10月に入り、芹ヶ谷公園の木漏れ日も肌に心地よい季節になりました。
 当館では9月26日(土)から、秋の企画展「西洋の木版画 500年の物語」がはじまりました。ヨーロッパの木版画の歴史を、その黎明期から現代まで、豊富な館蔵作品をもとにたどる企画です。私は日本の浮世絵版画を専門としており、「日本は世界に冠たる木版画大国だ」と考えていましたが、今回の展示作品を見てそう単純な見方は軽率のそしりを受けかねないなと痛感させられました。
 そう思わされたのは、1870年刊行のリチャード・ドイルの絵本『妖精の国で』です。イギリスの画家、ドイル(『シャーロック・ホームズ』の作者コナン・ドイルは甥にあたります)の原画を、木版刷師のエドマンド・エヴァンスが版画にしたもので、アイルランドの詩人ウイリアム・アリンガムの詩をともなっています。エヴァンスは19世紀にイギリスで開発された木口木版による多色刷り技術の第一人者として知られています。『妖精の国で』は、その最高傑作とされており、小さな妖精たちが草原や木の上で小鳥や虫たちと戯れる様を生き生きと描いています。遊びまわる妖精たちの一日を詠ったアリンガムの詩とドイルの絵は不即不離の関係にあり、絵と詩の全体は矢川澄子さんの訳によるちくま文庫で楽しむことができます(絶版のようですが、古本市場でまだ手に入ります)。
 木口木版は黄楊(つげ)などの硬い木を輪切りにした木口の硬質な面にビュランという鋭利な彫刻刀で彫ります。ひじょうに緻密な表現が可能で、一見、エッチングなどの銅版画にも見えるといわれますが、『妖精の国で』の繊細で緻密な描線はとうてい木版画には見えません。エヴァンスの版画は、色版の線の密度を変え、あるいは重ね刷ることで多彩な色彩表現を実現していますが、本書の場合は、まるで水彩画のようなデリケートな彩色となっています。
 恐るべし、西洋の木版画。『妖精の国で』は、クワガタムシやバッタなどと遊ぶ妖精も描かれています(それらは今回の展示作品にはありませんので、ご興味のある方はちくま文庫をご覧ください)。欧米人は蝶以外の虫には無関心か、むしろ忌み嫌うと聞いていましたので、その意味でも今回は驚かされてしまいました。

大久保 純一(おおくぼ じゅんいち 町田市立国際版画美術館館長)


 『妖精の国で』
リチャード・ドイル原画/エドマンド・エヴァンス刻
『妖精の国で』より
1870年刊