原文入力:2010-02-24午前08:50:50(3880字)
朝鮮人戦犯・家族 苦痛
‘同進会’日本で補償運動…帰国者たちは沈黙を強要され
‘親日派子孫’レッテルに麻疹…一部は日本大使館で示威

キル・ユンヒョン記者

24senpan←B・C級戦犯の遺族たちが昨年11月、富川で集まりを持った。前列左側から3番目がB・C級戦犯 パク・ヨンジョの娘パク・プンジャ氏,4番目がキム・オクドンの娘キム・ジンヒョン氏だ。後列の中央はカン・テヒョプの子息であり同進会韓国支部長カン・ドウォン(72)氏。

朝鮮人B・C級戦犯たちは韓国政府の無関心と日本政府の差別待遇の中で長期にわたり語れない苦痛を強要された。韓国は彼らを‘親日派’と罵倒し、日本は "処罰を受ける時は日本人だったが出所後には日本人ではない" として援護対象から除外した。その上‘捕虜監視員’出身戦犯129人の中で日本に残った46人は‘同進会’を中心に補償と名誉回復を要求する運動を続けてきたが、韓国に戻った人々は長い沈黙を強要された。

昨年11月14日午後1時、京畿道,富川のあるくたびれた食堂の地下で韓国に戻ったB・C級戦犯子孫たちの質素な集いが開かれた。インドネシア ジャワで勤め捕虜虐待疑惑で3年刑を宣告されたキム・オクトン(1921〜2006)の一人娘キム・ジンヒョン(51)氏は「父親が戦犯だったという話は2007年頃に初めて知った」と話した。2005年‘日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会’が発足した後のことだ。「‘お父さんも申請をしてみなさい’と言うので‘多分疲れるだけでうまくはいかない’と言って言わなかったんですよ。父は戦犯として処罰を受けたという事実を一生口外しませんでした。娘にさえ話せないほどの大きな傷だったんだと思います。」

「父は悪徳な親日派だったのだろうか?」20代後半の熱血青年だったチョン・チャンス(47・楊口郡議員)氏も、この質問を解決するために長い麻疹を病まなければならなかった。幼い時期に父チョン・ジョンクァン(1923〜84)は明け方には起きてタバコを吸いゴホンゴホンと咳をしたりしていた。長い収監生活でからだが傷つき片側の肺と肋骨を全て摘出したチョン氏の父親は一生労働ができなかった。肋骨がないためか、父は真っすぐ立つと、いつもからだが片側に傾いたりした。

"幼い心にその姿がどれほど悲しかったか分からないです。父の昔の写真を見れば椰子の木の下で外国の人々を背景におかしな軍服に星(軍属の身分を表わす一種の階級章)を付けていましたよ。星があるから幼心にもうちの父親は本当に偉い人だったんだと考えたりしましたよ。"

24senpan1←1950年代からB・C級戦犯たちは日本政府を相手に援護対策を要求し、大小の集会を開いた。当時の様子と推定される集会写真。キム・ソクキ氏提供

1941年12月8日、真珠湾空襲で太平洋戦争の火ぶたを切った日本は直ちに‘大東亜共栄圏’を前面に掲げ東南アジア側に戦線を広げた。破竹の勢いで連戦連勝を記録した日本軍は、1942年一年間でフィリピン5万2千人,マレーシア9万7千人,ジャワ9万3千人など計26万1千人余りの連合軍捕虜を手に入れた。日本は戦争捕虜に対する人道的処遇を定めた国際条約である‘ジュネーブ協定’に従う代わりに、これらをタイ・マレーシア・ジャワ(インドネシア)捕虜収容所に分散配置した後、戦争遂行のために必要な大規模土木工事に駆り立てた。第一線で捕虜らと生活しなければならなかった朝鮮人軍属らに連合軍捕虜の怒りが集中した。

タイでは英国植民地だったインドに対する兵站線確保のために、タイとビルマを結ぶ長さ416.916kmの泰緬鉄道架設工事を始めた。1年2ヶ月間のむごい労働に駆り立てられた連合軍捕虜5万5千人の内、1万3千人余りが亡くなった。バンコクから西方に75km地点のカンチャナブリ戦争墓地に行けば、この時に亡くなった連合軍捕虜たちの墓石が並んでいる。マレーシアでは石油基地だったパレンバンを防衛するための飛行場,クバニャヘ軍用道路,スマトラ横断鉄道などの工事が続き、ジャワではアムボン,ハルクなどの島でオーストラリア侵攻のための飛行場建設が進行された。連合軍の反撃で補給線が切れた状態で、まともに食べることもできないまま重労働に駆り立てられら米国・英国国籍捕虜13万2134人の内、3万5756人(死亡率27%)が亡くなった。ドイツ・イタリア軍に捕えられた捕虜の死亡率4%に比べれば驚くべき水準だ。イ・セイル‘日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会’専門委員は「結局、日本の非人道的な捕虜管理の責任を末端の朝鮮人捕虜監視員らが分担した形」と話した。

80年代後半に入り、父親の過去を追跡したチョン・チャンス氏は韓国に戻った捕虜監視員出身たちが集まって作った‘土曜懇親会’という集いの便りを伝え聞くことになる。懇親会事務室はソウル,鍾路区,新門路の救世軍会館そばの青瓦茶房があった崩れ落ちた建物の3階にあった。老人たちが集まり座って、将棋とマージャンで日がな過ごした空間だった。チョン氏はその時に会ったパク・チャンウォン(逝去)などの老人たちから捕虜監視員に関する話を伝え聞き、1990年日本大使館前で示威を行い警察に連行されもした。

パク・プンジャ(69)氏の父親は1947年2月25日に戦犯裁判を受け死刑になったパク・ヨンジョ(1921〜1947)だ。彼女は「父が日本で専門学校に通い、学徒兵として軍隊に行くことになるや‘同胞に銃を向けることはできない’として軍属を志願したと聞いた」と話した。父が家に帰ってきたのはパク氏が7才だった年の春、家に引き渡された髪の毛と爪,足の爪を通じてだった。その後にもどこかで父が生きておられると信じていましたよ。(韓日協定以後の) 66年に新聞に載った死刑者名簿に父の名前を見て一日中おいおい泣きました。空が崩れたようにですよ。」楊口,光州,富川/文・写真 キル・ユンヒョン記者 charisma@hani.co.kr

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24senpan2←イ・サンムン老人に残された願いは、独立活動家として認められることだ。彼は“その時期の苦労は言葉では表せない”と話した。

‘捕虜監視員’屈曲した人生

捕虜の証言だけで戦犯にされ…一部は独立団を設け日本軍射殺
“本当に紙一重の差でした。無念な人が多かったんですよ。”

1981年公職から引退した後、光州で時間をつぶしているイ・サンムン(90)老人は捕虜監視員出身だ。1942年9月インドネシア,ジャワ島に配置され勤めたイ老人は「私は行政業務を担当し捕虜たちと接触する機会があまりなかった」と話した。そのおかげで彼は戦犯として起訴されず、無事に故国に戻ることができた。彼は「戦争が終わった後、捕虜だった連合軍兵士たちが朝鮮人軍属の写真をじっと見回して‘こいつが俺を殴った’,‘この人が私を困らせた’と話せば否応なく戦犯になる構造でした」と話した。「もちろん捕虜の立場では私たちが憎かったでしょう。実際に困らせた人もいましたからね。でも末端の軍属に何ができたでしょう。ただ上から言われるままにしたことでしょう。」

当時、捕虜監視業務を引き受けた朝鮮人軍属らは3千人余りで、無学から日本の有数の大学卒業生まで多様な人々が集まっていた。戦争の混乱の中でもイ老人など一部青年たちは1944年12月‘高麗独立青年党’(青年党)という秘密組織を作って独立運動を試みることもした。

1912年生まれで京畿道坡州出身のイ・オククァンは1944年12月29日夜、ウンカラン山裾のスモノ練兵場に集まった朝鮮人青年たちに「すべての被圧迫民族は収奪者の足かせから解放される」というチャーチル,ルーズベルト,蒋介石のカイロ宣言を紹介し団結を叫んだ。即席でイ・オククァンなど朝鮮青年10人は帝国主義日本に抵抗するための秘密組織である‘高麗独立青年党’を組織した。総領はイ・オククァン,軍事部長はキム・ヒョンジェ,イ老人はスマラン支部責任者になった。

1945年1月4〜6日、血盟党員のソン・ヤンソプなど3人がジャワ捕虜収容所傘下のアムバラワ分遣所で日本軍人・軍属12人を射殺し自決する、いわゆる‘アムバラワ義挙’を起こした後、青年党員らは順に検挙された。これらは7月21日軍法裁判で7〜10年の実刑を宣告された後、監獄で解放をむかえた。これらの活動は世人に忘れられ1980年代初めに日本人研究者 内海愛子(現 早稲田大学院アジア太平洋研究科客員教授)等によって発掘され世の中に知らされた。

イ老人は1976年から青年党員らを独立活動家として叙勲してくれとして国家報勲処を相手に闘争中だ。報勲処は“功績を証明する客観的資料がない”という立場だが、2005年<国外独立史跡地実態調査報告書-東南アジア地域>編で老人の主張をほとんどそのまま収録している。イ老人は「このまま私も死ねば先に行った同志たちに会わせる顔がない」と話した。

光州/文・写真 キル・ユンヒョン記者

原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/406335.html 訳J.S