いつの頃からか、何故なのかはわかりませんが、あっても「ない」という思いに満たされるようになりました。就職してそこそこのお給料をもらってた時も「お金がない、まだ足りない」と思い、友達はいるのに「私には友達がいない、少ない」と思い、服があっても「服がない、足りない」と思い、また「時間がない」など、日常において「ない」という感情に支配されがちな面が沢山ありました。
こないだ、私の誕生日だったのですが、お誕生日の日に、夫と子供たちから心のこもったカードをもらえました。また、労苦を共にした友人からもプレゼントをいただけました。とても嬉しかったのですが、私は家族と誠実な友人のプレゼントだけでは「たりない」というなんとも心のあさましい寂しい気持ちになってしまったんですね…本当情けない、心の貧しい私…と(_ _。)・・・シュンとしていました。
もういいかげん年をとったのだから、子供みたいなこと思って、あまったれな自分を馬鹿だなあと思いますし、みなそれぞれの生活で忙しいのだから人の誕生日は忘れてしまうのは当たり前のことだ、と頭ではわかっているのですが、トラウマなのか小学生のときに、誕生日を家族から忘れられる事がよくあって、それ以来誕生日がくると嫌な気持ちになってしまうのです。
そんな誕生日の次の日の朝、いつものように朝新聞配達に向かいました。
朝の静寂の時は私と神様との二人だけの時間です。
新聞を配りながら、静まり返った時の中、色々なことを思い巡らしてはお祈りしたり、朝の始まりはとても心がさわやかにさせられます。
でもその日はなんだか寂しい気持ちでどんよりしていました。
また、「ない」という思いに支配されてしまったんですね。
そのとき、私の心に聖書に書いてある言葉が突然心に響きました。
「わたしは、「わたしは或る」という者である」(出エジプト3:14)
そして、
「私は或るだよ」
「或るものはすべて私だよ」
と心に響くのです。
はっとして、周囲に或るものを見渡し色々な事を思い巡らしたとき、それまで色あせていた景色や思いが輝きだしました。
「私には少ないかもしれないけれど、私の誕生日を忘れずに祝ってくれたたった一人の友人が或るではないか!心を寄せてくれる家族が或るではないか!こうして配達の仕事も与えられて食べていけるお金も或るではないか!心を慰める美しい景色も或るではないか!狭い狭いとぼやいているけどすむ家も或るではないか!」と。
「或る」ことに目を向けると、不思議と心の中にポッポッと花が咲き誇るような暖かい気持ちになりました。

或るものは、全て神様と、考えるだけで嬉しい気持ちになれ、
私のような心の貧しい人間でも、神様はこうして或るものを通して語りかけてくれる…。
なんだか、じ〜んとして、(T-T )( T-T)ウルウルしながら配達しました。
そして、もうひとつ 「ない」という感情は神からではないもの、聖書では「悪魔」とか「盗人」とか言われているものから来るのものだということにも気づかされました。
盗人が来るのは、
ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたり
するためだけのものなのです。(ヨハネ10:10)
「或る」という、神様からのプレゼントを喜ぶ心を私はいつも盗まれていたのだなぁと思いました。
今年、40歳、モーセがエジプトから一人からがら逃げた年でもありますが、40歳という節目にわたしは、神様から「或る」ということをプレゼントされたように思います。
私の周りに、或る人、或るもの、或る時 を大切にしていこうと思えたそんな日でした。
私の平凡なブログをみてくれた或る皆さんにも感謝します

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昨夜、双子と一緒にチラシ配りをしました。


なのかもしれませんネ。
昨日の夜高校3年生のお姉ちゃんの最後の学園祭のためはっぴを初めてつくりました。おとついからかかって、昨日は襟を縫う作業だったのですが、本当に、まったく着物の知識のない私は結局できなくて夜10時に実家を訪問して母に教えてもらった始末…。出来上がったのは1時半でした。(;´д`)トホホ
