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 現在開催中の「特集展示・黒崎彰 50年の軌跡」では黒崎彰(1937-2019)の作品30点を、「2023年度新収蔵作品展」ではヨルク・シュマイサー(1942-2012)の作品47点を展示しています。ふたりは長く固い友情で結ばれていました。

 黒崎が木版画を始めたのは1965年頃のことです。浮世絵の色彩表現にひかれ、職人のもとに出入りしてその技術を習得、1968年頃には伝統技術を現代版画の表現に取り入れたアーティストとして注目されつつありました。

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黒崎彰〈浄夜 73〉 1969年 木版


 シュマイサーが木版画、とりわけ浮世絵の技術を学ぼうとドイツから京都に来たのは1968年です。留学先の大学にその講座がないことを知り途方に暮れたシュマイサーはやがて黒崎のもとに行き着きます。

 「僕は当時ものすごく忙しかったから、道具を売る店や職人を紹介しただけ。放っておいたらどんどん行動範囲を広げて、気がついたら僕が知らない人と知り合いになっていた」―そのころのシュマイサーの様子を黒崎はこう話しています。行動力があり気さくなのは黒崎も同じ、ふたりには多くの共通点があるようです。欧米偏重の日本の美術界に疑問をもっていた黒崎と、ヨーロッパを離れ日本に学びに来たシュマイサー。版画技術の高さで知られますが、技術は思いのままに表現するための手段であって目的ではないという考えを持ち、変わることを恐れず、新たな表現に挑み続けました。旅が好きで世界各地で活動し、その地の文化を真摯に学びました。お互いが勤める大学で講師をしたり、交換留学制度設立に尽力したり、また国際交流展など仕事面でも最後まで協力を続けました。

 シュマイサーは1972年に帰国するまでに3組の木版画集を制作しました。いずれも黒の単色刷りで、浮世絵から連想される多色刷り木版は試作程度のものしか残されていません。日本的な要素は『古事記』や民話などの主題や、銅鏡や土偶、浮世絵などから取り入れた形体だけのようにも思え、刀の跡を活かした表現はむしろドイツ表現主義を思わせます。

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ヨルク・シュマイサー 『古事記』より 1970年 木版


 当館で2018年に開催したシュマイサーの回顧展の際の講演会で黒崎は、シュマイサーが帰国後に木版を制作しなかった理由を、線を表現の主体とする作家だったからだとし、木版画は面の表現だ、と講演を締めくくりました。

 伝統木版の技法を取り入れたと言われる黒崎ですが、浮世絵とは違いその作品には輪郭線のための主版が用いられていません。黒崎の表現の主体は面なのです。その視点で改めて作品をみると、シュマイサーが色彩を使わなかったのは、面の対比による表現を習得するためだったのかも知れません。

 技法も表現もまったくことなるふたりの作家ですが、作品を同時に展示したことで新たな発見があるように思えます。