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原文入力:2010-01-04午後02:48:59
[2010特別企画 省察と挑戦] 庚戌国恥100年新たな100年
‘本 植民資料研究開拓者 宮田 インタビュー

←自宅書斎で史料保存の重要性を語る宮田節子学習院大東洋文化研究所客員研究員。インタビューは昨年11月5日、日本,千葉県,松戸にある彼女の自宅でなされた。

庚戌国恥100周年になった。長い歳月が流れたが真の和解といい難い理由を顧み共生の未来を開くために年中企画‘庚戌国恥100年新たな100年’を連載する。3部から構成された企画の1部では、韓国と日本の歴史が五人の見解を聞く。 体験を土台にしたこれらの話から韓国と日本の歴史の何がよじれたのか,それを正そうとする努力はどんな試練を体験したのか,和解のために何をしなければならないかを考える糸口を見つけることができる。

09miyata1東京目白にある学習院大学付設東洋文化研究所には植民地朝鮮時代の資料で満たされた‘友邦文庫’がある。友邦文庫が研究者の関心を引く一次的理由は朝鮮総督府と関連行政機関での政策決定や執行の実務作業を引き受けた人々の膨大な肉声録音が保管されているためだ。

録音資料の胎動と保存に決定的役割をした人を挙げるならば宮田節子を最初にに挙げることができる。現在、東洋文化研究所の客員研究員である宮田は70代半ばの高齢であるが録音資料整理を生涯最後の作業として打ち込んでいる。彼女は「まだ生まれてもいない世代から優れた朝鮮研究者が出てくる可能性があるのではないか」と反問し「未来を信じるから史料編纂作業を継続する」と強調した。もう論文を書くことをやめ、未来の研究者たちのために余生を捧げるという彼女は戦後日本の朝鮮史研究がどんな足跡を歩んできたのかに対する生き証人でもある。朝鮮近代史料研究会(1958年),朝鮮史研究会(1959年),日本朝鮮問題研究所(1961年)がスタートする度に雑事を引き受け行った経験があるためだ。

宮田は日本政府の過去史謝罪方式と関連して「何回もしたが、何のために何故したのか具体的に尋ねれば歴代総理の中で誰も答えられないだろう。韓国人がどうしてそんなことまでする必要があるのかという話を聞けるほどに日本が先に明確にしなければならない」と強調した。

彼女はきちんと分析されなかった資料が友邦文庫にたくさん残っていると話し、韓国の学者がもっと関心を傾ける必要があると想起させた。また日帝時治安関係文書の中で自身が日本国内で探せなかった資料が北韓文献に引用されたことを見たことがあると明らかにし、北韓の学者たちが開放された姿勢で国際会議に出てきて討論と資料を共有することを期待すると話した。

-生涯 朝鮮史研究をしてきたが何の契機があったのか?

 "1954年早稲田大学文学部史学科に入学し大学生たちの学習会である中国研究会に入った。社会主義政権が登場した新中国に対する関心が強く起きた時だ。ある日、中国研究会の集いが終わらんとする頃、大学の先輩の姜徳相が皆待ってくれと言って正しく把握できない話を始めた。自身が本当は朝鮮人で、今後朝鮮研究をやると話した。大学に入ってくる前に女学校に通ったが、朝鮮という隣国があることは知っていたが日本が朝鮮を植民統治したとか日本に朝鮮人が暮らしているということは習ったことがなかった。驚きを隠せなかった私に姜徳相が朝鮮支配史料がたくさん残っているだろうが、誰もやらないから共に勉強しようと提案した。朝鮮人学校閉鎖論議が広がった時、進歩的大学教授たちが見せた二重的態度も作用した。日本の敗戦後、各地にたてられた朝鮮人民族学校は1949年に占領軍司令部の命令で閉鎖されたり、一部が日本教育当局の直接管理を受ける形態に転換された。東京都にはいくつかの都立朝鮮人学校が作られ日本語だけを‘教育用語’として使うようにした。また都立朝鮮人学校閉鎖論議がおきるや反対署名を集めるために中国史を専攻する教授を訪ねて行ったが‘朝鮮はちょっとあれだ’として拒絶した。"

進歩層も朝鮮問題を無視するが‘友邦文庫’植民資料を世の中に知らせる

-朝鮮だからと身を引いた理由は何だろうか?

 "植民地解放闘争を支援したという共産党や進歩的知識人らの間に左翼事大主義があったようだ。中国侵略に対してはあたかも自分が直接軍隊を率いて行った当事者であるかのように誤ったことだと興奮した教授さえ‘朝鮮人たちはスパイが多いからつきあう時には気を付けなさい’という方式で話した。"

-当時、朝鮮史講座を学部に設置した大学が殆どなかったというが、どうやって勉強したのか?

“姜徳相のような早稲田大の在日同胞学生たちと集いを作り、本を読み所感を話す程度だった。後日、東京大の学生だった梶村秀樹(1935〜1989,神奈川大教授,白凡逸志を翻訳し金嬉老事件対策に関与)が合流した。57年4学年の時、卒業論文テーマに中国にしていたが3・1運動に変えた。朝鮮近代史で唯一分かったことが3.1運動だったためだ。卒業論文を書くのに先立ち、主任教授に主題を報告し承諾を受けなければならなかった。3・1運動という用語もなかった時期だった。中国古代史が専攻の私の主任教授は3・1運動という用語さえ理解できなかった。大正天皇の時代に朝鮮人‘万歳騒動’というのがあったじゃないですかと言うと、あーそのようなものがあったようだがそれを3・1運動と言うのかと問い直した。中国歴史を勉強する教授でさえ分からないというと、より一層やってみたいという考えが強くなった。教授が分からないのだから指導はそれきりだった。”

-論文を書くのに困難はなかったか?

“図書館を歩き回り、‘万歳騒動’‘万歳騒擾’に関する資料を尋ね歩いたが何も出てこなかった。日本に植民地支配資料がたくさんあるという姜徳相の話を信じ朝鮮にテーマを変えたのだが、思ったことと違うと後悔した。57年11月までには論文を提出しなければならないのに夏休みまで一行も書くことができなかった。そのような折りにある教授が、東京丸ノ内ビルディングに友邦協会という団体があり、ひょっとして端緒になる資料があるかもしれないと話してくれた。総督府時期の高位官僚たちが集まって作ったところだと言った。何の紹介状もなしで聞きに訪ねて行き、万歳騒動関連資料があるかと言うと、あちらの隅っこに行って見ろと言われた。黒い風呂敷に包まれた2つの包があった。開けてみると全て3・1運動に関する原資料だった。阪谷文書というものだ。初めて見た時は本当に興奮した。何もないゼロ状態の路上生活者が、あたかも邸宅に入った感じだった。コピー機がなかった時期であり毎日行っては資料を読み引用するに足るものは筆写した。”

3・1運動が何たるかも知らない時‘阪谷文書’発見に快哉

-阪谷文書というのは何か?

“露日戦争の時、大蔵省次官として戦費調達をし、後に大蔵省長官,東京市長を務めた阪谷芳郎(1863〜1941)という人が集めた資料だ。京釜線鉄道建設の際も関与したと聞いた。彼が3・1運動が燃え広がった1919年5,6月に朝鮮各地を歩き回り各種宣言書,逮捕された人々の職業別年齢別統計などを集め、いちいち番号を付けておいた。‘朝鮮問題雑纂’が4冊あるが、1,2冊が主に3・1運動関連だ。

卒業論文を書き無事に卒業した。友邦協会を訪ねて行き、おかげで卒業できました、有難うございましたと挨拶をすると、奥にいた白髪の老人がちょっと入ってこいといった。彼は友邦協会ができて朝鮮を研究すると訪ねてきた人は私が初めてだと言った。彼は朝鮮統治に対してどんな批判でも聞く耳を持っているが、やってもいないことをやったとか、事実と違う批判については承服できないと語った。それでこちらに関連資料を集めて整理しているので、一緒に研究しないかと提案された。その時まで専門的に研究することは考えて見たこともなく驚いた。小さな勉強の集いをしている友人たちと相談してみると答えた。”

この老人の名前は穂積真六郎(1889〜1970)だ。1913年に東京帝大法学部政治学科を出て翌年に高等文官試験に通り総督府事務官試補として朝鮮に来た。総督府殖産局長の席に長期在職し、軍部とのあつれきで41年に官僚生活を辞めた後、朝鮮商工会議所会頭,京城電気社長などを務めた。日本敗戦時は満州や朝鮮から撤収する日本人支援の集いを導き、本国に帰っては47年に総督府官僚や事業家らを集め同和協会の結成に主導的役割を果たした。数十年間にわたり朝鮮と関連し積み上げた関係者たちの知能と技術を生かし、日本と朝鮮の間の文化交流貿易に貢献することが趣旨であった。

穂積の死後<私の生涯を朝鮮に>という追悼文集が1974年に友邦協会から出た。この本には穂積の家系図が載っているが、華麗な一族出身ということを生き生きと見せる。彼の長兄は民法学者で今の天皇明仁の東宮時期に侍従長を務め,父親は東京帝大法科大学長,最後の枢密院議長を務めた。1866年パリ万国博覧会を見学し5百ヶ余りの会社を作り、日本資本主義の最高指導者と呼ばれる渋沢栄一は彼の母方の祖父で、前に出てきた阪谷は伯父だ。露日戦争の時、満州軍総参謀長としてロシア軍制圧に大きな功績を立てた児玉源太郎は長兄の妻の父だ。

総督府官僚だった穂積 提案
セミナー通じて資料共同研究

-穂積がほとんど50才近く年齢差のある若い女性になぜそのような提案をしたのだろうか?

“当時、彼はからだが良くなく少しづつ死につつあった。学者の家に生まれ学問に対する尊敬心が基本的にあり、資料を残さなければならないという思いが強かった。恐らく若い人の力を借りようとしたのだと思う。梶村,姜徳相などと相談をして、皆が絶好のチャンスだと言った。論文は後からでも書けるからと、総督府高位官僚たちが生きている間に徹底的に資料を集めようとすぐに意見統一を見た。互いに立場が違う人々の呉越同舟式共同研究が始まった。”

-共同研究はどんな方法で進行されたか?

“58年5月に朝鮮近代史料研究会という集いを発足させた。毎週水曜日の午後6時、中央日韓協会の職員たちが退勤したら集まり討論会を開いた。内容が分からなければ質問することはできないので、若い研究者たちが事前に準備をたくさんしなければならなかった。私たちがある分野について知りたいと言えば、穂積が担当した人を呼んだ。大物だからそうなのか、彼が呼べば総督府の第ニ人者であった政務総監をはじめ、ほとんど皆来た。このようにして始まった集いが一度も欠かさずに4年間300回続いた。討論内容は全て録音した。”

-立場の違いによる意見衝突はなかったか?

“質疑応答は自由にした。官僚たちや植民統治に関係した人々が何か話をすれば、私たち研究者がどんな点が変だと質問をした。そのような論争の中で日本の同化政策というのがどれほど矛盾に満ちたものだったか分かったし、論文主題もたくさん捜し出せた。”

質疑応答を通じ、日本‘同化政策’の矛盾 自ずから明らかに

-かつての官僚たちが自分たちの行為を無条件に正当化しようとしたのではないか?

“そうではなく、基本的に彼らは過ちを犯したとは考えていなかった。朝鮮に対して良い仕事をしたという自負心を持っていた。政務総監を務めた田中武雄(1891〜1966)は自分が答えられないほど質問をしろと言って先に挑発した。30年代の農村振興運動を行う時、顧問をした一人は、私たちが当時の朝鮮人青年と見えたのか、いつか‘半島の青年諸君’と話し笑いの海となったりした。いくら合理化をしようとしても論争の過程で植民統治の下心があらわれるはずだ。関東大震災の時の朝鮮人虐殺問題を巡っても激論が交わされた。”

-セミナーが長期間続いたが葛藤はなかったか?

“京城新聞論説委員を務めたゴンドウ ケンイチという人が、中間管理の役割をしていたが、一貫して不満の意を現わした。友邦協会側内部で‘アカのような大学生らになぜ敏感な資料をすべて見せるのか’と文句を言っているということだった。ゴンドウは人々が穂積には話をできないので全部自分にくると愚痴をこぼした。私が共産党機関紙<赤旗>に3・1運動について2度寄稿したことが問題になったことがある。私は朝鮮問題の実状を知らせることならば、左右どこでも関係ないと考え、赤旗記者の要請を受け実名で寄稿した。友邦協会に公安関係者たちが訪ねてきたりもしたが、私たちを良くは見ない側が問題と見なした。ゴンドウは‘穂積にそのように可愛がられて、背後から泥水を浴びせた’と非難した。穂積の家を訪ねて行き、こういう事があると知らせると‘あんなに大きな戦争をして負けておいて何の反省もしていない。気を遣うな’と言った。セミナーは穂積がからだが悪くよく出てこれないために動力が落ち、彼が亡くなった後には接触が途切れた。”

京城新聞論説委員出身“敏感資料なぜアカに…”

-朝鮮史研究会が1959年1月に発足した背景は?

“当時東京地域で大学院に朝鮮史講座があったのは都立大学と明治大学だけだった。それすら近現代史を教える処はなかった。70代の元老学者から初歩研究者の大学院生まで50人余りが集まり学会をスタートさせた。初期段階の大黒柱の役割は旗田巍(はただ たかし:1908〜1994)が担ったが、高麗史専攻だった。専門研究者だけでなく一般人に門戸を開放したことが特色だが、すでに50年が過ぎた。”

-その時と現在の研究水準や風土を比較することができるか?

“当時は目に見えることからしなければならないので、告発が先にあり事実を糾明し体系化することが遅れ隙間があった。その程度の力しかなかったため仕方なかったと思う。朝鮮侵略と植民地支配に対して一人の日本人としてどのように受けとめるべきか、無知と偏見があったとすればどこからきたのか、内面の闘争があった。それで私たちが論文なり本なりを書く時は、序文が長かったが今はそんなことは全くなくなった。老いた学者の立場から見れば、この頃は何の意味があるのか分からない研究が非常に多くなった。”

-友邦文庫文献の中でまだ分析されていない資料がたくさんあるか?

“そうだ。例えば帝国議会説明資料は4部だけ作り、政務総監などに配布された。極秘印鑑は捺さなかったが、それ以上のことだ。予算がどのように編成され配分し使われたのかを分析すれば、総督府の重点事項が明らかになる。それで政策決定過程も知れることになる。”

帝国議会予算編成等
植民地政策決定が分かる

-録音されたテープを解き注と解説を付け学術誌<東洋文化研究>に出す作業を10年も続けている。いつまで続けるのだろうか?

“当初は1回だけやって手を引くつもりだった。現在2020年までの作業日程が決まっている。まだ健康は大丈夫だが、これからどうなるのか私自身にも分からない。それでも作業から手を引くことができないのは、50年以前に録音され音質が良くないうえに、証言者の大部分が亡くなり内容を聴いて判断できる人が殆どないためだ。それでも、あちこちさまよった資料が結果的に良いところに無事に到着したことに安心している。”

-講師生活を数十年したが、なぜ正式教授の席を求めなかったのか?

“私が勉強した時は在野の研究者が素晴らしいと思った。朝鮮で言えばソンビ(在野学者)だ。組織に属さなければどこへも配慮する必要がないので、自由に研究ができ言いたいことを言える。”

‐北韓へ行ったことがあるか?

“一度も行っていない。飢えている人が多いというのに行って優遇されたら胸が痛みそうだ。日本社会も問題だ。一時は北を地上の楽園と言ったかと思えば、今は地獄だと言う。ジェットコースターに乗っているようだ。”

宮田には必ず会いたい人が一人、北朝鮮にいる。50年代後半、共に勉強した在日同胞キム・ジョングクだ。まだ生きているのかすら分からない。宮田より三才上の彼は正規教育をまともに受けられなかったが、当時の同胞社会で漢文の実力が最も優れた人として定評があった。都立大教授だった旗田巍を訪ねて行き<高麗史>を共に読んだという。生業をしながら高麗史研究に没頭した彼は、62年に北朝鮮へ行く‘帰国船’に乗った。見送るために船が出港する新潟まで行った時に見た彼の希望に満ちた顔を忘れられない。しかし北から手紙が一度きて連絡が途絶えた。昨年10月17日、朝鮮史研究会創立50周年をむかえ開かれた記念式で宮田は若い時期に共に勉強会をした時の写真を配った。“あなたが撒いた一粒の種が大きく多様な実を結んだ”という感謝の言葉と共に。彼は北であんなに希望していた歴史研究を継続できたのだろうか?

松戸/キム・ヒョスン論説委員hyoskim@hani.co.kr

宮田節子略歴
1935年生まれ
早稲田大文学部卒
明治大学大学院博士課程
早稲田大,一橋大,日本女子大などで講義
著書<朝鮮民衆と皇民化政策>(1985),<創氏改名>(1992)

原文: http://www.hani.co.kr/arti/SERIES/233/396847.html 訳J.S