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原文入力:2010-02-10午後02:59:37(2855字)

キル・ユンヒョン記者

"結局, 私は名前が三つです。"

ロシア,サハリンの州都ユジノサハリンスクから北西側に車を6時間走らせて到着した炭鉱の村ポシニャコボ(日本地名 西柵丹・にしさくたん)で会ったチョ・ヨンジェ(78)氏は上品な慶尚道なまりで口を開いた。村をびっしりと囲んだサハリンの白樺林は数日間に降った大雪で白く変わり、沿海州に向かって開いたポシニャコボの小さい港には今も韓国と日本の船が集まり火力発電所で焚く石炭を積み出していると言った。

‘潜在的安保威嚇’把握…保安課刑事付きまとう

チョ氏は1932年慶尚北道,安東郡(現在の安東市)豊山邑で生まれ、サハリンに炭鉱夫として強制動員された父親について1942年にサハリンに入ってきた。サハリンの日本人学校に入学し、彼の名前は‘マツモト エイサイ’になり、1945年日本がソ連に敗れサハリン全体がソ連領土になると名前はまた‘ユーリー・チョ’に変わった。以後70年近い歳月が流れたが、相変らずサハリンを離れずにいる。

10sahalin2←<ハンギョレ>が発掘した1990年釜山警察庁のサハリン同胞動向監視文書。 国家記録院発掘

"1942年にここに入ってきたら飯場(労務者宿舎) 3軒に朝鮮の人がいっぱいだった。こちらは主に慶尚道人が多く、あっちの下のシャフチョルスクには主に北側の人、北小沢(テルノプスキ)には忠清道,全羅道人が多かった。ここが炭が良いのです。朝鮮の人たちは言うことを聞かなければタコ部屋(炭鉱労務者の監禁施設)に連行されていくが、そこに入って出てくれば人間が完全にバカになって出てきた。"

サハリンの日帝時の地名は‘カラフト’(화태・樺太)で、これはアイヌ語で‘シラカバの島’という意味だ。日本は1905年露-日戦争勝利の代価としてサハリンの半分(北緯50度以南)をロシアから割譲された。以後、日本はサハリンの豊富な資源開発に乗り出した。不足する労働力は日本本土と朝鮮から充当した。1944年7月末現在、南サハリンで稼動していた26ヶの炭鉱の内、朝鮮人は25ヶの炭鉱で7801人(炭鉱夫 6120人)が仕事をしていたと確認されている。

南サハリン中部のシネゴルスクで会ったキム・ユンドク(87)氏の故郷は慶北,慶山だ。彼は1943年父親の代わりにサハリンに入ってきた後、2年余り炭鉱夫として仕事をした。1945年8月解放直後、キム氏を含む南サハリンの朝鮮人人口は4万3000人余りだったと推定される。その絶対多数は解放以後に大韓民国となる韓国出身だった。

10sahalin3←キム・ユンドク氏が夫人キム・マルスン(76)氏とともに窓を背にして写真を撮った。左側下段はキム氏の若い時期の写真。1982年に引退したキム氏はロシア政府から毎年1万4000ルーブル(53万4000ウォン)を年金として受けとっている。


南サハリンの朝鮮人 4万人…解放直後まで居住推定

キム氏にとって解放はある日突然にやってきた‘無期限休暇’だった。"ある日仕事をしに行ったところ、仕事はしなくてもいいと言ったよ。日本が負けたということだ。" 解放以後、サハリンは南下したソ連軍隊と本土へ避難しようとする日本人・朝鮮人が混ざって阿鼻叫喚の地獄だった。敗戦の衝撃とソ連軍に対する恐怖とで興奮した日本人たちはサハリン南西部のポジャルスコイェ(瑞穂)とレオニドボ(上敷香・かみしすか)等で朝鮮人を集団虐殺した。"解放になったがホルムスク(南サハリン西南部の港町)でウェノム(日本人)たちが朝鮮の人は捨て自分たちだけ乗せて行ったと言ったよ。船に乗った朝鮮人は殺したりもしたとか。その時ソ連軍隊が少しだけ遅くきていたら朝鮮人は皆死んだだろうね。"

解放直後の混乱が終わった後にも故国に行くことはかなわなかった。1946年12月から始まった‘南サハリン日本人送還事業’で29万2590人の日本人が帰国の途についたが、‘今となっては日本人ではない’サハリンの韓国人たちは対象から除外された。結局、キム氏はソ連国籍を取得し、鉱夫として37年さらに働き82年に引退した。

サハリン北東部の炭鉱都市ウグレゴルスクで会ったアン・ポクスン(76)氏は蔚山出身で、父親アン・チャムン(1902〜1980)について1942年にサハリンに入ってきた。彼の父親はサハリン北西部の北小沢(テルノプスキ)炭鉱で仕事をしている間に1944年8月日本の九州地域へ‘二重徴用’された。戦争が終わり北海道から泥棒船に乗り艱難辛苦の末に故郷に帰ってきた父親は衰弱し患っていて働くことができなかった。アン氏は父親が南側の港コルサコフから400km以上を妻子を探しながら歩いてきたと話した。

父親は彼に「長崎炭鉱が海底から炭を掘るようになっていて、とても苦しかった。仕事をしていても革でたくさん打たれるからだ」と話したと言う。アン氏の夫は1998年故郷訪問を控えて銀行で高額外貨を両替したが、家に追いかけてきたロシア マフィアの手で殺された。

アン氏の夫が亡くなり踏むことの出来ない故国はこれらの人々を‘潜在的な安保の脅威’と把握したようだ。<ハンギョレ>が国家記録院で発掘した釜山警察庁保安課資料を見れば、韓国政府は1990年に故郷訪問で来たサハリン同胞たちの動向監視のために保安課刑事を24時間付きまとわせた。アン氏は「もう夫もいないのに一人で子供たちを捨ててまで韓国に帰りたい気持ちはない」と話した。

日本人29万人帰国し…徴用韓国人らは放り出す

去る1月26日ポシニャコボ村の裏山にある‘第2共同墓地’はたっぷり降った白い雪に埋もれていた。そちらでウグレゴルスク韓国人会長チェ・ジョングク(58)氏の祖母チェ・ウォルジュ(1905〜1986・一部の韓国人は洋式慣習に従い夫の性に直すこともした)氏の墓を訪ねた。周辺にはこちらで暮らした朝鮮人の墓地が散在している。

チョ・ヨンジェ氏の家は墓のある村の裏山から車で5分かかる。彼の家には陰暦正月と秋夕を祝うためにソウルで求めてきた2007年度の故国のカレンダーがかかっていた。彼は「もうロシアで60年以上暮らしているのでヨンジェという名前よりユーリーという名前の方がなじみやすい」と話した。彼は「妻が病気なので子供たちが目に浮かび故郷へ行きたいが行くことはできない」と語った。彼も死ねば山の中腹の共同墓地に埋められるのだろうか? 彼は記者の手を握り、しきりに「(訪ねてきてくれて)ありがとう」と言った。 サハリン/文・写真 キル・ユンヒョン記者

charisma@hani.co.kr

原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/403994.html 訳J.S