2010年11月16日

極北二百年祭公園の狂乱〜野生動物と人間の関わり方を考える

※「葉祥明言葉カレンダー2011」、「日本フィル音楽猫カレンダー2011」購入のご案内はこちらです。


 ☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。

 今回の写真は大山さん提供です。


グリズリーの親子(大山卓悠さん)

<公園の小道を練り歩くグリズリーの親子>


 ぼくの住むアラスカのアンカレッジ市内に、「極北二百年祭公園」という変わった名前の公園がある。

 とにかく大きな公園で、市全体の面積の一割近くを占める広さをもっている。公園のほとんどが太古から手つかずで残された鬱蒼とした森で覆われ、その森の真ん中にはそれほど小さくもない小川が蛇行して流れている。

 小川に沿った小道は、二十年前、冬にカントリースキーを楽しむ人たちのために造られたもので、それが近年、夏場にも開放されるようになった。しかし、夏場にその公園に踏み込む人たちは、ある覚悟をもって臨まなければならないのだ。

 ショーン・バーキーもそのうちの一人だった。

 バーキーの家は公園に面した山の手にある。薬剤師の彼は、公園の反対側に位置する勤務先の病院へ行くのに、天候が許せば、自転車を使った。自転車でその美しい公園を突っ切れば近道なのだ。

 今年の六月中旬、早朝五時過ぎ。彼は自転車に跨ると、いつものように公園を抜ける小道にこぎ入った。

 直線の下り坂を抜けると、小川に突き当たった。小川の流れに沿って道なりに下って行く。小道は小川の蛇行に合わせて曲がりくねっており、あまり視界は利かない。

 バーキーはスピードを上げたまま、幾つ目かの曲がり角を走り抜けた。

 その瞬間、小道の先にクマを見つけた。それは、アラスカでグリズリーと呼ばれる大型のヒグマだった。

 クマとの距離は二十メートルもない。バーキーはすぐにブレーキを掛け、グリズリーとの間に自転車を置き、盾にした。グリズリーは、バーキーを見るやいなや攻撃を開始した。ものすごいスピードで突進し、自転車を難なく跳ね飛ばし、バーキーに襲いかかった。

 彼を打ち据え、地面に転がし、噛みついた。バーキーの耳は引き裂かれ、長い強靭な爪がふくらはぎを切り裂いた。

 と、グリズリーが攻撃を止め、後ろに引きさがった。バーキーはそのまま息を詰めた。そして、恐るおそる顔を上げた。クマが立ち去ったかどうか確かめるためだ。

 しかし、グリズリーはまだそこにいた。距離をとってバーキーを観察していたのだ。クマは再び攻撃的になった。バーキーはすぐさま顔を伏せ、頭を両手で保護して死にまねをした。そのままの姿勢で、今度は数分間動かなかった。
 
 バーキーは恐怖のなかで最善を尽くした。次に顔を上げたとき、そこにグリズリーはいなかった。いつの間にか立ち去っていたのだ。バーキーはふるえながら自転車を引き寄せた。身体じゅう血だらけだった。一刻も早くこの場所から逃げ出さなくては――バーキーは再び自転車に跨り、持てる力を引絞って必死にこぎ続けた。そして自力で病院にたどり着き、一命を取り留めた。

 実はこの公園、クマの事故が起きたのはこれが初めてではない。ほとんど毎年のようにクマとの遭遇事故が起こっているのだ。

 二年前の二〇〇八年には、さらに酷い事故が起きた。自転車の二十四時間レースに参加した十五歳のぺトラ・デイヴィスという女の子が、レース中にクマに襲われたのだ。時刻は夜中過ぎだったが、白夜の続くアンカレッジはまだうす明るかった。

 事故が起こったのは、バーキーがクマと遭遇した場所とほぼ同じところだった。角を曲がったところで突然クマと遭遇した。クマはグリズリーだった。彼女は何とか一命を取り留めたものの、身体じゅうをズタズタに引き裂かれた。生きているのが奇跡のような惨状だった。

 極北二百年祭公園を流れる小川――これが曲者だった。夏になると、この小川にサケが遡上してくる。そのサケを狙って山からクマたちが下りてくるのだ。アラスカ漁業猟獣局の試算では、今年も三十頭から四十頭のグリズリーが公園内を徘徊していたという。

 公園は四方を宅地で囲まれている。ただし、公園の東側は山の手に住居が散在するだけで、そのまま広大なチュガチ山脈に通じている。クマたちはサケの季節が来ると、チュガチ山脈から下りて来て、その小川に集まってくるのだ。その営みははるか昔から行われてきたことだ。

 この公園、あまりにもクマの事故が多いことから、州政府管轄のアラスカ漁業猟獣局は夏場の公園閉鎖、とくに事故が続く小道の利用禁止をアンカレッジ市側に要請した。しかし、アンカレッジ市はその要請を断った。州の要請はさも当然のような気がするが、市には市の考え方があるのだ。

 州と市の対立の構図――市の言い分はこうだ。

「極北二百年祭公園は人造美を一切排除した天然の自然公園だ。その公園の自然を分かち合う市民の権利を奪うことはできないし、また市民の憩いの場所としての存在を、野生動物による事故のために否定することもできない。山で人が落ちて死んだからといって山を封鎖できないように、湖で人が溺れたからといって遊泳禁止になどできないように、公園内で人がクマに襲われたからといって公園を閉鎖することはできない。それは各自の自己責任のなかで決めることだ」

 それに対して、州の言い分はこうだ。

「極北二百年祭公園は、市民の憩いの場所としてはあまりに危険なところだ。とくに夏場にはサケが川を上り、それを求めて何十頭ものヒグマが集まって来る。気の荒い雄グマはもちろんのこと、母性本能の強い子連れの雌グマも含まれる。そんな環境のなかに、二十四時間人間が出入りできるというほうが異常なことだ。少なくとも夏場、小川に沿った小道は通行禁止とするべきだ」

 バーキーを襲ったクマは、後の捜査で、子連れの雌グマと判明した。デイヴィスを襲ったクマは特定できなかったようだが、はち合わせて驚いたクマが襲ったのだろうということになった。どちらのクマも捕食性はなく、人間が無抵抗になった時点で引き上げている。動物管理局は、いずれの事故もクマに罪はないとして、捕殺行動には出ていない。

 公園の管理権をもつ当のアンカレッジ市長は、コメントを求められて次のように語っている。

(新聞社)「市長、あの公園を夏場には閉鎖すべきとの意見が出ていますが?」

(市長)「それはできない相談だ。あの公園は市民が憩う場所で、自然と野生を満喫できる権利を人々から奪うことなどできない」

「しかし、クマの事故は多発してるし、あまりにも危険なのではないでしょうか?」

「それは自己責任によるものだよ」

「市長はあの公園を利用したことはあるのですか?」

「まだないけれど、いずれは訪れてみたいと思っている」

「どのような自己責任を考えているのですか?」

「私なら、銃をもって入るね」

「どんな銃ですか?」

「なるべくでかいヤツがいいだろうな」

 これは創作でもなければジョークでもない。正真正銘の、公になった市長のコメントだ。このコメントを聞いて唖然とするのはぼくだけではないだろう。市内に設けられた公園を歩くのに、自分の身を守りたいなら、それなりの武器を携行しろと言っているのだ。ぼくが日本人だからなんだろうか、市長の哲学にはちょっとついて行けない。

 バーキーの事故から二週間後、友人二人とアラスカ先住民文化センターを訪問した帰りに、たまたまその公園の前を通りかかった。

「……といういわくつきの公園なのだけれど、ちょっと歩いてみる?」

 友人の一人は写真家で、南東アラスカを中心に森の写真を撮っている。もう一人の友人は、十数年前にクマの事故でご主人を亡くされ、いまは亡きご主人の写真の管理をされている。その二人に事故の次第を話し、それでもいいかと尋ねてみた。

「行ってみましょう」

 二人とも、臆することなく快諾した。

 公園入り口を入るとすぐに小川が流れており、そこに架かる木製の橋を渡ってしばらく行くと、問題の小道があった。「ローバーズ・ラン」と書かれたプレートが小道の入口に立っている。そして、そのプレートのすぐ下に、クマの事故が起こったばかりだという警告書が貼られていた。

 その警告書をしばらく眺めていると、突然後ろから声を掛けられた。公園に散歩に来た中年のアメリカ人夫婦だった。

「この小道だよ、事故が起こったのは。あんたたち、銃を携帯していないのなら、しばらくこの小道は使わないほうがいいよ」

 そういった男性の胸には、四五口径もありそうな銃身の長い大きな拳銃が、剥き出しのまま革のベルトで止められていた。

「私たちはこれから小一時間ばかり森のなかを散歩をするけれど、銃をもっていないのなら私たちの後ろをついてきてもいいよ。クマは厄介だけれども、森のなかはきれいだからね」

と親切に言ってくれた。

 しかし、ぼくたちはそれぞれ顔を見合わせ、森に分け入るのを止めようと、目で了解し合った。剥き出しの大型銃があまりにも現実的で、興味半分で歩きまわるところではないと判断したからだ。クマの姿は見たいものの、やはりちょっと気持ち悪いものがあった。その中年の夫婦の申し出を丁重に断ると、ぼくたちは言葉少なに車に引き上げた。

 自然とどのように向き合えばいいのか、このアラスカにも混乱がある。野生動物とは一定の距離を置くというのが原則としてあるが、自然を愛するという人にかぎって、その野生に近づき過ぎてしまう嫌いがある。戦場で自分だけは弾に当たらないと兵士が思うように、自然を愛する人には野生動物も危害を加えることはないとでも思っているのだろうか。しかしそれはあまりに楽観的過ぎる。というよりも、野生を甘く見過ぎているように思う。

 野生は、人間社会とは異なった秩序で成り立っている。それは捕食という基本的なルールで、食物連鎖の次元が高いものから順に下のものを食べて行くという原則的な秩序が厳然として存在する。そこに人間の入り込む余地はない。もし人間にできることがあるとすれば、野生のルールに合わせることぐらいだろう。人間が野生のルールを変えることなどできないのだ。

 三十万都市のアンカレッジ市のなかに、極北二百年祭公園のような自然公園が存在すること自体が驚異で、これは間違いなく世界に胸を張って誇れるような環境だと言っていい。問題はその公園と、またその公園を生活圏としている野生動物と、どのよう向き合って行くかということだ。その解決法なしには、夏場に公園を開放するのは間違っていると思う。

 解決法の一つ――たとえば、自然を、その公園を愛する人の利用する小道は、自然を破壊しない程度に、また別に造ればいいのではないかと思う。小川の傍の小道は、そこを生活圏とする野生動物たちのもので、人間のものではない。その点を自覚する必要がある。小川から距離をとったところに人間用の拓(ひら)けたトレイルを作り、さらに小川とそのトレイルの間は見通しを良くするなどの工夫をすればいい。そうすると、人間も、野生動物も、お互いが距離を置いてその行動を観察できるようになる。出会いがしらの事故はなくなるだろうし、子グマに近づいてしまう過ちも減るのではないかと思う。

 州と市のいがみ合いは今後も続くのだろうか。美しい自然と手つかずの野生。そして人間との共存。これらがハーモニーを奏で、極北二百年祭公園が世界に比類なき公園として確立される日が来ることを、祈るような気持ちで見守っている。
                            (転載終わり)

  ********************************

 クマの出没が相次ぐ今年の日本のことと重ね合わせながら拝読していました。



☆クリックしてくださると、読む人が少し増えるかもしれません。
人気ブログランキングへ

             
 

happajuku at 05:53│Comments(2)TrackBack(0) アラスカからの風 

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by きよこ   2010年11月16日 06:12
お二人の方が襲われたご様子に、私も、先日友人と会った際、日本で、熊に襲われた方の病院でのご様子のお話を伺ったことを思い出しました。
でも、日本人だからでしょうか、銃をもって公園を散歩するような気持には私もなれません。野生のルールがある、と大山さんが書かれているように、人が野生のルールに気遣うべきだと思いました。サケの登ってくる川、熊と容易に出逢える場所、そこで人間が自然の掟を守って、行動しなければならないように思います。自然の場を少し借りて、見せていただいている、そんな気持ちをもちながら・・・。襲った熊にも理由があるように、そのような場面にならないよう、難しいけれど、配慮すべきなのかな、と感じています。やはり自然は人間の思いを越えた、大きなものなのだ、という思いを新たにしています。
2. Posted by 葉っぱ塾より   2010年11月16日 06:20
 私が大山さんのブログに書き込んだコメントをそのまま転載しておきます。

 「今日本ではクマの出没が相次いで、各地で人身被害や農作物への被害が出ています。「クマ駆除」の声は大きくなっています。

 私は県が設置した「特定鳥獣保護管理検討委員会」に、「自然保護団体」の代表として入っているのですが、この「保護管理」とか「自然保護」ということばに、どうも違和感を感じるのです。

 この言葉には、人間が、野生の動植物をああでもこうでもできるという思い上がりがあるように思えるからかもしれません。

 それでいて、「クマとの共生」という言葉も出てきます。おかしなたとえかもしれませんが、「大東亜共栄圏」などと言っていたのとだぶるのです。

 野生との接し方について、日本とはまた異なった考え方もあるのだということが伝わる記事でした。近いうち、またブログに引用させていただいてよろしいでしょうか? 」




この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔