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[表紙の話]日帝と独裁を記憶する南山の歴史現場,
 開発計画で壊さずに平和公園造成を

◆イ・テヒ

←安全企画部が内谷洞(ネゴクトン)に移った直後の1995年の南山安全企画部本部(左側)。 庚戌国辱直前に建てられた統監官邸(円内)ここが庚戌国辱の現場だ。写真左側からハンギョレ キム・ジョンス記者・ <ソウル行政社>

今そこはベンチがいくつかぽつんと置かれた芝生だ。一時、そこはセメント底のバスケットボール場だった。一世紀前、そこは朝鮮を治めた日本統監の宿舎である統監官邸だった。

1910年8月22日、そこで大韓帝国の国権を奪う条約が結ばれた。統監官邸のすぐそばには400年の風雪に耐えたイチョウの巨木が立ち続けていた。その当時、日本人たちは「1592年朝鮮征伐に出た壬辰倭乱当時の加藤清正がこの木に馬を結んでおいた」と公然と話して通った。壬辰倭乱当時、先祖が避難した漢陽に陣を敷いた倭軍らは南山の頂上に城を築いた。山頂の城は消えても‘倭城台’という名前で残った。1890年から公然と朝鮮に進出した日本人たちはその倭城台を中心に席を占めた。朝鮮と大韓帝国の王宮が見下ろせる所に公園を作り、彼らの神をまつる神社を作った。1910年韓日合邦で韓半島を飲み込んだ日本人たちは最初からその町内の名前を‘倭城台町’と呼んだ。
1972年、倭城台の片側に建物が建ち始めた。ソウル,中区,芸場洞4-5番地。6階建てのその建物の名前は中央情報部南山本部だった。今そこはソウルユースホステルとして数多くの国内外の若者たちをむかえている。ソウル市の政策で、独裁の空間は若さと文化の空間に変わった。ユースホステルの横道に沿って進めば出会える‘南山創作センター’は安全企画部要員らの屋内体育館だった。南山創作センターでは毎日数多くの若者たちが歌って踊る。南山創作センターから200m余り離れたところには‘文学の家,ソウル’がある。予想より広い庭園が付属する2階一戸建て住宅を改造したここは、元は中央情報部長官邸であった。その前にあった情報部長警護員らの宿舎も2005年‘山林文学館’に変身した。しかし、そのどこにも過去にここが何であったかを知らせる跡はない。

1年後の2010年8月、大韓民国は庚戌国恥100年をむかえる。私たちはどのように100年前に国を奪われた瞬間を記憶しなければならないだろうか。その2年後の2011年6月には中央情報部設置50年をむかえる。この歴史はまたどのように残されなければならないだろうか。ソウル市は今年3月‘南山ルネサンス マスタープラン’を明らかにした。2015年までに南山にある旧中央情報部(安全企画部)の建物などを皆取り壊し緑地にすると宣言した。果たして、それが正しい道であろうか。歴史はそのままなのに歴史を証言する建築物は消える。

また南山を見る。朝鮮太祖が漢陽を首都に定めた時、北側の北岳山を玄武とし、西側の仁王山を左青龍、東側の洛山を右白虎とした。南側の木覓山(モンミョクサン)現在の南山は朱雀だった。私たちの先祖は二つの翼をパッと広げた赤い鳳凰の衣の姿に朱雀を描いた。

倭城台と安全企画部を頭と肩にのせている朱雀は手に負えない。南山の朱雀が再び飛ぶためには建物をなくすのではなく正さなければならない。統監官邸と旧安全企画部庁舎を復元し保存することこそ、植民と独裁に縛られた南山の鎖を自然に解く方法だ。そうして南山は平和を象徴する公園にならなければならない。

原文: http://h21.hani.co.kr/arti/cover/cover_general/25591.html 訳J.S