毎日のようにテレビではウクライナ戦争関係のニュースが流れ、砲撃や空襲で荒れ果てたウクライナの町が映し出されています。理不尽な戦禍に見舞われているウクライナの人々の恐怖、怒り、悲しみはいかほどのものでしょう。まさか21世紀にもなってこれほど露骨な侵略戦争が行われるとは想像もしていませんでした。せめて自分たちの孫の時代には、もう報道しなければならない戦争など地球上から無くなっていてほしいと切に願います。
ところで、テレビやラジオなどが普及する以前の戦争はどのように報道されていたでしょう。ちょっと想像しにくいかもしれませんが、浮世絵師たちが描く錦絵が戦争報道の一翼を担っていた時代があるのです。
浮世絵には「戦争絵」というジャンルがあります。写真がまだ未成熟な時代、浮世絵の描く戦争絵は、戦場の様子をビジュアルに伝えるメディアとして人気がありました。その始まりと画題について厳密な定義はありませんが、佐賀の乱や台湾出兵、西南戦争など、明治維新以後の近代化した日本軍の戦いの情景を描いたものを指すことが多いようで、江戸時代までの戦いの光景は「武者絵」と呼ぶことのほうが多いようです。もっとも戦争画もこの武者絵から発展したもので、ひとつのピークを迎える西南戦争を描いた作品群を見ると、戦場での特定の英雄の奮戦の光景を描くものが多く、川中島での信玄と謙信の一騎打ちを描いたような武者絵の作画姿勢を受け継いだものであることが見て取れます。
ところが日清戦争を描くものの多くは、それまでのものから大きな変化を見せています。特定の軍人をクローズアップするよりも戦闘場面そのものを大きな視野でとらえるか、人物を大きく描く場合でもかつての武者絵とは違って特定の軍人を扱わないものが多数を占めてくるのです。さらに、戦闘場面を扱ってさえいないものも出てきます。日清戦争絵で最大の作品を手がけた小林清親、およびその弟子たちの作品で、敵の姿の描かれない斥候(せっこう)場面や、戦場での「日常」の情景などをとらえたものが散見されるのです。
3日から始まった当館の企画展「出来事との距離―描かれたニュース・戦争・日常」に展示している篠原清興の「栄城湾上陸后之露営」(明治28年)はその一例です。清国北洋艦隊が壊滅した威海衛の戦いの前哨戦で、明治28年1月に日本軍が山東半島の栄城湾に上陸した後に野営をしている光景を描いています。絵の中心主題は前景と左遠景で焚き火を囲んで会話する将兵たちの姿で、炎で明るく照らされた二つのグループが周囲の薄闇から浮かび上がっています。戦う兵士らの鬨の声も砲声・銃声も聞こえてこない静かな夜の情景からは、一種リリシズムさえ漂っているようです。
この画趣は清興の師匠である小林清親の明治28年1月の「冒営口厳寒我軍張露営之図(栄口の厳寒ヲ冒シテ我軍露営ヲ張ル之図)を学んだものと思われます。前景と遠景で焚き火に当たる兵士たちという設定はほぼそっくりで、逆光でシルエットになった人物の表現も清親画と同じです。ただ、清親は激しく雪の降り続く夜の光景として描いており、画面に漂う静寂さはより強く感じられます(冬に入って日本軍は現地の厳しい寒さに悩まされることになりますが、錦絵でも雪の光景が増えてきます)。こうした光源をうまく利用したリアルな光と陰の表現は、「光線画」と称してかつて清親が風景画の売りとしたものです。
戦場の空気感を肌で知っていたような彼らの作品ですが、第二次世界大戦時の従軍画家と違って、実際に戦場に足を運んで取材したわけではありません。間接的な情報と想像力を交えて描いたという点では、西南戦争を描いた戦争絵と同じといえるでしょう。しかしながら、両者の描き出す世界はまったく異なっています。今回の企画展では向かい合った壁面に西南戦争と日清戦争の戦争画を展示していますので、わずか十数年の間に、浮世絵師たちの戦争と向き合う距離が大きく違ってきていることがよくわかると思います。
清親の「冒営口厳寒我軍張露営之図」は、「国立国会図書館デジタルコレクション」のサイト(https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1312137/1/1)でご覧になれます。


篠原清興《栄城湾上陸后之露営》明治28年(1895)、大判錦絵三枚続、当館蔵