深い黒の地から、輪郭のややあいまいなモチーフを浮かび上がらせるメゾチントの技法は、フランス語ではマニエール・ノワール(黒の技法)と呼ばれています。デリケートな陰影や階調表現が可能なことから、ヨーロッパにおいては肖像画などの複製手段として広く用いられていましたが、写真技術が発達するにつれて次第に姿を消し、20世紀初期にはその技術も忘れ去られてしまいます。この黒の技法の持つ可能性に注目して復活させたのが、戦前に日本から渡仏した長谷川潔であることはよく知られています。ですので、長谷川潔といえばメゾチントが想起されるのですが、実は彼が生涯に制作した600点を超える版画作作品の中で、一番多いのはドライポントで、その次がエングレービング(ビュラン)だそうです(猿渡紀代子「長谷川潔 芸術のひみつ」『銅版画家 長谷川潔 作品のひみつ』、玲風書房、2006年)。版画家として出発した初期には、創作版画につながる素朴な味わいの木版画もかなりの数を手がけています。メゾチントは生涯を通じて70点ほどです。

 現在当館で開催している企画展「長谷川潔 1891―1980 日常にひそむ神秘」は、初期から晩年までの彼の版画作品を約160点、展示しております。彼の作風の変遷がよくわかり、たとえば同じメゾチントでも、1920年代の縦横斜めの線で表現した風景版画は、1950年代以後の後期のメゾチントの深い黒をバックにした室内静物画とは異なり、明るい戸外を薄い紗を通して透かし見たような面白さがあります。

 ところで、美術史などという学問を生業にしながらも、家の中や車の中などを美術品で飾ることにはほぼ無頓着な私ですが、自宅には2点だけリビングに額装の版画作品を掛けています。ひとつは二女が小学生時代に制作した二色刷りで鶏を表現した木版画で、なかなか味のある出来栄えです(親ばかですね)。もうひとつは長谷川潔のメゾチントの代表作「狐と葡萄(ラ・フォンテーヌ寓話)」です。イソップ寓話をもとにラ・フォンテーヌが書いた寓話の世界を、壁に掛かった葡萄の枝と布と紐で出来た狐の玩具で象徴的に表現したものですが、深い黒の地に白く浮かぶ狐の姿が、ただの作り物とは見えない神秘的な雰囲気を醸し出しています。ただし、残念ながら本物ではなく、新聞の読者サービスで頒布された印刷複製です。白の壁紙をバックに黒い画面がいいコントラストをつくっているのですが、やはりその黒の深さは本物には敵いません。

大久保純一(おおくぼ じゅんいち 町田市立国際版画美術館館長)