芹ヶ谷だより

美術館スタッフが皆さまにお届けします。

2022年12月

版画×写真展その12 事実を伝えるとは?

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        シャルル・マルヴィル(1813-1879)          シャルル・マルヴィル
      《パリ市庁舎(コミューン前)》c. 1871       《パリ市庁舎(コミューン後)》1871  
               鶏卵紙 東京都写真美術館                       鶏卵紙 東京都写真美術館

 1870~1871年の普仏戦争でプロイセンに敗北したフランスは、さらにパリ・コミューンというフランス人同士が殺し合う悲惨な内戦を経験しました。長い歴史をもつパリ市庁舎の建物が焼き払われたのはこの時です。2枚の写真はコミューン前とコミューン後の市庁舎を同じアングルからとらえた貴重な記録です。中央の塔や屋根が失われ、窓も破れた様子が正確に捉えられていますが、どこか冷静な記録という印象があります。

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レオン・ジャン=バティスト・サバティエ(1827-1887)
『パリとその廃墟』より 《パリ市役所:1871年5月24日炎上》
1873 リトグラフ 大佛次郎記念館

 まさに市庁舎が炎上している様子を描いた当時のリトグラフです。建築とともに文書をはじめとする貴重な資料も大量に失われました。市庁舎の前のバリケードでは武器を手に国民軍兵士たちが戦っています。手前に転がる女性の死体や、男性の掲げる赤旗の竿頭にあしらわれたフリギア帽などから、彼らはパリの市民軍(コミューン派)と考えていいでしょう。

市庁舎の火災は放火によるものです。内戦の最終段階でパリの市民軍は歴史的建造物に次々と火を放ちました。大きな建造物が政府軍の拠点にされることを恐れたためとも言われます。

内戦が政府軍の勝利で終わると、コミューン派に対して苛烈な処分が行われました。ここで紹介しているサバティエのリトグラフ画集は1873年に刊行されたものです。当時の政治状況を考えると、コミューン派を擁護する作品の出版は難しかったはずです。事実をそのまま記録したように思えるこの作品にも、同時代の人々は「貴重な建物に火を放ち、秩序を乱した反乱者」という非難を読み取っていたかも知れません。

パリ・コミューンの頃は湿板写真が主流で、撮影の際にはガラス板に感光材を塗布して、その場ですぐ撮影する必要がありました。フィルム・カメラのように前もって準備しておくことができず、決定的瞬間の撮影は非常に困難でした。報道記録の分野でも、その不足分を版画が補っていたといっていいでしょう。しかし人の手で描かれる版画には主観的な意見が入る余地も大きく、歴史資料としてみる場合にはその点を考慮する必要があるでしょう。

1873年から始まったパリ市庁舎の再建は1892年に完成、マルヴィルの写真とほぼ同じ美しい姿を現在もセーヌ河畔に見ることができます。



版画×写真展その11 バールベックの版画と写真

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明らかに同じ場所をとらえた版画と写真。
版画はイギリスの画家ディヴィッド・ロバーツが1838~39年にかけて中近東を巡って制作した水彩画に基づくリトグラフで、写真はフランスの文学者マクシム・デュ・カンが1849~51年に中近東旅行で撮影したものです。

 バールベックは中東レバノンにある古代ローマ時代の3つの神殿を中心とする古代遺跡。ふたつの作品はそのうちのバッカス神殿の南面をとらえたものです。デュ・カンの作品は「ジュピター神殿」となっていますが、これはフランス国立図書館所蔵の写真アルバムの手書きのタイトルに従ったもので、実際は「バッカス神殿」のことです。

インターネットで「バールベック」と検索してみて下さい。パルテノン神殿のように巨大な柱にぐるりと囲まれたバッカス神殿の画像がたくさん出てきます。神殿の北面には12本、西面には8本の石柱が残されており、外観の特徴を把握するにはこの2面が眺められる北西からの角度が最も適しています。現在の画像の多くはこのアングルから撮られ、19世紀にも同様の版画や写真があります。興味深いことに19世紀には北面の柱は9本、西面は立っているのは3本で、途中で折れた5本が転がっている様子が描かれています。1759年に起きた巨大地震の被害でしょうか。

その一方で、ふたりが描いた神殿の南面の現在の画像はなかなか検索にひっかかりません。どうも南面に続く道は一般客が入れなくなっているようです。

19世紀の版画やスケッチでは、神殿の南側は開けた草地になっており、なだらかな丘の上から神殿全体が見渡せます。ロバーツもデュ・カンも難なく近づくことができたでしょう。南面にはもともと15本の石柱が並んでいましたが、残っているのはふたりが描いた4本と反対側の端の1本、壁の真ん中にもたれかかった柱1本のあわせて5本だけ。建築の見せどころである列柱はほぼ失われています。

さらに言うと、バールベック遺跡最大の建造物であるジュピター神殿はバッカス神殿の北側に位置しており、南面はいわば裏手にあたります。ロバーツは神殿の裏側にかろうじて残った端っこの4本の柱を切り取り、「#映える風景」を作り上げたというのは言い過ぎでしょうか。デュ・カンがこのアングルで撮影したのは、やはりロバーツのイメージが脳裏に焼き付いていたからなのでしょうか。現地を訪ねて、こんな端っこを絵にしたのかなんて驚いていたら面白いですね。

図版キャプション:
ディヴィッド・ロバーツ(1796-1864) 『聖地 シリア、イドゥメア、アラビア、エジプト、ヌビア』より《バールベック》 1842-49刊 リトグラフ、手彩色  町田市立国際版画美術館
マクシム・デュ・カン(1822-1894)『エジプト、ヌビア、パレスチナ、シリア―1849年、1850年、1851年に撮り集めた写真デッサン』より《シリア ジュピター神殿、バールベック》 1852刊 塩化銀紙 東京都写真美術館

a.展覧会の詳細はこちら⇒
http://hanga-museum.jp/exhibition/schedule/2022-515

#町田市立国際版画美術館  #版画  #写真 #バールベック #ロバーツ #デュカン #町田

版画×写真展その10 写真の大衆化:名刺判写真

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ジョン・ロバーツ 《4眼湿板カメラ》
1860 横浜市民ギャラリーあざみ野

 4つのレンズをもつこのカメラは、一枚のネガに8枚の画像を写すことができます。これを印画紙に焼いて切り離せば8枚の写真の出来上がり。それぞれのサイズは小さくなりますが、単価はぐっとおさえられます。

名刺判写真(カルト・ド・ヴィジット)と呼ばれるこの写真は、フランスの写真家アンドレ・アドルフ・ウジェーヌ・ディズデリ(1819-1889)が1854年に特許を申請したものです。魅力は何といってもその安さ。人々は写真館に気軽に足を運び、写真の交換を楽しむようになります。王室メンバーなど有名人の名刺判写真も販売され、コレクションすることが流行します。

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《ポートレイト・アルバム》
19世紀後半 横浜市民ギャラリーあざみ野

コレクションはこのようなアルバムに入れて楽しまれました。イギリスのヴィクトリア女王はこうしたアルバムを110冊も持っていたとか。オーストリア皇后エリーザベトは、美しさの演出を研究するために美女の写真をコレクションしていましたが、そこにも名刺判写真が含まれています。
 
 肖像写真を気軽に交換したり、面識もない人の写真が簡単に買えたりするのは、ダゲレオタイプの肖像写真では考えにくいことではないでしょうか。1枚きりのダゲレオタイプではプライベートな領域にとどまっていた肖像は、名刺判写真の普及によりパブリックな場へと引っ張り出されていきました。それは、どこかの誰かの写真がSNSにあふれる現代につながる第一歩だったといえるでしょう。

版画×写真展その9 ダゲレオタイプの肖像写真

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ジル・ルイ・クレティアン(1754-1811)ジャン・シモン・フルニエ(1750-1799活動)
《フィジオノトラースによる肖像》
1786-1811 エッチング、アクアチント 東京工芸大学中野図書館

 みなさんはカメラでよく撮るものは何ですか? 
 おしゃれなランチの画像をSNSにあげたり、旅先の風景を撮ったり、いろいろある中でもやはり人物を撮ることは多いのではないでしょうか。

誰かのすがたを残したい、それもできるだけ正確に。その願いは古くからあったはずですが、簡単にかなえられるものではありませんでした。画家をやとって肖像画を描いてもらうにはそれなりの費用がかかり、ごく限られた階層にしか許されなかったのです。

1784年にフランスで発明された肖像を描くための装置・フィジオノトラースは、シルエット・マシーン(スクリーンの向こう側にモデルを座らせ横顔の輪郭をトレースする)を進化させたもので、モデルを装置の中に座らせ、接眼レンズとパンタグラフの操作によって10分ほどで肖像デッサンを仕上げました。このデッサンから銅版画を制作し、直径6 cm ほどの肖像12枚が数日後に手元に届く仕組みで、費用は数万円程度だったようです。フィジオノトラースはドイツさらにアメリカに伝わり、人気を博しました。

 このフィジオノトラースに取って代わったのが、ダゲレオタイプです。1839年に公表された時点では露光時間が長すぎて肖像の撮影は難しかったのですが、1841年に改良されたことで実用化され、大都市に次々と写真館がオープンしました。ダゲレオタイプは1点だけしか制作できず価格も高いのですが、正確さと美しさは比べものにならず、フィジオノトラースはあっという間に姿を消していきました。


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J. ヴァンネルソン(1827-1875) 《ネイラー夫妻》
c. 1850 ダゲレオタイプ 横浜市民ギャラリーあざみ野

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《ネイラー夫妻の肖像》
19世紀前半  ミニアチュール、手彩色 横浜市民ギャラリーあざみ野


ここでご紹介しているのは、同じ夫妻の2組の肖像です。若い頃のミニアチュール(象牙などに描いた小型肖像画)と、数十年後に撮影されたダゲレオタイプで、写真が古い技術の役割を奪っていった様子がよく分かる興味深い例です。

この2組をはじめ、本展には初期写真の貴重な品が展示されています。これらは横浜市民ギャラリーあざみ野からご出品いただいたもので、同館のコレクションはカメラと写真の歴史が総合的にたどれるものとして世界的な評価を受けています。年1回のコレクション展のほか、Webサイトで所蔵作品を検索することも可能です。ぜひ訪ねてみてください。 

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