家紋中学生、「卒業の日」。

平成23年3月9日午後2時ごろ、本日を持って僕は「中学生」を卒業いたしました!!!
かれこれ3年という中学生生活が、とうとう終わってしまいました。なんだか「まだ物足りない」というのが正直なところですが、何を言っても卒業したことは、もはや変わることはありません。
卒業式自体は、普通の生徒が午前中に終わってから、午後より別教室でこじんまりと行われました。僕を入れて3名の卒業生、そのために10人近い先生方が来てくれました。本当に感謝しました。
卒業証書授与後は、僕の担任の先生(紋・丸にオモダカ)によるギター演奏の歌で、ちょっと悲しいムードの部屋を和ませてくれました。

それにしても、本当にいろんなことがありました。
最初に思い出すのは中学1年生のころ、まだ中学生成りたての僕は、とにかく「青春」という言葉に惹かれていた。部活かなんかで、なにか自分の心に残るようなことをしたいと、そのときは強く思っていました。
でも、確か一番最初に入りたかった部活は、なんと入学して早々に廃部、仕方ないという気持ちで、僕は担任の先生が顧問をしている「自然科学部」というところに入りました。ちなみに、このとき僕は副部長になっています。
入りたかった部はなくなれど、自然科学部での活動は想像よりも楽しかった。もともと理科は好きだったから、実験も見たりやったり、楽しい部活動でした。僕が研究していたのはシャボン玉、割れないシャボン玉の作り方を研究したり、色つきシャボン玉を作ったりしていました(前者は成功、後者は失敗)。
また、部活だけではなく、ここでようやく家紋との出会いがやってきます!
あれは、たしかまだ夏に入るか入らないかの間の季節(5月か6月ごろ)。ふととあるテレビ番組で、偶然家紋についての特集かなんかがやっていました。とっても安易な説明だったけど、司会者の「日本人はみんな家紋を持っている」という言葉がひっかかり、母親に聞いたところ「こんな家紋だよ」とチラシの裏に書いて教えてくれた。そのときに描かれた紋、それこそ我が定紋・丸に渡辺星です!最初は「皿の上の団子」みたいな印象だったけど、インターネットで調べるうちに、その魅力にどっぷりとハマり、いつしか本気で「家紋研究家」を目指すようになりました。

ここで話を部活方面へ戻します。
その同じ頃、僕はとある危機に直面していました。それは「部員の半数以上が、部活動中にも関わらず部活動に参加しない」という異常な事態。
まぁ、多少のサボリであれば、1、2度くらいは許せるでしょうが、それが毎回続くとなると、さすがに僕も怒り出す。
その上、その部員は真面目に活動している部員を妨害(邪魔)をする。僕もその被害者だが、あれほど怒りがあらわになるようなことはなかったです。もっと広い目で見ればよかったのかもしれませんが、それでも僕は、真面目に活動している人たちのジャマをする部員を注意しつづけた。
ただ、彼らを真面目に部活動に参加させたい一心でしたが、とうとう大事件が起きる。
唯一、信頼してたと言っていい部長までもが、その一派に入ってしまった。ちなみに、その一派が部活動以外に何をしているのかというと、漫画雑誌やアニメの雑誌を持ち込み、それらの話に花を咲かせているのです。
もちろん、そのような雑誌の持ち込みは禁止されていますが、注意しても止めようとしない彼らに、僕は日に日に疲れてきた。それと一緒に、僕はアニメとマンガが嫌いになった。どんな作品でも、前までは見るたびにあの屈辱がよみがえったのです(今はそんな気持ちはまったくありません。むしろ少しずつ受け入れようとしています)。

また家紋関係の話へ。
家紋との出会いから、僕はとにかく家紋のことについて知りたくて知りたくて、本も少しずつ買い始めた。このとき、生まれて初めて買った家紋の本は故丹羽基二さんの本でした。分かりやすい説明の上、家紋にまつわる小話まで載っていて、僕の家紋への興味と関心は止まるところを知らない。
そして、自分の普段使っている物に家紋を付け始めたのもこの頃でした。最初は自前シール製造の技術を持っていなかったため、全部手書きです。しかも金色のマジックで、より目立つようにアチコチに描いていました。
時々、クラスメイトから「このマークなに?」と質問されると、僕は「家紋だよ」と答える。だけど、同年代では家紋の存在すら知らない人ばかり、そしてこの頃より、僕のちょっとした孤立は始まった。
とにかく「和」に目覚めた僕は、現代風なびく教室での息苦しさを覚え、かつての友とも話が合わなくなった。
それでもなんとか秋の合唱コンクールまで頑張り、話が合わない同級生達との生活をガマンし続けた。

だけど、とうとう僕は、ガマンできなくなった。
10月未明、僕は学校に行かなくなった。理由は単純、「教室にいると息苦しいから」。
本当に誰とも話が合わなくなり、毎日毎日学校に行くのが、僕にはだんだん苦痛になってしまった。
なぜ、誰も僕の話を聞いてくれないのか、そして、なんで真面目な話は嫌がるのか、僕は、一体どうすればいいのか分からないまま、体調不良を理由に登校拒否を始めた。
この10月から新年を迎えた3月まで、僕は一切学校へは行かなかった。僕は私的に、この約5ヶ月の間を「暗い日々」と言っている。もう、生きることにすら疑問を持ち始めるという、とても危険な時期もありました。今思えば、とても心が塞ぎ、そして「笑う」ということを忘れた期間でした。人は笑うことで生きていることを実感していると、どこかの本で読んだことがあります。つまり、僕は5ヶ月もの間「自分が生きている」ということを忘れていたのです。思い出すと、とても信じられない(今は毎日笑っています。笑わない日はないほどです)。
ですが、そんな暗黒の時期でも、唯一心を開けたのが家紋だった。家紋と向き合う時間だけが、僕が唯一「楽しい」あるいは「幸せ」だと思えたときだった。家紋の歴史を調べると、それが自分のルーツにもつながるということも知った。徳川家の葵紋がバリエーション豊富だということも、カタバミ紋が子孫繁栄の意味があるということも知った。
とくに勉強をするわけでもないので、僕は毎日のように家紋の本を読んでいた。その多くは、家紋の図柄だけを見ていました。もう家紋を見ているだけでも、心が少し落ち着きました。

平成21年4月、僕は2年生へと昇進した。
最初は、「今度こそは」という気持ちで教室に行きました。何人かの生徒は、僕のことを知っていたらしく、「今までどこにいたの?」など心にグサっとくる質問を多数突きつけてきた。担任の先生は1年のときと同じで、それが一番よかった。
でも、それも束の間で、わずか3日ほどの登校で僕は教室に行かなくなった。またちょっとの間だけ不登校が続きます。

でも、6月になって転機が訪れました。
僕は教室へは行かずに、「心の教室」という別教室への登校を始めました。これが僕の学校生活に、大きな変化をもたらしました。
最初はまったく知らない相談員の先生たちとギクシャクしていたけど、次第に相談もするようになり、僕は「心の教室」だけが、名前のとおり「心から通える教室」となりました。
そこでは、普段学校の授業では決して教えてくれないことも多く学びました。
たとえば相談員さんによる心理テスト、あれは本当にすごかった。たとえば、自分が好きな色でピラミッドを作る、というのがあるのですが、僕もそれを作り、結果を聞いたときはビックリでした^^
他にも、校長先生の計らいで、職業体験では特別に遺跡の発掘調査に同行し、参加しました。これは忘れることのない永遠の思い出です。発掘場所は海老名の代表文化財・相模国分寺跡、国指定の史跡です。出土したのは古い陶器類の破片が主でしたが、瓦の破片も出てきました。自分の手で歴史的な遺物を掘る、まさに夢のような体験でした。ちなみにですが、僕が掘った場所は現在、市の郷土史博物館が移設されていて、「この下を私は掘ったんだ!」といつか誰かに言いたい^^
また、最大の出来事といえば、スクールカウンセラーの小野寺先生との出会い。この先生との出会いは、まさに天命だったのかもしれません。
スクールカウンセラーだからどんな話でも聞いてくれるし、それに僕の生きがいである家紋に、先生自身も興味を持ってくれたことが一番嬉しかった(これがある意味、日本家紋普及協会創設のキッカケ)。
その後も先生と話をするたびに、僕は今まで無かった、自分への自信がついた。物事も冷静かつ様々な視点で見るようになったり、一人称(つまり自分のことをオレとか僕などということ)も僕からだんだん私へと変わりつつあった。これもある意味の変化です。

でも、その途中途中で、嫌なこともあった。
たとえば心の教室にいるとき、窓の外から同級生がからかいにやってきたこと。あれは一番、心にキズだった。
もっとひどいのは、僕のいた部屋から上に位置する向かいの棟の教室から、窓を開けて悪口を言われたこと。あれは、もう嫌だということしか思わなかった。必死で勉強している最中に突然の妨げ、また徐々に僕の心は塞ぎつつあった。
でも、また不登校へはならない。今度は「相談できる人」がすぐそばにいた。これが最大の利点だった。これがなかったら、最悪の場合、自傷行為にもはしっていたかもしれない。それほど僕は、同級生からの暴言にキズを負っていた。

このように、いいこともあれば嫌なこともあった1年2年、そしていよいよ3年生へとなりました。中学生、最後の生活が始まったのです。
前年からの体験からか、僕は同級生への恐怖心や不安心はさほどなくなっていた。それでも、僕は教室へは行かずに、以前と同じく「心の教室」へと通い続けたのです。
3年生のときは、さほど不幸と幸福の激しい浮き沈みはなかったものの、まさか「恋」するとは自分でも思わなかったです。
始まりは体育祭の練習が始まる前のこと、心の教室である先生と楽しく談笑をしていたとき、ふと話題が僕の小学生時代に移った。僕はそのとき、ポロっと初恋の話をしてしまった(後悔はしていない)。
とっても想いを寄せていた人だったけど、結局最後に会う日まで告白はせず、小学5年(だと思う)のときにクラスが違い、会う機会が薄れて結局は実りませんでした。
それから約5年程が経って、先生の提案でまさかまさかの「初恋の人に会おう!」という目標が設定されたのです。最初はウソだろうなと思っていたけど、体育祭の日に会おうね、という先生の約束によって、これが本当に実行されているんだと知った。内心は嫌ではなく、逆に進んで初恋の人に会いたいと思うようになりました。
体育祭の予行練習のときには、校舎最上階から練習を見て、初恋の人がどこにいるのか、先生が進んで教えてくれた。思い返すと、楽しんでいたのは先生の方だったのかも知れない(笑)

そして運命の日、体育祭当日。
事務テントそばで見学していた僕は、暑い中を頑張る同級生達を必死に応援した。途中、初恋の人のことを忘れていた。
でも、先生が「そろそろだよ」と予告してくれたときに、再び初恋の人が脳裏に浮かび、急に緊張し始めた。
そして、僕の立つ位置から大体20メートルのところに、初恋の人は現れた。それがどれほど嬉しかったことか、今思い出してもあのときの感情がよみがえる。
直接話はしなかったけど、それでも自分の目で、初恋の人を見れただけでもよかった。というか、当時の僕はそれが限界だと思っていた。彼女自身、僕のことを覚えているかも知らないし、会う機会自体がないことも知っていた。だからこそこの貴重な再開(相手は知らないけど)は、僕にとっては一番嬉しかったことでした。この幸福感は精神力を増強させ、僕は3年生最後の体育祭を、最初から最後まで見ることができた。これはすべて、彼女に会えたからこそです。

その後、僕は彼女への感謝の気持ちを込めて、絵と手紙を送った。
無論、返事などこないものだと思っていた。ただ、僕の感謝の念が伝わればいい、ただそれだけでA4の画用紙に、当時の自分の画力を結集させ、1枚の絵を描きました。手紙もなんどか書き直し、家族には内緒にしながら書いた。絵に関しては家族には「知人にあげる」とごまかしてました;^^

絵と手紙を送って、確か1ヶ月くらい経った頃のこと。
奇跡としか言いようの無い出来事が起きた。
心の教室に、初恋の人がやってきた。それは当時、新しく心の教室へと来ていた女子の同級生(クラスメイト。紋は「菱に三つ目結い」)と友人関係にあるということで、なんと僕も対面に成功した。
マスクをしていたから、顔はあまり見えなかったけど、黒く、長く、綺麗な髪は昔と変わらず健在だった。僕は緊張のあまり、あんまり話ができなかった。
でも、彼女が「手紙、ありがとう」と言ってくれたのが、もうとにかく嬉しかった。本当はもっと話したかったけど、感想だけでも聞けてよかった。

その後の学校生活は、比較的に良好だったといえる。
12月には保険便りの挿絵を依頼され、1月には1年ぶりに同級生から年賀状がきた(さきほどのクラスメイト)。
そして、志望校への合格も大きな幸運だった。これで落ちたら、一体どうしたらいいのかと、もう命をかけていたと言ったら大げさだけど、それぐらいの気持ちはありました。
2月はあっという間に去り、そして、3月。今月の家紋も梅から桃と変わったこの月、僕はとうとう中学生という職を卒業した。
本当は、まだまだ学校にいたい、という多少ワガママな気持ちがあるけど、これも運命ですからね。
この3年で学んだことは、とても大きかったことばかりです。
これをまた一つの教訓として、4月から始まる「高校生活」に役立てようと思います。
ちなみに、本ブログは3月末まで存続します。その間は「卒業後の日々」として、いろんなことを書きたいと思います。
そして新しく始まるブログ「家紋高校生」は着々と準備をしています。
開設はそろそろなので、お楽しみに!^^

3月の大雪は「桜田門」を思い出す。

今日は朝から大雪、予報では雨だったのが大きくはずれ、窓を開けると想像を絶する寒さが!
昨日がポカポカ陽気だったために、この寒さは倍にも匹敵します。昨日のあたたかい気温はどこへ行ったのだろう;^^

ベランダの家庭菜園に以上がないことを確認し、登校の時間までストーブ前で新聞を読む。
ふと、もう3月7日なんだと気づきます。卒業まであと2日、「中学生」と名乗れるのも、あと少しなんですね。長かったようで、短かったかな~。
そんな気持ちを抱いたであろう人が、実は4日前の3月3日に亡くなっている。
それは、歴史を学んだ人であれば必ず聞いたことのある名前、大老・井伊直弼です。
井伊直弼 画像僕が歴史上の人物として尊敬する直弼公は、安政7年3月3日、季節外れの大雪の中江戸城桜田門に向かう途中で脱藩水戸薩摩藩士によって暗殺されました。これがかの有名な事件「桜田門外の変」です。
尊皇攘夷や開国主義やらの思想が存在し、血を流す事件も度々発生する世に、直弼公は勇敢に、しかも自分の命をかけて日本改造を行いました。
ただ、やっぱり安政の大獄は行き過ぎだと思いました。反対派を武力で片付けるのは簡単ですが、その後を知らないと、とても無残な結末を迎えます。おそらく、直弼公はそれを承知で実行したんでしょう。
直弼公は、日本国を切り開き、新しい国家を目指していました。長年の鎖国を取り払い、多くの国々との貿易を行い、国を豊かにさせようと思っていたのです。そのために、天皇の許しを得ずに米国との条約を締結し、結果反対派の怒りを買ってしまいましたが、それもまたしょうがないと考えていたのです。
国のためなら命をささげる、武士そのものです。そこにも僕は直弼公に惹かれました。
また、直弼公は文化人としても有名でした。茶道や俳句、能などの趣味を持ち、どれも達人並と評されています。とくに茶道では「宗観」という号までつくり、なんとお茶の新しい一派まで作ってしまったのです。相当の腕があったのでしょうね。

このように、武士としての顔を持ち、さらには文化面での活躍もある、僕はここにさらに、直弼公への尊敬が生まれました。

また、桜田門外の変が起きる前、直弼公は生前に戒名と位牌を作っていました。ここですでに、「いつでも死ぬ覚悟がある」ということが分かります。それほど、世の中が不安定だったことも分かります。

旧暦に直せば、今月の24日が本当に桜田門外の変が起きた日。
その日、おそらく直弼公の紋・彦根橘は血に染まったのでしょうね。
冥福と尊敬の意を込めて、24日に祈りをささげようと思います。

彦根橘

「彦根橘」 彦根藩主井伊家の家紋。本当は「丸」がついてます。

中学生最後の「お墓参り」。

とうとう6日、卒業式まであと3日と迫りました。恐いぐらいに早いです;^^
でも、正直な気持ちを言えば早く卒業したい。同級生に会って嫌な気持ちもしなくなるし、僕の過去を一切知らない人たちと、また新しい学校生活を送りたいです。多分この1年は学校に慣れるまでが大変そうですから、そこさえ乗り越えれば楽です。勉強も難しそうだけど、得意不得意は誰にでもあります、せめてどの教科も平均点ぐらいはとりたいです。

さて、今日は僕の中学生生活として最後のお墓参りをしてきました。朝から身支度を整え、荷物をまとめ、三つ紋付で出かけました。
ちなみに今日着用した羽織はこちら
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前までは背中の紋だけの一つ紋羽織でしたが、改良を重ね、そして新しい羽織も買い、人生は初の3つ紋羽織を作り着ました。家紋を拡大するとこう
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これはゼッケンの生地に家紋を描き、アイロン熱で接着するノリで作りました。我ながら良い出来^^
もう一つ、愛用のバッグも
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黒地に大きく家紋を貼り付け、インパクトがあります。これも先ほどの製法同様につくり、母には好評でした。
このようなまさに「家紋尽くしファッション」で出かけ、道行く人にジロジロと見られ、近場の駅で電車に乗ってお寺のある町を目指しました。
行きの電車ではずっと立っていましたが、帰りは座れたので大丈夫です。

目的地に着き、まずはお供え用の花を購入し、お寺を目指します。
もうこのブログを長くご拝見いただいている方にはご存知の方もいるかと思いますが、僕の父方の実家の菩提寺は善了寺という浄土真宗のお寺、神奈川県横浜市戸塚区にあり、あの東海道に面するお寺です。近くには安藤広重の絵にも描かれた「戸塚宿」の題材となった吉田大橋があり、いまも名所として残されています。
今日はお墓参りだけではなく、この吉田大橋にも行きました!
何回も何回も戸塚には来ているのに、この吉田大橋には一度も寄ったことがありませんでした。地図で見るとお寺からはすぐ近く、こんな近くなのに今まで寄らなかったのがちょっと悔しい。
気を取り直して、早速吉田大橋へ
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付近では工事をしているらしく、向かうまでちょっと大変でした;^^
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橋にはこのようなちょっと変わった電灯があります。大分昔ですが、祖母とこの吉田大橋を渡ったときに「大名行列の印を象ったもの」と説明してくれました。確かにそうとも見えます。
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この橋には戸塚を描いた浮世絵が展示されています。江戸時代好きにはたまりません^^
他にも数点の絵がありました。
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今年の読売新聞社の購読プレゼント「東海道53次」にもあった「戸塚宿」、この絵を見たときから吉田大橋への興味がわきました。その橋に渡ったと思うと、とても感動です。
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この絵にはある紋が、
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我が副紋にしてカタバミ紋代表格の「丸に剣カタバミ」が!菩提寺が誓い父方の紋であるだけに、なんだか不思議な縁を感じます。
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この4枚の浮世絵が吉田大橋で見られます。行ったときに知ったので、喜びは倍増します^^

橋を渡りきると、そこにようやく「安藤広重作 東海道53次戸塚宿 説明板」がありました。
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この看板がある位置から橋を見ると、なんとこの絵とほぼ同じ形で見ることができるというのです!では早速!
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最初の感想は「へ~なるほど~」と思ったのですが、どうも信号機や道路の色やらがミスマッチングで、あんまり想像力は働きませんでした;^^
でも、ここが絵の題材になったことは、後世一度も変わることはありません。そう考えれば、まぁ納得です。

大分吉田大橋と浮世絵を語ってしまいましたが、今日、僕が戸塚に行ったのはお墓参りが目的です。
確かに、中学生最後という記念的な意味もありましたが、それともう一つ、あるものをお供えしたかったのです。
それは僕が、とある公募に中学2年生のときに応募した祖父への手紙が、故人への手紙集という形で本に掲載したことを、祖父に直接伝えたかったのです。
暖かい日差しが背中に当たる中、墓石をキレイに拭き、花を供え、そして風呂敷に包んで持ってきた本を供え、お線香をあげました。
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数珠を片手に持ち、目を閉じて手を合わせる。
今までは、悩み事などがあるたびに来ていたお墓参りですが、久しぶりにいい報告が出来ました。
ただ、どうも墓石の紋が劣化しているのが気になる。今度は家紋を配した品を持ってこようかな。

ようやく本命を果たせたところで、帰り途中に駅ビルに寄り、いいものを買いました。
いいものとは、茶道具です!
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茶碗にお湯を入れる杓、お茶の粉を入れる茶筒、お茶をかき回す、かき混ぜ棒?、そして試にと買ったお茶の粉。
前々から茶道には興味があり、実は幼稚園のときには行事として何回かやっていました。そのときは日本の文化というより、そのときに出てくるお茶菓子が目当てでした^^
あの楽しい気分をまた味わいたい、そして日本の文化に触れたいと思い買いました。
が!!
肝心の茶碗を買ってない!これでは茶道も何もないですね(涙)
また近いうちに探すとします。

なんだか今日は、お墓参りというより旅行みたいでした。
中学生最後のお墓参りが、楽しく終われてよかった。

<今日のオマケ>
自宅に帰ろうと電車を待っていたとき、横浜駅のホームでちょっとした発見。
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デパート「そごう」の社章が家紋にしか見えない。
確か「丸に五の字」に似てる。帰り際にいいものが見れました^^

丸に五の字

「丸に五の字」 文字紋の一種。デパートそごうの社章に似ています。
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