芹ヶ谷だより

美術館スタッフが皆さまにお届けします。

館長かわら版 その二十八

 深い黒の地から、輪郭のややあいまいなモチーフを浮かび上がらせるメゾチントの技法は、フランス語ではマニエール・ノワール(黒の技法)と呼ばれています。デリケートな陰影や階調表現が可能なことから、ヨーロッパにおいては肖像画などの複製手段として広く用いられていましたが、写真技術が発達するにつれて次第に姿を消し、20世紀初期にはその技術も忘れ去られてしまいます。この黒の技法の持つ可能性に注目して復活させたのが、戦前に日本から渡仏した長谷川潔であることはよく知られています。ですので、長谷川潔といえばメゾチントが想起されるのですが、実は彼が生涯に制作した600点を超える版画作作品の中で、一番多いのはドライポントで、その次がエングレービング(ビュラン)だそうです(猿渡紀代子「長谷川潔 芸術のひみつ」『銅版画家 長谷川潔 作品のひみつ』、玲風書房、2006年)。版画家として出発した初期には、創作版画につながる素朴な味わいの木版画もかなりの数を手がけています。メゾチントは生涯を通じて70点ほどです。

 現在当館で開催している企画展「長谷川潔 1891―1980 日常にひそむ神秘」は、初期から晩年までの彼の版画作品を約160点、展示しております。彼の作風の変遷がよくわかり、たとえば同じメゾチントでも、1920年代の縦横斜めの線で表現した風景版画は、1950年代以後の後期のメゾチントの深い黒をバックにした室内静物画とは異なり、明るい戸外を薄い紗を通して透かし見たような面白さがあります。

 ところで、美術史などという学問を生業にしながらも、家の中や車の中などを美術品で飾ることにはほぼ無頓着な私ですが、自宅には2点だけリビングに額装の版画作品を掛けています。ひとつは二女が小学生時代に制作した二色刷りで鶏を表現した木版画で、なかなか味のある出来栄えです(親ばかですね)。もうひとつは長谷川潔のメゾチントの代表作「狐と葡萄(ラ・フォンテーヌ寓話)」です。イソップ寓話をもとにラ・フォンテーヌが書いた寓話の世界を、壁に掛かった葡萄の枝と布と紐で出来た狐の玩具で象徴的に表現したものですが、深い黒の地に白く浮かぶ狐の姿が、ただの作り物とは見えない神秘的な雰囲気を醸し出しています。ただし、残念ながら本物ではなく、新聞の読者サービスで頒布された印刷複製です。白の壁紙をバックに黒い画面がいいコントラストをつくっているのですが、やはりその黒の深さは本物には敵いません。

大久保純一(おおくぼ じゅんいち 町田市立国際版画美術館館長)

館長かわら版 その二十七

幼児や学童に対する虐待の報道に接することの多い昨今からすると意外かもしれませんが、幕末から明治初期に来日した外国人たちが、日本人が子どもをとても可愛がる姿を見て驚いたという証言が複数残っています。親たちに見守られながら自由に遊ぶ様子に、日本は子どもにとって天国だ、という感想を持つ外国人も少なくなかったようです。

そうしたお国柄だからでしょうか、当世風俗を主題とする浮世絵の中には、子どもの姿を描いたものが少なくありません。母親が幼子を慈しむ姿や、子どもたち同士で無邪気に遊ぶ様子、あるいは雛祭りや端午の節句など子どもが主役となる年中行事を描く作品が浮世絵の歴史を通して無数に見出せるのです。風俗統制がおこなわれた寛政の改革の時代には、母子像にかこつけて官能表現をおこなったり、戊辰戦争のときには、水鉄砲で遊んだり雪合戦をする子どもたちの姿に偽装して、官軍と旧幕側諸藩の戦いを描くなど、政治的な背景を持つ子どもの絵も少なくありませんが、そうしたものも加えると、子どもを主題とする作品は、浮世絵全体のなかでけっして小さくない部分を占めるものと思われます。くもん子ども研究所で子どもを描く浮世絵の収集と研究に長く携わってこられた中城正堯氏は、子ども向けの「おもちゃ絵」なども含め、子どもに関わる浮世絵を「子ども浮世絵」と総称しておられます。たしかに、従来の「美人画」「役者絵」「名所絵」といったジャンル分けでは、漏れてしまう作品も少なくありません。

明治になると西洋式の学校教育が始まり、子ども向けに啓蒙や教材としての目的を持つ浮世絵も多数作られ、「子ども浮世絵」は、ますます多彩さの度合いを増していくようです。今年330日から521日の会期で、当館は国際交流基金の運営するパリ日本文化会館において、「文明開化の子どもたち」と題した展覧会を開催いたしました。公文教育研究会に特別協力をいただき、同会ご所蔵の「子ども浮世絵」と、当館所蔵の作品、あわせて約140点を展示したもので、コロナ禍のもととはいえ、たいへん好評をいただきました。私は現地に行っておりませんが、現代のフランス人も日本人の子ども好きに感心しながらご覧になったのでは、と想像しています。

その凱旋展示という意味も込めて、713日から925日まで、同じ展覧会名でミニ企画展を開催しております。ミニ企画展で展示しているものは当館の所蔵作品だけですが、前後期の展示替えで75点ですので、「ミニ」といいながらもそれなりの分量です。企画を担当した学芸員がおすすめの作品は宮川春汀が明治の子どもたちの遊び姿を描いたシリーズ「小供風俗」です。竹馬、鬼ごっこ、いとかけ(あやとり)など、私たちにとっても馴染み深い遊びも多数含まれています。絵師の筆触を再現した丁寧な彫りと淡い彩色を活かした繊細な摺りにより、目の肥えた大人の鑑賞に堪える作品に仕上がっています。こうした上質の作品に描かれた子どもたちの微笑ましい姿を、優しいまなざしで見ていた大人が数多くいたということは、やはり子ども好きの国民性であるのに違いないのでしょう。

大久保純一(おおくぼ じゅんいち 町田市立国際版画美術館館長)

宮川春汀「小供風俗 たけうま」明治30年(1897)
宮川春汀「小供風俗 たけうま」明治30年(1897)


館長かわら版 その二十六


 企画展「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動」を開催中です。「工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった」のサブタイトルが示すように、戦後の社会運動の場で版画の普及を目指した版画運動と、全国の学校現場で広まった教育版画運動の中で作られた版画を扱っています。多量摺刷が可能な版画のメディアとしての特性が社会運動の広がりと親和性を持つことは理解できるのですが、そもそも、なぜ学校現場で版画が広範囲に普及しえたのか、いまひとつその理由がわかりませんでした。筆で描く絵画と違い、彫りや刷りという技術的制約が加わる版画は、絵の上手い下手という個人の技量の差をある程度埋めることができるので教育の場には向いているのか、あるいは絵とは違う版のもたらす効果(反転して出てくる画像やブラック・アンド・ホワイトの鮮烈なコントラストなど)が生徒にとって新鮮だからか、などと問答して、展示作業で忙しい担当学芸員を悩ませました。


 内覧会の日に、その疑問に対する答えのひとつを、かつて教員として教育版画運動の現場で活躍しておられた石田彰一先生からうかがうことができました。さまざまな技術を要する版画は、教員にとっては絵画よりも、より生徒と密接にかかわることができるというのです。版画を通しての生徒と教員の交流を深められることが、教育現場に適したものだったのです。

 このお話をうかがったのは、石田先生の指導でつくられた川崎市東大島小学校版画クラブによる共同制作版画「民家園」の前でした。「これだけ大きな作品(畳1畳ほどもあります)なら、版画とはいえ、1点制作だったでしょう」、とお尋ねすると、いえいえ、親御さんたちも欲しいとのことで、放課後遅くまで皆で残って複数刷ったのです。頑張る子供たちのために、ご家庭から弁当も届けられていました。」とのこと。今なら家庭から子供に夜の弁当を届ける先は受験塾でしょう。熱い時代だったことがつたわるお話でした。

大久保純一(おおくぼ じゅんいち 町田市立国際版画美術館館長)


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