節(5月か6月ごろ)。ふととあるテレビ番組で、偶然家紋についての特集かなんかがやっていました。とっても安易な説明だったけど、司会者の「日本人はみんな家紋を持っている」という言葉がひっかかり、母親に聞いたところ「こんな家紋だよ」とチラシの裏に書いて教えてくれた。そのときに描かれた紋、それこそ我が定紋・丸に渡辺星です!最初は「皿の上の団子」みたいな印象だったけど、インターネットで調べるうちに、その魅力にどっぷりとハマり、いつしか本気で「家紋研究家」を目指すようになりました。
ここで話を部活方面へ戻します。
その同じ頃、僕はとある危機に直面していました。それは「部員の半数以上が、部活動中にも関わらず部活動に参加しない」という異常な事態。
まぁ、多少のサボリであれば、1、2度くらいは許せるでしょうが、それが毎回続くとなると、さすがに僕も怒り出す。
その上、その部員は真面目に活動している部員を妨害(邪魔)をする。僕もその被害者だが、あれほど怒りがあらわになるようなことはなかったです。もっと広い目で見ればよかったのかもしれませんが、それでも僕は、真面目に活動している人たちのジャマをする部員を注意しつづけた。
ただ、彼らを真面目に部活動に参加させたい一心でしたが、とうとう大事件が起きる。
唯一、信頼してたと言っていい部長までもが、その一派に入ってしまった。ちなみに、その一派が部活動以外に何をしているのかというと、漫画雑誌やアニメの雑誌を持ち込み、それらの話に花を咲かせているのです。
もちろん、そのような雑誌の持ち込みは禁止されていますが、注意しても止めようとしない彼らに、僕は日に日に疲れてきた。それと一緒に、僕はアニメとマンガが嫌いになった。どんな作品でも、前までは見るたびにあの屈辱がよみがえったのです(今はそんな気持ちはまったくありません。むしろ少しずつ受け入れようとしています)。
また家紋関係の話へ。
家紋との出会いから、僕はとにかく家紋のことについて知りたくて知りたくて、本も少しずつ買い始めた。このとき、生まれて初めて買った家紋の本は故丹羽基二さんの本でした。分かりやすい説明の上、家紋にまつわる小話まで載っていて、僕の家紋への興味と関心は止まるところを知らない。
そして、自分の普段使っている物に家紋を付け始めたのもこの頃でした。最初は自前シール製造の技術を持っていなかったため、全部手書きです。しかも金色のマジックで、より目立つようにアチコチに描いていました。
時々、クラスメイトから「このマークなに?」と質問されると、僕は「家紋だよ」と答える。だけど、同年代では家紋の存在すら知らない人ばかり、そしてこの頃より、僕のちょっとした孤立は始まった。
とにかく「和」に目覚めた僕は、現代風なびく教室での息苦しさを覚え、かつての友とも話が合わなくなった。
それでもなんとか秋の合唱コンクールまで頑張り、話が合わない同級生達との生活をガマンし続けた。
だけど、とうとう僕は、ガマンできなくなった。
10月未明、僕は学校に行かなくなった。理由は単純、「教室にいると息苦しいから」。
本当に誰とも話が合わなくなり、毎日毎日学校に行くのが、僕にはだんだん苦痛になってしまった。
なぜ、誰も僕の話を聞いてくれないのか、そして、なんで真面目な話は嫌がるのか、僕は、一体どうすればいいのか分からないまま、体調不良を理由に登校拒否を始めた。
この10月から新年を迎えた3月まで、僕は一切学校へは行かなかった。僕は私的に、この約5ヶ月の間を「暗い日々」と言っている。もう、生きることにすら疑問を持ち始めるという、とても危険な時期もありました。今思えば、とても心が塞ぎ、そして「笑う」ということを忘れた期間でした。人は笑うことで生きていることを実感していると、どこかの本で読んだことがあります。つまり、僕は5ヶ月もの間「自分が生きている」ということを忘れていたのです。思い出すと、とても信じられない(今は毎日笑っています。笑わない日はないほどです)。
ですが、そんな暗黒の時期でも、唯一心を開けたのが家紋だった。家紋と向き合う時間だけが、僕が唯一「楽しい」あるいは「幸せ」だと思えたときだった。家紋の歴史を調べると、それが自分のルーツにもつながるということも知った。徳川家の葵紋がバリエーション豊富だということも、カタバミ紋が子孫繁栄の意味があるということも知った。
とくに勉強をするわけでもないので、僕は毎日のように家紋の本を読んでいた。その多くは、家紋の図柄だけを見ていました。もう家紋を見ているだけでも、心が少し落ち着きました。
平成21年4月、僕は2年生へと昇進した。
最初は、「今度こそは」という気持ちで教室に行きました。何人かの生徒は、僕のことを知っていたらしく、「今までどこにいたの?」など心にグサっとくる質問を多数突きつけてきた。担任の先生は1年のときと同じで、それが一番よかった。
でも、それも束の間で、わずか3日ほどの登校で僕は教室に行かなくなった。またちょっとの間だけ不登校が続きます。
でも、6月になって転機が訪れました。
僕は教室へは行かずに、「心の教室」という別教室への登校を始めました。これが僕の学校生活に、大きな変化をもたらしました。
最初はまったく知らない相談員の先生たちとギクシャクしていたけど、次第に相談もするようになり、僕は「心の教室」だけが、名前のとおり「心から通える教室」となりました。
そこでは、普段学校の授業では決して教えてくれないことも多く学びました。
たとえば相談員さんによる心理テスト、あれは本当にすごかった。たとえば、自分が好きな色でピラミッドを作る、というのがあるのですが、僕もそれを作り、結果を聞いたときはビックリでした^^
他にも、校長先生の計らいで、職業体験では特別に遺跡の発掘調査に同行し、参加しました。これは忘れることのない永遠の思い出です。発掘場所は海老名の代表文化財・相模国分寺跡、国指定の史跡です。出土したのは古い陶器類の破片が主でしたが、瓦の破片も出てきました。自分の手で歴史的な遺物を掘る、まさに夢のような体験でした。ちなみにですが、僕が掘った場所は現在、市の郷土史博物館が移設されていて、「この下を私は掘ったんだ!」といつか誰かに言いたい^^
また、最大の出来事といえば、スクールカウンセラーの小野寺先生との出会い。この先生との出会いは、まさに天命だったのかもしれません。
スクールカウンセラーだからどんな話でも聞いてくれるし、それに僕の生きがいである家紋に、先生自身も興味を持ってくれたことが一番嬉しかった(これがある意味、日本家紋普及協会創設のキッカケ)。
その後も先生と話をするたびに、僕は今まで無かった、自分への自信がついた。物事も冷静かつ様々な視点で見るようになったり、一人称(つまり自分のことをオレとか僕などということ)も僕からだんだん私へと変わりつつあった。これもある意味の変化です。
でも、その途中途中で、嫌なこともあった。
たとえば心の教室にいるとき、窓の外から同級生がからかいにやってきたこと。あれは一番、心にキズだった。
もっとひどいのは、僕のいた部屋から上に位置する向かいの棟の教室から、窓を開けて悪口を言われたこと。あれは、もう嫌だということしか思わなかった。必死で勉強している最中に突然の妨げ、また徐々に僕の心は塞ぎつつあった。
でも、また不登校へはならない。今度は「相談できる人」がすぐそばにいた。これが最大の利点だった。これがなかったら、最悪の場合、自傷行為にもはしっていたかもしれない。それほど僕は、同級生からの暴言にキズを負っていた。
このように、いいこともあれば嫌なこともあった1年2年、そしていよいよ3年生へとなりました。中学生、最後の生活が始まったのです。
前年からの体験からか、僕は同級生への恐怖心や不安心はさほどなくなっていた。それでも、僕は教室へは行かずに、以前と同じく「心の教室」へと通い続けたのです。
3年生のときは、さほど不幸と幸福の激しい浮き沈みはなかったものの、まさか「恋」するとは自分でも思わなかったです。
始まりは体育祭の練習が始まる前のこと、心の教室である先生と楽しく談笑をしていたとき、ふと話題が僕の小学生時代に移った。僕はそのとき、ポロっと初恋の話をしてしまった(後悔はしていない)。
とっても想いを寄せていた人だったけど、結局最後に会う日まで告白はせず、小学5年(だと思う)のときにクラスが違い、会う機会が薄れて結局は実りませんでした。
それから約5年程が経って、先生の提案でまさかまさかの「初恋の人に会おう!」という目標が設定されたのです。最初はウソだろうなと思っていたけど、体育祭の日に会おうね、という先生の約束によって、これが本当に実行されているんだと知った。内心は嫌ではなく、逆に進んで初恋の人に会いたいと思うようになりました。
体育祭の予行練習のときには、校舎最上階から練習を見て、初恋の人がどこにいるのか、先生が進んで教えてくれた。思い返すと、楽しんでいたのは先生の方だったのかも知れない(笑)
そして運命の日、体育祭当日。
事務テントそばで見学していた僕は、暑い中を頑張る同級生達を必死に応援した。途中、初恋の人のことを忘れていた。
でも、先生が「そろそろだよ」と予告してくれたときに、再び初恋の人が脳裏に浮かび、急に緊張し始めた。
そして、僕の立つ位置から大体20メートルのところに、初恋の人は現れた。それがどれほど嬉しかったことか、今思い出してもあのときの感情がよみがえる。
直接話はしなかったけど、それでも自分の目で、初恋の人を見れただけでもよかった。というか、当時の僕はそれが限界だと思っていた。彼女自身、僕のことを覚えているかも知らないし、会う機会自体がないことも知っていた。だからこそこの貴重な再開(相手は知らないけど)は、僕にとっては一番嬉しかったことでした。この幸福感は精神力を増強させ、僕は3年生最後の体育祭を、最初から最後まで見ることができた。これはすべて、彼女に会えたからこそです。
その後、僕は彼女への感謝の気持ちを込めて、絵と手紙を送った。
無論、返事などこないものだと思っていた。ただ、僕の感謝の念が伝わればいい、ただそれだけでA4の画用紙に、当時の自分の画力を結集させ、1枚の絵を描きました。手紙もなんどか書き直し、家族には内緒にしながら書いた。絵に関しては家族には「知人にあげる」とごまかしてました;^^
絵と手紙を送って、確か1ヶ月くらい経った頃のこと。
奇跡としか言いようの無い出来事が起きた。
心の教室に、初恋の人がやってきた。それは当時、新しく心の教室へと来ていた女子の同級生(クラスメイト。紋は「菱に三つ目結い」)と友人関係にあるということで、なんと僕も対面に成功した。
マスクをしていたから、顔はあまり見えなかったけど、黒く、長く、綺麗な髪は昔と変わらず健在だった。僕は緊張のあまり、あんまり話ができなかった。
でも、彼女が「手紙、ありがとう」と言ってくれたのが、もうとにかく嬉しかった。本当はもっと話したかったけど、感想だけでも聞けてよかった。
その後の学校生活は、比較的に良好だったといえる。
12月には保険便りの挿絵を依頼され、1月には1年ぶりに同級生から年賀状がきた(さきほどのクラスメイト)。
そして、志望校への合格も大きな幸運だった。これで落ちたら、一体どうしたらいいのかと、もう命をかけていたと言ったら大げさだけど、それぐらいの気持ちはありました。
2月はあっという間に去り、そして、3月。今月の家紋も梅から桃と変わったこの月、僕はとうとう中学生という職を卒業した。
本当は、まだまだ学校にいたい、という多少ワガママな気持ちがあるけど、これも運命ですからね。
この3年で学んだことは、とても大きかったことばかりです。
これをまた一つの教訓として、4月から始まる「高校生活」に役立てようと思います。
ちなみに、本ブログは3月末まで存続します。その間は「卒業後の日々」として、いろんなことを書きたいと思います。
そして新しく始まるブログ「家紋高校生」は着々と準備をしています。
開設はそろそろなので、お楽しみに!^^
かれこれ3年という中学生生活が、とうとう終わってしまいました。なんだか「まだ物足りない」というのが正直なところですが、何を言っても卒業したことは、もはや変わることはありません。
卒業式自体は、普通の生徒が午前中に終わってから、午後より別教室でこじんまりと行われました。僕を入れて3名の卒業生、そのために10人近い先生方が来てくれました。本当に感謝しました。
卒業証書授与後は、僕の担任の先生(紋・丸にオモダカ)によるギター演奏の歌で、ちょっと悲しいムードの部屋を和ませてくれました。
それにしても、本当にいろんなことがありました。
最初に思い出すのは中学1年生のころ、まだ中学生成りたての僕は、とにかく「青春」という言葉に惹かれていた。部活かなんかで、なにか自分の心に残るようなことをしたいと、そのときは強く思っていました。
でも、確か一番最初に入りたかった部活は、なんと入学して早々に廃部、仕方ないという気持ちで、僕は担任の先生が顧問をしている「自然科学部」というところに入りました。ちなみに、このとき僕は副部長になっています。
入りたかった部はなくなれど、自然科学部での活動は想像よりも楽しかった。もともと理科は好きだったから、実験も見たりやったり、楽しい部活動でした。僕が研究していたのはシャボン玉、割れないシャボン玉の作り方を研究したり、色つきシャボン玉を作ったりしていました(前者は成功、後者は失敗)。
また、部活だけではなく、ここでようやく家紋との出会いがやってきます!
あれは、たしかまだ夏に入るか入らないかの間の季節(5月か6月ごろ)。ふととあるテレビ番組で、偶然家紋についての特集かなんかがやっていました。とっても安易な説明だったけど、司会者の「日本人はみんな家紋を持っている」という言葉がひっかかり、母親に聞いたところ「こんな家紋だよ」とチラシの裏に書いて教えてくれた。そのときに描かれた紋、それこそ我が定紋・丸に渡辺星です!最初は「皿の上の団子」みたいな印象だったけど、インターネットで調べるうちに、その魅力にどっぷりとハマり、いつしか本気で「家紋研究家」を目指すようになりました。
ここで話を部活方面へ戻します。
その同じ頃、僕はとある危機に直面していました。それは「部員の半数以上が、部活動中にも関わらず部活動に参加しない」という異常な事態。
まぁ、多少のサボリであれば、1、2度くらいは許せるでしょうが、それが毎回続くとなると、さすがに僕も怒り出す。
その上、その部員は真面目に活動している部員を妨害(邪魔)をする。僕もその被害者だが、あれほど怒りがあらわになるようなことはなかったです。もっと広い目で見ればよかったのかもしれませんが、それでも僕は、真面目に活動している人たちのジャマをする部員を注意しつづけた。
ただ、彼らを真面目に部活動に参加させたい一心でしたが、とうとう大事件が起きる。
唯一、信頼してたと言っていい部長までもが、その一派に入ってしまった。ちなみに、その一派が部活動以外に何をしているのかというと、漫画雑誌やアニメの雑誌を持ち込み、それらの話に花を咲かせているのです。
もちろん、そのような雑誌の持ち込みは禁止されていますが、注意しても止めようとしない彼らに、僕は日に日に疲れてきた。それと一緒に、僕はアニメとマンガが嫌いになった。どんな作品でも、前までは見るたびにあの屈辱がよみがえったのです(今はそんな気持ちはまったくありません。むしろ少しずつ受け入れようとしています)。
また家紋関係の話へ。
家紋との出会いから、僕はとにかく家紋のことについて知りたくて知りたくて、本も少しずつ買い始めた。このとき、生まれて初めて買った家紋の本は故丹羽基二さんの本でした。分かりやすい説明の上、家紋にまつわる小話まで載っていて、僕の家紋への興味と関心は止まるところを知らない。
そして、自分の普段使っている物に家紋を付け始めたのもこの頃でした。最初は自前シール製造の技術を持っていなかったため、全部手書きです。しかも金色のマジックで、より目立つようにアチコチに描いていました。
時々、クラスメイトから「このマークなに?」と質問されると、僕は「家紋だよ」と答える。だけど、同年代では家紋の存在すら知らない人ばかり、そしてこの頃より、僕のちょっとした孤立は始まった。
とにかく「和」に目覚めた僕は、現代風なびく教室での息苦しさを覚え、かつての友とも話が合わなくなった。
それでもなんとか秋の合唱コンクールまで頑張り、話が合わない同級生達との生活をガマンし続けた。
だけど、とうとう僕は、ガマンできなくなった。
10月未明、僕は学校に行かなくなった。理由は単純、「教室にいると息苦しいから」。
本当に誰とも話が合わなくなり、毎日毎日学校に行くのが、僕にはだんだん苦痛になってしまった。
なぜ、誰も僕の話を聞いてくれないのか、そして、なんで真面目な話は嫌がるのか、僕は、一体どうすればいいのか分からないまま、体調不良を理由に登校拒否を始めた。
この10月から新年を迎えた3月まで、僕は一切学校へは行かなかった。僕は私的に、この約5ヶ月の間を「暗い日々」と言っている。もう、生きることにすら疑問を持ち始めるという、とても危険な時期もありました。今思えば、とても心が塞ぎ、そして「笑う」ということを忘れた期間でした。人は笑うことで生きていることを実感していると、どこかの本で読んだことがあります。つまり、僕は5ヶ月もの間「自分が生きている」ということを忘れていたのです。思い出すと、とても信じられない(今は毎日笑っています。笑わない日はないほどです)。
ですが、そんな暗黒の時期でも、唯一心を開けたのが家紋だった。家紋と向き合う時間だけが、僕が唯一「楽しい」あるいは「幸せ」だと思えたときだった。家紋の歴史を調べると、それが自分のルーツにもつながるということも知った。徳川家の葵紋がバリエーション豊富だということも、カタバミ紋が子孫繁栄の意味があるということも知った。
とくに勉強をするわけでもないので、僕は毎日のように家紋の本を読んでいた。その多くは、家紋の図柄だけを見ていました。もう家紋を見ているだけでも、心が少し落ち着きました。
平成21年4月、僕は2年生へと昇進した。
最初は、「今度こそは」という気持ちで教室に行きました。何人かの生徒は、僕のことを知っていたらしく、「今までどこにいたの?」など心にグサっとくる質問を多数突きつけてきた。担任の先生は1年のときと同じで、それが一番よかった。
でも、それも束の間で、わずか3日ほどの登校で僕は教室に行かなくなった。またちょっとの間だけ不登校が続きます。
でも、6月になって転機が訪れました。
僕は教室へは行かずに、「心の教室」という別教室への登校を始めました。これが僕の学校生活に、大きな変化をもたらしました。
最初はまったく知らない相談員の先生たちとギクシャクしていたけど、次第に相談もするようになり、僕は「心の教室」だけが、名前のとおり「心から通える教室」となりました。
そこでは、普段学校の授業では決して教えてくれないことも多く学びました。
たとえば相談員さんによる心理テスト、あれは本当にすごかった。たとえば、自分が好きな色でピラミッドを作る、というのがあるのですが、僕もそれを作り、結果を聞いたときはビックリでした^^
他にも、校長先生の計らいで、職業体験では特別に遺跡の発掘調査に同行し、参加しました。これは忘れることのない永遠の思い出です。発掘場所は海老名の代表文化財・相模国分寺跡、国指定の史跡です。出土したのは古い陶器類の破片が主でしたが、瓦の破片も出てきました。自分の手で歴史的な遺物を掘る、まさに夢のような体験でした。ちなみにですが、僕が掘った場所は現在、市の郷土史博物館が移設されていて、「この下を私は掘ったんだ!」といつか誰かに言いたい^^
また、最大の出来事といえば、スクールカウンセラーの小野寺先生との出会い。この先生との出会いは、まさに天命だったのかもしれません。
スクールカウンセラーだからどんな話でも聞いてくれるし、それに僕の生きがいである家紋に、先生自身も興味を持ってくれたことが一番嬉しかった(これがある意味、日本家紋普及協会創設のキッカケ)。
その後も先生と話をするたびに、僕は今まで無かった、自分への自信がついた。物事も冷静かつ様々な視点で見るようになったり、一人称(つまり自分のことをオレとか僕などということ)も僕からだんだん私へと変わりつつあった。これもある意味の変化です。
でも、その途中途中で、嫌なこともあった。
たとえば心の教室にいるとき、窓の外から同級生がからかいにやってきたこと。あれは一番、心にキズだった。
もっとひどいのは、僕のいた部屋から上に位置する向かいの棟の教室から、窓を開けて悪口を言われたこと。あれは、もう嫌だということしか思わなかった。必死で勉強している最中に突然の妨げ、また徐々に僕の心は塞ぎつつあった。
でも、また不登校へはならない。今度は「相談できる人」がすぐそばにいた。これが最大の利点だった。これがなかったら、最悪の場合、自傷行為にもはしっていたかもしれない。それほど僕は、同級生からの暴言にキズを負っていた。
このように、いいこともあれば嫌なこともあった1年2年、そしていよいよ3年生へとなりました。中学生、最後の生活が始まったのです。
前年からの体験からか、僕は同級生への恐怖心や不安心はさほどなくなっていた。それでも、僕は教室へは行かずに、以前と同じく「心の教室」へと通い続けたのです。
3年生のときは、さほど不幸と幸福の激しい浮き沈みはなかったものの、まさか「恋」するとは自分でも思わなかったです。
始まりは体育祭の練習が始まる前のこと、心の教室である先生と楽しく談笑をしていたとき、ふと話題が僕の小学生時代に移った。僕はそのとき、ポロっと初恋の話をしてしまった(後悔はしていない)。
とっても想いを寄せていた人だったけど、結局最後に会う日まで告白はせず、小学5年(だと思う)のときにクラスが違い、会う機会が薄れて結局は実りませんでした。
それから約5年程が経って、先生の提案でまさかまさかの「初恋の人に会おう!」という目標が設定されたのです。最初はウソだろうなと思っていたけど、体育祭の日に会おうね、という先生の約束によって、これが本当に実行されているんだと知った。内心は嫌ではなく、逆に進んで初恋の人に会いたいと思うようになりました。
体育祭の予行練習のときには、校舎最上階から練習を見て、初恋の人がどこにいるのか、先生が進んで教えてくれた。思い返すと、楽しんでいたのは先生の方だったのかも知れない(笑)
そして運命の日、体育祭当日。
事務テントそばで見学していた僕は、暑い中を頑張る同級生達を必死に応援した。途中、初恋の人のことを忘れていた。
でも、先生が「そろそろだよ」と予告してくれたときに、再び初恋の人が脳裏に浮かび、急に緊張し始めた。
そして、僕の立つ位置から大体20メートルのところに、初恋の人は現れた。それがどれほど嬉しかったことか、今思い出してもあのときの感情がよみがえる。
直接話はしなかったけど、それでも自分の目で、初恋の人を見れただけでもよかった。というか、当時の僕はそれが限界だと思っていた。彼女自身、僕のことを覚えているかも知らないし、会う機会自体がないことも知っていた。だからこそこの貴重な再開(相手は知らないけど)は、僕にとっては一番嬉しかったことでした。この幸福感は精神力を増強させ、僕は3年生最後の体育祭を、最初から最後まで見ることができた。これはすべて、彼女に会えたからこそです。
その後、僕は彼女への感謝の気持ちを込めて、絵と手紙を送った。
無論、返事などこないものだと思っていた。ただ、僕の感謝の念が伝わればいい、ただそれだけでA4の画用紙に、当時の自分の画力を結集させ、1枚の絵を描きました。手紙もなんどか書き直し、家族には内緒にしながら書いた。絵に関しては家族には「知人にあげる」とごまかしてました;^^
絵と手紙を送って、確か1ヶ月くらい経った頃のこと。
奇跡としか言いようの無い出来事が起きた。
心の教室に、初恋の人がやってきた。それは当時、新しく心の教室へと来ていた女子の同級生(クラスメイト。紋は「菱に三つ目結い」)と友人関係にあるということで、なんと僕も対面に成功した。
マスクをしていたから、顔はあまり見えなかったけど、黒く、長く、綺麗な髪は昔と変わらず健在だった。僕は緊張のあまり、あんまり話ができなかった。
でも、彼女が「手紙、ありがとう」と言ってくれたのが、もうとにかく嬉しかった。本当はもっと話したかったけど、感想だけでも聞けてよかった。
その後の学校生活は、比較的に良好だったといえる。
12月には保険便りの挿絵を依頼され、1月には1年ぶりに同級生から年賀状がきた(さきほどのクラスメイト)。
そして、志望校への合格も大きな幸運だった。これで落ちたら、一体どうしたらいいのかと、もう命をかけていたと言ったら大げさだけど、それぐらいの気持ちはありました。
2月はあっという間に去り、そして、3月。今月の家紋も梅から桃と変わったこの月、僕はとうとう中学生という職を卒業した。
本当は、まだまだ学校にいたい、という多少ワガママな気持ちがあるけど、これも運命ですからね。
この3年で学んだことは、とても大きかったことばかりです。
これをまた一つの教訓として、4月から始まる「高校生活」に役立てようと思います。
ちなみに、本ブログは3月末まで存続します。その間は「卒業後の日々」として、いろんなことを書きたいと思います。
そして新しく始まるブログ「家紋高校生」は着々と準備をしています。
開設はそろそろなので、お楽しみに!^^