hansukeのハンドボール雑談

ブンデスリーガを中心に、国内外の試合結果等を気まぐれに掲載していきたいと思っています。

むかしばなし

Seine Gymnasiumstage_4

高校1年生の夏休み。
私達は初の合宿に入りました。

しかも他校との3校合同合宿。


他校の1年生との試合は初めてになります。

その合宿で一緒になった高校には、中学時代に大阪選抜を経験した選手が居ました。

彼は既に新チームにレギュラーになっており、合宿に行く前に先輩から話を聞いていたので、一緒に練習するのが楽しみでした。



ところが。


合宿初日、宿に着いた私は気分が優れず、熱を計ったところ38度を超えていました。

そして初日から3日間、ずっと宿の部屋にこもりっきりでした。



やっと熱が下がった4日目の天気は

小雨の降る中、長距離走をこなすだけの一日で、ボールに触る事は出来ませんでした。


そして最終日。

天気も回復し、グラウンドも先生方のおかげで使える状態になり、最後の合同練習が出来ました。
と言っても最終日は午前中のみという日程になっていたため、練習ではなく先輩達の試合が中心に。

自分達は2試合したものの、まだまだ素人の域を脱せず、大阪中学選抜を擁するS高には歯が立ちませんでした。

ちなみに、中学選抜の彼は身長が160センチ台と低いにも関わらず、フェイントとパスワークがずば抜けていて、シュートスピードも1年生とは思えないものでした。

こんな上手い奴と、この先試合で戦わんとアカンのか・・・?

と、イキナリ厳しい現実を突きつけられた気分でした。


さらにビックリさせられたのは、全ての日程が終わり、全員で片付けていた時の事。

当時から人好きだった私は速攻でS高の1年生に話しかけ、片付けをしながら色々と話をしたのですが、何とS高は中学選抜の彼以外は全て高校からハンドボールを始めたばかりだったのです。

ついさっき、私達をボコボコにしていった彼等の殆どが、私達と同じ時期にハンドボールを始めたばかりだったなんて・・・。

ショックを受けた私は、帰りのバス内で皆に話したものの、同じ様にショックを受けた者は少なく、『後2年あるんやから』といった雰囲気でした。


そもそもS高の生徒達と積極的に話をしていたのも私だけ。
(こういった、私とチームメイトの間にあった少しの温度差が、後々色んな問題になったりするのでした。)


そして合宿が終わり、8月中旬・・・夏休みも終わりかけた頃に『秋季大会』が始まるのでした。。。

Seine Gymnasiumstage_番外

高校1年生の時に初めて見に行った日本リーグ。

対戦カードは忘れてしまったけど、女子は大崎電気、男子は湧永製薬のカードが組まれていたように記憶しています。


以前は大崎電気にも女子チームがあった事をご存じない方が居てはるかもしれませんね。

当時の日本リーグ女子は大崎電気が韓国人コンビを擁して連勝を重ねていた、強豪チームでした。(金玉花とユン乗順。
この二人が本当に凄かったのです。)


当時からミーハーだったワタクシは、パンフレットを買うと、持っていたペンを片手にサインを貰おうと1Fロビーをウロウロ。

目的は湧永製薬の左腕エース玉村健二選手でした。


が、いざ玉村選手が目の前に来た途端、びびってしまってサイン下さいと言えず、握手だけしてもらった小心者でした(汗)

その後、大崎女子の金玉花選手からは何とかサインを頂きましたが。

そのサインも、今はどこかにいってしまいました(涙)


試合内容は殆ど記憶にありません。
勝手にアリーナの入口で試合見てたら、役員さんに怒られ、更に先輩にも怒られたという事は忘れていませんが(汗)


ただ、その後何試合も日本リーグや全日本実業団、全日本総合、国際親善試合などを見に行きましたが、まず最初に思い出すのは、この高1の頃の日本リーグなのです。


自分がハンドオタクに入り込む大きなキッカケだった大会なのかも知れませんね。

Seine Gymnasiumstage_3

私達1年生にとって初の対外試合。

その対戦相手はすぐ隣にある中学のハンドボール部でした。

ハンドボール部に入ってわずか2週間程。
1人を除いて全て素人の集団が、2年以上やってきた中学3年生に勝てる訳もなく、私達は惨敗。
得点もわずか2点しか挙げられませんでした。

私達の試合前には3年生の先輩達が中学生に胸を貸し、その試合に私は途中から出させて貰いましたが、先輩の絶好のズラシからのサイドシュートを、緊張のあまりステップシュートで打つ始末(汗)

ルールもろくに判ってない私達のデビュー戦は、呆気なく終わったのでした。

『自分達は素人やから仕方ない』

そんな甘えた雰囲気はこの頃から漂っていました。(この雰囲気は、結局ずっと残り続けていくのですが・・・)

そんな1年生などお構いなしに先輩達はインターハイ予選に突入します。

当時の大阪は4つの地区に分かれており、各地区の上位4校が中央大会に進む事が出来ました。負ければ終わりのトーナメント。

先輩達は地区の1回戦から順調に勝ち上がり、地区を3位で通過。中央大会へと進みました。

普段笑いながら楽しそうに練習している先輩達がここまで強いとは思っておらず、正直ビックリしました。

結局、先輩達は中央大会初戦で北陽(GKが当時2年生の四方さんでした)に敗れてベスト16に終わりましたが、試合を見た私達は先輩達の強さに『自分達もここまで勝ち上がれるようになるんやわ』と、勘違いをしていたのかもしれません。


そして夏休み・・・合宿が始まります。

Seine Gymnasiumstage_2

仮入部期間が始まり、初めて手にしたハンドボールは、身長160センチに満たない自分にはとても大きな球でした。

手が小さい上に握力が弱かったので、松ヤニをつけないととても持てるものではなかったです。


毎日の練習は、まず僕達1年生が体育倉庫からボールを出し、コートのラインを引き、ボールネットをゴール裏に置いて・・・という準備をしてから始まりました。

まず全員でコート周りを数周走り、その後ストレッチ。。。

で、キャッチボールを始める・・・というパターンでしたが、このキャッチボールの段階で、1年生が20人も居るもんだから、ボールが足りなくなってちょっと大変だったり。。。

キャッチボールをしている自分を見て、左で投げている自分を見て先輩達が『おぉ、左利き居てるやん!』とプチ騒ぎ。
(後に「2年生に左利きが居なかったため」という事が判明。)


しかし私は・・・ボールがちゃんと持てない上に腕力もない子だったので、キャッチボールをしてても20メートルにギリギリ届かないという非力っぷりでした。


その後のシュート練習や1対1、2対2、反速攻、6対6などの練習メニューには1年生は参加せず、半面だけあるコートでシュート練習とフェイントの練習を1年生だけでこなしていました。

ジャンプシュートは小学校の時に経験していたので、割と注意される事もなく練習をこなしていけていました。


そして仮入部期間が終わり、気がつけば数名が練習に参加しなくなっており、15名前後が本入部をする事になりました。

中学時代にハンド部だった者が部長となり、その彼と仲の良かった者が副部長に決定。

そしていよいよ1年生チームでの初の対外試合を経験する事になりました。。。

Seine Gymnasiumstage_1

中学3年生の時・・・身長が158センチ、体重は50キロ前後だったかな?
とにかく小さくて、細くて・・・もちろん腕力も、握力も弱かったです。

それでも高校に入ったら、ハンドボール部に入ろうって決めていました。


地元の高校のハンドボール部が実はそれなりに強くて、部員の中には『大阪選抜』としてドイツに遠征した人も2人居るという話も聞いていました。

それに加えて、中学のバレー部員として高校へ練習試合に行った時に見た、ガタイのいかついお兄さん達・・・。ホントにやっていけるのかな?という不安はありました。

中学3年生のときに仲のよかった友人はそれぞれ柔道部やバスケ部、陸上部など部活に入っていて、高校にいってもそれを続けるんだと思っていたし、自分は「ハンドボール部に入るねん」と言っていたけど、友人は「身体小さいのに大丈夫か?」と言うだけでした。


高校に入学すると、数日後にオリエンテーションがありました。
『この高校はこういう学校ですよ』という説明会みたいなもので・・・。

そこに各クラブの代表者が体育館の壇上に立ち、それぞれアピールをしていました。

当然、男子ハンドボール部も部長と副部長が壇上に立った訳ですが、そこで繰り広げられたのは『ラグビー部やテニス部のボールがよく飛んできて大変や』とか『グラウンドで練習するから、こけたらめっちゃ痛いねん』という部長に『そんな話はいらんやろ!』とツッコむ副部長という、いわゆる『漫才』。。。
ハンドボールという競技の説明はなく、部の成績の話もない、ただの笑い話のようなものでした。。。

これに1年生は大うけ。
僕もこの話を聞いて笑ったし、結構気さくな感じのクラブなんやなーという印象を持った訳で・・・。

ただ、当然僕がこう感じたっつう事は、他の人も同じように感じた訳で。。。


仮入部開始の日、ハンドボール部の練習場に集まった1年生は20名近くも居たのでした。

その中には、前述の他のクラブに入るだろうと思われていた友人達も・・・。

そう、みんな部長のおもろい人柄に惹かれて仮入部してきたのです。

私らが住んでいた市の中学でハンド部があったのは1校だけで、その1校と僕が通っていた学校の生徒がこの高校の大半を占めていました(いわゆる地元集中というものがあったため)。

そして、仮入部者約20名のうち、中学でハンド部だったのはたった1名(苦笑)。
見事な素人集団が出来上がったのでした。

Jugend_2

小学校のクラブ活動・・・

水曜の授業が終わった後の放課後に、5年生と6年生は隔週で『部活動』と『クラブ活動』に参加しなければならないというもので、『部活動』では文化系、『クラブ活動』ではスポーツ系の活動でした。

2週間に1度のクラブ活動で、しかも活動時間は1時間〜2時間程度。
なので、他の学校との交流試合等は一切無く、もちろん公式戦もなし。

あくまでも『定期的な学校行事』と言った感じのものでした。


使っていたボールはオレンジ色のゴム製ボール。
今の小学生はもっと違うボールを使っているのかもしれませんね。

まずは簡単なルールと、ステップシュートとジャンプシュートを覚える。
そして早速ゲームを開始・・・。

基本的には6対6のいわゆる『遅攻』というものは無く、『速攻』の応酬のようなゲームばかりだったように記憶しています。


なので、『小学生の頃にハンドボール部でした』と胸をはって言えるものではありませんでしたねー。

ただ、顧問の先生は本当に熱心に指導をして下さいました。

ビデオカメラ(当時は8ミリカメラ)で撮影し、雨の日には視聴覚室でみんなに見せてくれました。
そして「このプレーは良かったで」とか「ここを攻めればチャンスやろ」と言ったアドバイスを下さるのです。

また、NHKで放送されていたハンドボール教室のビデオも見せてくれました。

詳しい内容まではさすがに思い出せませんが、赤いユニフォームを着た大崎電気の選手達が、『パス』や『シュート』『ディフェンス』等を次々とこなしていくものでした。

選手の名前はおそらく紹介されなかったと思いますが、『ヒゲの松岡選手』だけは小学生ながらに覚える事ができました。
高校生になり、テレビで全日本総合に松岡選手が大ベテランとしてプレーしているのを見た時に、とても懐かしく感じたものです。

おそらく『左利き』と『ヒゲ』の2点で、小学生の私にも覚える事が出来たのでしょうね。


たった1年間でしかも2週間に1日という少ない日数でしたが、自分にとってハンドボール部での活動は本当に楽しいものでした。
卒業アルバムの文集にも、ハンドボール部での事をツラツラと書きましたし。

3年生の時に軟式少年野球チームに入り、卒業まで週に3日の練習や沢山の大会に出ましたが、自分の中では『ハンドボール>野球』になっていたし、中学でも野球部に入るつもりはありませんでした。


進学する中学校にはハンドボール部は無かったのですが、既に頭の中では『高校ではハンドボール部に入る』とほのかに決めていましたねー。




ちなみに・・・
中学3年間はバレーボール部に入りました。

母がママさんバレーをやっていて、ママさんバレーの仲間の息子(=友達)は軒並みバレーボール部に入ると決めたのでした。

小学生の頃、私はとにかく身体が小さかったのですが、中学でも思うように身長が伸びず、レギュラーになる事は出来ませんでした。

背が低い部員の役目=ピンチサーバーorピンチレシーバー

ただし、本当にピンチな時には出番のないものでした(苦笑)。

そして、自分はマネージャーとしてベンチでスコアをつける仕事もしていました。

私達の中学は先輩達の時代からそこそこ強く、市の大会では必ず優勝していたし、地区の大会でもベスト8には必ず入るチームでした。

自分達の代になってもそれは変わらず、市の大会では2チーム出場して必ず両チームとも決勝まで勝ち残り、地区大会でもベスト4まで残りましたし、最後の大会では府でベスト8にも残りました。
(自分はマネージャーでしたが(苦笑)。)

その最後の府大会を前に、地元の高校へ練習試合に行った時の事。

練習試合は体育館で行う予定でしたが、ウォーミングアップのために運動場へ出たところ、バレー部の練習場所の隣にはハンドボールコートがありました。

そして、そこには身長が180センチ程のいかついお兄ちゃん達が、大汗を流しながらハンドボールの試合をしていたのです。

野太い声を出しながら、大きな身体をぶつけ合う姿を見て、『オレ、こんなゴツい人達と一緒に試合なんて出来るんか??』と思うと、少しゾクッとしました。
一緒に居たバレー部の顧問も『お前、ホンマにハンドボール部でやっていけるんか?』なんて言っていたと思います。



小学生の頃にやっていたハンドボールとのギャップにとても不安を感じた中学3年の夏でした。。。

Jugend_1

小学生の頃はプロ野球選手になるのが夢でした・・・


小児喘息を持っていた僕の身体を鍛えるため、母は息子である僕に野球を勧めた。
自分もそれで喘息が治るなら・・・と思い、野球をやることに決めました。

入った野球チームは通っていた小学校ではなく、自転車で30分くらい走ったところにあるグランドで練習しているチームでした。
なのでメンバーは知らない子ばかり。

それでも小学生同士。
すぐに仲良くなれたし、毎週末練習に通うのが楽しみになっていました。

チームに入った当初、僕は右投げ用のグローブをつけていました。
親は左利きである自分を右利きに矯正したかったようで、物心ついた時には箸や鉛筆を持つ手は右手になっていました。

しばらく右手用のグローブで練習に参加していましたが、エラーした時にボールを拾いに行き、キャッチャーへ返球する時には、グローブをはずして左手で投げるようになっていきました。
自分では左で投げる方が楽だし遠くまで投げられるからだったんでしょうね。

そこで初めて自分が左利きだという事を確信しました。

最終的にはチームのコーチが母親に話をしてくれ、左用のグローブを買ってもらいました。凄く嬉しかった。。。

左投げという事でピッチャーをさせてもらったけど、実際やってみると投げる球は遅く、コントロールも悪くてとても将来プロになれるようなものではありませんでした。

それでも学校では

『将来阪神に入って、俺が投げてバースが打つねん』

なんて事を、友達の前で恥ずかしげもなく言っていましたわ。
自分はいつか上手くなる・・・とか思ってたんですかね(苦笑)。
試合なんかで投げると、四球出しまくりでしたよ。
ストライクを投げられる友達やプロの選手って凄いなぁって、心から思っていました。


そんな中、ハンドボールというスポーツに出会ったのは小学4年生の時でした。

通っていた小学校では5年生になると週に1度、放課後にクラブ活動(スポーツ)と部活動(文化系)をする事になっていました。

ちょうど4年生の時に放課後運動場でたまたま見かけたのがハンドボール部。

当時休み時間や放課後になるとクラスの友達と一緒にドッヂボールに明け暮れていたので、ハンドボールというスポーツにすぐ興味を持つようになりました。

「ドッヂボールと似てるやん」

ってなもんだったんでしょうね。


5年生になったらハンド部に入ろうとすぐに決めました。
友達にも、『一緒にやろうなー』なんて話をしていました。

が、5年生になり、どのクラブ活動をやるか決める時・・・ハンドボール部は予想以上の人気でした。
女子はソフトボール部が大人気で・・・。

入部希望者が多く、公平にジャンケンで勝負。
当時から勝負所に弱かった僕に8分の3の確率は低すぎました。
あえなく勝負に敗れた私はバスケット部に入る事になりました。
バスケットは兄が中学・高校でやっていたのですが、自分は苦手だったようで・・・。
シュートが上手く打てなかったんですね。
背が低くて手も大きくないし、何より不器用(今もです)だったもんで。。。

ちなみに部活動では「放送部」希望だったんです。
お昼休みに音楽かけたりするのに憧れていたんですけどね・・・こちらもジャンケンで負けちゃって、「図書部」でした。

5年生だった1年間は、ホント我慢我慢でした。


翌年6年生になっても再びじゃんけんでした。
今度は確率6分の3だったかな。

今度は何とかジャンケンに勝つ事が出来、私は無事ハンドボール部に入部する事が出来ました。
ちなみに部活動はまたしても「図書部」。
「放送部」をめぐる争いはハンドボール部以上でしたから。。。
まぁ「図書部」も面白かったです。


とにもかくにも私のハンドボールライフはこうしてスタートしたのでした。

blog-lvup.com
Profile
hansuke_tick
三十路半ばの大阪人です。
昔からドイツのハンドボールに興味がありましたが、ようやく自分でチェックできるようになってきました。
海外のハンドボールに興味がないという方にも解りやすく書けるように、日々勉強中です。

訪問者数

Comments
  • ライブドアブログ