企画展「浮世絵風景画 広重・清親・巴水 三世代の眼」は会期後半に入っています。今回は後期展示で日本橋を描いた作品を2点、とりあげてみます。
東海道を描いた絵師として知られる広重ですが、生涯を通じてもっとも数多く描いたのは江戸の名所です。彼が手掛けた数多の江戸名所絵シリーズの中で、傑作として知られるのが天保期に佐野屋喜兵衛から出版された「東都名所」です。「日本橋之白雨」はその中の1図です。「白雨」とはにわか雨のこと。画面左奥へと続く日本橋と右奥へと遠ざかる日本橋川という左右両方向への空間の奥行を二点透視法的に処理し、遠景ほど淡く霞み、色を失うという空気遠近法も併用し、急な雨に煙る日本橋周辺の風景が、その雰囲気まで含めてリアルに再現されています。同じ絵師の手になる保永堂版「東海道五拾三次之内 日本橋」とともに、江戸時代の風景画でこの橋を主題としたものの中で双璧といえるでしょう。
歌川広重「東都名所 日本橋之白雨」天保(1830-44)前期、個人蔵
でもよく見ると現実にはあり得ないことが描かれているのに気づきませんか。雨が降っているのに、遠くに富士山が見えるはずはありません。風景の「写真(現在の「写実」とほぼ同義)」を売り物としていた広重なのに、どうしてなのでしょう。
広重に限らず、江戸の名所絵として描かれた日本橋図には、かならずといっていいほど、手前から奥に向かって、日本橋、江戸城、富士山が配置されています。当時の人々にとって、江戸の繁栄を象徴する場所であった日本橋は、江戸城(江戸の町は将軍のお膝元)、富士山(江戸では富士を信仰する冨士講がさかんで、人々の精神的な支えともいえる存在)といっしょにイメージすることが定着していたからです。たとえ現実にはありえない現象でも、人々が日本橋に対して抱くイメージを裏切らない、そのことが広重の名所絵の成功の秘訣でもあったわけでしょう。
その広重も、東海道シリーズ中の1図として描くときは、構図を変えています。上述の保永堂版「東海道五拾三次之内 日本橋」(前期展示)や「東海道五十三次之内(行書東海道) 日本橋 曙旅立の図」(現在展示中です)では、背景には江戸城も富士山も描かれていません。あくまでも街道の起点として橋をほぼ正面からとらえているからです。
後期展示では、巴水の描く日本橋風景の傑作も展示しています。「東海道風景選集 日本橋(夜明)」。石造りのアーチ橋と姿を変えた日本橋を斜め方向からとらえ、背景にビル群を望んでいます。ゆっくりと流れる日本橋川の川面にたゆたう橋の姿や、日の光を受けた橋の明暗など、現代的な表現が随所に見いだされます。巴水は「知りすぎているからかも知れませんが、広重の模倣追随などしません」(昭和10年「半雅荘随筆」)と語っていますが、雲の縁が紅く染まって朝焼けを表現するのは、早暁の日本橋を描いた広重の保永堂版「東海道五拾三次之内 日本橋」が脳裡にあったからではないかと思います。ただ、この作品の最大の魅力でないかと思われる画面を支配する爽快な大気の肌触り、そこからにじみ出る透明感あるリリシズムは、間違いなく巴水が生きた時代の感覚を可視化したものに他なりません。

川瀬巴水「東海道風景選集 日本橋(夜明)」昭和15年(1940)
株式会社渡邊木版美術画舗蔵
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