「独自の世界をさまよう〈フラヌール(遊歩者)〉ともいうべき版画家たちの作品は、過去や私たちの内に眠る原初的な記憶を呼び起こしながら現実世界の可能性、すなわち未来の姿をも浮かび上がらせる力を秘めているといえるのです。」これは、現在開催中の企画展示「幻想のフラヌール―版画家たちの夢・現・幻」の展覧会概要からの抜粋です。ちょっと難しい表現ですが、ここは展示作品をもとに勝手に私の想像を展開させるということで、いつもの駄文をしたためたいと思います。「原初的な記憶」を呼び起こすのではなく、「職業的な記憶」に寄り掛かった内容ですが。
展覧会の趣旨に合わせて、幻想的な作品が目白押しで、この種の世界が好きなかたにはこたえられないと思いますが、中でも私の目を惹いた作品のひとつが西村沙由里の「御霊くだり」です。龍はこの作家がテーマとするモチーフのひとつということですが、作品のタイトルからすると、小さな峰の頂上にある小祠堂に竜の姿をした神体が降臨するところでしょうか。2メートル近い大画面の中で、身をくねらせる巨大な龍の姿と鱗に覆われた体部の迫真的な描写は圧巻で、見つめていると身震いするような感覚が襲ってきます。
もっとも私がこの版画に目を奪われたのは、その迫力だけではありません。降下の途中で身体を上に捻じり虚空に咆哮する姿が、まるで再び天空へと飛び立つように見え、遠景の山のシルエットと相まって、日本絵画の伝統的画題のひとつである「富士越龍図」を思い起こしたからでもあります。葛飾北斎最晩年の作品(小布施の北斎館所蔵)が有名ですが、霊峰富士を越えて竜が天に昇るのは吉祥画題であり、狩野派の絵師にも多数作例があります。富士は不時、龍は断つの音通から、「不時を断つ」つまり「不幸を断つ」という意味を持つとの説があります。
そうした職業的記憶が喚起されたわけですが、この西村の版画に描かれた龍のまがまがしい姿は、人に禍をもたらす荒ぶる神のようにも見えてきます。と、ここまで書いてきて、ふと昭和41年にヒットした大映の映画「大魔神」シリーズを思い出しました。とんだ方向に記憶が遊歩してしまいましたが、これって展示を企画した担当者にはどう思われるのでしょう。
ともあれ、私の駄文や小さな画像ではこの作品の魅力は伝わりません。ぜひ会場でじかにご覧ください。

西村沙由里 御霊くだり
2010年 町田市立国際版画美術館
そうした職業的記憶が喚起されたわけですが、この西村の版画に描かれた龍のまがまがしい姿は、人に禍をもたらす荒ぶる神のようにも見えてきます。と、ここまで書いてきて、ふと昭和41年にヒットした大映の映画「大魔神」シリーズを思い出しました。とんだ方向に記憶が遊歩してしまいましたが、これって展示を企画した担当者にはどう思われるのでしょう。
ともあれ、私の駄文や小さな画像ではこの作品の魅力は伝わりません。ぜひ会場でじかにご覧ください。

西村沙由里 御霊くだり
2010年 町田市立国際版画美術館