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原文入力:2010-01-26午後07:45:26(3369字)
[庚戌国恥100年 新たな100年] 日帝強制動員の現場を行く

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日帝の朝鮮強制占領100年をむかえ企画した特集‘庚戌国恥100年 新たな100年’ 2部を始めます。韓国・日本・在日同胞の史学者5人の連続インタビューを通じ屈折した歴史を振り返ってみた1部に続き、2部では強制動員の現場を訪ね未だ癒えない傷跡を生き生きと伝えます。

26pek2九州,福岡県のまん中にある筑豊地方は19世紀末から炭鉱開発が始まり数十年間にわたり日本最大の石炭生産地として君臨した。1960年代に入り炭鉱産出量が減り日本政府が基本エネルギー源を石炭から石油に変えるや地域景気は大きく萎縮した。由緒の深い炭鉱が相次ぎ閉山し、生計を維持するためにどん詰まりの仕事を拒まなかった坑夫たちも他の仕事を探し山を去った。

今は筑豊で昔の炭鉱の跡を捜すのは容易ではない。こちらの3大炭鉱都市を挙げるなら飯塚,直方,田川だ。現在も坑口が全て残っているのは田川,川崎町のの豊州炭鉱跡だけだ。廃鉱する時に安全を理由に政府が坑口を埋めるよう指示したためだ。今は人家が入り住宅街にある豊州炭鉱は坑道が斜めに降りて行く斜鉱だ。1000mまで降りて行くのに坑夫が歩いて降りる時は30分、上がってくる時は1時間かかったという。この炭鉱は1945年石炭が枯渇し閉山し、救助訓練用として命脈を保った。去る5日、案内をしてくれた強制連行問題専門家 横川輝雄(70)が坑夫の作業環境を少しでも感じようとして坑口内に入った。高校の地理教師をして2001年に定年退職した彼は、強制動員真相究明福岡県ネットワークで活動している。自然光が入ってこない所に来ると、目の前が何も見えなかった。横川が小さな石をつかみ投げると‘どぶん’と音が聞こえた。漆黒のようにまっ暗な上に水がたまっていて、これ以上は進むことができない。

26pek31936年 吉隈(よしくま)炭鉱事故
29人の死亡者中 25人が朝鮮人

筑豊には地方自治体が保存用として残しておいた、かつての炭鉱の高い煙突,ロープを巻き上げた巻き上げ機(ウィンチ)跡と石炭博物館を除けば以前の風貌を見ることはできない。日帝が崩壊する前まで、朝鮮人,中国人たちを大量に連れてきて酷使した強制連行の跡はより一層そうだ。敗戦直後、日本政府と炭鉱企業が関連資料を抹消したり隠匿し、かつての炭鉱の場所が共同住宅団地や公園などに大部分姿を変えたためだ。しかし日本政府と炭鉱を運営した企業がいくらとぼけても歴史の真実までは隠せない。殴打と虐待,劣悪な作業環境での事故死が頻発した旧炭鉱の場所から出た遺骨たちが当時を証言する確固たる証拠となる。

福岡県,嘉穂郡,桂川町にある‘麻生飯塚ゴルフクラブ’は隠そうとする勢力の象徴だ。飯塚駅から車で約15分の距離にあるゴルフ場は、麻生一族が経営した吉隈炭鉱のかつての場所に建設されたものだ。石炭を採掘する時に出てくる廃鉱石のボタ山を積み上げた所を整備し、1973年10月に27ホールのゴルフ場を開業した。ゴルフ場の理事長は昨年8月、日本の総選挙で敗北し総理職から退いた麻生太郎議員だ。ゴルフ場の正門そばに立つ石碑は鈴木善幸の名前になっている。鈴木は麻生の夫人の父で、1980年から2年余り総理を歴任した。戦後日本保守政治の軸を定めたという吉田茂は麻生の母方の祖父だ。3代にかけて総理を歴任したわけであり日本政界にそれほどの名門はない。

ゴルフ場の正門から数百M離れた所に古いスーパーマーケットがある。吉隈炭鉱の共同沐浴湯として建てられたところだ。近所に坑口があったという。麻生グループの影響のためか‘あそう弥栄’という看板が懸かっている。町内の行政区域が嘉穂郡,桂川町,弥栄だ。スーパーマーケットの後に弥栄公民館があり、その横には子供の遊び場がある。冬でも太陽の光が暖かくあふれる、とても静かなところだ。閑静な田舎町のどこかで見たような様子のこちらで平穏な雰囲気に似合わないような残酷な歴史が垂れ込めている。1982年12月から83年1月の間に、村の公民館を新しく建てようとブルドーザーで土地を均す作業をしていると遺骨3体が完全な形態で出てきた。村の人々が驚いて土地の所有主である麻生側に知らせた。後ほどその場所が無縁墓地だったことが明らかになった。炭鉱や周辺で死んだ人の内、引き取る血縁がいない人々がそこに埋められた。遺骨が発見された時、日本の言論は特別な関心を示さなかった。

麻生鉱業が内部用に作成した吉隈炭鉱無縁墓地埋葬場地図には遺骨が出てきたところがぎっしりと詰まるように記録されている。何と504ヶにもなる。石碑がある所が33ヶ,木碑がある所が21ヶ、残りの450ヶ所には何の表示もない。この埋葬場地図は日本言論に公開されたことがない。今や遺骨の身元を明らかにすることはほとんど不可能だ。端緒となれる資料が残っていないためだ。日帝時代に炭鉱で肉体労働をした日本人はほとんどが下層民だった。貧しい農村で相続を受ける田畑がない二番目,三番目の息子が適当な生計手段がないと炭鉱に入ってきた。社会的に差別を受けた部落出身者も少なくなかった。死んで引受け人がいない人はそのまま土に埋めた。火葬をしようにも石炭代が惜しいという理由で事実上捨てられたわけだ。

吉隈無縁遺骨の一部は日帝時に募集や強制連行で連れてこられた朝鮮人である可能性がとても高い。吉隈炭鉱は麻生鉱業が筑豊一帯で経営してきた7ヶの炭鉱の中で最も規模が大きかった。強制連行が始まる前の1928年1月の基準統計によれば、麻生炭鉱で仕事をしていた朝鮮人は計705人だ。吉隈炭鉱には162人がいた。この数値は連行が本格化し急激に増えた。

英国捕虜などの強制労働問題は
麻生 野党議員の追及に認める

1936年1月25日夜、吉隈炭鉱坑内で火災が発生し29人が亡くなる惨事がおきた。犠牲者の内、25人が朝鮮人だった。当時会社が坑内に生存者がいると知りながら、火災が拡大することを憂慮し入口を封じ込めてしまったという証言もある。惨事を報道した<福岡日々新聞> 1月27日付には死亡者・重傷者の名簿に朝鮮人の名前がたくさんある。記事には「この鉱には鮮人(朝鮮人を示す蔑称)労働者が多く現場は大混乱を見せ、坑口には父親、夫、兄の安否を心配して集まり泣き崩れる鮮女の姿が哀れだった」という表現も見える。炭鉱で事故がおきた時、朝鮮人犠牲者の比率が圧倒的に高かった理由は簡単だ。ガスが多く危険などん詰まりに朝鮮人たちを主に投じたためだ。

吉隈炭鉱跡は今、強制連行問題を現地で研究してきた専門家の案内を受けなければ、外部の人はどこに何があったのか感さえつかめない。吉隈が2008年12月久しぶりに日本の言論に登場したことがある。朝鮮人犠牲者ではなく太平洋戦争の時にこちらに連れてこられ強制使役をした連合軍捕虜虐待問題が突然ふくらんだためだ。当時、野党だった民主党議員がオーストラリア・英国・オランダ人捕虜3百人が吉隈炭鉱内の捕虜収容所で使役に動員されたとし、麻生総理を問い詰めた。オーストラリア兵士2人は炭鉱で亡くなった。1940年生まれの麻生はこの問題が議論される度にとても幼かった時なので全く記憶がないと手を引いた。しかし厚生労働省が倉庫に保管されていた関連文書が遅れて発見されたとし事実を認めるや、やむをえず容認した。

しかし麻生グループは吉隈墓地で発見された504ヶの遺骨に対しては炭鉱と全く関連がないという立場を固守している。土地を再開発する過程で出た遺骨を納め納骨堂に安置したとだけ説明する。もちろん責任も認めない。3代にかけて総理を輩出した一族に相応しい行動とはとうてい考えられない。

飯塚/キム・ヒョスン論説委員 hyoskim@hani.co.kr

原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/401163.html 訳J.S