朝日新聞山形版掲載エッセイ

2007年09月28日

『葉っぱのひとりごと』

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  朝日新聞社山形総局からの依頼で2005年7月からほぼ月1回書いておりましたコラム『つれづれに』が、8月一杯で終了しました。

  2年と少しの間に、26回、エッセイを掲載していただきました。

  私にとっては後にも先にも初めてのことでしたが、毎回、書くことに困ることもなく、楽しく書いてきました。

  このたび自分のエッセイを『葉っぱのひとりごと』と名づけたパンフレットとしてまとめました。

  もしお読みいただけるという方がおられましたら、お送りすることができます。

  こんなささやかな代物ですので「代金」というのもはばかられますが、80円の切手を数枚お送りいただければ最高にありがたいです。

  「葉っぱ塾」では切手は何枚あっても足りないぐらいですので。もしできたら記念切手がいいです。

  私は“自分通信”として「LEAF」という印刷物を出しており、こちらは先日117号になりました。

  「100号になったら本にしたい!」などと思いながら、何も手をつけずにきてしまいました。

  今回のものは、さしあたってそれに代わるもの、といったところです。

  ご希望の方からのご連絡をお待ちしています。

    E-mail: happa-fy@dewa.or.jp



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2007年08月30日

森を舞台に輝く子どもたち(07年8月30日掲載)

3b0a4da2.JPG☆子どもキャンプ〜長井葉山にて 






  暑かった夏も過ぎ去ろうとしている。この夏の「子どもキャンプ」には県内外から9人の子どもたちが参加してくれた。台風5号通過直後の悪天候の中で迎えたキャンプ初日であったけれど、その後はまずまずの天候に恵まれた。

 初日の農作業体験では、ジャガイモの選別作業や畑の草取りをさせていただいた。その畑からは時々石器らしきものが出土すると聞いて、子どもたちは目を輝かせた。夜、車に乗って近くの農道に出て、遠くの花火大会を眺めた。点滅する駐車灯に誘われて、たくさんの蛍が集ってきたことも、花火に劣らぬ感激だった。
  
 翌日は荒川の源流部で川遊びに興じた。前日の雨で川の濁りや増水が心配だったが、ブナの森からしみ出してくるような流れは、完璧に透明だった。何の道具もないのに、子どもたちは飽きることなく目いっぱい遊んだ。夜はネイチャーゲームで、電灯もない真っ暗闇をも遊び道具に変えてしまった。

 三日目は長井葉山だった。したたる汗をぬぐいながらたどり着いた山頂近くで、手を切るような清水に歓声をあげた。展望台では大きな声で「こだま」を楽しんだ。
そして最終日には、フリー・クライミングに挑戦した。人工壁を登るのは皆初めてで、最初はおっかなびっくりだったけれど、15メートルもの垂直の壁を軽々と登る子どもも現れ、拍手喝采を浴びていた。

 子どもたちはまるで、その一瞬一瞬を精いっぱい生き切るとでもいうようなキラキラしたまなざしで時間を過ごしていた。終わってしまえばあっと言う間の出来事ではあったが、その目の輝きをいつまでも失わずにいてほしいと願わずにはいられなかった。

 参加してくれた子どもたちからも、協力をお願いした大人たちからも、何日かして「時間がゆっくり流れていました」という感想が届いた。主催した者にとっては最高の賛辞であると喜んでいる。

 「大人も子どもも森で遊べ」というスローガンを掲げた「葉っぱ塾」の活動の一つひとつは小さなものではあるけれど、参加した子どもたちの心の中に、小さな思い出を一つ、プレゼントできたような気がする。

 その思い出がいつか彼らの心の中で宝石のような輝きを放つこともあると信じて、これからも創造的なとりくみを続けてゆきたい。


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 朝日新聞山形総局にお勤めだったH記者から請われて、2005年7月からこのコラムに寄稿してきました。ほぼ月1回のわりでのエッセイは、これまで26回になりました。このたび、紙面の改編に伴ってこのコラムが終了することになりました。多くの皆様から励ましの言葉をいただきましたことに心から感謝申し上げます。

 なお、これまでのエッセイを機会をみてパッフレットにまとめたいと考えております。完成しましたらお知らせを申し上げます。

 本当にありがとうございました。


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2007年08月04日

夏には夏の山の表情を楽しむ(07年8月3日掲載)

  本格的な夏山シーズンの到来である。この夏はどんな暑さになるのだろうか。

 先日、梅雨の中休みのような好天の日、古寺(こでら)鉱泉から大朝日(おおあさひ)岳まで往復してきた。ずいぶん通い慣れた道ではあるけれど、季節によって、またその日の天候によって、全く同じ光景に出会うということはない。

 大朝日岳までの道半ばにある古寺山のすぐ手前から、ヒメサユリの鮮やかなピンク色の花が出迎えてくれた。山形、福島、新潟の限られた地域にしか自生しないというこの花を見たくて朝日連峰を訪れる人も少なくない。汗して登った雄大な光景の中で見る可憐な花々は、疲れを忘れさせてくれるほど見事なものである。
   
 古寺山から小朝日(こあさひ)岳、そして大朝日岳山頂直下まで、まさに「ヒメサユリ・ロード」の観があった。名物になっている「y字雪渓」の白と山肌の緑、そしてヒメサユリのピンクの取り合わせを楽しむことができるのは、夏の始めのほんの一時である。

 名水の「銀玉水(ぎんぎょくすい)」で喉を潤し、雪渓を登りきると、ゆったりと広がる高山草原である。この時期、ウスユキソウも見事な姿を見せてくれる。氷河時代のなごりの植物と言われ、ヨーロッパではエーデルワイスと呼ばれている花の仲間である。多雪地帯ならではの背丈の低さが何とも可愛らしい。

 この日、登山道の崩れた場所が補修されているところを通過した。大雨の時に崩れたものを地元の方々が手入れしてくださったのだ。また、ぬかるんでいる所には土嚢を並べ、歩きやすいように工夫されていた。
 
 こうした地道な作業のおかげもあって、私たちは山歩きを楽しむことができる。本当に頭が下がる思いがする。登山者の中には、やれ、石がごろごろしているだの、やれ、途中に案内板が少ないだのと不平不満をもらす人たちもいる。山では「快適さ」や「親切」を求めるのは、どこかおかしいと私は思う。

 帰り道、古寺山まで戻って見渡すと、稜線(りょうせん)のずっとむこうに、どっしりとかまえた以東岳の姿も望むことができた。一つピークを越すごとに新しい風景が展開する縦走の醍醐味を楽しんだ数年前を思い出し、しばらくそこにたたずんでいた。



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2007年07月05日

多様性受け入れる寛容さを(07年7月5日掲載)

60538517.JPG ☆安藤さんのご指導で
  作った蜜ロウソク




  夏至や冬至の日の夜に、電灯を消してキャンドルナイトを過ごそう、という呼びかけが始まって数年たつだろうか。県内でもこの6月22日の夏至の日を中心に、大小さまざまなイベントが開催されたようだ。

 我が家では、朝日町で「ハチ蜜の森キャンドル」を営む安藤竜二さんのご指導で作った小さな蜜ロウソクを短時間灯した。ほのかな香りに包まれ、やや赤みを帯びた小さな炎を見つめながら、私たちは明るすぎる夜を過ごしているのではないかと考えていた。

 このキャンドルナイトの呼びかけとは別に、夏至の日の直前、知人から「豪快な号外」というタブロイド版の新聞が届いた。タレントのてんつくマンさんや、会社代表の中村隆市さんらが呼びかけ人となって、全国3000万世帯にこの新聞を配り、地球温暖化について多くの人々に考えてもらおうという趣旨のようだった。

 キャンドルナイトにしても、身の回りから始める温暖化防止の取り組みにしても、人々が今の自分の生活の質を見直し、将来の子どもたちにこの地球をどうやって引き継いでゆくのかを考えてもらうきっかけとなるものだろうと単純に考えていた。

 しかし、あるインターネットのサイトで、キャンドルナイトを推進してきた人の中から「豪快な号外」の受け取りを拒否しよう、という呼びかけがなされていて、どうしたことかと意見のやりとりを追いかけてみた。

 残念ながら私には重箱の隅をつつき合って互いを攻撃しているとしか思えなかった。一方が「キャンドルナイトは政治的なものではない」と主張すれば、他方は「キャンドルだって二酸化炭素を出すだろう」と応酬していた。

 これまで、どれだけ多くの市民運動が、こうした対立と不毛の議論の末に衰退していったことだろう。考えの多様性を寛容に受け止め、大きなうねりをつくり出すことこそが、今私たち一人ひとりに求められていることではないのだろうか。

 ブナの森を歩くたびに感嘆するのは、同じ種類の樹木であっても、その置かれた環境によって、実に多様な姿を呈しているということだ。そしてそれぞれが、その森の中で生きる場を与えられているのである。人間もかくありたいと思うのだ。




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2007年06月06日

深緑の山 昔の旅人思い歩く(07年6月6日掲載)

 木々は新緑から深緑へ。飯豊や朝日の山々は、残雪とのコントラストが一段と鮮やかになってきた。

 5月最後の日曜日、「葉っぱ塾」にいつも参加してくださるご家族と一緒に、小国町の玉川集落に入り口のある「大里(おり)峠」を歩いてきた。ここはかつての「越後街道十三峠」の一つであり、山形・新潟県境の峠でもある。

 集落をはずれるあたりで県道から西に林道を数百メートルたどると駐車スペースがある。車を降りて歩き始めるとすぐ、林道から左手に入る峠道の入り口に標識が立っていた。まるで緑色のタイムトンネルにでも入ってゆくような感じである。

 結実したカタクリが、たくさん出迎えてくれた。まるでハート形の小さなぼんぼりのようだった。もう少し時期が早ければ、たくさんの花々に出会えたはずである。チゴユリやユキザサはまだ花をつけていた。

 沢をふたつ横切っていよいよ峠へと向う。はじめは杉の植林地の中を歩くのだが、しだいにブナが目立つようになる。沢の水音が途切れることなく私たちを追いかけてきた。

 およそ5合目かと思われるあたりの小さな広場のようなところは、まるで「休憩してください」と言われているような場所である。ここに、幹が見事に枝分かれした「千手観音」のようなブナの大木がある。子どもたちと3人で手をつなぎようやく囲むことができるほどの太さがあった。地元の人が何か名前をつけていそうなブナであった。

 頭上に高圧線が張られているのは残念だが、葉が茂っていればこれもあまり気にはならない。時折鉄塔の足元にでるが、そのあたりにはワラビが育っていた。

 まもなく峠の頂上というところにさしかかったときに、山道の真ん中に黒い小山のような固まりを見つけた。何だろうと近づいてみると、真新しいクマの糞であった。みんなで手をたたいたり、声を張り上げたりして私たちの存在を姿の見えないクマに知らせたのは言うまでもない。

 峠を登りきると小さな祠が建っていた。裏手の小高いピークに立つと日本海も見えると聞いていたが、この日は見通しが悪く、見ることはあきらめた。

 昔の旅人たちも、クマの気配を感じながらこの道を歩いたのかもしれない。



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2007年05月09日

山の神に感謝し山菜味わう(07年5月9日掲載)

6a11c501.JPG  4月は気温の低い日が多く、中旬に開花した桜が、花もちよく、下旬に見頃を迎えることとなった。暖冬で何もかもが早いのかと思っていたのだが、そうでもないようである。

桜の季節が終わり、休日ともなると山麓は山菜採りの人でにぎわっている。以前、朝日鉱泉の西澤さんが「昭和30年代の広辞苑には山菜という語は収録されていない」とコラムに書いておられた。農耕に従事する人々が多かった時代、この時期は田植えの準備に追われて、とても山菜採りどころではなかったからではないかと想像する。

「葉っぱ塾」ではこの時期に「季節の山菜を味わう」という行事を毎年行っており、今年も13日に予定している。地元の山菜名人と一緒に長井葉山の麓の沢沿いを歩き、山菜の種類や、毒草との見分け方などを手ほどきしていただく。始めは自分では見つけられない人も、2時間も歩けば、山菜が風景から浮き出てくるようになるから不思議である。

この行事の際に名人が私たちに教えてくださる大切なことがある。それは「そこに生えているものを全部採ってはいけない」ということである。「山の神に恵みを感謝し、また来年も採らせていただけるように残しましょう」という言葉は、長年山と共に歩んできた人の含蓄のある言葉である。

しかし山を歩いていると、あきれるような光景に出会うことがある。コシアブラの木が根元から切り倒されて、葉が全て採られていたり、タラノメの芽も出ないものが、先端部を刃物で切られて持ち去られていたりするのである。

山の神をもおそれぬこうした行為は、一種の自然破壊でもある。今自分さえよければ、というのではなく、山の幸を分けていただくという謙虚さが必要なのではないか。

「葉っぱ塾」のこの行事では、山菜を採取した後、近くの森林公園に移動し、採りたての山菜をいろいろに調理してみんなで味わっている。山菜料理にサバ缶が合うなどということも名人から教えていただいた。山の幸と海の幸との絶妙なコンビネーションということだろう。

山の雪解けはかなり進んでいるけれど、残雪の量は決して少なくない。事故のないように山の恵みとの出会いを楽しんでほしい。


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2007年04月11日

野生生物との共生に英知を(07年4月11日掲載)

   カレンダーが3月から4月に変わるのを待ちかねたように、前線に向かって吹き込んできた西風が大陸からの黄砂を運んできた。自宅から直線で数キロ先の長井葉山の斜面がかすかに見えるだけという日もある。

  子どものころも黄砂はあったはずだが、こんなにひどいものではなかったような気がする。大陸で砂漠化や森林の衰退が進行しているのではないかと気がかりだ。

  昨年は森のブナやナラの実がほとんど実らなかったことが影響したのだろうか、人里へのクマの出没が相次ぎ、全国で4600頭以上、県内では全国でも最高の700頭近いクマが捕殺されるという空前の事態となった。

  これもまた豊かな森林生態系に起こっている何らかの変化の兆候だったのではないだろうか。クマにしてみれば、危険な人里にまで進出せざるを得ない理由があったのではなかったか。

  先月中旬県は、県内自然保護団体からの要望や環境省からの通知を受け、予察捕獲(通称「春グマ猟」)の許可頭数を例年の60頭からその半数に減らすという決定をした。

  新潟、秋田、長野など、これまで予察捕獲を行っていた県でも今年は全面的に休止することを決定したところもある中で、本県の決定は突出している。しかし一方で、農作物被害や人的被害の予防という目的もあるとの視点は、それなりに尊重すべきものだろうと思う。

  ただ、どうしても釈然としないものが残る。「県内のクマの生息数が約1500頭と推定されており、昨年700頭近く駆除しても、まだ800頭以上いるはずで、安定して存続できる個体数が確保されている」というのが県の見解であるが、この生息数の推定はどの程度信頼性のあるものなのだろうか。

  里山の荒廃が叫ばれてひさしい。そのことがクマを人里に近づけているという考えの人たちもいる。もしそうであれば、人里近くで見られるのと同じような密度で山奥にも生息していると推測することには無理が生ずるはずである。

  山形の地に住む私たちは、豊かな森林生態系からの恩恵を享受しながら生活している。だからこそクマをはじめとする野生生物たちとの共生の道を模索することに人間の叡智を結集し、よりよい解決につなげたいものだと思う。


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2007年03月14日

地図とコンパス、山には必携(07年3月14日掲載)

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  先月中旬の好天に誘われて、地図とコンパス(方位磁石)を持って、飯豊町にある「飯豊少年自然の家」周辺の里山を歩き回ってみた。

  雪の少なさは雑木林の中を歩いてみることでも実感する。

  ふだんの冬なら雪に埋もれてしまう細い木々が、埋もれることなく突き出ているため、すこぶる歩きにくいのだ。

   この日は、私が所属する「東北山岳ガイド協会」が主催して3月下旬に実施する予定の講習会の下見を兼ねていた。

  一般の方々が山を歩くときに必要となる地形図の読み方を、机上講習と実地研修をまじえて習熟していただこうと計画し、準備を進めている。

   山での事故が増えてきているのが気がかりだ。事故には至らないまでも危ない経験をした人もいるのではないだろうか。

  先日も八甲田で雪崩による犠牲者が出たが、四季を通じて、山での道迷いが直接間接の事故の原因になることは多い。

   残念なことだが、山で出会った人が地図を持っていないことはよくあるし、地図を持っていてもコンパスは持っていないという人はさらに多い。

  また、コンパスを持っていても使い方は知らないという人もいる。地図とコンパスは両方を持っていてはじめて意味をもつものなのだ。

   地図を「読む」ことができるようになると、山の印象はずいぶんと変わってくる。

  登りながらも途中にいったん下りが入るとか、道の傾斜がどのように変化するとどのあたりだとか、どの場所から山頂がどの方向に見えるはずだ、というようなことをあらかじめ頭に入れておき、それを確認しながら登ると、その山を立体的にイメージできるようになってくるし、何よりも「先を読む」ことで、疲労感が少なくなってくるような気がする。

   何度も通い慣れた登山道であっても、その道沿いの地形が地図にどのように表現されているのか、新しい発見をすることもある。

   数年前、長井市と小国町の境にある祝瓶山に登ったときのこと。

  先に頂上に着いていた方が、東側の道へ「お先に」と下りて行った。しばらくすると戻って来て、「間違えた」と、今度は西側の道を下りて行ったことがあった。

  地図とコンパスで確認すればこういうことは起きようがない。

  人間の方向感覚というのは、思っているほどあてにはならないものなのである。


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2007年02月14日

冬の野山、子ども連れ出そう(07年2月14日掲載)

 暖冬傾向が続いている。それでも長井葉山の麓に広がる縄文村一帯は市街地に比べると倍以上の積雪がある。「葉っぱ塾」の活動を始めた翌年の冬から、ひと冬に2、3回、ここでスノーシュー・ハイキングを行ってきた。
スノーシューは北米に起源を持つ雪上歩行用具で、日本でいえば「かんじき」にあたる。もともとは北米の先住民たちが冬場の狩猟の際に用いていたものを、アルミ合金やプラスチックなどを素材にして現代風にアレンジしたものである。
  かんじきに比べると、雪との接触面積が大きいので、得られる浮力も大きく、靴のままでは雪に潜ってしまってとても歩けないような新雪の中にも踏み込んでゆける。何より、初めての人でもすぐに歩けるところがスキーやスノーボードと違うところだ。
  2月になって最初の日曜日、この冬一番といっていいほどの雪と時折吹く強風の中ではあったが、14名の参加者とともに縄文村の中を歩き回った。収穫されることもなくたわわに実っていた柿の実は、鳥や獣たちがだいぶ食べたようで、ほとんどヘタだけが残されていた。彼らには冬場の貴重な食物だったのだろう。
  葉を落とした木々は様々な形状の冬芽を間近で見せてくれる。高い木の枝でも、積雪のおかげで目の高さにあるのだ。葉が落ちた跡、すなわち葉痕もよく観察すると面白い。それが人やサルの顔に見えたりするから思わず笑ってしまう。
  天候が悪いときには動物たちも外出を見合わせているのか、足跡がなかなかみつけられないでいた。しかし先頭を歩いていた子どもたちが、真新しいウサギの足跡を発見し、興奮気味だった。足跡をよく見ると、ウサギの後足はスノーシューの形とそっくりだ。それで深い雪でも走り回ることができるのだ。
  昼食の場所に向かって足が速まってきたそのとき、少し先の潅木の根元からウサギが飛び出した。「あ、ウサギ!」の声に皆が指さす方向を見た。まさにスノーシューのような足で斜面を横切っていった。
  冬の野山にもっと子どもたちを連れ出したい。そこに息づく生き物たちの気配を感じるだけでも、自分が育った地域への愛着は深まるだろう。たとえ故郷を離れて暮らすことになっても、その体験はずっと彼らの心の支えになってゆくに違いない。


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2007年01月17日

携帯電話、想像力欠如を助長も(07年1月17日掲載)

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<親子で楽しんだネイチャーゲーム>


  私が常々思い続けていることの一つは、この10年間の子どもたちや若者たちの変化が、携帯電話の普及と軌を一にしているのではないか、想像力の欠如を助長しているのではないか、ということである。

  聞くところによると、もはや携帯電話の契約は9千万台を超えているという。

  私のように持たないで生活している人間は、国民の4分の1にも満たないということだ。

  便利なものを生活に利用する。それはそれでいい。

  しかし私が問題だと感じているのは、電車の中でも、街中でも、とにかく暇さえあれば携帯電話の画面とにらめっこしている光景である。常にその機械を介して他者とつながっていなければ居ても立ってもいられないという様子なのである。

  そしてその携帯電話が、場合によっては、簡単に人を傷つけるメッセージを送る凶器に変わることもあるのだ。面と向かっては言えないようなことでも簡単に送ることができるということは、便利さと同時に恐ろしさもあわせ持っている。

  さらに、映像や文字がどんどん送り出されてくるため、自分の頭の中で情報の断片を組み立て、視覚化する、というような高度な大脳の働きが大幅に省略されてしまうということはないだろうか。

  そうした押し寄せるほどの情報は、子どもたちが豊かな想像力を獲得してゆくことを、かえって阻害することになってはいないか。そしてそのことによって、私たちの社会は取り返しのつかない「何か」を失っているのではないかという不安が募る。

  昨年は「いじめ」の問題が全国で顕在化したが、それも「想像力の欠如」が原因の一つだと私は思う。しかし、それは子どもたちから始まったことでは決してなく、大人の姿の鏡像のようなものかもしれない。

  経済成長優先の中で、子どもたちさえも消費者として位置づけられ、次から次と新しいものを手にすることができる「豊かさ」へと彼らを導いてきたのは私たち大人であった。

  その過程で、人々の想像力は次第に蝕まれてきてはいなかったろうか。
 
  どんな子どもでも、その心の中に「想像力の芽」を持っている。それをどう育んでゆくかが、私たち大人に問われている。


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2006年12月06日

森の動植物と共に生きよう(06年12月6日掲載)

  この秋、私たちの世界では仲間の受難が相次ぎました。昨年はブナの実が大豊作だったこともあり、減少気味だった「人口」に歯止めをかけたいと、子どもを生んだ母親が多かったのです。ところが今年はブナもナラもほとんど実をつけず、私たちは大飢饉に陥りました。

  どこかの世界では親が子どもを虐待したり、子どもが親を殺したりしていると聞きましたが、私たちは親も子も、生きるのに必死でした。これまで出かけたことがない所にまで足を伸ばさざるを得ませんでした。
  
  私たちは、できれば人間には出会いたくはないので、やぶの中に身を潜めるように移動していますが、そのやぶの向こうが思いがけずに林道だったり、人家の裏庭だったりすることもあって、こちらのほうが大慌てでした。

  仲間たちの中には、人間の畑のものをいただいてしまったものもいましたが、それはよほどやむにやまれぬことだったのです。そうした現場を人間に見つかってしまうと、追い回されたあげく、銃で撃たれて命を落とすしかないのでした。中には林道を横切ったところを見られただけで殺された仲間もいます。やるせない気持ちでいっぱいです。

  私たちは、食べ物を探しに出かけるときは、「きょうは、人間、出るかなあ。」といつも思います。私たちの祖先はずっと昔からこの地に住んできたのですが、どうも、あとから来た人間のほうが「ここは自分たちの場所」と言わんばかりに振る舞っているように思えてなりません。

  私たちのように体の大きな生きものが住むことができるのは、ここが豊かな土地である証です。その豊かさは私たちだけでなく、森に生きるすべての動植物が作り出している豊かさなのです。そして、その豊かさの中でそれらの生きものたちはつながっています。

  私たちにとっての豊かさは、きっと人間の皆さんにとっての豊かさと重なり合うはずです。もう一度考えてみてはいただけないでしょうか。「すべての生きものにとっての豊かさとは」と。

  では、来年の山の幸の豊作を願いながら、春までしばらく眠ることにいたします。


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2006年11月08日

奄美へ大移動する蝶の神秘(06年11月8日掲載)

 秋の風を心地よく感じ始めた先月上旬、米沢に住む友人から面白いニュースが飛び込んできた。彼女がこの8月20日に蔵王でマーキングして放したアサギマダラという蝶が、42日後の10月2日、奄美諸島の喜界島で再捕獲されたというのだ。
この蝶が大移動することは前から知られていたようだが、私にはほとんど何の知識もなかった。直線距離にして1500キロ近く。平均すれば1日30数キロも移動したことになる。
 友人からの連絡を受けて早速そのことが掲載されているというホームページにアクセスし、写真を見てまたまた驚いた。そこに写っていたのは、7月末に一人で長井葉山に登った帰りの林道で見た、他の蝶に混じって舞っていたのと同じものだったからである。
 その日は、買って間もないデジタルカメラの練習のつもりで出かけた山だった。登山道から林道に降り立つと、サワヒヨドリの花にヒョウモンチョウの仲間とおぼしき蝶たちが群舞していた。あまりの見事な光景に何枚も写真を撮っていると、中に薄水色の筋の入ったアゲハのような蝶が一緒に舞っているのに気づいてはいた。その時は、それがアサギマダラであるとは知る由もなかった。  
 しばらくして、このことを東京に住む弟に話したところ、ずっと以前に何かの本で「福島県が北限」と書いてあったのを覚えているとのことだった。北限が福島にせよ山形にせよ、移動距離の大きさに変わりはなく、感嘆するばかりである。
 年に20回ほども地元の長井葉山に登って、ようやく植物の名前はある程度わかるようになったのだが、これまで蝶には全くと言っていいほど関心を寄せたことがなかった。しかし、今回のニュースで大いに好奇心が刺激されたことは言うまでもない。
 友人がマーキングしたのは50頭だったという。見つかったのはそのうちの1頭だけではあるが、この蝶たちは、喜界島が最終目的地であったのだろうか。あるいはもっと南へと渡る途上であったのだろうか。なぜそれほど長い距離を移動するのだろうか。 さらには、福島より北に位置する蔵王や長井葉山にいたということは、温暖化と何か関係があるものかどうか。興味は尽きない。


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2006年10月11日

「自分通信」10年、手紙のように(06年10月11日掲載)

  残暑の季節がそれほど長くは続かず、今年はすっぱりと秋が来たように思える。日が短くなり、秋の夜長のこの時期、たまらなく人に手紙でも書こうと思うことがある。

  「LEAF」と名づけた“自分通信”を出し始めて今年でちょうど10年になった。通算で100号を超えているので、年平均で10回ほど出していることになる。

  現在では北は北海道から南は九州まで、およそ160名あまりの親しい友人や知人に宛てて送っている。

  その内容はといえば、社会に起こる様々な出来事に対する自分の考えをまとめたり、年に20回ほども登る長井葉山の季節の様子をリポートしたり、気に入った詩を載せてみたりと、肩肘張らないものである。「葉っぱ塾」の活動を始めてからは「葉っぱ塾通信」のような性格も持つようになってきた。

  体裁はB4二つ折りの4ページから8ページの間で、特に決まっているわけではない。また、いつ出すと決めているわけでもないので、「発行は不定期です」とおことわりしている。

  時々、よくそんなに書くことがありますねと言われることがある。毎日日記をつける習慣もないので、ワープロ(いまだにワープロ!)に向かう時と全然向かわない時が極端である。しかし、気になる出来事があって何か思うところがあった時には、早朝の静かな時間、黙々とワープロのキーをたたく。そのことによって、自分の考えたことが整理できるような気がするのだ。

  当初、郵送代は全て家計からの持ち出しであったが、最近は切手を送ってくださる方もあって、ずいぶん助かるようになった。どちらかといえば世間では少数派な部類に属する私の考えに賛同してくださる方ばかりではないはずなのだが、寛容なお気持ちで受け取ってくださっているのだろうと想像する。

  印刷物ではあるけれど、私は友人や知人に手紙を書くような気持ちでいつもワープロに向かっている。このデジタル通信全盛の世の中で、一周遅れもいいところの超アナログ通信。

  子どもたちが、これをつづったおやじの分厚いファイルを手に取り、一人の人間の生きた証をたどってくれる日がいつか来るだろうか。



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2006年09月13日

山また山4時間、絶景に歓声(06年9月13日掲載)

 この夏は梅雨明けが遅れ、葉っぱ塾の「子どもキャンプ」にも影響するのではと気がかりだったが、梅雨明け直後の安定した夏空に恵まれ、無事に終えることができた。
今年は県内はもとより首都圏や宮城からの参加もあり、小学1年から6年までの男女12人でのにぎやかなキャンプとなった。
 長井葉山の麓に、地元の方々が整備してくださった森林公園があって、水量豊富な冷たい沢水がひかれているのが何よりありがたい。加えて人工的な照明が全くなく、野生動物たちの生息域に入り込んだように生活できる点がすばらしい。
 真っ暗な夜、テント場から少し離れたトイレまで、懐中電灯を手にしてドキドキしながら歩くことなど、今の子どもたちにはなかなか経験できないことである。電気炊飯器もないのにどうやってご飯を炊くのかといぶかる子どもたちには、鍋でもご飯が炊けることは驚きだったりする。  
 4日間のキャンプの3日目、全員で長井葉山に登ることにしていた。苦労して頂上をきわめたときに得られる大展望や、山頂近くに湧き出る「鉾立(ほこだて)清水」のあの冷たさを子どもたちにじかに体験させたかったのだ。
暑さの中、4時間もかかる山道を歩き通すことができるか、不安はあった。結果的に、キャンプの前にひいた風邪が完治していなかった1名が途中でリタイアとなったが、残る11名の子どもたちは、励まし合いながら山頂をきわめることができた。水温5度ほどの、手を切るような清水は、暑さの中を登った子どもたちには何よりのご褒美だった。
 山頂にある山荘の前でむさぼるように昼食を食べた子どもたちを、大展望がひらける「奥の院」に案内した。見渡す限り山また山が重なるかなたに向かって、「クマさあん、来たよ! ヤッホー!」と叫ぶなど、子どもたちは彼らなりのやり方で登頂の感激を表現していた。その様子を見ていた私まで胸が熱くなった。
 いつか大人になったときに、素直に感動したこの日のことを思い出してくれたら、どんなにうれしいことだろう。キャンプを終えてしばらくたった今でも、私の心の中で、あの時の子どもたちの歓声がこだましている。(八木文明)


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2006年08月03日

星野道夫さんに学んだ「時間」(06年8月3日掲載)

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  自分に最も影響を与えた本をあげよと言われたら、迷わず星野道夫著『旅をする木』をあげるだろう。

  アラスカを撮り続けた希有の写真家、星野道夫さんの名前を初めて耳にしたのは、10年前、カムチャツカ半島で取材中にヒグマの事故で亡くなったというニュースによってだった。

  その後数カ月して、一人の友人から届いた便りの中に〈もうひとつの時間〉というエッセイのコピーが同封されていた。それはこの本に収録された一編だったのだが、その後私は、『旅をする木』をはじめ、星野さんのエッセイを読みあさり、たくさんの写真集にも目を通すことになった。

  その頃私は「葉っぱ塾」と名前だけは決めたものの、いったい自分が何をしたいのか、どういう方向を目指そうとするのか、なかなか見つけることができないでいた。

  〈もうひとつの時間〉には、氷河の上で満天の星を見上げながらの友人との会話や、忙しい日本での日常を離れてアラスカを訪れ、クジラの大ジャンプを共に見た友人のことが書かれている。

  そうした雄大な風景の中に身を置いてみたとき、そこにゆっくりと流れる時間を感ずることでその人間にもたらされる、「目に見えない価値」について、星野さんは語っていた。

  星野さんにとってのアラスカとはスケールこそ違え、自分が生まれ育ったこの地域を深く理解し、日常とは異なる時間の流れを人々に感じてもらう活動を創り出すことは、この自分にも可能なことではないだろうか。

  そんなことを考えながら、「葉っぱ塾」の構想をようやく具体化させることができたのだった。

  先月の末、一人、古寺鉱泉から小朝日岳までを往復した。あてにしていたヒメサユリはようやく咲き始めたばかり。例年になく残雪も多く、まだ春の花が咲き残っている所さえあるほどだった。

  人けのない山頂でしばらく休みながらまわりの景色を眺めているうちに、「自分」の存在がどんどん小さくなっていくような不思議な感覚にとらわれた。

  私がここに居ても居なくても、この風景は風景としてあり続ける。「何かしなければ」と追い立てられるようなふだんの生活とは明らかに違う〈もうひとつの時間〉が、そこには確かに流れていた。



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2006年06月26日

自然を心身で感じるゲーム(06年6月22日掲載)

85a547f8.JPG梅雨に入り、木々の緑が日ごとに色濃くなってゆく。時折、夏を予感させるような風も吹くようになった。
 先日、「飯豊少年自然の家」を会場に、ネイチャーゲームの体験行事を行った。主催したのは、この4月から活動を始めた「山形おいたまネイチャーゲームの会」で、この私が運営委員長を務めている。
 当日は、梅雨の中休みの青空に恵まれ、また、たくさんのヒメサユリの花が出迎えてくれて、大人5名、子ども5名の参加者には存分に楽しんでいただけたと思う。
ネイチャーゲームはアメリカのジョセフ・コーネルさんが79年に発表したのに始まる。「五感を使って自然を直接体験する野外活動」というものだが、「ゲーム」という呼称は日本に持ち込まれたときにそのように言い表したもので、実際には誰かと競うような性質のものではない。多様な活動を通じて、自然と自分とが一体のものであることに気づくことを目的としたものである。
 私がネイチャーゲーム指導員の講座を受講したのは6年前の夏のことだった。それ以来、様々な場面でネイチャーゲームを体験していただく機会を得てきた。主催事業のほかに、PTAの親子行事や小学生の宿泊研修などに出向いたこともかなりの回数にのぼる。
 山形は、都会に比べればずいぶん豊かな自然に恵まれているが、その中でどのように時間を過ごすのか、そのノウハウが今の子どもたちにはまだまだ伝わっていないように私は感じている。
 私たちの会は、このネイチャーゲームを一つの入り口として、子どもたちやその親たちが、山形の自然をその体と心でいっぱいに感じ、瑞々しい感性を育んでほしいと願って活動している。
 また、学生や保育所の保育士さん、幼稚園や学校の先生方、そして地域の子供会の指導者の方々にも私たちの仲間に入っていただけたらと、毎年県内で「リーダー養成講座」を開催している。今年は9月最後の週末、「飯豊少年自然の家」での開催が決まっており、すでに参加者の募集を開始している。
 自然は私たちに様々なメッセージを送ってくれている。それをどう受け止めるかは、私たちの心のありようにかかっている。


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2006年05月24日

季節を感じる風受けて走る(06年5月24日掲載)

 新緑が目に優しく、風もさわやかで、朝のジョギングには気持ちよい季節になってきた。四季を通じてほぼ毎日、10キロから15キロほどの距離を走っている。走り始めたのは今から15年ほど前のことになる。
 その頃私の体重は、バブル経済膨張に合わせるかのように増え続けていた。靴下を履くときにはお腹が邪魔になるほどで、「自分も立派な中年太りだなあ」と自嘲気味に腹をさすっていたのは40歳が見えてきた頃だった。
 そんな私の背中を押してくれた人がいる。その頃ロッテ・オリオンズの投手で、肘の大手術を見事に克服し、40歳を過ぎてカムバックした村田兆治さんである。ご本人はもちろん知る由もないが、あの年齢でも自分を鍛え抜く姿に励まされるように、少しずつ走り始めたのだった。
 重い体を揺すりながら、最初は2キロ走るのがやっとだった。はじめの3ヶ月は思ったほどには体重も減らなかったが、諦めかけようとしていた頃から、10キロ以上でも楽に走れるようになり、体重もすうっと減り始めた。その年の晩秋に開催されたフル・マラソンの大会に参加して完走できたときには、言葉にならない感動で涙がこぼれた。
 早朝走るようになって、早寝早起きの習慣が身についてゆくと、たとえ「付き合いが悪い」などと言われようとも、夜遅くまでお酒を飲むことはほとんどなくなった。
 見事な朝焼けや、路肩に咲く花々を見、季節を感じさせる風を肌に受けながら走ることで、自分の人生観までもが変わっていった。登ろうなどとけっして考えもしなかった山にも出かけるようになった。走っているおかげで、山に登っても息が切れないのは自分でも驚くほどだった。
 「雨や雪の日は走らないんでしょう?」とよく尋ねられる。私の場合は疲労回復のために走らない日はあっても、天候を理由にはしないことにしている。それは、「今日は天気が良すぎるから走らない」などと言いかねない自分の弱さをよく知っているからだ。
 先月、走り始めてからの累計が6万キロを超えた。ようやく地球を1周半回ったところである。無理をせず、これからものんびりと走り続けてゆこうと思っている。


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2006年04月26日

「満月の光で葉山登山」満喫(06年4月26日掲載)

4月14日は満月だった。この夜と
いうより15日の未明、私たち10名
は、月明かりの中を長井市の葉山を
目指して出発した。
今回の葉山登山は、私が会員とな
っている「葉山の自然を守る会」の
「第12回自然教室」としておこな
ったものだ。いつも通い慣れている
葉山に満月の光を浴びながら登って
みたいと数か月前から計画し、参加
者を募って実施に移したのだ。
4月の満月の日を狙ったのは、真
冬の寒さを避け、なおかつ月光を妨
げる木々の葉が芽吹く前にと考えた
からだった。
 14日の昼過ぎから、曇っていた
空がどんどん晴れてゆき、月の出の
頃には快晴となっていた。登山口に
向かう車窓から眺めた葉山は、残雪
に月光が反射して、青白く空に浮き
上がっているように見えた。
麓では柔らかかった雪も、中腹か
らは冷え込みで堅雪となり、途中か
らはスノーシューをアイゼンに履き
替えての登行となった。満月の光は
雪面に反射して十分に明るく、目が
慣れるとヘッドランプを消しても全
く支障がないほどだった。
 午前3時半ごろ、山頂まであと一
息のところで振り返ると、東の空か
ら「明けの明星」が昇ってきた。空
はかすかに白み始めていた。出発し
てからほぼ4時間、私たちは山頂の
小屋に到着した。日の出前にと急い
で朝食を済ませた頃、窓の外が明る
くなってきた。
 近くにある展望の良いピークに立
ってみると、木星をすぐ隣に従えた
満月が、西の山かげに沈もうとして
いた。そして5時過ぎ、東の空の霞
の中から赤く染まった太陽が顔を出
し始めた。私たちは歓声をあげ、そ
れぞれに夢中でシャッターを切った。
大朝日岳も山頂から赤みをおびてゆ
き、間もなく私たちの足元の雪面も
金色に輝いた。
 「葉山の自然を守る会」は、今年
で結成から20年の節目を迎える。
大規模林道の建設に市民レベルの反
対運動を展開し、それが奏功して、
林道が貴重なブナの原生林を切り裂
く愚挙は避けられた。「自然教室」
は、その原生林の素晴らしさを多く
の人に知ってもらおうと始めたもの
である。
節目のこの年に、最高の天気に恵
まれて思い出深い登山ができたこと
は、「葉山神」からの贈り物だった
のかもしれない。


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2006年04月06日

到達した「交点」感慨じわり(06年4月6日掲載)

「交点プロジェクト」の存在を知
ったのは、去年の1月、山の雑誌に
載った記事によってであった。アメ
リカの一青年が始めたものだという。
GPS(全地球測位システム)を頼り
に、緯度と経度のいずれもが、00
分00秒ちょうどになる「交点」に
到達してみよう、というただそれだ
けのものではある。
雑誌の記事は、日本の地上に42
地点ある「交点」の中で、未到達だ
った6地点のうちの一つに行ってみ
たという記録であった。
地球上のすべての地点は、緯度と
経度という一種の座標で表示するこ
とができる。しかし、そのいずれも
が00分00秒の「交点」というこ
とになると、南北では約111劼
と、東西では山形付近の場合は約8
8劼瓦箸箸いΔ海箸砲覆襦
 この付近にはどんな「交点」があ
るのかと地図帳を開いて調べてみる
と、山形県には北緯38°・東経1
40°と、北緯39°・東経140
°の2つがあるではないか。日本に
42しかないもののうち2つも山形
県内に! しかも、前者は私の住む
ところからそう遠くはない川西町の
山中にあるようだった。
そこで昨年3月、私は地形図を頼
りに、スノーシューを履いて「交点」
を目指してみた。しかし、GPSを
持っていなかったので、「このあた
りかな」ということしかわからなか
った。どうしてもGPSが欲しくな
ったのはいうまでもない。
昨年秋に念願のGPSを購入し、
この3月上旬、友人と二人、満を持
して再び「交点」を目指した。小高
い丘陵地帯からの眺めは、標高が低
いわりにはなかなかのものだった。
蔵王や吾妻の峰々を遠望しながら近
づいて行った。
 最後の詰めはGPSと磁石が頼り
である。表示の最小単位は0・1秒。
これは距離にすればおよそ3mほど
であるから、歩いてゆけばどんどん
数値が変化する。
ついに目指す「交点」に到達。そ
こは、何の変哲もないアカマツとコ
ナラの混じった雑木林の斜面の中ほ
どであった。山頂をきわめたような
達成感はなかった。しかし、不思議
なことに、その場所が自分にとって
は特別の場所のような感慨がじわり
とわき上がってきた。「これはなか
なか奥の深い遊びだぞ」とにんまり
して見上げると、春の到来を感じさ
せる青い空が広がっていた。


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2006年03月01日

心透き通るキャンドル作り(06年3月1日掲載)

阪神淡路大震災から11年たった1
月17日、今年も私たちが送ったリサ
イクル・キャンドルが現地の慰霊祭
で使われた。時の経過とともに体験
の風化ということが心配されている
が、じっと炎を見つめ涙を流す人た
ちの姿をテレビの画面で見ながら、
少しではあるが、被災者の方々にと
っての大切な節目の日のお手伝いが
できたことに安堵していた。
このキャンドルづくりを最初に呼
びかけたのは、朝日町で蜜ろうそく
づくりを営んでいる安藤竜二さんで
あった。注文された蜜ろうそくが、
震災のためにお客さまに届かなかっ
たことをきっかけとして、現地の方
々との交流を深めておられた安藤さ
んが、慰霊祭にたくさんのキャンド
ルが必要と相談を受けたとのことだ
った。
今では県内の多くの方々が、あち
こちに働きかけてくださっているお
かげで、寺院、結婚式場、葬祭社な
どから、段ボール箱にいっぱいの使
用済みろうそくが届けられ、材料に
不足することがないほどに集まって
くるようになった。私たちが使わな
ければ捨てられてしまう運命のもの
だったそうである。
キャンドルの製作を直接担ってく
れているのは、高校生や中学生たち
が中心だ。ボランティア活動の一つ
として毎年取り組んでくれるグルー
プがいくつかある。彼らには、幼い
ころに起こった震災の記憶はほとん
どないが、キャンドル作りを通じて
自分が知らないでいた人々と心がつ
ながるという体験は、社会の弱者の
視点に立って物事を考える、ひとつ
のきっかけになる可能性を持っては
いないだろうか。
最近このリサイクルキャンドルが
あちこちから利用されるようになっ
てきた。商店街活性化のための事業
の一つとして、省エネ推進のための
イベントとして、さらには学校の環
境学習の一環としてというものまで
ある。
目的は様々だけれど、キャンドル
の炎を見つめる人々の表情は共通し
て、穏やかで透明感があるように思
えてならない。やがては燃え尽きる
キャンドルの炎に、限りある人の命
を重ね合わせるという心のはたらき
が、そのような表情をつくり出すの
かもしれない。


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2006年02月01日

雪山登り初詣で 思い新たに(06年2月1日掲載)

「葉山の自然を守る会」の仲間に
誘われて元日に長井葉山に初詣で登
山をするようになって、今回がちょ
うど10回目であった。
一日一日は同じように繰り返され
ているだけなのに、元日となるとい
つもと違った思いが満ちてくるよう
な気がする。
寒波が連続して大雪になったため、
もしかしたら今年は山頂まで行けな
いのではないかと気掛かりだった。
大みそかの朝のドカ雪の除雪で痛め
た腰をさすりながら、元日の明け方、
登山口へと向かった。今回の参加者
は4人。いつものメンバーの他に、
南国宮崎出身の若者が初めて加わっ
てくれた。
農道は除雪されないために、いつ
もよりずっと下の県道から歩き出す。
暮れの29日に途中までつけた踏み跡
は、その後の降雪でほとんどわから
ないほどだった。
杉の植林地では、雪の重みに耐え
かねて折れてしまったものがたくさ
ん見られた。天気予報では「一日曇
り」であったが、あたりに立ち込め
る霧が晴れてゆくにつれて青空が見
えだした。
風もほとんどなかった。雪の上に
顔を出している木々の枝先に、針の
ような霧氷がびっしりと付いてきら
きら輝いていた。標高千メートルを
超えたあたりで積雪を測ってみると、
3メートル余り。里の雪の多さから
想像していたほどではなかった。こ
の冬は“里雪型”なのだろうか。
途中までかと思って登り始めたの
に、思いのほか雪が締まっていたの
と、先頭を交代しながら体力を温存
できたことで、私たちは5時間半か
かって山頂に登りつめた。青空をバ
ックにした大朝日岳の真っ白な大ピ
ラミッドが出迎えてくれた。
北西から吹いてくる風はさすがに
冷たく、衣服の隙間から入り込んで
きた。秋に登ったときに山荘の中に
置いていったペットボトルの水は、
完全に凍結していた。そんな寒さの
中での昼食の楽しみは、もうもうと
湯気を立てながら煮るインスタント
ラーメンだ。餅や野菜をどっさり入
れて、ふうふういいながら食べるの
である。
帰り道、眺望の開けたところから
見渡すと、山頂部が真っ白な蔵王連
峰、ごつごつした飯豊の山々、そし
て遠く会津磐梯山までも見ることが
できた。「今年はいい年にしたいね」
としみじみ語った仲間の横顔を午後
の太陽が照らしていた。
     (ブナの森から吹く風)

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2006年01月03日

提供したい滞在体験型の旅(05年12月22日掲載)

白鷹町で様々な自然体験活動をし
ている「白鷹ふる里体験塾」の方々
が県内で類似の活動をしているいく
つかのグループに呼びかけて、題し
て「子ども体験塾サミット」という
集まりが、11月下旬、遊学館を会場
にして行われた。「葉っぱ塾」にも
声をかけていただいたので、活動紹
介のパネル展示や、“落ち葉アート”
を楽しんでいただくなど、他団体や
一般の参加者の方々との交流を深め
ることができた。
都市化が進んでいるとはいっても、
山形はまだまだ自然に恵まれた地域
である。しかし、その自然の中で生
き生きと遊び回る子どもたちの姿が
少なくなったのは、決して少子化の
影響だけではないように思う。
今回の「サミット」で、同じよう
な問題意識をもって地域に根ざした
様々な活動を展開している人々が、
県内の各地におられることを知った
ことは、とても心強いことだった。
私が常々感じているのは、自然体
験が少ないのはもはや子どもばかり
ではなく、若い親の世代にまでそう
した傾向が広がっているということ
である。そうであれば、家庭の中で
の体験の継承などは起こりえないわ
けである。であれば、誰かが意識し
てそうした体験の場を創り出してゆ
かねばならない。そのことは、物質
的に豊かすぎる私たちの生活を見直
すことへとつながってゆく可能性を
持つように思う。
「体験塾サミット」のもう一つの
可能性は、都市部に住む人々にも様
々な自然体験の場を連携して提供す
ることができるという方向にも開け
ているのではないだろうか。
 地方に住む私たちにとってはあま
りに当たり前なこの風土が、都市生
活者にとってはとても価値のあるも
のに見えるということは以前から言
われていたことだ。しかし、観光地
を巡り、温泉にひたるというだけで
は満足を得てもらえないのではない
だろうか。滞在体験型の旅をしたい
と考える人は今後益々増えてゆくよ
うな気がする。そうした人々を受け
入れ、無理なく継続してゆくために、
様々なノウハウを結集すること、受
け入れ側の私たちが多様なプログラ
ムを準備すること、そして何よりも
私たち自身が楽しんでいける活動を
創り上げていくことが大切なのだと
思う。
     (ブナの森から吹く風)

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吉永さんが蒔いた平和の種(05年11月23日掲載)

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  10月下旬、小国町の基督教独立
学園高校の講堂で、女優の吉永小百
合さんをお招きしてのささやかな朗
読会をもった。

  題して『吉永小百合原爆詩朗読会
〜平和の種を蒔く』。

  高校生たちが、企画から当日の進
行まを担当し、吉永さんとの交流や、
参会者全員による『折り鶴』という
歌の合唱などをまじえ、有意義な秋
のひとときとなった。

  吉永さんは97年、広島の原爆詩
を収録したCD『第二楽章』を、99年
には『第二楽章〜長崎から』を出され、
これをきっかけにして、吉永さんがラ
イフワークと位置づけておられるこの
取り組みは、多くの人々に広まってい
った。

  いつかこの朗読会を山形の地で
開催したいと私が吉永さんにお手紙
を差し上げたのは、CDを聴いてしば
らくたった99年5月のことだった。

  それから6年近くたった今年2月、
吉永さん側から「年内の開催可能で
す」との連絡をいただき、まるで6
年越しの片思いが成就したかのよう
な喜びに満たされた。

  最初のお手紙を差し上げる10年
ほど前から私は、「山形日本フィル
の会」の活動を立ち上げ、市民によ
る山形県内での日本フィルハーモニ
ー交響楽団のコンサートの企画に携
わってきた。

  “音楽が聴ける平和いつまでも!
市民による日本フィルのコンサート”
というモットーが示すように、この会の
活動は一種の平和運動であると考え
てきた。

  また、私の「葉っぱ塾」の活動は、
自然の中の人間、地球の一構成員
としての人間の役割を知り、謙虚な
姿勢で生活してゆくことの大切さを
学ぼうというものである。

  一見異なって見えるこれらの活
動も、その大前提として、平和な社
会の存在が不可欠のものである。

  今回実現した朗読会を、これま
での私自身の活動の延長として位
置づけ、また、平和へのメッセージ
を発信し続けておられる吉永さんの
思いを、日ごろから平和の問題を
真剣に学んでいる若者たちに受け
止めてもらう機会としても役立てた
いと考えたのだった。

 
  吉永さんが祈るように読んでく
ださった何編かの原爆詩の一つひ
とつの言葉は、まさに“平和の種”
となって、若者たちの心の中でいつ
か芽生え、花開き、必ずや世界平
和への貢献につながってゆくだろう。

  この6年の経緯を振り返りなが
ら私も、私の心に蒔かれたその種
を大切に育ててゆこうと、決意を新
たにした。

    (ブナの森から吹く風)



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問われる自然資源への姿勢(05年10月26日掲載)

10月の中旬、親しい友人を誘っ
て“朝日ミニ縦走”を楽しんできた。
白滝登山口から登り始め、ゆっくり
と鳥原小屋までが1日目。標高13
00m余りの鳥原湿原は、ひとりで
に笑いがこみ上げてくるような見事
な色彩の洪水だった。小ぎれいな小
屋で夜は蜜ろうそくを灯してワイン
を飲みながら語り合った。下界で見
るのとは比較にならないほど多くの
星がまたたく星空からは、宇宙の匂
いが漂ってくるような気がした。翌
日は紅葉のトンネルのような山道を
歩き、小朝日岳をまわって古寺鉱泉
に下ったのだった。
紅葉の中を歩きながら、この6月
の下旬に朝日連峰の稜線を歩いたと
きのことを思い出していた。前の冬
は雪が多かっただけに、季節風の風
下斜面にはまだたくさんの雪が残り、
所々で登山道を覆っていた。しかし、
露出した砂礫地のいたるところにヒ
ナウスユキソウやチングルマの大群
落が風に揺れて咲き競っていた。同
行した人たちは50数種類もの花々
を数えあげて興奮気味だった。私た
ちが秋の紅葉やこれらの高山植物に
ことさらひきつけられるのは、厳し
い気象条件の中で生命活動を営んで
いることへの尊敬といたわりの念を
持つからなのかもしれない。
山小屋で一緒になった他県の方か
らは、山の素晴らしさだけでなく、
山小屋の清潔さに対する驚きの声も
聞いた。それもそのはず、朝日連峰
の避難小屋のトイレは全て環境への
負荷を小さくするものに代わってい
るのに加え、多くの地元の方々が愛
着を持って維持管理にあたっておら
れるのだ。自分が褒められでもした
ように嬉しくなってしまった。
朝日連峰は、標高の高い所までは
車が入れないことや、営業小屋がな
いことによって、入山する人の数が
ある程度抑えられているという側面
がある。一昨年には「森林生態系保
護地域」に指定され、環境保全に一
定の前進があった。気がかりなのは
さらに「世界自然遺産」への登録を
目指そうとする動きがあることだ。
しかしそこには自然資源を観光目的
に利用したいという思惑が見え隠れ
しており、素直な気持ちで賛同でき
ないでいる。現に、今年「世界自然
遺産」に登録された知床ではすでに、
マナー欠如の人々による自然へのダ
メージが現実のものとなっていると
聞いた。「そこに存在するだけで価
値のある自然」と向き合う私たちの
姿勢が問われている。


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自然との調和見せる「昭和堰」(05年9月28日掲載)

IMG_1610

<「昭和堰」の刈り払い作業>


  大陸から秋の乾いた空気が届くよ
うになり、山々の緑は少しずつ色を
変化させ始めている。

  毎年この時期になると、どんな紅
葉になるのか気になってくる。

  5年前の秋のこと、長井葉山の
山道の草刈り作業をしておられる地
元の方々とお会いしたことがきっか
けで、「昭和堰」の存在を知った。

  この堰は葉山の麓に広がる長井
市勧進代地区の水田に水を供給する
ため、1932(昭和7)年から3
年がかりで開削されたものである。

  しかし、最上川支流の野川にダ
ムが建設された昭和30年代以降は
その役割を終え、手入れする人も通
わなくなった山中の堰はやぶの中に
埋もれていったのである。

  地元の有志の方々が「昭和堰を
見る会」を立ち上げてこの堰に沿っ
た道の復元に取り組み始めたのは、
それから30年以上もたった92年
のことであった。

  一度森の中に埋もれてしまった
堰や道を見つけ出す困難さを克服し、
会の人々は数年がかりで枝を払い草
を刈って復元にこぎ着けたのだった。

  長井葉山の山頂から南西方向に
少し歩くと、「奥の院」と呼ばれる
小ピークがある。

  ここは冬でも雪が積もらないほ
どの強風にさらされるため樹木が大
きくならず、ほぼ真西にある祝瓶山
の優れた展望台になっている。

  この直下から流れ出す沢の水を、
動力を使わずに稜線を越えて反対側
に引いてゆくためには、ほぼ等高線
に沿った堰をつくって、尾根を大き
く迂回させなければならなかった。

  会の方々が復元した堰沿いの道
を簡易測量してその全体像を把握し
たとき、米作りに対する先人たちの
情熱や、自然との調和に心を配った
様々な工夫に脱帽の思いであった。

  この堰の建設から数十年の後、
この地域の地形地質や自然環境など
にはおかまいなしに無理やり建設さ
れようとした大規模林道の考え方と
は対極に位置づけられるといってよ
いだろう。

  「昭和堰」は現在、あちこちで
崩壊し、部分的に水が流れているに
過ぎないけれど、堰沿いの道はブナ
の二次林の中を通るほぼ平坦な道で、
初夏から晩秋にかけてはその時々の
美しい表情を見せてくれる。

  この堰と山道の復元は、単にそ
れにとどまらず、人と自然とが一体
となって生きていた時代の自然観を
取り戻すということにまでつながっ
てゆくような気がする。


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廃校包む子どもらの歓声(05年8月31日掲載)

蒸し暑い日が続いていたわりには
梅雨明けが遅れ、しかも梅雨明け宣
言が出てからの夏空も長続きせず、
空模様が不安定な夏だった。そんな
空の下で迎えた葉っぱ塾の「子ども
キャンプ」だったが、突然の雨や雷
鳴をも楽しみに変えてしまう子ども
たちの柔軟さに支えられ、楽しく終
えることができた。
私たちの子ども時代は、学校はあ
くまでも生活の一部であり、子ども
たちの生活の本拠は家庭にあった。
そしてそのまわりには近所の子ども
たちによる異年齢の集団があり、年
長の子から年少の子へといろいろな
遊びやルールが伝授されていくのだ
った。「子どもキャンプ」はそうし
た人間関係の復活をも視野にいれて
の、大切な夏の行事として位置づけ
ているものだ。
キャンプの二日目、子どもたちと
一緒に向かったのは朝日町の大暮山
(おおぐれやま)地区。数年前に廃校に
なった分校の校舎を使った紙飛行機
大会に参加するためだった。普段使
われていない校舎は、前日の大掃除
にもかかわらず汚れがひどかった。
子どもたちと一緒に何度もぞうきん
がけをして、少しだけ大会のお手伝
いをさせてもらった。暑い中でのぞ
うきんがけは重労働ではあるけれど、
自分たちが必要とされているという
使命感の中での作業には力が入るも
のである。昼までに何とか素足で歩
けるほどに掃除することができ、子
どもたちは満足そうだった。
この大会の仕掛け人は、朝日町で
蜜ろうそく作りを営む安藤竜二さん。
この分校の校舎のたたずまいに魅せ
られ、何か夢のあるイベントをと考
えて、今回が七回目の大会であった。
小さな坂道を登った所に建つ古びた
分校の校舎は、今では一年に一度だ
け子どもたちの歓声に包まれ、生き
返るのである。廊下や階段はギシギ
シときしみ、窓の立て付けも悪くな
っているけれど、なぜかとても懐か
しく、ずっとそこに居続けたくなる
ような雰囲気がこの木造校舎には満
ち溢れていた。子どもたちの心の荒
廃が進んでいると言われて久しいが、
多くの学校の校舎が鉄筋コンクリー
トに変わってきたことがその遠因と
してあると私は思っている。今では
貴重となったこうした建物を保存し
活用することは、子どもたちの心を
育む一つの鍵になるとさえ思う。校
庭にワスレナグサが咲いていたとい
う。校舎からの精一杯のメッセージ
だったのだろうか。


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森の中の時間共有したい(05年7月13日掲載)

 例年にない大雪だった長井葉山の
残雪は、山頂一帯の沢筋にわずかに
見られるものの、麓からは見ること
ができなくなって、いよいよ本格的
な夏山の季節になった。この長井葉
山を主なフィールドにして私が「葉
っぱ塾」と名づけた活動を始めてか
ら六年目を迎えている。“おとなも 
子どもも森で遊べ”をモットーに、
めぐりゆく季節の中での様々な自然
体験活動を通じて、私たち人間も自
然の一部であるということを感じて
もらえたらと願いながら活動を続け
ている。
 この活動の「種」を私の心に蒔い
てくださったのは画家であり詩人で
もある葉祥明(よう しょうめい)
さんである。人生の半ばにさしかか
った頃、自分の進むべき方向を探し
あぐねていた私に「自分がやりたい
ような“学校”を始めたらいいよ」
とアドヴァイスしてくださった。
 しかし、“学校”の具体的なイメ
―ジが浮かばないまま数年が過ぎた
とき、長井葉山に登る機会が訪れた。
前日の大雨から一転の上天気。残雪
とブナの新緑がまぶしい五月中旬の
ことだった。手を伸ばせば届くよう
に見えた大朝日岳。そして会津磐梯
山までもがくっきりと見えていた。
奇跡のように晴れ上がったあの空の
おかげできっと、私の心の中に蒔か
れた「種」は、発芽するきっかけを
得たのだと思う。
 その年の夏、小学生だった娘とそ
の友人を連れて長井葉山に登った時
のことだ。暑さの中での登りに疲れ
た子どもたちが音を上げそうになっ
てきた頃、山頂直下の鉾立(ほこだ
て)清水に着いた。真夏でも六℃前
後の手を切るような冷水に、子ども
たちは歓声を上げた。生き返ったよ
うに山頂に駆け登っていった姿を忘
れることができない。「人々と大自
然とを橋渡しするコーディネーター
が必要なのだ」という確信が生まれ
たのはその時である。
 近年、豊かな自然に恵まれたこの
地域にあっても、自然との関わりを
もたずに育ってゆく子どもたちが少
なくない。森の中にゆったりと流れ
る“もうひとつの時間”を多くの人
々と共有していきたいと考えている。


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