2006年02月19日

歴史解説・コラム・専門リンク

旧阪急梅田駅コンコースおよびその周辺の歴史的背景を解説・検証するエントリーです。

【解説・コラム】
・有志作成:旧阪急梅田駅コンコースの歴史(2005.09.25/10.02)
・葦永陽二:mixi [古い建物好き] 「阪急梅田コンコース」より(2005.09.28/10.03)
・田浦紀子:虫マップ 第8回「旧梅田駅コンコース、解体へ」(2005.09.30)
・日間 仁:阪急ビルディングの建築に就いて(2005.10.18)

【専門リンク集】
専門家による言及・論文・エッセイ等のリンク集(建築・建築史関連)
参考文献(電鉄・都市・文化・建築関連)
コンコース製作に関連した企業(照明関連)

執筆者は有志メンバーで探していますが、我こそはと思う方のコメント&トラックバックも同時に募集します。尚、コメントでの文章が長くなる場合は こちら まで直接ご送信ください。内容を検討の上、追って掲載可否のご連絡を差し上げます。

旧阪急梅田駅コンコースの歴史


アーチ型の天井にレトロなシャンデリア。ドームを囲う唐草模様のレリーフ。そしての四神のモザイク壁画…。阪急ビルのシンボル的存在だった旧阪急梅田駅コンコース。ここはその昔、阪急電車の乗降場でした。

設計者は京都の平安神宮などを手がけた伊東忠太氏。
1929年(昭和4)に世界初のターミナル・デパート(鉄道駅を併設した百貨店)として建てられ、ほぼ建築時そのままの外観を残す建物の中でも、このドームはよく当時の雰囲気を残しています。東西の壁面には獅子、鳳凰、ペガサス、龍のモザイク画が描かれています。また、壁画の中央部には月に白ウサギ、赤い日輪に八咫烏の意匠も。1971(昭和46)年に梅田駅が現在の場所に移設された後は通路として使用されていました。昭和のモダニズム漂う歴史建築は76年間にわたって多くの市民に親しまれてきましたが、2005(平成17)年9月13日を最後に、姿を消そうとしています。

(有志作成・2005.09.25/10.03)

mixi [古い建物好き] 「阪急梅田コンコース」より


SNS: Mixi の [古い建物好き] というコミュニティの「阪急梅田コンコース」というトピックでコメントされていた葦永陽二さんのコメントをご本人の了解を得て転載します。

2005年09月28日 17:08 39: 葦永陽二
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
今から30余年前、万博開催に時を同じくし大阪梅田でビッグプロジェクトがスタートしました。将来の輸送力増強を視野に入れて、阪急梅田駅施設とホームを拡張するために国鉄線路の北側に新駅を建設、当時の阪急梅田駅は取り壊し、新たに高層ビルを建設するというものでした。やがて新駅の第1期工事が完成すると、旧梅田駅は市民に惜しまれながらも解体撤去されました。この時点では阪急百貨店の建物は残されることになっており、伊東忠太氏設計による旧梅田駅コンコース部分も阪急百貨店の一部として解体を免れました。

北側へ遠のいて不便になった新梅田駅へのアプローチとして国鉄ガード下通路には日本初のムービングウォークが設置され、旧駅跡地には長いコンコースと新ビルが造られます。ぼくはこの工事期間中に何度もここを歩きましたが、仮設通路を造り駅舎を少しずつ解体しながら工事が進められていました。コンコースは最初に百貨店側の西半分だけが整備され、柱から東側は工事用のフェンスで覆われたままでの開通でした。その東側が完成し、現在のような大きなコンコースとなるまでには時間がかかったと思います。完成後もこのコンコースはしばらく暗く冷たく味気ない空間だったという記憶が残っています。しかし、その数年後に旧駅跡地に阪急グランドビルが完成しコンコース東側のファサードが整い始めます。さらに、何度も繰り返された阪急百貨店の増改築工事によりコンコース西側のファサードも造り変えられ、ほぼ現在の状態に近づきました。あの金色の教会風ドームと電照ステンドグラスはこのコンコースのモニュメントとして造られたものです。

取り壊された梅田駅を惜しむ声や、駅に辿り着くまでの長い長いコンコースを批判する声も続きましたが、やがて、この新しい空間も市民に親しまれるようになり、多くのファンが生まれます。これは30余年前に惜しまれながらも、梅田駅をぶち壊して新たに造り変えることを企てた阪急の思惑通りの結果と言えるのではないでしょうか。

そして今また、今度は増改築を続けながらも唯一残されてきた阪急百貨店を建て替えることになった。このトピにも紹介されている阪急のプレスリリースでは、現在のコンコースと阪急グランドビルは残されることになっています。もちろん建て替えられる百貨店側のファサードは変わるでしょうし、それに伴う周囲のデザイン調整は行われるでしょう。しかしこれらは過去にも改築として何度か行われてきたことです。おそらくあの金色の教会風ドームと電照ステンドグラスは撤去されるでしょうけど。

しかし、解体される阪急百貨店の建物を惜しむ声よりも、現在のコンコースを残したいという声が大きいほど、そのことを誇りに思い勇気づけられるのは阪急の幹部だと思います。自分たちが若かった頃に、あるいは自分たちの先輩が大英断したビッグプロジェクトが間違っていなかったことを再確認できたのですから。

愛着のある空間が無くなるのは誰でも寂しいものです。僕自身、自分が生まれ育ったところが新しいビルに変わっていたり、通った学校が無くなっていたり、何度も寂しい思いをしてきました。だから、変わることが良いとは思っていません。ただ、全てを残すことはできないのだから、残すものを吟味していかなくてはと思っています。

【転載用補記】
記憶を頼りに書いたものですので1〜2年程度の誤差はあるかもしれません。
このコメントを書く前に、1929年に完成したという伊東忠太氏デザインによる旧梅田駅コンコース(現・阪急百貨店の一部)と、その40年以上後に旧梅田駅を潰して造られた梅田駅コンコース(金色のドーム含む)は、その歴史的意義も造られた背景も全く違うものなのだから、別々に論じる方がいいのではないかという意見をアップしています。そう感じたのは、そのトピックやネット上のブログなどを読んでいると、伊東忠太氏の名を出しながらも電照ステンドグラスと金色のドームについて語っている人や、この2つが同時期に造られたものだと誤解しているのではないかと思える人もいらっしゃったからです。中には百貨店はどうでもいいから吹き抜けのコンコースだけは残して欲しいという人さえいらっしゃいました。これは保存云々の前にどちらの作者に対しても失礼なことです。また、30年ちょっと前にそこにあった由緒ある古い駅舎を潰して新造され、これまでにも何度も改装が重ねられてきたコンコースのファサードが、いままた新しくなることに、これほどまでの強い拒否反応があることが、ちょっと不思議でもあり、不安でもあります。そのあたりをもう少し書き留めておきたくて上記の文章をアップしました。ま、こういう事を感じているおっさんも居るんや、ということを知ってもらえれば本望です。

(文責:葦永陽二・本文:2005.09.28・補記:2005.10.03)

田浦紀子:虫マップ 第8回「旧梅田駅コンコース、解体へ」


 アーチ型の天井にレトロなシャンデリア。ドームを囲う唐草模様のレリーフ。そしての四神のモザイク壁画…。阪急ビルのシンボル的存在だった旧梅田駅コンコース。ここはその昔、阪急電車の乗降場でした。そして、手塚先生が昭和20年8月15日、終戦の日を迎えた場所でもあります。

 ぼくはその夜、自宅の宝塚から、阪急電車に乗って大阪へでていった。車内はガランとして幽霊電車のようにさみしかった。「あっ、大阪の町に灯がついている!」ぼくは目を見はった。阪急百貨店のシャンデリアが目もくらむばかりに輝いている。何年ぶりだろう!灯がついたのは。「ああ、ぼくは生き残ったんだ。幸福だ」これが平和というものなんだ!
(COM’68年1月号収録 「ぼくのまんが記戦後児童まんが史1」)


050930虫マップ1 このエピソードはそのまま『紙の砦』のラストシーンとして描かれています。1929年に日本初のターミナル・デパート(鉄道駅を併設した百貨店)として建てられ、ほぼ、建築時そのままの外観を残す建物の中でも、このドームはよく当時の雰囲気を残しています。現在の阪急梅田駅はJRの北側にありますが、1971年までは現在の阪急グランドビルのあたりに駅があり、改札を出るとすぐ、このシャンデリアが煌煌と輝いていたというわけです。また、『COM』連載時の挿し絵で、シャンデリアは今のものと同様になっていますが、阪急の社史によれば、大シャンデリアは金属回収令により供出させられていたそうです。したがって、手塚先生が見たものは、もう少し小振りの別の照明だったかもしれません。

050930虫マップ2
『ブラック・ジャック』「アリの足」
のラストシーンの背景に描かれている
阪急ビルディング(南側から見たアングル)
 ちなみに手塚先生は、大阪市街地へ行き来する場合(大学時代は毎日)必ず通るこのターミナルビル近辺が思い出として強く残っているのか、作品中に3回登場させています。ひとつは『どついたれ』で、美保が拘留されていたのが曾根崎警察署であった、という設定。二つ目は『ブラック・ジャック』「アリの足」のラストで小児麻痺の少年(ケン一)が辿り着いた場所が大阪駅前であること。(背景に阪急ビルの「阪」の字と阪急のロゴマークが描かれています。)三つ目は『アドルフに告ぐ』で、仮釈放された峠草平が仁川警部と一緒に、彼の自宅に向かおうとするシーン(話す二人の後ろをランプの部下が尾行しながら「やつは郊外電車に乗る気です。」などと報告しているシーン)。ここで、二人が向かっているのも、おそらくはこのターミナルビルでしょう。

 しかし、ついにこの梅田の歴史建築に幕が引かれるときが来てしまいました。阪急百貨店は全面的な建て替えが決まっているのです。今年8月中旬より工事が開始され、9月中旬には旧梅田駅コンコースも閉鎖とのこと。これで手塚治虫ゆかりの地がまたひとつ姿を消すことになりました。

(文責:田浦紀子 (のりみ)・手塚ファンマガジンvol.179 掲載・森の伝説虫マップ」より転載)

日間 仁:阪急ビルディングの建築に就いて


 平成17(2005)年2月、大阪曾根崎の阪急ビルディングの改築が、阪急ホールディングス株式会社から発表された。

写真1 阪急ビル全景
写真1 阪急ビル全景 筆者撮影
 曾根崎警察署前から見る、阪急ビルディングの全景は、クリーム色のタイル貼で仕上げられたストリームラインの外観が見る者に強烈な印象を与える(写真1)。第一期工事の完成から七十年余、京阪神へと延びる阪急電鉄のターミナルとして、そして、ナビオ阪急、HEP-FIVE、茶屋町へと展開する阪急グループの中枢部、そして大阪キタの顔として君臨をしてきた。
 しかし、阪急ビルディングは、昭和4年の第一期工事の完成以来、昭和36年の第6期工事まで、阪急グランドビルや現梅田駅コンコースまで含めると戦時中・終戦後の中断をはさんで全9期、約半世紀余りにわたって建設が進められた結果、今日見られる姿となった。その中で、阪急ビルディングにおける旧コンコース部分の位置づけについては、竣工当時を除くと、これまで十分に語られてこなかったように思われる。
 そこで、「京阪神急行電鉄五十年史」、「建築と社会」などの資料をもとに、昭和4(1929)〜7(1932)年に完成した阪急ビルディング第一期、第二期を中心とした戦前期の阪急ビルディングの建設の経緯をたどりながら、旧コンコース部分の意味を捉えなおしてみたいと思う。

1 白木屋から阪急マーケット(大正8(1919)年〜昭和元(1926)年)
写真2 旧阪急本社ビル.JPG
写真2 旧阪急本社ビル
「承業弐拾五周年記念帖」
竹中工務店 大正13(1924)年
 明治43(1910)年、大阪十三と箕面、宝塚間を開通させた箕面有馬電気鉄道は、その後、神戸方面への乗り入れを計画し、神戸の財界人らによって出願されていた灘循環鉄道による西宮〜神戸間の鉄道敷設権を買い取り、社名も阪神急行電鉄と改称(大正7(1918)年)し、大正9(1920)年には、大阪梅田〜神戸上筒井間の営業運転を開始するに至った。
その神戸線が開通する前年の大正8(1919)年、現阪急ビルディングの東側の位置に、阪神急行電鉄の社屋ビルが完成した(写真2)。

 竹中工務店の設計、施工になる鉄筋コンクリート造5階建で、正面軒先の阪急の社章と、玄関周りにバットレス風の装飾がつく以外は、簡素な立面の事務所建築であった。
3階以上のフロアは阪急の事務所が使用し、1階には東京の百貨店・白木屋が梅田売店を出店。雑貨、食料品や雑誌を販売した。2階は、阪急が直営で食堂を開店させた。1フロアは約80坪で決して広いとはいえない規模だったが、駅に併設されていることもあって、多くの利用客を集めた。
 白木屋との賃貸契約期間が終了する2ヶ月前の大正14(1925)年2月、阪急は社内に「阪急マーケット準備委員会」を設置。白木屋の経営手法と販売方法の研究、阪急直営に向けた仕入れルートの開拓に集中的に取り組んだ。(遊園地、少女歌劇、宅地開発と多角経営を志向していた小林は、自社ビル建設を経過した時点で、既にデパートメントストアの経営に興味を持っていて、その経営ノウハウを吸収することも計算に入れて、白木屋を梅田に誘致をしたとも考えられる)。

 同年4月、契約期間満了に伴い白木屋が梅田売店を閉鎖すると、阪急は本社機能を近隣の空ビルに移転させ、旧白木屋梅田売店の規模を拡張させる形で、1階から3階までのフロアを使って「阪急マーケット」を開店、4、5階を直営食堂として再オープンさせた。
 阪急マーケットは順調に業績を伸ばし、年号が昭和へ改まる頃には白木屋時代の売り上げを超えるようになった。ここへきて、さらなる阪急ストアの規模拡大が画されるようになった。

2 阪急ビルディングの建設(昭和2(1927)年〜昭和4(1939)年)
写真3 阪急ビル1期
写真3 阪急ビル1期
前出「竹中工務店七十年史」
 阪急は、中津〜梅田間の高架橋設計を担当した阿部美樹志、そして竹中工務店に、阪急ストアビル西側の隣接地に、阪急ストアを拡張することを主な目的に、地上8階地下2階建の新ビルの設計、施工を依頼する。
新ビルは、昭和2(1927)年11月起工、同4(1929)年3月に竣工した。これが、阪急ビルディング第一期工事である(写真3、現阪急ビルディング南西部、旧コンコース4連アーチ出入り口の左から2つ目付近まで)。
 同年4月15日、阪急ストアは新ビルに移転し「阪急百貨店」として生まれ変わった。昭和4(1929)年当時、鉄道会社が経営するデパートメントストアは他になかった。阪急ビルディングは、本邦初の「ターミナルステーション・デパートメントストアビル」となった(ちなみに本邦初のターミナルステーションビルは、渡邊節設計の新京阪鉄道天神橋駅ビル(大正15(1926)年)である)。

3 第二期増築工事実行へ(昭和6(1931年以降)
写真4 阪急ビル1・2期全景
写真4 阪急ビル1・2期全景
前出「建築と社会」第15巻第2号
 昭和5(1930)年、阪急は旧本社(旧阪急マーケット)ビルを解体撤去し、阪急ビルディング第二期の増築工事に着手。翌6(1931)年に工事が完成した。
第一期・第二期で建設された部分の外観は、中間層、アチックは「萬成石」と「濃紫褐のタイル」で仕上げられており、8階にはランターンが各柱につくなど、今日とはやや印象の異なる外観となっていた(写真4)。
ただ、第二期工事では、屋上部分については、たとえば御堂筋に面した電車案内塔の頂部はガラスブロックで覆われ、その上の避雷針まわり意匠は構成主義的に仕上げられるなど、モダンな造形も顔を覗かせていた。

 ここに、現在御堂筋に面して建つ阪急ビルディングのファサードが、ほぼ完成を見たことになる(ちなみに第一期、第二期のファサードが第三期以降と同系統の意匠に改装され、今日見られる姿になったのは、阪急グランドビルが建設された昭和40年代後半以降のことである)。

4 阪急ビルディングの建築家〜阿部美樹志と鷲尾九郎〜
先に述べたように、阪急ビルディングの建設計画は、構造を阿部美樹志、意匠・平面計画を竹中工務店が担うという体制で進められていた。
阿部美樹志は明治16(1883)年、現在の岩手県一関市に生まれた。明治38(1905)年、札幌農学校土木工学科を首席卒業後、鉄道院入り。この間、アメリカ・イリノイ大学大学院に留学し、鉄筋コンクリート構造を学び、卒業論文「鉄筋コンクリート造剛接加工の理論と実験に関する研究」で、ドクトル・オブ・フィロソフィーの学位を取得。帰国後、東京〜万世橋間の本邦初の高架橋建設の設計を取り仕切った。いわば高架鉄道設計の権威であった。その後、官を辞して独立、阿部美樹志設計事務所を開設した。
阿部と小林一三との出会いの陰には、浅野総一郎の仲立ちがあった、といわれている。阿部にとっての最初の阪急の仕事は、大阪貨物駅新設に伴う、大正15(1926)年の十三〜梅田間の高架橋建設事業である。その後、阪急ビルディング、神戸原田〜三宮の高架橋、阪急会館など阪急の主要な建築物に関与した。
 戦後は、戦災復興院総裁等の公職を歴任し、昭和40(1965)年に亡くなった。 

 一方、竹中工務店にあって、プロジェクトのまとめ役として奔走したのが、大正6(1917)年入社の鷲尾九郎(明治26(1893)年〜昭和60(1985)年)であった。
鷲尾は、東京帝国大学の4年先輩に当たる藤井厚二の勧めで、竹中の門を叩いた。竹中工務店としては学卒者で第一号のデザイナーである藤井の後継者として、神戸市立図書館(現神戸市立中央図書館旧館、大正10(1921)年、現存せず)や、堂島ビル(大正12(1923)年)、宝塚大劇場(大正14(1925)年、現存せず)、白鶴美術館(昭和9(1934)年)など、公共的な建物を多く担当した人物である。阪急ビルディングのように、解体・撤去と建設を平行して進める複雑な工程の計画や、火災で焼け落ちた宝塚大劇場の再建(昭和4(1929)年、現存せず)のように短期間で完成しなければならない工事など、調整力の要する大プロジェクトの捌きに関して、類まれな才能を発揮した。
 昭和元(1926)年に、竹中工務店社内の職制改革で、初代設計部長に就任。以後、昭和17(1942)年に常務取締役に昇任するまでの17年間、同社の設計部門の要として、竹中藤右衛門を技術面で支えた。

5 旧コンコースの意匠決定の経緯
写真5 阪急ビルコンコース
写真5 竣工当時の旧コンコース。
シャンデリアのデザインが、
現在のものとは異なる。
前出「建築ト社会」第15巻第2号
 昭和7(1932)年竣工の第二期増築で、現在、その去就が問題となっている旧コンコースのドーム空間の装飾とモザイクタイル画がしつらえられた(写真5)。

図1-1 阪急ビル横断図 図1-2 阪急ビルコンコース1階鉄骨構造図
図1-1
阪急ビル横断図
図1-2
阪急ビルコンコース1階鉄骨構造図
 そもそも旧コンコースのドーム空間は、阿部美樹志が阪急ビルディングの1、2階を占める駅コンコースの空間の設計に際して、コンコースの中央部分に鉄筋コンクリート造では不可避である複数の柱の設置を行わずに、乗降客の動線等を考慮した大空間の確保と大地震に耐えうる耐震性能の両立を図るため、「スチールアーチリッブ(アーチ型鉄骨)」を用いた特殊な構造を採用したことから出来上がったものであった(図1−1図1−2、ちなみに、構造計算は、竹中工務店の青柳貞世(早稲田大学卒)が、鉄骨構造関係の計算は阪急電鉄の川浪知熊、鈴木祥六両技師がそれぞれ担当した)。

 旧コンコースのドーム空間の意匠考案を行った伊東忠太は、日本建築協会の求めに応じて、「建築と社会」第十五巻第二号(昭和7年2月)に「阪急ビルの内部装飾に就て」という一文を寄せている。その中で、伊東は、「予が考案の委嘱を受けた時は、あの建築は既に殆ど完成に近かつた」と書き記している。
 実は、伊東への依頼の前に、外観に合わせた「現代式」のドーム空間のデザインが竹中工務店によって準備されていた。ところが、「本邦初の画期的なターミナルステーション・デパートメントストアビルの玄関口に相応しい意匠を施すべきである」という趣旨で、阿部美樹志が阪急側に、伊東に旧コンコースの意匠考案を依頼するという提案を行った(当時としては画期的な「スチールアーチリッブ」によって形作られた空間をさらに引き立たせたい、という阿部の思惑がそこに働いていたと推測することも可能である)。
 東洋趣味で知られていた伊東への委嘱については、外観と内観の統一を図る観点から関係者の中には強硬に反対を唱える者もあった。しかし、最終的には阿部の提案が、阪急側に受け入れられた。結局、伊東に意匠考案の依頼があったのは、第二期工事竣工の実に3ヶ月前という時期であった。
 阪急側が伊東に寄せた注文は、「公衆の目を惹くに足る壮麗なものに致し度い」というものであった。
 
 伊東は蒲鉾型のドームの東西の妻部の扇型の部分について、最初は、中国の古典思想によって、青竜、白虎、朱雀、玄武の四神を配することで「天の四方を示し日月を以て画夜の運行を現はし、阪急の活動を祝福せん」と考えたが、「さて、四神を図案化して見たが、青龍、白虎、朱雀までは無難であったが、玄武が如何にしても面白くなく、墓内の壁画ならば兎に角あの場所に遅鈍の亀と陰険の蛇では人に快感を與へ難い」ということで、四神にかえて阪急電車の快速と威力を象徴するものとして「龍、馬、獅、鳳(朱雀)の四動物」を選んだのであった。

6 第2期以降の増築工事について
写真6 阪急ビル 1〜3期 全景.JPG写真7 阪急ビル4期
写真6 阪急ビル 1〜3期 全景
「建築写真集第三輯」
竹中工務店 昭和10(1935)年
写真7 阪急ビル4期
「建築写真集第四輯」
竹中工務店
昭和14(1939)年
以後、昭和6(1931)年に第三期(翌7(1932)年竣工、現阪急ビル西側)、第四期(昭和11(1936)年竣工、現阪急スカイビル南側部分)と順次増築が進められた。第三期工事(写真6)は、明治製菓戸畑工場など、阿部美樹志のほかの作品に通じるディティールが見られる。また、第四期の阪急梅田駅舎部分(写真7)は、伊東忠太の下で旧コンコースのドーム空間の意匠の実施設計を行い、また武藤山治記念館(昭和10(1935)年、現存せず)の設計を手がけた岡野寛治(大正14(1925)年、神戸高等工業専門学校卒業)が担当した。

7 むすびにかえて
 阪急ビルディングの第一期、第二期の建設の経緯を詳しく見てきた。
特に、旧コンコースの意匠考案の過程では、伊東は前述の「阪急ビルの内部装飾に就て」の中で、限られた時間の中での作業で、自身の意図を十分表現できていないところがあった、と述懐している。
とはいえ、旧コンコースの部分が、従来から言われていた伊東忠太による意匠考案という要素に加えて、本邦初の「ターミナルステーション・デパートメントストアビル」である阪急ビルディングを実現する上での計画上、構造上の重要な特徴の一つであることも確認できた。

 こうした経緯から考えると、本邦初の「ターミナルステーション・デパートメントストアビル」たる阪急ビルディングの改築にあたっての、旧コンコース空間の歴史性に対する配慮として、(現在憶測されている)「モザイクタイル単体での保存」だけでは甚だ不十分であり、特徴的な「スチールアーチリッブ(アーチ型鉄骨)」により構成された旧コンコースの空間全体を後世に伝えていくことが、阪急として歩むべき「王道」ではなかろうか。
 阪急を始め関係者は、旧コンコースの張りぼてを作ってそこにモザイク画を填め込む、あるいは何の関連もない場所にモザイクタイル画をモニュメント的に「祀り立てる」というような愚を犯してはならない。
 すでに、旧コンコースの壁画周りには作業用の仮囲いが設けられ、モザイクタイル画の移設に向けた準備が進んでいることも考えられるが、今こそ、阪急電鉄を始めとする関係者は、立ち止まって、先人達の残した空間を次代へ伝えていく努力をするべきである。  (了)

参考文献
「京阪神急行五十年史」同社 昭和34(1959)年
「阿部美樹志と阪急の構造物」小野田滋
(「鉄道ピクトリアル」第663号 1998年12月臨時増刊号「特集 阪急電鉄」所収)
「阪急ビルディングの内部装飾に就て」伊東忠太
「阪急ビルの構造計算に就て」阿部美樹志
「阪急ビルディング断片」鷲尾九郎
(以上、3点「建築ト社会」第15巻第2号 関西建築協会 昭和7(1932)年所収)
「竹中工務店七十年史」竹中工務店 昭和44(1969)年

(文責:日間 仁 (ドクターフランキー)・2005.10.18)


専門家による言及・論文・エッセイ等のリンク集


【建築・建築史関連】
・中井 祐:土木エンジニアたちの群像−小林一三の描いた模範的郊外生活(建築業界・2001.06)
・松岡正剛:第七百三十夜『伊東忠太動物園』(松岡正剛の千夜千冊・2003.03.11)
・五十嵐太郎:Photo Archives 36 伊東忠太(10+1 web site・2003.10)
・中谷礼仁:旧阪急梅田駅コンコース取り壊し問題について(Nakatani's Blography・2005.09.21)
・五十嵐太郎:958:ガンダム・バー2号店も制覇(50's THUNDERSTORM・2005.09.23)

参考文献


【電鉄関連】
・阪急ワールド全集1:阪急コレクション(阪急電鉄コミュニケーション事業部・¥1,500)
・阪急ワールド全集4: 阪急ステーション(阪急電鉄コミュニケーション事業部・¥1,500)

【都市・文化・風俗論関連】
・北尾鐐之助 著:近代大阪 近畿景観 第3編(創元社・¥3,675)
・手塚治虫 著:ぼくのマンガ人生(岩波新書・¥777)→ネオンストーリー
・清水慶一 著+清水襄 写真:近代化遺産探訪(エクスナレッジ・¥2,940)

【建築・建築史関連】
・日経アーキテクチュア 編:建築家が選んだ名建築ガイド(日経BP社・¥1,260)
・藤森照信, 増田彰久, 伊東忠太:伊東忠太動物園(筑摩書房・¥2,548)


コンコース製作に関連した企業


【照明関連】
・ライト照明株式会社:取扱商品:ヘッダ画像(照明用ガラス製作会社)
・ライト照明株式会社:ガラス製作:切子ガラス(照明用ガラス製作会社)

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この記事へのコメント
かってのオルセー駅がオルセー美術館に生まれ変わったように
阪急梅田駅コンコースを美術館に生まれ変わらせられないでしょうか。
by 野村  勉 at 2006年12月07日 22:18

オルセー駅がオルセー美術館に生まれ変わったように阪急美術館に
出来ないでしょうか。
by 野村  勉 at 2006年12月07日 22:21

オルセー駅がオルセー美術館に生まれ変わったように阪急美術館に
出来ないでしょうか。
by 野村  勉 at 2006年12月07日 22:23