日々徒然

6人の子育てをしています!双子ちゃんもおります。一番上が18歳下が2歳と幅広いです^^ 夫は小さな教会の牧師さんをしています。 貧しくても日々を大切に豊かに生きることを学んでいる今日この頃です。 過去にうつ病になったことがあり、何度か再発…今はゆっくり病気ともお付き合いしながら生きています。 あるがままを受け止めあるがままに日々を生きるお母さんの日記を是非ご覧下さい^^

わたしは或る

090720-1いつの頃からか、何故なのかはわかりませんが、あっても「ない」という思いに満たされるようになりました。
就職してそこそこのお給料をもらってた時も「お金がない、まだ足りない」と思い、友達はいるのに「私には友達がいない、少ない」と思い、服があっても「服がない、足りない」と思い、また「時間がない」など、日常において「ない」という感情に支配されがちな面が沢山ありました。

こないだ、私の誕生日だったのですが、お誕生日の日に、夫と子供たちから心のこもったカードをもらえました。また、労苦を共にした友人からもプレゼントをいただけました。とても嬉しかったのですが、私は家族と誠実な友人のプレゼントだけでは「たりない」というなんとも心のあさましい寂しい気持ちになってしまったんですね…本当情けない、心の貧しい私…と(_ _。)・・・シュンとしていました。

もういいかげん年をとったのだから、子供みたいなこと思って、あまったれな自分を馬鹿だなあと思いますし、みなそれぞれの生活で忙しいのだから人の誕生日は忘れてしまうのは当たり前のことだ、と頭ではわかっているのですが、トラウマなのか小学生のときに、誕生日を家族から忘れられる事がよくあって、それ以来誕生日がくると嫌な気持ちになってしまうのです。

そんな誕生日の次の日の朝、いつものように朝新聞配達に向かいました。
朝の静寂の時は私と神様との二人だけの時間です。
新聞を配りながら、静まり返った時の中、色々なことを思い巡らしてはお祈りしたり、朝の始まりはとても心がさわやかにさせられます。
でもその日はなんだか寂しい気持ちでどんよりしていました。
また、「ない」という思いに支配されてしまったんですね。

そのとき、私の心に聖書に書いてある言葉が突然心に響きました。

「わたしは、「わたしは或る」という者である」(出エジプト3:14)

そして、
「私は或るだよ」
「或るものはすべて私だよ」

と心に響くのです。

はっとして、周囲に或るものを見渡し色々な事を思い巡らしたとき、それまで色あせていた景色や思いが輝きだしました。
「私には少ないかもしれないけれど、私の誕生日を忘れずに祝ってくれたたった一人の友人が或るではないか!心を寄せてくれる家族が或るではないか!こうして配達の仕事も与えられて食べていけるお金も或るではないか!心を慰める美しい景色も或るではないか!狭い狭いとぼやいているけどすむ家も或るではないか!」と。

「或る」ことに目を向けると、不思議と心の中にポッポッと花が咲き誇るような暖かい気持ちになりました。
或るものは、全て神様と、考えるだけで嬉しい気持ちになれ、
私のような心の貧しい人間でも、神様はこうして或るものを通して語りかけてくれる…。

なんだか、じ〜んとして、(T-T )( T-T)ウルウルしながら配達しました。

そして、もうひとつ 「ない」という感情は神からではないもの、聖書では「悪魔」とか「盗人」とか言われているものから来るのものだということにも気づかされました。

盗人が来るのは、
ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたり
するためだけのものなのです。(ヨハネ10:10)

「或る」という、神様からのプレゼントを喜ぶ心を私はいつも盗まれていたのだなぁと思いました。

今年、40歳、モーセがエジプトから一人からがら逃げた年でもありますが、40歳という節目にわたしは、神様から「或る」ということをプレゼントされたように思います。

私の周りに、或る人、或るもの、或る時 を大切にしていこうと思えたそんな日でした。

私の平凡なブログをみてくれた或る皆さんにも感謝します


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お金

b02f15fe.jpg人間関係においてお金は魔物です…
ちょっと前だったでしょうか、宝くじをあてた女性が付き合っていた男性に殺されるという事件がありました。
動機として、お金を借りたとき、女性から見下された事が原因のひとつとして新聞記事に書かれていました。
いったん、お金を借りると、どんなに仲のよい友人でも恋人関係でも夫婦関係でも、上下関係になっていったり、借りる人を下に見る(見下す)傾向が人間の中に芽生えることを発見します。

お金がなくても、服を買おうとしたり、暮らし向きの自慢、人間の見栄のために、人は多くのお金を使うように思います。
また、お金のある人に対しては、お金があるのだから貸してもらえる、してもらえるのが当たり前だとか、自分本位な言葉もよく耳にします。

気前のいい人が、よい人に見られがちですが、お金がないのに気前がいいと、家族が泣きます。
また、お金があってもけちな人は、心が貧しく豊かになれません。

どちらにしても、お金は魔物です。
お金にふりまわされない 生き方は 唯一神様を見上げることでしょうか。

先日別々に二人の友人にあう機会がありました。
二人は金銭の貸し借りをしている友人同士で、以前はお互いを褒め称える麗しい友情関係でしたのに、今の二人の口から出る言葉は相手を快く思っていない言葉でした。

悲しい気持ちになりました。

お金は魔物です。

貸すことがあっても借りることはいけないと、聖書に書かれてあるのには深い意味があることに気づかされます。

もし…大切な友人が困っていたら、貸すのではなくあげたほうがいい。と私は思います。そうでなければ、その友情はまた、親子関係であっても、壊れていく要因になっていくでしょう。

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断乳

315533_231子供6人、それぞれ断乳の時期は違いましたが、6番目ともなると可愛くてついつい2歳まであげてました。正確に言うと2歳2ヶ月まで。(^^;;だけど、物心ついているので、おっぱいに対して中々忘れることが難しかったようです。
5月から幼稚園のプレサークルに通うようになり、さすがに可愛くてもやめないといけないなぁと思い、「ごめんね、ままおっぱい痛いの」と言って、あげるのをやめてました。
お風呂も2ヶ月間主人にまかせて(今までもほとんど主人がいれてくれていたのですが)絶対一緒に入りませんでした。一緒に入ってしまうと、どうしてもおっぱいを思い出させてしまうと思い、入らなかったんです。
ですが、最近、なんだかゆっくり私と目をあわせてお話しをしなくなり、いつもあちこち向いて落ち着かない感じがして、思い切って昨日一緒にお風呂に入って遊んだのです。
そしたら、やっぱり「おっぱいおっぱい」といって、母乳を飲みました。
今までけなげに我慢してたんだなぁと思うと私もなんだか心にぐっとくるものがありました。ですが、2ヶ月もあげていないと出ないんですね…。あれ??出ないぞと顔になりすぐ離しました。それから2回ぐらい挑戦したんですが、出ないのではずして、それが、なんか最後のおっぱいとのお別れだったのでしょうか、その時を境になんとなく落ち着いて、私とも目をあわせてゆっくり遊ぶこともできて、不思議な母子の絆ができたように感じました。

赤ちゃんの時期はあっという間におわり、すぐ幼児、子供へと成長していき、あの小さくて可愛い時期は二度と戻ってこないと思うととても寂しい気持ちになりますが、こうして人は成長していくのだということを改めて感じ、母子の絆の深さをつくづく思いました。

このことを通してふと思ったのは、どんな母親であっても、人の手を借りなければ生きていけない赤ちゃんを育てたということは紛れもない愛情なんだと思いました。
人生の途中で色々なことがあり、ひどい母親になったとしても、母親はこうしてひとつひとつ時間をかけて手間ひまかけて一人では生きていけない赤ちゃんを育てていくのです。
それがなければ今ここにいる大人は誰一人存在していなかったでしょう。
親から傷をうけて、悲しみでいっぱいの人がいたら、自分が今生きていることは、そういった愛情なしに、存在しえなかったこと、その事実だけは、愛と感じてほしいなぁと、思いました。

ちなみに 私の友達は4歳で幼稚園に通いながらも夜寝るときは母乳を飲んでいるそうです。そんな愛情も、ありですよね(*^.^*)

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悲しみの向こう側

そら昨日と今日と3人のご夫人の話を聞く機会がありました。
長い時間かけて話した事は、家族の悩みが圧倒的でした…。
私は、多分、神様から聞く賜物をいただいていると思います。
話すのは上手ではないのですが、聞いて、心に寄り添うことが好きです。というか、気持ちがわかるのです。
私は どちらかというと 悲しみの人生を送ってきました。
生まれたときから境遇が悪かったこと(母の死別や施設入所等ETC)や、離婚歴もありますし、病気にもなりました。
だから、なおさら 今主にあって生きていけることが、感謝しかないと感じるのです。神様から「感謝」をもらって、今の色々な大変なことも主からの愛の試練なんだと、考え方が変わって、主にすがって生きることで平安の中に生きることができているのだと思います。

本当は、お話を聞いた3人の方に神様のこの恩恵、「感謝」や「慰め」「平安」を与えることができたのなら…救いを伝えることができたのなら…と心の深いところで思って私の魂はうめいています。でも、私の力ではどうにもならない、ただの人間だということを思い知るだけで…。主が働いてもらわなければ、何一つ伝わらないのです。今は、祈り、聞き役に徹することが今の私の最大限できることでしょうか…。

普通の暮らしに普通に生きているように見えて、日常の出来事に対して苦しみや悲しみを抱えながら半ばあきらめていきざるえない日々を送っているそういった主婦が多いのだと、改めて痛感しました。

悲しみはどうして あるのでしょう?
きっと、私は 神様に出会うためだと 思っています。
人は、自分は大丈夫、幸せという時には神様に中々出会えません。
くだかれて、悲しみ苦しみその中でイエス様の光を見出すのではないかと、思っています。

イエス様も悲しみの人であった。
人から罵倒され、最後はいじめられて、友にも裏切られ、一人孤独に、ただ、愛のために死んでいった。

そんなことを 思うたびに、悲しみの向こう側にはイエス様が手をひろげて待っている。そういった光景が心に浮かぶのです。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」

このみ言葉に励まされますね(**)


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チラシ配り

1876871_225昨夜、双子と一緒にチラシ配りをしました。
一回で2000円ももらえるプチバイト、車で約1時間弱ですからいいアルバイトです。

双子と車に乗りながら、それぞれふざけて、チラシをポストに入れて車に帰るまで笑顔の変顔をして皆で爆笑しながらのチラシ配りでした。

ふと、思いました。

実はこんなに子供が沢山いるのだから、昼間働くのは当然のことではないか、と働くことと家にいることと葛藤した時がありました。
私個人としては、働いている人は立派だと思いますし、どちらかというと働くことに肯定的な考えをもっています。

ですが、どうしても自分の心の中に葛藤するものがあり、子供と一緒に時をすごす事を選びました。
それでも朝の新聞配達の仕事を与えられ、とりあえず、夫とあわせてぎりぎり食べてはいけてます。
ぎりぎりなので、やはり、こういうプチバイトを時々しているのですが、子供と一緒に小さな仕事でもできるというのは 幸せな事だなぁと感じました。

配りながら、この働いた分は3日分の食料になるんだよ^^と会話しました。へぇ〜と目を丸くしながら、自分たちも家計の一躍を担っているということがわかったのかはりきって配ってくれました。

いつか、よい 思い出として心に残ってくれたら嬉しいです

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自我は罪なり

キリスト昨日は久しぶりに友達から連絡がありました。
来年の3月に結婚するかもしれない、と嬉しいというよりは、躊躇しながらの言葉には、色々複雑な不安があるようでした。

結婚って本当に、なんとなくではできないですよね。
友人は周りの状況や人を見てよい流れのほうにうまくのっかって生きれるタイプ。自分に責任がかかると上手に逃げれます。よく言うと社交上手で子供のような心を持った人、悪く言うと無責任…。でも、結婚には責任が伴います。責任を伴うことに踏み込めるかなぁと心配ですが、これも彼女の人生にとっては必要なことで彼女にとってはよいことだと思うので、もし、結婚の決断ができたら祝福し陰ながら応援していきたいなぁと思います。

責任というと、今の時代、主張はするけれど自分の責任、するべきことをないがしろにしている時代でもあるなぁと思います。
あれがしたい、これがしたい、だから、育児や家事、夫や親のことは2の次3の次…。欲望のままに生きる私たち。
自我が強い時代なのかもしれませんね。
自我が罪だと知ったのは、クリスチャンになってからのことです。
クリスチャンになったからといって、自我が消滅するわけではなく、常に葛藤がつきまといます。選択の日々です。神か自分か…。
確かに魂の救いはあります。イエスを信じることで義とみられ、かろうじてクリスチャンは救われていくのです。ですが、生きていく中で何を選択するかは自分自身。その責任は自分にふりかかります。

義とは我の上に羊と書きます。自我の上に羊(聖書ではイエスキリストを羊にたとえています)をきて、義とみなされるというのは 興味深い事実です。
自我の上に主(神)をおかなければ、義人ではないということですね。
どんなに立派な行いもどんなに正しいことも、自己満足なのか、神のみこころに従っているのかでは、まったく違う性質、内容になっていくものだとわかりました。

よく、主人に「また自分が自分が…」と言ってるよ^^とスマイルで言われます。
あ、また(ーー;)と自我いっぱいの私に気づかされ反省させられます。

「神が」という思いで生きていけたなら、心はなんと平安に満たされるでしょうか。
たとえば、「神が私を愛している。」「神がこの場所に私をおいた」

逆に、「自分は愛されない」「自分が自分の力でここまできた」となると、やはり自分の思いに満たされていきます。
自分が、どう思うかではなく、神がどう思っているのか。

そこが、自我(罪)から抜け出す鍵なのかもしれませんネ。


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はっぴ

category-happi昨日の夜高校3年生のお姉ちゃんの最後の学園祭のためはっぴを初めてつくりました。おとついからかかって、昨日は襟を縫う作業だったのですが、本当に、まったく着物の知識のない私は結局できなくて夜10時に実家を訪問して母に教えてもらった始末…。出来上がったのは1時半でした。(;´д`)トホホ
もし、同じ高校に下の子も行くとしたら又3年生になるとはっぴ作りがあるそうです。いやだなぁ…。それにしても、私は不器用だから仕方ないとしても、高校生の親たちは特に共働きの人は大変だろうなぁ〜〜〜と思いながら、ミシンとにらめっこしてました。
でも私以外は、みな、器用なのかも…
3時半からの新聞配達が眠くて眠くて今日は一日頭がボーっとしてそうです

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ネリーとローラ

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幼い頃、「大草原の小さな家」が大好きで、よく見ていました。
ネリーは、わがままで意地悪な女の子、ローラはおてんばで正直な女の子、当然、ローラに好感を持っていましたが、大人になってよく考えてみると、誰にでもネリーの心があることに気がつかされます。
我が家の子供たちもネリーになったりローラになったり…。
ですが、人間の本質はネリーなのかもしれませんね。
嫉妬しやすく高慢になりやすい。
自分の中にもネリーを発見して、自分ってそんなにいい人間じゃなかったんだ〜と気がつかされ、がっかりすることが何度もありました。
ですが、ネリーからローラ、狭い心から神様のような広い心へとなりたいなぁと思うことが大切なんじゃないかと思います。
人は自然に望む事柄に引き寄せられていくのではないかと感じています。
尊敬の念は、自分の進むべき道しるべであり、人が唯一成長できるきっかけになるのではないかと思います。
何を人は敬うか、尊敬するかによって、人生の生き方もその人自身の品性も段々と形づくっていくのだと思うのです。
私事ですが、イエスキリストを信じて、価値観が変わり、ゆっくりですが、物質的な豊かさではない精神的な豊かさを求めるようになってきました。
まだまだ神様のような心には程遠い自分ですが、イエス様のような心になれたらなぁと思うことによって様々な心の葛藤の答えを聖書から見つけようと考えたり、心の態度を反省したり、と心の中の葛藤を一歩一歩と乗り越えてきたように思います。

完璧な人はいないですけれど、できれば、ネリーではなくローラのような無邪気さをもって生きていけたら嬉しいですネ^^
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