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原文入力:2010-02-24午前08:49:40(3631字)
国内生存 BC級戦犯 キム・ソクキ氏
朝鮮人3千人と東南アジア行…連合軍 捕虜虐待疑惑 懲役
"私は料理人" 抗弁 受け入れられず…帰国後は "親日派" 冷遇

キル・ユンヒョン記者

24bc1←キム・ソクキ氏は3年前に病を患い意識がはっきりしない。彼は2006年に日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会から強制動員被害者と認定された。右側はキム・ソクキ氏の捕虜監視員時期の姿。軍属の身分を現わす腕章の上の星表示が鮮明だ。キム・ソクキ氏提供

キム・ソクキ(89)氏は遠い混沌の中で取材陣を迎えた。"椰子の木,ヤパ(椰子の葉で作った家)という家を建て。刃をさして守れと言わなかった…. アラ,アラ…,それもう私たちは知らない。こうなって詳しく知らない。"

何かを説明しようとしたキム氏は顔をしかめて口を閉ざした。彼が伝えようとした話は結局、言葉にならず、インタビューもそれで終わってしまった。そばに座っていた夫人チョン・インスン(73)氏がキム氏の額をタオルで拭い 「爺さまが3年前に中風を患い挙動も難しく精神も行ったり来たりしている」と苦笑いした。

キム氏は韓国に生存している唯一人のB・C級戦犯だ。彼は太平洋戦争時期にオランダ植民地だった現在のインドネシア,ジャワ島マカサル農場捕虜収容所で捕虜を殴ったという理由で戦犯裁判に回付され、7年刑を宣告され戦犯になった。日本には朝鮮人B・C級戦犯たちの互助会である‘同進会’を中心に数人が生存しているが、韓国に戻った戦犯は皆亡くなりキム氏だけが残った。

キム氏は1921年慶南,昌原郡,鎮北面,谷里で4男3女の末っ子として生まれた。二十歳だった1942年5月、日本の南方(東南アジア・南太平洋)進出による26万1千人余りの連合軍捕虜を監視する捕虜監視員(軍属)募集試験を受け合格した。戦場に行き‘勤務期間2年,月給は50ウォン’という条件に、新しい経験をしてみるのが良いと判断したキム氏と同じ年頃の植民地青年3223人が合格通知書を手にすることができた。これらは1942年6月、釜山西面の臨時軍属教育大(現在のハヤリア部隊の場所)で2ヶ月間の訓練を受け1942年8月19日に東南アジアへ向かう船に乗った。

24bc2←朝鮮出身捕虜監視員 配置経路

キム氏が配置されたところはジャワ島のマカサル農場だった。キム氏はそこで日本軍に捕まった英国・オーストラリア・オランダ軍兵士たちを監視する仕事にせきたてられた。<ハンギョレ>が‘日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会’の助けを得て、オランダ軍が作成したジャワ戦犯裁判所の裁判記録を確認した結果、‘金村テッキ’という創氏名を使ったキム氏は‘1943年4月1日から45年1月まで拳,太い竹棒,銃床,材木などで捕虜を殴った’疑惑で起訴され、1948年5月4日に7年刑を宣告されたことが確認された。キム氏は 「私たちの部隊には金村が4人いた。私は料理人だった」 と抗弁したが受け入れられなかった。キム氏の夫人は「旦那様は‘生き残るためにじたばたした’という話を気力がなくなる時まで何回もしていた」と話した。キム氏のように戦犯裁判で有罪判決を受けた朝鮮人は148人であり、この内の絶対多数の129人(死刑14人)がキム氏のような捕虜監視員だった。

インドネシアのチピナン刑務所で収監生活をしたキム氏は1950年1月23日東京,池袋の戦犯収容所‘巣鴨刑務所’に移され、1950年9月12日仮釈放された。釈放されたこれらの人々を待っていたのはとんでもない生活苦だった。生活苦に勝てずに2人が自ら命を絶った。その上に日本に拠り所のあった人々は日本に残ったが、本当に行く所のがなかった人々は‘親日派’という社会的冷遇を甘受して当時世界の最貧国の一つであった故郷行を選んだ。

韓国に戻った戦犯たちが選んだのは長い沈黙だった。キム氏の長女(47)は「最近まで父親が戦犯だったという事実を知らなかった」と話した。考えてみれば、父親は疑問だらけの人物だった。彼女を驚かせたことは、目を開いて眠る癖だった。「なんて言うのか。‘そんな風にしなければ死ぬ’ということでしょう。その時は何の話なのか分からなかった。以前に鎮海に住んでいた時は、泥棒が目を開いて寝ついた父を見て逃げることもありましたから。」

キム氏の夫人チョン・インスン氏は50年代に馬山の聖旨女子高を卒業した‘エリート女性’だった。チョン氏は「良い嫁ぎ先を待っているとあれこれ考えているうちに、当時としては婚期を越した25才の年齢で5親等堂叔母の紹介で金氏に会った」と話した。「その時、爺さまが結婚してまた日本に行くという話をして、実家で許したんですよ。ところが実際には事がそうはなりませんでした。それで生きるの死ぬのとものすごく喧嘩して….」チョン氏は「齢も初めには9才差だと言ったのに、初めて子を産んで見ると15才差だった」と話した。
長い外地生活から帰ってきたキム氏は韓国語がほとんどできなかった。そのために華やかな仕事場を見つけることができず、工事現場を転々として肉体労働で家族を扶養した。以後60年代末にやっと大林窯業に就職し1978年に退職した。キム氏の婿チャン・ギョンソン氏は「義父がどうして日本に再入国できなかったのか知らないが‘普段からデモをたくさんやった’という義父の言葉に照らしてみると、日本政府が義父を過激な傷痍軍人ぐらいに考えていたようだ」と話した。

祖国を離れる時に21歳だった青年は、19年間のむごい放浪を終え39歳で帰国した。彼は翌年の1962年に結婚し、まもなく長女をもうけた。キム氏は今は日帝強制動員被害者と認められ、政府から年に80万ウォン程度の医療支援金を受け取っている。チョン氏は「この人が恨が多く、昔苦労した話もたくさんしたが、その理由を詳しく聞けなかったことが一番申し訳ない。私の人生も爺さまの人生も哀れで今でも時々涙が出る」と話した。

昌原/文・写真 キル・ユンヒョン記者 charisma@hani.co.kr

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BC級戦犯とは

戦争中の非人道的行為者…朝鮮人148人処罰

‘B・C級戦犯’は韓国人にはまだ見慣れない言葉だ。

2次世界大戦が終わった後、勝利をおさめた連合国は戦争期間に起きたドイツと日本の‘戦争犯罪’を処罰するために軍事裁判を開いた。その裁判の規則となる軍事裁判条例は戦争犯罪の形態をA項‘平和に反する罪’,B項 捕虜虐待など‘通常の戦争犯罪’,C項‘人道に関する犯罪’の3種に区分した。

A級戦犯は東条英機(1884〜1948)等のように侵略戦争を起こすことに直接的に加担した戦争指導者、B・C級戦犯は戦争遂行過程で戦争法・慣習に反したり非人道的行為を犯した将校・士兵などだった。

戦後、B・C級戦犯として処罰を受けた人は5700人余り(死刑者 984人)であるが、この内で朝鮮人は148人だった。その内、絶対多数の129人が南方で連合軍捕虜を扱った捕虜監視員だった。

これらの問題が韓国・日本の間で解決しなければならない歴史的課題になったのは、解放以後に日本政府が示した誠意のない措置のためだ。日本は「処罰を受ける時には日本人だったが、今は国籍を失った」とし、これらを援護対象から除外した。結局、朝鮮人戦犯たちは1955年に互いに一つとなり一緒にうまく暮らしてみようという意味で‘同進会’という会を作り、日本政府を相手に闘争に突入することになる。

日本政府はこれらに公営住宅を提供するなどの措置を出したが、1965年に韓日協定を締結した後には態度を変え、対話の窓口を完全に閉ざした。

結局、同進会は1991年11月日本政府を相手に訴訟に出たが、日本裁判所は「我が国(日本)軍人・軍属およびその遺族に対する援護措置に相当する措置を講じることが要望される」としつつも「これは国家の立法政策に属する問題だ」として訴えを棄却した。

日本民主党は司法府の勧告を受け入れ、野党時期に生存朝鮮人B・C級戦犯とその子孫に一時金で300万円(3600万ウォン余り)の慰労金を支給する法案を発議した。この法は今年初め、日本国会を通過する予定だったが景気低迷と政治資金を巡る政治家たちのスキャンダルにより民主党人気が急落し年内通過を確信できない状況になった。

キル・ユンヒョン記者

原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/406332.html 訳J.S