温室つまりキャンプ行けて良かったなあ、ってこと。

2015年08月21日

スイッチ


ごぶさたー。いろいろ考えることがあって、整理したくてつらつら書きたくなったので更新ー。

あ、結構爆弾トークなんでよろひく。

なんかやっぱ仕事ネタになってしまうけどw
仕事してる時の自分と
プライベートの自分 はもちろん誰でもある。

仕事してる時の自分は、世間話をする時も、プライベートのことを聞かれた時も、本音は話さない。陰でグチグチ言われないように、相手がムカつかない言葉だけを口にする。とにかく人の顔色を伺って、自分を守ることを最優先する。感情はできるだけ抑制して、褒められても嬉しさを顔に出さない。怒られても平然とする。上司は尊敬してないけど尊敬してますと嘘をつく。

退勤して外に出ると、その仮面を外して一息つける。でも最近は定時に帰れないとすごーーーーーーーくイライラするようになって、なんでだろうと考えてみた。

それは、給料もらう以外に今の職場には働く目的を見出していないので、時間通りに帰らないと損でしかないと感じるから。
あとは作り物の自分でいる時間、仮面をかぶっている時間が、すごく窮屈だから。8時間を超えるとその仮面が外れて、素の自分に戻ってしまうから。素の自分は職場では見せられない。見せたらきっとグチグチ言われるから。自分の仕事終わってんのになんで待ってなきゃいけないの?定時で帰るためにこっちは必死で仕事片付けたんですけど!と心の中で叫びながら、でも 早く帰らせてと願うと余計長く感じるので、頭の中は素でテレビのこととかを考える。笑


そのことに気づいた時、昔TMスタッフがhi-b.aで「場所によっていろんな自分のスイッチがある。でもクリスチャンであるというスイッチはいつもオンであるべき」という言葉を思い出す。
まさに私はクリスチャンのスイッチをオフにしていた。
いや、もはやオフになりっぱなしだったんだと。

でもどうすればいいのか。
惨め過ぎて、もう信仰者だなんて、献身者だなんて言えない。
上辺で繕うことを覚えてしまった恐ろしさかな。
生かされていることの喜び、
救われ、愛され、守られていることの感動はどこにいったのか。

学生の頃、メッセージを準備するのは魂が削られるようですごく疲れることだった。苦手な奏楽の準備をするのも、子供達の信仰の話を聞くのも、すごくエネルギーをつかうことだった。でもその時間は少しも損だとは思わなかった。渋谷の集会に行って帰りが遅くても、満たされて逆に元気に帰路についていた。そこには神様に捧げる、という喜びがあったからだ。

あの頃の私の信仰は、結局環境によって成り立っていたものだったのか。

神様は私のことをつくりかえることのできる唯一のお方。
こんなクズでカスで腐ってる状態からでも、引き上げてくださるのだろうか。
聖書が語る答えは歴然としている。
でも私にはそれを信じきることが出来ない。
もうだめだよね、こんなんじゃ。
もうだめだよね。と泣くしか。

とりあえず現状を祈ることから始めてみる。

そう思って朝にみ言葉を蓄えて出て行くけど、夕方にはもう忘れている。
祈り心なんてわたしにはない。
とことんクズなのだと落胆。

その繰り返し。

幸い私には周りに素敵な友が沢山いて、
素の私を受け入れてくれる人がいる。
ついそこに甘えてしまうのでありんす。

でも、このままじゃだめだー。

hangary at 19:58│Comments(1)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by 名無し   2015年09月13日 09:08
スイッチがオフになってたって思えるって言う事はスイッチは切れてなかったんだと思うよ。

「こんな私でゴメンなさい。。。」っていう部分と「こんな私だからこそ!」っていう部分が共存していているのがクリスチャンだし、信仰者だし、献身者なんだと思うんだよね。

お仕事大変だと思うけど、辛いときはこうやってちゃんと吐き出すことも良いよね。

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