新聞の政治面、ここを真剣に見る若者が何人いるか知らないが、僕は欠かさず見る。今、この国で何が起こっているのか、政治家は何をしているのか、一国民としては知っておくべきだと思っているからです。
最近の政治面を見てみると、どうも気分が悪くなる。というより、今の政治家が何をやりたいのか全く分からない。いわゆる「マニフェスト」なるものを作っておきながら、その公約を果たそう!という意思がまるで伝わってこない。最悪の場合、マニフェストに反する政治をしている。これは許せる事なのかな。
僕が思うことは、まず議員の給与を下げるべきです。総理大臣なんて年間2000万以上ものお金を貰っているのです。それほど重責の役職であることは分かりますが、なんか一庶民から見ると「貰いすぎなんじゃない?」と思います。一般議員も何百万という給与を貰っていて、それで「財政を立て直そう!」などと言われても、説得力が無い。まずは自身たちの給与を減らして、そこからお金について言えばいい。
江戸時代の誰だったかは忘れたけど、自分の藩を豊かにさせるため極度の質素倹約に努めた殿様がいました。その人は家族や家臣たちの同意もあって、見事財政を回復させ、藩を豊かにすることが出来ました。
しかし、今はどうでしょうか。幕藩体制とは大きく違いますが、先人たちが自分たちの給与を削ってまで財政回復に努めたのだから、今の政治家は大いに見習うべきです。綺麗なスーツを着て、マイク持って「その事業廃止」と言っていれば言いわけないのだから。
僕はあまり好まない現・日本政府、それを代表する紋章があるのをご存知ですか?
それは家紋の中でもかなりメジャーな「桐紋」です。首相が会見などをする際の台に付けられています。
これは昔、天皇が政治に参加していた頃に「天皇家は菊紋、政府は桐紋」と自然的に決められたようです。桐紋は皇室の副紋であり、500円硬貨の裏の装飾にも使われています。
桐紋の歴史は文様より始まります。歴史は古く、伝わった本流は中国でした。伝説上の鳥・鳳凰が住む場所、それが桐でした。この言い伝えから「ありがたい文様」として皇室にも愛されました。
そして時は流れ鎌倉時代、幕府に反抗心を抱いていた後鳥羽天皇が愛用の刀に菊の紋を印し、以降は「皇室の紋章」として認知されるようになります。
一方桐紋の場合、家紋になった時期は確定しづらい。ただ文様として古くからあったので、菊紋と同じかあるいは少し遅い頃に、「天皇の副紋」として使われるようになります。
室町時代には、将軍家に桐紋を送り、その将軍からさらに認めた武士たちに桐紋を与え、桐紋は「特別な紋章」として価値が上がり、武士の憧れの家紋になります。
特に戦国時代に、その価値は多く利用されました。例えば織田信長は、将軍家より桐紋を賜り、以後は定紋「織田木瓜」よりも権威ある桐紋を多く用いたようです。教科書でよく見る信長の肖像画には、「五三桐」が書かれています。他の肖像画にも、「織田木瓜」よりも桐紋が目立ちます。おそらく、桐紋の権威にあやかったと考えられます。
そして戦乱の世が終ると、今度は徳川の世、つまり「江戸時代」がやってきます。江戸時代初期、幕府を開いた家康は天皇より菊紋と桐紋の下賜を許されましたが、家康はこの時「私には葵紋があるので結構」とキッパリと断ったのです。これは家康の策略で、菊・桐紋の下賜をしないことで皇室の権威を落とし、幕府の力を強めようと考えていたのです。
しかし、幕臣旗本の家紋には「桐紋」がすこぶる多く、桐紋を好んだ武士は多かったようですね。
そして一気に時代は進み幕末、そして「明治時代」!この時代になって皇室以外の菊紋の使用を禁止しましたが、桐紋にはありませんでした。むしろ新しい家紋が多く生まれた時代でもあったため、家紋の存在が再認識されたのです。
そして現代、今では誰もが使える家紋「通紋」(つうもん)の一つですが、家紋の存在を知らない人が多い中、日本政府は今なお「政府の紋章」として桐紋を使っています。
しかし、最近の政治を見て、なんだかこの桐紋が不憫に思えてくる。かつては「憧れの紋」として名をはせていたのに、今では誰もが使え、一国の政府の紋章になっている。これはこれで、いいのかもしれない。
でも、果たして今の国会議員たちは「自身の家紋」を重んじているのか、あるいは知っているのか、それが気になってしょうがない。
もし、「自分の家紋を知っている」という議員が半数にも及ばなかったら、これは僕から見れば大問題です。日本人として生まれ、もちろん家紋を持ち、国の政治を左右する人達が、自身の家紋もろくに知らないで日本という素晴らしい国を動かそうなど許せない。
もし、「家紋そのものを知らない」のが大半だとすれば、それも断じて許せない。
もう僕は、今後の日本の政治に期待できるか分からない。
「五七桐」 使用者が多い桐紋。日本政府が使っているのは多分これだと思う。ちなみに僕の旧友は「五三桐」だった。
最近の政治面を見てみると、どうも気分が悪くなる。というより、今の政治家が何をやりたいのか全く分からない。いわゆる「マニフェスト」なるものを作っておきながら、その公約を果たそう!という意思がまるで伝わってこない。最悪の場合、マニフェストに反する政治をしている。これは許せる事なのかな。
僕が思うことは、まず議員の給与を下げるべきです。総理大臣なんて年間2000万以上ものお金を貰っているのです。それほど重責の役職であることは分かりますが、なんか一庶民から見ると「貰いすぎなんじゃない?」と思います。一般議員も何百万という給与を貰っていて、それで「財政を立て直そう!」などと言われても、説得力が無い。まずは自身たちの給与を減らして、そこからお金について言えばいい。
江戸時代の誰だったかは忘れたけど、自分の藩を豊かにさせるため極度の質素倹約に努めた殿様がいました。その人は家族や家臣たちの同意もあって、見事財政を回復させ、藩を豊かにすることが出来ました。
しかし、今はどうでしょうか。幕藩体制とは大きく違いますが、先人たちが自分たちの給与を削ってまで財政回復に努めたのだから、今の政治家は大いに見習うべきです。綺麗なスーツを着て、マイク持って「その事業廃止」と言っていれば言いわけないのだから。
僕はあまり好まない現・日本政府、それを代表する紋章があるのをご存知ですか?
それは家紋の中でもかなりメジャーな「桐紋」です。首相が会見などをする際の台に付けられています。
これは昔、天皇が政治に参加していた頃に「天皇家は菊紋、政府は桐紋」と自然的に決められたようです。桐紋は皇室の副紋であり、500円硬貨の裏の装飾にも使われています。
桐紋の歴史は文様より始まります。歴史は古く、伝わった本流は中国でした。伝説上の鳥・鳳凰が住む場所、それが桐でした。この言い伝えから「ありがたい文様」として皇室にも愛されました。
そして時は流れ鎌倉時代、幕府に反抗心を抱いていた後鳥羽天皇が愛用の刀に菊の紋を印し、以降は「皇室の紋章」として認知されるようになります。
一方桐紋の場合、家紋になった時期は確定しづらい。ただ文様として古くからあったので、菊紋と同じかあるいは少し遅い頃に、「天皇の副紋」として使われるようになります。
室町時代には、将軍家に桐紋を送り、その将軍からさらに認めた武士たちに桐紋を与え、桐紋は「特別な紋章」として価値が上がり、武士の憧れの家紋になります。
特に戦国時代に、その価値は多く利用されました。例えば織田信長は、将軍家より桐紋を賜り、以後は定紋「織田木瓜」よりも権威ある桐紋を多く用いたようです。教科書でよく見る信長の肖像画には、「五三桐」が書かれています。他の肖像画にも、「織田木瓜」よりも桐紋が目立ちます。おそらく、桐紋の権威にあやかったと考えられます。
そして戦乱の世が終ると、今度は徳川の世、つまり「江戸時代」がやってきます。江戸時代初期、幕府を開いた家康は天皇より菊紋と桐紋の下賜を許されましたが、家康はこの時「私には葵紋があるので結構」とキッパリと断ったのです。これは家康の策略で、菊・桐紋の下賜をしないことで皇室の権威を落とし、幕府の力を強めようと考えていたのです。
しかし、幕臣旗本の家紋には「桐紋」がすこぶる多く、桐紋を好んだ武士は多かったようですね。
そして一気に時代は進み幕末、そして「明治時代」!この時代になって皇室以外の菊紋の使用を禁止しましたが、桐紋にはありませんでした。むしろ新しい家紋が多く生まれた時代でもあったため、家紋の存在が再認識されたのです。
そして現代、今では誰もが使える家紋「通紋」(つうもん)の一つですが、家紋の存在を知らない人が多い中、日本政府は今なお「政府の紋章」として桐紋を使っています。
しかし、最近の政治を見て、なんだかこの桐紋が不憫に思えてくる。かつては「憧れの紋」として名をはせていたのに、今では誰もが使え、一国の政府の紋章になっている。これはこれで、いいのかもしれない。
でも、果たして今の国会議員たちは「自身の家紋」を重んじているのか、あるいは知っているのか、それが気になってしょうがない。
もし、「自分の家紋を知っている」という議員が半数にも及ばなかったら、これは僕から見れば大問題です。日本人として生まれ、もちろん家紋を持ち、国の政治を左右する人達が、自身の家紋もろくに知らないで日本という素晴らしい国を動かそうなど許せない。
もし、「家紋そのものを知らない」のが大半だとすれば、それも断じて許せない。
もう僕は、今後の日本の政治に期待できるか分からない。
「五七桐」 使用者が多い桐紋。日本政府が使っているのは多分これだと思う。ちなみに僕の旧友は「五三桐」だった。