目にみえる世界を二次元に定着させるということでは、絵画や版画と写真は同じ機能を有しているといえます。いかに外界をリアルに再現するか、絵画や版画の発展の歴史にはそうした機能の追及という面も小さくありませんでした。
日本では江戸時代後期から西洋絵画の影響も受け、線遠近法や陰影法などを取り入れてリアリズムへの動きが明確になっていきます。私が専門とする浮世絵もその例外ではありません。しかしながら明治になって写真技術が流入すると、リアリズムを志向していた浮世絵版画は、写真のもつより高次元の再現力を前にして方向転換をせざるを得なくなりました。明治13年から14年の一時期、着色写真の質感を木版風景画で追及していた小林清親が、その後の風景版画では、(おそらく写真の再現力に匹敵することの不可能を悟って)江戸末期の純浮世絵的画風に回帰したことは、その一例です。
日本よりもずっと早く、しかも遥かに高レベルのリアリズムに達していた西洋の絵画や版画が、19世紀における写真の登場とどう向き合ったのか、ずっと気になっていました(怠け者なので、気になっていただけで、本気で勉強するなど思いつきもしないのですが)。高い再現力を獲得していた西洋画は、写真が登場してもびくともしなかったのでは、などとも想像していました。今回の企画展示「版画×写真 1839-1900」は、その疑問に対して教えてくれることの多いものです。ひとことでいえば、西洋も絵画や版画と写真との向き合い方は単純ではなかったということのようです。
西洋銅版画は高い再現力を獲得していたが、写真の正確さと迅速さには太刀打ちできず、実用の世界で道を譲っていくことになる。一方で写真は「芸術ではない」という絵画や版画の世界からの攻撃に反撃し、写真ならではの表現を獲得しようと苦闘する。写真は戦争報道でも活躍するが、クリミア戦争(1853-1856)では従軍した将校の肖像や戦地の景観は写真が担い、臨場感ある戦闘場面は従軍画家たちの絵筆が伝えるといった役割分担がなされたなど、いずれも展示内容から拾った版画と写真の関係です。最後の戦争写真と戦争画の関係は、日露戦争を伝える写真雑誌と錦絵の関係にも通じるところがあることに気づかされ、いろいろ示唆に富む展示内容です。
もちろん、「ええっ これが写真? 絵じゃないの?」みたいな、素朴な驚きが得られる作品も出ていますので、きっとお楽しみいただけると思います。
日本では江戸時代後期から西洋絵画の影響も受け、線遠近法や陰影法などを取り入れてリアリズムへの動きが明確になっていきます。私が専門とする浮世絵もその例外ではありません。しかしながら明治になって写真技術が流入すると、リアリズムを志向していた浮世絵版画は、写真のもつより高次元の再現力を前にして方向転換をせざるを得なくなりました。明治13年から14年の一時期、着色写真の質感を木版風景画で追及していた小林清親が、その後の風景版画では、(おそらく写真の再現力に匹敵することの不可能を悟って)江戸末期の純浮世絵的画風に回帰したことは、その一例です。
日本よりもずっと早く、しかも遥かに高レベルのリアリズムに達していた西洋の絵画や版画が、19世紀における写真の登場とどう向き合ったのか、ずっと気になっていました(怠け者なので、気になっていただけで、本気で勉強するなど思いつきもしないのですが)。高い再現力を獲得していた西洋画は、写真が登場してもびくともしなかったのでは、などとも想像していました。今回の企画展示「版画×写真 1839-1900」は、その疑問に対して教えてくれることの多いものです。ひとことでいえば、西洋も絵画や版画と写真との向き合い方は単純ではなかったということのようです。
西洋銅版画は高い再現力を獲得していたが、写真の正確さと迅速さには太刀打ちできず、実用の世界で道を譲っていくことになる。一方で写真は「芸術ではない」という絵画や版画の世界からの攻撃に反撃し、写真ならではの表現を獲得しようと苦闘する。写真は戦争報道でも活躍するが、クリミア戦争(1853-1856)では従軍した将校の肖像や戦地の景観は写真が担い、臨場感ある戦闘場面は従軍画家たちの絵筆が伝えるといった役割分担がなされたなど、いずれも展示内容から拾った版画と写真の関係です。最後の戦争写真と戦争画の関係は、日露戦争を伝える写真雑誌と錦絵の関係にも通じるところがあることに気づかされ、いろいろ示唆に富む展示内容です。
もちろん、「ええっ これが写真? 絵じゃないの?」みたいな、素朴な驚きが得られる作品も出ていますので、きっとお楽しみいただけると思います。
大久保純一(おおくぼ じゅんいち 町田市立国際版画美術館館長)