アラスカからの風

2012年01月03日

天国は本当にある その1〜アラスカ・大山さんから

☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。

 写真も大山さん提供です。年末に久しぶりに便りが届きました。




天国は本当にある(その1)



アラスカのネイティブの知り合いに、「天国を見てきた」と主張する人がいる。

 西アラスカの、海から離れた内陸部の小さな村で生まれ育ち、外の世界をまったく知らない彼は、夏場の鮭漁と秋の狩猟を終えると、あとは何もすることがない。当然のことのように、暗い冬場にはアルコールとドラッグに浸る生活に陥った。

 冬のある日、彼はスノーモービルに飛び乗り、雪原を疾走した。そして酷い事故にあった。全身打撲で病院に運び込まれたとき、彼はすでに虫の息だった。背骨が折れ、肋骨の一本が肺を突き抜け、もう一本が肝臓を突き刺していた。

 医者は手の施しようもなく、さじを投げた。彼はそのまま病院のベッドに寝かされ、死を待つだけの身となった。それから先の彼の独白はこうだ――。

 「オレは病院のベッドに寝かされた自分自身を見ていたんだ。病室の天井といおうか、どこか高いところから医者や看護師がやってること、話すことをずっと見ていた。

 そこにイエス・キリストがやって来たんだ。オレかい? 信仰なんかなかったよ。キリスト教会など行ったこともないしな。酒とドラッグに溺れ、神を信じることから程遠いところにいたんだ。だからなぜ、こんなどうしようもないオレのところにイエス・キリストがやって来たのか未だに判らない。

 イエスは俺の手を引いて天国に連れて行ってくれた。天国がどういうところかを見せてくれた後は、今度は地獄に連れて行ってくれたんだ。無信仰のオレに「天国」と「地獄」があることを見せてくれた訳だ。

 それは夢なんかじゃないんだよ。いまでもありありと思いだせる。そして最後にイエスはこう言ったんだ。『あなたはまだやらなければならないことがある。帰りなさい』とね。

 病院に担ぎ込まれて三日目だった。オレはベッドに寝ていたんだが、熟睡した後のようにすっかり元気を取り戻したんだ。だからオレは、普通にベッドから起き上がり、変だとも思わないで病院を出ようとした。

 慌てたのは病院の連中さ。いままさに死のうとしている人間が、一人でベッドから飛び起き、そのまま歩いて病院から出ようとしていたんだからな。オレは大丈夫と言ったんだが、多くの手が俺を病院に押し戻したんだ。そしてそのまま検査室に連れて行かれ、MRSにかけられ、全身くまなく調べられた。

 そしてなにも異常は見つからなかった。折れた背骨と肋骨は元通りになり、肋骨が突き刺さった肺と肝臓はまるで何もなかったかのように正常に機能した。まったく、何も起こらなかったようにだ。

 医者連中と看護師連中がぼうぜんと見つめる中、オレは言ってやったんだ。『ハレルヤ!』とね。『イエス・キリストが癒してくれたんだ』とね」

 彼はその日を境に人生が一八〇度変わった。

 彼はその事故を通して死後の世界を見た。そして神が本当にいること、イエス・キリストはいまも生きて働いていること、イエスの力が働けばどんな奇跡も起こること、天国と地獄があること――彼はそのことを伝えるために生き返らされたのだという。

 彼はいま、世界でも有数のクルセードの一員となって、自分の体験を証して回る人生を送るようになった。神に反抗し、闇の中で生きていた彼が、神の光に打たれ生命の源を教えられたとき、彼の目は開かれ、彼の耳は心理を聴く耳と変わったのだ。

 僕は彼の両親と会った。古い写真から抜け出て来たような深い皺をその顔に刻んだ二人は、ともにクリスチャンだった。いつ頃からクリスチャンになったのかは聞きそびれたが、いまでは事故に会った息子も含め、彼の家族は全員がクリスチャンになったのだという。それどころか、村人のほとんどが、またその近隣の村々の人たちの多くが、彼の体験によってイエス・キリストを主と信じるクリスチャンに変わったのだという。

 「私たちの村は、地勢的には本当に辺鄙なところにあります。自然の恵みは余すほどにあるけれど、貨幣経済は徐々に村を蝕んで行き、自然とともに連綿と築いてきた村人の価値観は混乱の中に置かれました。それまでは普通に生きて来たつもりだったのに、おカネが村を支配するようになると、私たちは実はとても貧しいのだということが判りました。

 とくに若者は混乱を極めました。どこに向かって歩いて行けばいいのか分からなくなったからです。父親やお爺さんが暮らしてきたように生きて行けばいいのか、それともおカネを作って犬ぞりの代わりにスノーモービルを買い、漁獲量を増やすために最新の船を手に入れ、カネを稼いだら村を出て町で西洋文化的な生活をすればいいのか、近代文明への憧れは若者には計り知れないほどの甘い誘惑なのです。

 しかし、誘惑とともに志を立てた多くの若者が挫折をしました。このアラスカからの脱出を試みた人たちは経済的な豊かさを手に入れても、心のずっと深い部分、そう魂の部分とでも言えばいいのか、最後にはその心の深層部分で西洋人が抱く満足感を得られないのです。

 挫折をしたものは村に帰って来ました。そしてまた村の生活になじもうとしました。しかし、いったん外の世界の味を覚えた若者の多くは生きて行く上での矛盾を自らでは解決できなくなったのです。心のはけ口を求めてアルコールに走り、さらにはドラッグにまで手を出すようになりました。

 私たちの息子もそうでした。神に背を向け、社会に背を向け、将来の希望も失い、生きる気力のない人生を送っていたのです。事故に会ったことは神様の罰と言われても仕方ないような生き様をしていました。

 しかし神は私たちが想う以上のお方でした。あんなどうしようもなかった息子の生命を救い、神の力を示され、その息子を用いて神の愛を伝えようとなさったのですから。

 息子は肉体が癒されただけでなく、魂をも救われました。神を信じなかった息子が神によって救われたということは、神はどんな人であっても救いたいと願っているというメッセージなのだと思います。

 息子がなぜ今回神に用いられたのか判りません。ただ、生命は神のものであるということだけははっきりしました。また、この世を去ると天国があり、そして地獄があるということも。

 息子はいま多くの人たちに自分の体験談を語っています。それは単なる死からの生還話ではなくて、死も生も神が司っているのだというメッセージを携えたものです。この世は神がすべてであり、神こそが生きる希望でありまた力なのだということを皆さんに知って欲しいからなのです」

 死からの生還――こんな話は時に耳にするものだが、どこか他人事で、往々にして胡散臭ささえ感じるものだ。だが、こうして直接生々しい話を聞くと、個人の小さな猜疑心など吹き飛ばされてしまいそうだ。

 新約聖書のヨハネの福音書の中には、イエス・キリストが行ったという代表的な七つの奇跡が要領よく書かれてある。これらの奇跡を目の当たりにした当時の弟子たちの力が、二千年もの長きに渡るキリスト教伝道の牽引力となった。もしそれらが作り話だったら、キリスト教はもうとっくの昔になくなっていただろう。



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2011年01月31日

ルース氷河〜Mount Michio

☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。

 写真も大山さん提供です。


ルース氷河(大山卓悠さん)

<ルース氷河、「ドン・シェルダンの円形劇場」>



  ビーバーの名を冠した単発エンジン機が滑走路からふわりと浮きあがると、小さなタルキートナの町はすぐに森のなかに飲み込まれて行った。

 向かい風が強い。機体はたえず振動し、ときどきエアーポケットに落ちては、またグンと浮きあがる。

 これから、二〇年前に仕残した約束の清算に出かけなければならなかった。乱気流に巻き込まれる度に、小型機は頼りなく揺れ動き、喉の奥から軽い吐き気とともに苦い思い出が湧き出てきた。

「大山さん、ルース氷河の源流に行ってみませんか? 真冬ですが、そこでキャンプをするんです。ものすごく星空がきれいなんです。びっくりしますよ」

 いまからちょうど二〇年前、写真家の友人が目を輝かせながら雪中キャンプに誘ってくれた。

(真冬にキャンプ? それも、マッキンレー山の中腹にある氷河の源流?)

 それはぼくにとって、まったく未知の世界だった。興味は湧いたが、普通ではない友人の生き方と、まともな人が行くような時と場所ではない所への招きに、ぼくは正直なところ、たじろぎを覚えた。

「ウワ―、そんなところなら行ってみたいですね」

 と答えたものの、ぼくはその招待に現実味を感じなかった。それに、ぼくには生活があった。家内と、娘三人を放っておくわけにはいかない。友人はまだ独身で、好きなときに好きなところへ、風のように動いて行く。ぼくとは立場が違った。

 だが、今すぐには無理でも、いつの日か彼の招待を受けてみようとは思った。アラスカを知り尽くした彼がそこまで言うのなら、きっと美しいところに違いない。彼が分かち合いたいと思った感動を、そのまま感じ取りたいと思った。

(いずれ時期を見て、連れて行ってもらおうかな)

 ぼくは友人の熱い想いを、そんなふうに簡単に心のなかで処理してしまった――そう、彼があの後、あのような形で早世するなんて、思いもしなかったからだ。

 それから数年後、彼はロシアのカムチャツカ半島で不慮の死を遂げた――。



 ビーバーは、その機体を小刻みに振動させながら、まっすぐアラスカ山脈へと向かった。厳冬期の一月には珍しく、抜けるような青い空が、マッキンレー山をひときわ勇壮に浮かび上がらせている。

 山脈の麓を流れるチューリット河を越えると、すぐ目の前に巨大な氷河の河口が見えてきた。ルース氷河だった。

 緩やかに蛇行する氷河は、その河幅が一・六キロもある。両岸の岸壁は花崗岩でできており、その壁の高さは一五〇〇メートルに達する。さらに氷の深さは一〇〇〇メートルほどあるらしく、もし氷河がなくなれば、あの有名なグランドキャニオンをも凌ぐ渓谷になるらしい。

 そんな巨大な風景のなかで、ゴマ粒ほどしかないビーバーは、蚊の鳴くような心もとないエンジン音を立てて氷河を遡って行った。

 マッキンレー山から吹き下りる風の流れを巧みにかわしながら、小型機は飛び続けた。そして突然、渓谷を抜け出たと思ったら、豁然として眼界が開けた。そこが氷河の源流だった。

 天候の急変を嫌う飛行機は、荷物を下ろすと、残される者の不安な気持など気にもかけないように、すぐに飛び去って行った。

 ビーバーが視界から消えると、氷河源流は完全な静寂に包まれた。深い海の底にでもいるかのように、自分の息遣いしか聞こえてこない。

 残された荷物とぼくの周りには、五〇〇〇メートルに達する山並が聳え立ち、その先には六〇〇〇メートルを超える北米最高峰のマッキンレー山が見える。それらが、ドン・シェルダンの円形劇場と呼ばれる氷河源流の荒漠たる氷雪盆地をグルリと取り囲んでいる。

 ドン・シェルダンというのは、一昔前の有名なブッシュパイロットで、アラスカ山脈を知り尽くした伝説の人だ。彼はそのなかでも特にルース氷河を愛したという。その証として、彼は誰も想像もつかない形で、その地に遺産を残した。ドン・シェルダンのマウンテン・ハウスとして知られる六角形の小さな山小屋がそれだ。氷河源流の中ほどに、両側を氷河で削られた、魚の背びれのような岩山が付き出ており、何とその岩山の頂上にある猫の額ほどのスペースに、奇跡のような小さな山小屋を建てたのだ。

 日暮れまでの三時間、当面必要なものだけでも小屋に運び上げなければならなかった。暗くなると、小屋にたどり着く最後の斜面の登坂が出来なくなる。足でも滑らそうものなら、そのすぐ下に大きく口を開けたクレバス群に簡単に吸い込まれてしまうからだ。

 荷物のあるランディング地点から山小屋まで、スノーシューを軋ませて急いだ。往復する度に、周りの景色の色調が変わって行った。

 夕日の射光でアルペングローがはじまり、周りの山々が真っ赤に染まった。日が落ち、谷が暗くなると、山脈の上の空の色がブルーからピンクへと変わって行った。その色の諧調が薄れて行くと、ぽつぽつと星が現れ、次の瞬間には全天で星が瞬いていた。

 山小屋は、半年も前の夏に訪れた人が最後だったようで、じっとりと充満した寒気がぼくを迎え入れた。

 急いで湯を沸かさなければいけない。身体が完全に冷えてしまうと、シュラフに包まって寝るどころではない。凍死はしないまでも、ガタガタと震えながら不快な一夜を明かすことになる。

 岩場に張り付いた雪をこそぎ取り、コンロで湯を沸かす。沸騰してもそれほど熱くはならない。気圧が低いから、沸点に達しないのだ。それでも、甘いアップルサイダーを湯に溶かし、ゆっくりゆっくりと喉に流し込むと、疲れも寒さも緩んでくる。甘いアップルサイダーは、亡くなった友人も好きだった。

 一息入れてから、山小屋の外に立ってみた。

 山小屋の東側はそれこそ雪も張り付かない垂直に切り立った断崖絶壁で、誤って落ちたらまず助かる見込みはない。眼下に広がる広大無辺の氷雪盆地の先には、広壮な山々のシルエットが夜の暗黒のなかで巨大な円形劇場を形作っていた。その天蓋に当たるところが空で、空はそのまま宇宙になっていた。

 星々の瞬きは凄まじく、その数も尋常ではない。これまで見たことのない夜空がそこにあった。空の闇という闇に、大小さまざまな星が埋まっているのだ。大げさでなく、闇が占める空間よりも、星が占める空間のほうが勝るのだ。もし誇張が許されるのなら、見上げる夜空が、闇の代わりにすべて星で埋まっているのだ。

「ものすごく星空がきれいなんです。びっくりしますよ」

 友人の言った言葉がよみがえった。彼が言ったことはウソではなかった。いままで行ったどんな処よりも、そこは美しかった。雪と氷と岩だけの、無機質の世界――そのような世界が、人の心をこのように揺さぶる場所は、この地球上にもそうそうないだろう。

 彼が夭折した後、その場所を愛し続けた彼のことを尊び、誰ともなくルース氷河に突き出た小山の一つを「Mount Michio」と呼ぶようになった。

 月光に照らされた「Mount Michio」は、巨大な氷河源流の円形劇場のなかではとてもちっぽけな岩山に見えた。だが、小さな頂に雪をかぶり、その凛とした姿は、在りし日の友人の姿そのものだった。

 気温は低いが、風が止んだ。

 ぼくは手袋をはずし、ポケットからオカリナを取り出した。生前、ぼくがオカリナを吹くと彼は笑いを噛み殺していたが、あれからずいぶん練習して旨くなったんだぞと彼に語りかけ、それからゆっくりと「Mount Michio」に向かって吹き始めた。

 ヘタな音色が氷河源流に響き渡る。だが、これこそが今回やって来た目的だった。これまで彼の招待を放っておいたことを、オカリナを吹いて謝りたかったのだ。

 一曲目は、彼が他界したときに作ったレクイエムで、二曲目は北極圏のカリブーの地を訪れたときに作った曲だった。

 オカリナを吹きながら考えた。なぜあのときぼくは彼の誘いを受けなかったのだろうと……。

 あの時、無理をしてでも彼の誘いを受けていたら、彼はどれほど喜んでくれただろう。彼は、彼が受けた同じ感動を、ぼくにも味わってほしいと思っていたのだ。きっと一生懸命になって準備し、色々なことを話してくれたに違いない。

しかしぼくは曖昧な返事をし続けた。彼はどんなにがっかりしたことか。いまとなっては手遅れで、後悔ばかりが目に溢れ、頬を伝い落ちた。

 三曲目を吹こうと思った。三曲目は、ルース氷河を訪れた思い出に、現地で作ろうと思い描いてたものだ。だが、氷河源流の寒さは尋常ではない。もうこれ以上、手袋なしで立っていることなど出来なかった。ぼくは思わずオカリナをジャケットのポケットに放り込み、山小屋へ取って返した。

 深夜過ぎ、円形劇場の山並の上にオーロラが舞った。緑色の炎が、ゆったりと蠢きながら、星空を染めて行く。

 他界した友人は、こんなところで何週間もキャンプをして写真を撮っていた。人恋しくならなかっただろうか。いやきっとなったに違いない。

 無機質が造りだす究極の美のなかで、それでも彼は満たされないものを感じたはずだ。それは生命という存在で、風に舞って氷河に落ちて来た枯葉一枚を見て彼が感動したように、彼は人恋しくなり、生命が放つ美しさを、生命の気配をまったく感じないこの氷河源流で想ったに違いない。

 誰もが想像もできないほどの美しさをもつこの無機質の世界で、実は最高の美を放っていたのは、もしかしたら彼の存在そのものだったのかもしれない。この茫々たる広がりをもつ氷雪盆地のなかで、ポツンと点のように佇む生命――それこそが最も美しい存在感を放っていたのではないだろうか。

 北極圏のカリブーの移動と、ルース氷河でのキャンプ――この二つの招待を実現させるために二〇年という歳月がかかってしまったけれど、ぼくにとっては最善の『時』が与えられたのかもしれない。

 二〇年前、もしぼくが彼の誘いを受けていたとしても、そのときのぼくは精神的に未熟で、たぶん彼の感動を同じレベルで受け止めることなどできなかったと思う。彼とともに同じ景色を見て、同じ感動をするのに、ぼくにはこれだけの時間が必要だったのだ。彼はもうこの世にいないけれど、いまならば、心から彼に言える――本当にきれいなところですね、と。

 彼の誘いを受けなかったことが、彼の死後、ずっとトゲとしてぼくの心に突き刺さっていた。だけど今、ぼくはこのルース氷河で、彼の言葉通りの感動を受け、さらには生命にこそ究極の美が宿っていることを気付かされた。

 友人の想いと一体になれた気がして、二〇年という時の流れが決して無駄ではなかったと思えることが嬉しかった。突き刺さったままだったトゲが、静かに消えて行くのが判った。



☆「葉っぱ塾」お勧めの本

   星野道夫著 『旅をする木』(文藝春秋社 文春文庫もあり)




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2010年12月14日

小学校での星野道夫写真展へ

 ある町の役場にお勤めのTさんから「町内の小学校で星野道夫さんの写真展があります。おいでになりませんか?」とのメールをいただいたのは1週間ほど前のことでした。

  昨年、寒河江市内で星野直子さんの講演会があったときに初めてお目にかかったのですが、そのことを覚えていてくださって、わざわざご連絡をくださったのでした。在学生や、展示期間中に開催される授業参観日で来校する関係者以外には特に告知はしていないとのことで、昨日はTさん自らご案内してくださったのです。

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<玄関ロビーでの展示>

  玄関を入るとすぐのロビーから展示されていました。Tさんのお子さんもこの小学校に通われているそうで、PTA役員や先生方で展示を準備なさったそうです。この写真展は学校向けに作品を無料貸し出ししている制度に申し込んで実現したもので、Tさんが申し込みや学校への働きかけなどでご尽力くださったようでした。

  はるか何千キロも離れたアラスカからの風が、山形の小さな小学校にも吹き込み、子どもたちの心を揺り動かすのは何と素敵なことでしょうか。

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<星野さんの著書もたくさん展示されていました。>

  展示は玄関ロビーから2階の図書室へと続いています。図書室にはこの期間特別に、星野さんの著書もたくさん展示され、子どもたちが借りられるようになっていました。この小学校の蔵書だけではなく、先生が近隣の公立の図書館をまわって借り出してきたものも含まれていました。

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<2階の展示写真の前で>

  大好きな星野さんの著書『旅をする木』の中に“もうひとつの時間”というエッセイがあり、その結びに次のような一節があります。

    ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、
   もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。
   日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、
   それは天と地の差ほど大きい。


  これほど豊かな自然に囲まれた山形でも、子どもたちの自然離れが進んでいると聞きます。子どもたちだけではなく、親たちも含めてのことなのかもしれません。そんな中で、本当に大切なことに気づいているTさんのような方々が、動きを作り、子どもたちの心の中に小さな種を蒔いてゆくような活動をされたことには、大きな意義があるかもしれません。

  今、学校教育の中では、子どもたちにはすぐに目に見えるような結果を残すこと、教師たちには成果を示すことなどが求められる傾向が強まっています。しかし元来、教育というのは「非効率的」なものであったのではないでしょうか。

  「小さな種」を蒔いても、蒔いた中でいくつ芽をだすのか、また、いつ芽をだすのか、そしていつになったら花を咲かせるのかわからない。日々の教育が血となり肉となってゆけばゆくほど、成果をみることは難しくなる。「いつかきっと」と信じてじっと待つ。そんなものなのではなかったかと思うのです。

  この学校の子どもたちが、アラスカの大地に住むクマやシカ、そしてただそこに広がる広大な大地と氷河の存在を知っただけでも、彼らの心には小さな窓が開くことだろうと思います。その窓の存在にいつか気づき、そこから新しい風景を見る日が彼らにも訪れるのではないか。そんなことを思いながら帰途につきました。

  Tさんのご配慮に心から御礼を申し上げます。また、おつきあいくださった地元のOさんからは校長先生に私の「葉っぱ塾」の活動を紹介してくださり、もしかしたら今後何かつながりができるかもしれない、というきっかけの種を蒔いていただきました。さまざまなお心遣いありがとうございました。



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2010年11月16日

極北二百年祭公園の狂乱〜野生動物と人間の関わり方を考える

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 ☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。

 今回の写真は大山さん提供です。


グリズリーの親子(大山卓悠さん)

<公園の小道を練り歩くグリズリーの親子>


 ぼくの住むアラスカのアンカレッジ市内に、「極北二百年祭公園」という変わった名前の公園がある。

 とにかく大きな公園で、市全体の面積の一割近くを占める広さをもっている。公園のほとんどが太古から手つかずで残された鬱蒼とした森で覆われ、その森の真ん中にはそれほど小さくもない小川が蛇行して流れている。

 小川に沿った小道は、二十年前、冬にカントリースキーを楽しむ人たちのために造られたもので、それが近年、夏場にも開放されるようになった。しかし、夏場にその公園に踏み込む人たちは、ある覚悟をもって臨まなければならないのだ。

 ショーン・バーキーもそのうちの一人だった。

 バーキーの家は公園に面した山の手にある。薬剤師の彼は、公園の反対側に位置する勤務先の病院へ行くのに、天候が許せば、自転車を使った。自転車でその美しい公園を突っ切れば近道なのだ。

 今年の六月中旬、早朝五時過ぎ。彼は自転車に跨ると、いつものように公園を抜ける小道にこぎ入った。

 直線の下り坂を抜けると、小川に突き当たった。小川の流れに沿って道なりに下って行く。小道は小川の蛇行に合わせて曲がりくねっており、あまり視界は利かない。

 バーキーはスピードを上げたまま、幾つ目かの曲がり角を走り抜けた。

 その瞬間、小道の先にクマを見つけた。それは、アラスカでグリズリーと呼ばれる大型のヒグマだった。

 クマとの距離は二十メートルもない。バーキーはすぐにブレーキを掛け、グリズリーとの間に自転車を置き、盾にした。グリズリーは、バーキーを見るやいなや攻撃を開始した。ものすごいスピードで突進し、自転車を難なく跳ね飛ばし、バーキーに襲いかかった。

 彼を打ち据え、地面に転がし、噛みついた。バーキーの耳は引き裂かれ、長い強靭な爪がふくらはぎを切り裂いた。

 と、グリズリーが攻撃を止め、後ろに引きさがった。バーキーはそのまま息を詰めた。そして、恐るおそる顔を上げた。クマが立ち去ったかどうか確かめるためだ。

 しかし、グリズリーはまだそこにいた。距離をとってバーキーを観察していたのだ。クマは再び攻撃的になった。バーキーはすぐさま顔を伏せ、頭を両手で保護して死にまねをした。そのままの姿勢で、今度は数分間動かなかった。
 
 バーキーは恐怖のなかで最善を尽くした。次に顔を上げたとき、そこにグリズリーはいなかった。いつの間にか立ち去っていたのだ。バーキーはふるえながら自転車を引き寄せた。身体じゅう血だらけだった。一刻も早くこの場所から逃げ出さなくては――バーキーは再び自転車に跨り、持てる力を引絞って必死にこぎ続けた。そして自力で病院にたどり着き、一命を取り留めた。

 実はこの公園、クマの事故が起きたのはこれが初めてではない。ほとんど毎年のようにクマとの遭遇事故が起こっているのだ。

 二年前の二〇〇八年には、さらに酷い事故が起きた。自転車の二十四時間レースに参加した十五歳のぺトラ・デイヴィスという女の子が、レース中にクマに襲われたのだ。時刻は夜中過ぎだったが、白夜の続くアンカレッジはまだうす明るかった。

 事故が起こったのは、バーキーがクマと遭遇した場所とほぼ同じところだった。角を曲がったところで突然クマと遭遇した。クマはグリズリーだった。彼女は何とか一命を取り留めたものの、身体じゅうをズタズタに引き裂かれた。生きているのが奇跡のような惨状だった。

 極北二百年祭公園を流れる小川――これが曲者だった。夏になると、この小川にサケが遡上してくる。そのサケを狙って山からクマたちが下りてくるのだ。アラスカ漁業猟獣局の試算では、今年も三十頭から四十頭のグリズリーが公園内を徘徊していたという。

 公園は四方を宅地で囲まれている。ただし、公園の東側は山の手に住居が散在するだけで、そのまま広大なチュガチ山脈に通じている。クマたちはサケの季節が来ると、チュガチ山脈から下りて来て、その小川に集まってくるのだ。その営みははるか昔から行われてきたことだ。

 この公園、あまりにもクマの事故が多いことから、州政府管轄のアラスカ漁業猟獣局は夏場の公園閉鎖、とくに事故が続く小道の利用禁止をアンカレッジ市側に要請した。しかし、アンカレッジ市はその要請を断った。州の要請はさも当然のような気がするが、市には市の考え方があるのだ。

 州と市の対立の構図――市の言い分はこうだ。

「極北二百年祭公園は人造美を一切排除した天然の自然公園だ。その公園の自然を分かち合う市民の権利を奪うことはできないし、また市民の憩いの場所としての存在を、野生動物による事故のために否定することもできない。山で人が落ちて死んだからといって山を封鎖できないように、湖で人が溺れたからといって遊泳禁止になどできないように、公園内で人がクマに襲われたからといって公園を閉鎖することはできない。それは各自の自己責任のなかで決めることだ」

 それに対して、州の言い分はこうだ。

「極北二百年祭公園は、市民の憩いの場所としてはあまりに危険なところだ。とくに夏場にはサケが川を上り、それを求めて何十頭ものヒグマが集まって来る。気の荒い雄グマはもちろんのこと、母性本能の強い子連れの雌グマも含まれる。そんな環境のなかに、二十四時間人間が出入りできるというほうが異常なことだ。少なくとも夏場、小川に沿った小道は通行禁止とするべきだ」

 バーキーを襲ったクマは、後の捜査で、子連れの雌グマと判明した。デイヴィスを襲ったクマは特定できなかったようだが、はち合わせて驚いたクマが襲ったのだろうということになった。どちらのクマも捕食性はなく、人間が無抵抗になった時点で引き上げている。動物管理局は、いずれの事故もクマに罪はないとして、捕殺行動には出ていない。

 公園の管理権をもつ当のアンカレッジ市長は、コメントを求められて次のように語っている。

(新聞社)「市長、あの公園を夏場には閉鎖すべきとの意見が出ていますが?」

(市長)「それはできない相談だ。あの公園は市民が憩う場所で、自然と野生を満喫できる権利を人々から奪うことなどできない」

「しかし、クマの事故は多発してるし、あまりにも危険なのではないでしょうか?」

「それは自己責任によるものだよ」

「市長はあの公園を利用したことはあるのですか?」

「まだないけれど、いずれは訪れてみたいと思っている」

「どのような自己責任を考えているのですか?」

「私なら、銃をもって入るね」

「どんな銃ですか?」

「なるべくでかいヤツがいいだろうな」

 これは創作でもなければジョークでもない。正真正銘の、公になった市長のコメントだ。このコメントを聞いて唖然とするのはぼくだけではないだろう。市内に設けられた公園を歩くのに、自分の身を守りたいなら、それなりの武器を携行しろと言っているのだ。ぼくが日本人だからなんだろうか、市長の哲学にはちょっとついて行けない。

 バーキーの事故から二週間後、友人二人とアラスカ先住民文化センターを訪問した帰りに、たまたまその公園の前を通りかかった。

「……といういわくつきの公園なのだけれど、ちょっと歩いてみる?」

 友人の一人は写真家で、南東アラスカを中心に森の写真を撮っている。もう一人の友人は、十数年前にクマの事故でご主人を亡くされ、いまは亡きご主人の写真の管理をされている。その二人に事故の次第を話し、それでもいいかと尋ねてみた。

「行ってみましょう」

 二人とも、臆することなく快諾した。

 公園入り口を入るとすぐに小川が流れており、そこに架かる木製の橋を渡ってしばらく行くと、問題の小道があった。「ローバーズ・ラン」と書かれたプレートが小道の入口に立っている。そして、そのプレートのすぐ下に、クマの事故が起こったばかりだという警告書が貼られていた。

 その警告書をしばらく眺めていると、突然後ろから声を掛けられた。公園に散歩に来た中年のアメリカ人夫婦だった。

「この小道だよ、事故が起こったのは。あんたたち、銃を携帯していないのなら、しばらくこの小道は使わないほうがいいよ」

 そういった男性の胸には、四五口径もありそうな銃身の長い大きな拳銃が、剥き出しのまま革のベルトで止められていた。

「私たちはこれから小一時間ばかり森のなかを散歩をするけれど、銃をもっていないのなら私たちの後ろをついてきてもいいよ。クマは厄介だけれども、森のなかはきれいだからね」

と親切に言ってくれた。

 しかし、ぼくたちはそれぞれ顔を見合わせ、森に分け入るのを止めようと、目で了解し合った。剥き出しの大型銃があまりにも現実的で、興味半分で歩きまわるところではないと判断したからだ。クマの姿は見たいものの、やはりちょっと気持ち悪いものがあった。その中年の夫婦の申し出を丁重に断ると、ぼくたちは言葉少なに車に引き上げた。

 自然とどのように向き合えばいいのか、このアラスカにも混乱がある。野生動物とは一定の距離を置くというのが原則としてあるが、自然を愛するという人にかぎって、その野生に近づき過ぎてしまう嫌いがある。戦場で自分だけは弾に当たらないと兵士が思うように、自然を愛する人には野生動物も危害を加えることはないとでも思っているのだろうか。しかしそれはあまりに楽観的過ぎる。というよりも、野生を甘く見過ぎているように思う。

 野生は、人間社会とは異なった秩序で成り立っている。それは捕食という基本的なルールで、食物連鎖の次元が高いものから順に下のものを食べて行くという原則的な秩序が厳然として存在する。そこに人間の入り込む余地はない。もし人間にできることがあるとすれば、野生のルールに合わせることぐらいだろう。人間が野生のルールを変えることなどできないのだ。

 三十万都市のアンカレッジ市のなかに、極北二百年祭公園のような自然公園が存在すること自体が驚異で、これは間違いなく世界に胸を張って誇れるような環境だと言っていい。問題はその公園と、またその公園を生活圏としている野生動物と、どのよう向き合って行くかということだ。その解決法なしには、夏場に公園を開放するのは間違っていると思う。

 解決法の一つ――たとえば、自然を、その公園を愛する人の利用する小道は、自然を破壊しない程度に、また別に造ればいいのではないかと思う。小川の傍の小道は、そこを生活圏とする野生動物たちのもので、人間のものではない。その点を自覚する必要がある。小川から距離をとったところに人間用の拓(ひら)けたトレイルを作り、さらに小川とそのトレイルの間は見通しを良くするなどの工夫をすればいい。そうすると、人間も、野生動物も、お互いが距離を置いてその行動を観察できるようになる。出会いがしらの事故はなくなるだろうし、子グマに近づいてしまう過ちも減るのではないかと思う。

 州と市のいがみ合いは今後も続くのだろうか。美しい自然と手つかずの野生。そして人間との共存。これらがハーモニーを奏で、極北二百年祭公園が世界に比類なき公園として確立される日が来ることを、祈るような気持ちで見守っている。
                            (転載終わり)

  ********************************

 クマの出没が相次ぐ今年の日本のことと重ね合わせながら拝読していました。



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2010年11月02日

「送友人」〜ひさびさに、アラスカからの風

※「葉祥明言葉カレンダー2011」、「日本フィル音楽猫カレンダー2011」購入のご案内はこちらです。


☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。

 今回の記事に使用した写真はアラスカとは関係がないもので、私が長井市周辺で最近撮影したものです。


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<初冠雪の長井の「西山」>



青山横北郭 白水遶東城(青山北郭に横たわり 白水東城をめぐる)
此地一爲別 孤蓬万里征(この地ひと度別れをなし 孤蓬万里にゆく)
浮雲遊子意 落日故人情(浮雲遊子の意 落日故人の情)
揮手自玆去 蕭蕭班馬鳴(手を揮って茲より去る 蕭蕭として班馬鳴く)

  いまの中国は、その政治形態のせいで、まったくつまらない国になったが、さすが世界の四大文明の発祥の地だけあって、昔の彼の地には素晴らしい文化が培っていた。

  この五言律詩は、唐の李白の作で「送友人」という。ざっと、以下のような意味だ。

  青々とした山は北の町はずれに横たわり、白く波立つ川は城の東をめぐり流れる。ここで君に別れを告げるが、別れた後の君は、たった一人、よもぎ草が風に吹かれて平原を転がるように、遠い旅を続けるのだろう。あの空に千切れて飛ぶ雲は旅する君の心であり、西に沈む夕日は名残り尽きない私の気持ちだ。握った手を振り切って、君はいよいよここから立ち去って行く。その心を知ってか、別れる馬までが悲しげにいなないている。


「こんにちは! おじゃまします」

  彼はいつもこんな風に声をかけ、決まって裏庭から家に入り込んできた。手土産にワインは毎度のことだ。

「ちょっといいワインを見つけたもんですから」
 
  彼はそう言いながら、ずかずかと我が家に入り込み、お定まりの椅子に腰掛ける。

「私から本とコーヒーとワインをとったら何も残りません」

と、なかなかしゃれた哲学をもつ、ちょっぴりかっこいいオヤジなのだ。ぼくより三、四歳年上で、若いころはヨットと登山をやっていただけあり、筋肉質で、身長も一七五センチはあるだろう。魚釣りが三度の飯より好きで、片道五時間も六時間もかけて歩くような、アラスカの辺鄙な山のなかの湖へも、竿を片手に平気で出かけて行く。

「いやー、クマが多くてね。どこもかしこもクマの糞だらけなんですよ。魚ですか? トラウトの入れ食いです。アラスカにはまだあんな場所が残っているんですね。本当に素晴らしい処だ。一生でも、二生でも、三生でも、アラスカに住みたいですよ」

  大学を出て役所に勤めたものの、山登りがたたって仕事を辞め、奥さんと子供を捨てて海外に飛び出したのだという。ニュージーランドを皮切りに、東南アジア、中東、ヨーロッパ、アメリカと渡り歩き、最後にこのアラスカの地を終の棲家と決めたらしい。彼にとっては、三十年以上をかけて辿り着いた人生の終着駅だった――はずだった。

  彼と付き合いはじめたのは数年前のことだ。そのとき彼は、世界の主要地で事業展開する鉄板焼きレストラン・チェーンのアンカレッジ支配人だった。その年の夏、その会社のマネージメント会議がアラスカで開催され、世界中から会社の主だった連中が集まってきた。彼は采配を振るい、その会議を取り仕切った。そのときぼくは、会議の中日に、アラスカを紹介するスライドショーを彼から依頼された。それが彼と付き合いはじめるきっかけだった。
 
  その夏の会議が終わって間もなくして、彼は仕事を辞めた。会社のやり方がどうしても気に食わないのだという。アンカレッジ支配人という肩書を、彼はいとも簡単に捨て去り、街のレストランのシェフに収まった。

「もともと私はフュージョン料理が専門ですから、その手の料理はお手のものなんです」

  彼の変わり身の速さと、それまで築き上げてきた職に執着心をもたない大らかさが、ぼくのなかではちょっとした驚きで、彼を遠目に見ながら少しずつ彼の性格を受け止めて行くようになった。

  街のレストランは、夏の観光シーズンが終わるとレイオフがはじまるとかで、彼は秋になるとさっさとその職を捨て、今度はアンカレッジからクルマで一時間離れたリゾート地にあるホテルに転職した。そのホテルにある日本食のマネージメントを任されたのだという。だが実際に仕事がはじまると、人手不足もあり、彼は寿司シェフとして板場に立つようになった。

「寿司も握れるんですか?」

 ぼくは冷やかしも兼ねてそのホテルへ行き、彼に恐るおそる尋ねた。

「寿司は得意中の得意芸です。まあ座って食べて行って下さい」

  彼は堂々と言い、ぼくは半強制的に「お任せ」メニューを食べさせられた。しかし、その味は本物だった。ぼくも日本食のレストランを経営したことがあるので、この手の仕事には目の肥えたものがある。味にもうるさい。だが、目の前で展開する彼の仕事ぶりは一流だった。和食に関しては、文句なく、アラスカ一の腕前だと思った。口に出して驕ることがないので、彼の正体のすべてを知ることはできなかったが、こういう人は何をやらせても本物を追求するのだろうと思わされたものだ。

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<縄文村にある中里堤の紅葉>

  彼の生活は多忙だった。仕事が終わるやいなや、夏は釣りに、冬はスキーにと飛び出して行った。彼の年齢を感じさせない行動に、ぼくは半ば呆れていた。

  ひと月に一度来るか来ないかの割で、彼は我が家にやって来た。来るときは必ず極上のワインを持参した。

「ワインはフランスのものしか飲まないんですよ」

 ボルドーを飲むと、

「ボルドーはこのように味が濃くて上品ですが、私はむしろブルゴーニュのさっぱりとしたもののほうが好きなんです」

と言って、次からはブルゴーニュのピノ・ノワール系のワインを暫くもってくる。そして、また暫くすると、

「最近はヨーロッパの気温も上昇気味で、フランスよりもイタリアの北部の方がいいブドウが出来るんです。イタリアものは、ちょっとしたダークホースですよ」

 そう言いながら、ワインをテーブルに置く。無造作に置かれたワインを見て、ぼくは目を見開き、瞬いた。

「……これって、もしかして『バローロ』じゃないですか?」

「そうですよ。今日はこれを飲んでみましょう」

  彼はそれがどうしたとでもいう風に、いつも通りワインを注いでくれる。しかし、『バローロ』といえば、ワインの王様と呼ばれる極上中の極上モノだ。めったやたらに飲めるものではない。『バローロ』に限らず、彼がもってくるワインは、そのすべてが高級ワインなのだ。いつも一〇ドル、二〇ドルのお手頃ワインしか飲まないぼくにとっては、まったく別世界の飲み物だ。

「ワインは値段で決めるものではありません。これだというワインがあったら、カネに糸目をつけてはいけません」

  彼のワイン哲学である。カネがなくて安いワインしか買えないようなとき、そんなときは彼はワインを飲まないのだそうだ。何でもいいから酔っぱらえばいいと思っているぼくとは、根本的に違うのだ。

  ぼくにとっても、彼にとっても、久々の呑み友達の出現は、何とも嬉しいものがあった。時が経ち、お互いのなかに他人行儀がなくなると、彼は次第に自分の内面を語るようになった。それまでの肩肘張った言い方は影を潜め、肉体の衰えや生きる不安など、歳を経ると直面する当然の悩みをポツリポツリ話しはじめた。

  二人の間に、ようやく気を許すものが芽生えはじめた頃、ちょうど冬の最中だったが、彼が突然やって来て、「死にたい」と漏らした。

  話を聞いてみると、人生のすべての歯車が狂ってきたのだという。親子ほどの歳が離れた彼女から別れ話を持ち出され、勤めていたホテルからレイオフを受けた。投資を受けて新たにはじめようとしたレストランの計画は頓挫し、持病の腰痛がひどくなって夜も寝られないという。挙句の果てには、長く暗い冬を一人で過ごすうちにうつ病になってしまい、もう一歩も前に進めないと暗く嘆いた。

「私は若いころから一流になることを目指して来ました。ヨットも山も、ビジネスも、すべてのことに関して、人よりも抜きんでていました。しかし、いまこの歳になって振り返ってみると、すべてが一流半で終わってしまっていた。二流で終わったものは一つもないんです。でも、かといって一流にもなれなかった。何よりも絶望したのは、この歳です。私はもうこんなに歳をとってしまった。ずっと若いつもりでいました。歳をとって来ても、若い者には負けない気概できました。でも、もういけません。身体が言うことを聞かないんです。横になると痛くて寝れなくて、一人で過ごす夜の闇が怖くて、このままどこか深い淵に沈んで行くんじゃないかと思うと、もうこれ以上生きていても仕方ないと思うようになって来たんです。生きてて何の役に立つんだとね……」

  彼の話し方は、暗く、落ち込んだものだった。話を聞くだけ聞いて、何とか希望を見出せる方向に導いていかなければと思った。彼にキリスト教会を勧めてみた。すると彼は意外にも、

「行ってみたい」

と言った。彼はミッション系の大学を出ており、在学中は、授業でだが、よく聖書を読まされたらしい。でも、神を信じるところまでには至らなかったと言った。

「でも、いまは違います」

と彼は言った。私を救えるのは、もう神様しかいないことが自分でもよく分かるというのだ。それから彼は熱心に教会に通うようになった。そして、聖書に書かれているみ言葉が心に染みるようになってきた。しかし、そのときすでに、彼は何かを決心しているようだった。しきりに、

「もう少し早く神様に出会いたかった。あと十年、いやあと五年早く神様に出会っていたら、何とかなっていたのに……」

と後悔を口にした。そんな彼に、ぼくはできるだけ励ましの言葉をかけた。

「神を信じるのに、遅い早いはないんですよ。その人その人に神の計画があり、また時があるんです。あなたはこれまで大きな回り道をしてきましたが、それも神様のご計画だったのではないでしょうか。ここまで回り道をしなければ、あなたは神に立ち返れなかったのかもしれません。いまこうして時が与えられ、やっと神と共に歩む機会が与えられたんです。人生はこれからですよ。あなたは一人ではない。これからは一緒に生きて行きましょうよ」

  彼は聖書のなかから二つのみ言葉を口にした。一つは、

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」

という新約聖書のマタイ伝にある言葉だった。もう一つも新約聖書に書かれてある言葉で、これはヨハネ伝にある言葉だった。

「わたしは世の光です。わたしに従うものは、けっして闇のなかを歩むことがなく、生命の光をもつのです」

  彼はこれらのみ言葉を何度も口に出し、「ああ、いい言葉だな。信じたいな」と言った。しかし、それでも彼は、いまに至って漸く神を信じることになった運命を悔やんだ。そして、悲しそうな顔をした。

  ぼくはそんな彼を傍で見ながら、楽観していた。もう十年早く神を知っていたら献身して牧師にでもなれたのにと、彼はそんなふうに思って後悔しているのだろう――ぼくはそんな誤解をしていたからだ。

  だが彼は、いつも全部を言わない人だった。すべてを包み隠さず吐露するタイプではなく、胸中に隠しもっているモノが常にあって、あるとき何かを知ったり悟ったりすると、その隠しもっているものと結び付けて、自分で勝手に結論を下してしまうタイプだった。自分の下した結論に疑問をもったり、そこに客観性を挟んだりすることのできない、ソンな性格だったのだ。


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<長井市内の最上川で越冬するハクチョウたち>


  そのような傾向があることに気づき、少しばかり不安を抱きながら彼を見守っていたのだが、ある日その不安が的中してしまった。彼が失踪したのだ。

  彼はアラスカから突然いなくなった。八方手を尽くして探してみたが、彼は消えて無くなるようにアラスカからいなくなった。誰にも気づかれずに自分の身を隠すのが男の美学だと信じていたのか、失踪の可能性をほのめかしていたものの、結局、誰にも何も言わずにこの地を去って行った。

  彼の昔の同僚にも当ってみた。するとその人は、もしかしたら彼は東南アジアのタイかベトナムに行ったのかもしれません、と言った。人生もいよいよとなると、タイの奥地に行って、誰にも知られずに死にたいんだとよく口にしていたからだと言う。そういえば、ぼくにも以前そんな話をしたことがあった。ぼくは冗談だと思い一笑に付したが、彼はそのとき真剣だったのだ。

  アラスカで思い描いていた夢が一つひとつ潰れて行き、連れ合いに去られ、暗い冬を一人で過ごし、鬱になり、死の影がちらつくようになると、身体の痛みも堪えられないものになったに違いない。

  彼が一度、自殺するならどんな方法がいいですかね、と訊いてきたことがあった。ぼくは即座に答えた。「いい方法なんて一つもないよ。聖書は、自殺をしたら地獄に落ちると書いてある。もし天国に行きたいなら、そんなことは考えないことですよ」
 
  彼が姿を消す前に、短期間ではあったが、彼は聖書のみ言葉に触れた。そして、神の霊の導きがあった。いまはその事実だけが救いだ。彼のなかの理屈では已む無く去ったこの地だが、紛いなく神の光に照射されたのもこの地だ。いまどこに身を隠しているのか分からないが、願わくば世の光であるキリストと繋がっていてほしい。キリストに従う者は、彼が何度も口にしていたように、けっして闇のなかを歩むことがなく、生命の光をもつのだから。これは聖書の約束であり、神の栄光がかかっている言葉なのだから――。

  「青々とした山は北の町はずれに横たわり、白く波立つ川は城の東をめぐり流れる。ここで君に別れを告げるが、別れた後の君は、たった一人、よもぎ草が風に吹かれて平原を転がるように、遠い旅を続けるのだろう。あの空に千切れて飛ぶ雲は旅する君の心であり、西に沈む夕日は名残り尽きない私の気持ちだ。
握った手を振り切って、君はいよいよここから立ち去って行く。その心を知ってか、別れる馬までが悲しげにいなないている」

  ぼくはまた、尊い友を一人失った――。


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2009年09月23日

紅葉のアラスカ、一片の雪

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<ワンダーレイクから見たマッキンレー(デナリ)山>
  (写真提供:大山卓悠さん>


☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。

 アラスカは、紅葉から雪の季節へと移っているようです。

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 秋の紅葉を見に、デナリ国立公園に出かけたのは、九月の初めだった。四国ほどの大きさをもつこの国立公園は紅葉のピークを迎え、広大なツンドラの大地はどこまで行っても、ものの見事に赤く染まっていた。

 それから三週間――。アンカレッジにも秋が来た。市内の山の頂は初冠雪し、風が急に冷たくなった。市内を埋める白樺の葉は、昨日今日でいっせいに色づき、街は黄金色に染め上がった。ツンドラの大地がないアンカレッジでは、秋の色といえば黄葉。原野は黄色一色に染まるのだ。

 夏から秋に変わる美しい瞬間を目で追いながら、アヌーカさんに紹介されたmixiの漢字テストをやってみる。しかし何度挑戦しても、二十問に届くか届かないかで終わってしまう。漢字を読むだけのテストなのに、こうも読めない漢字があるなんて、いままでどんな読書法をしてきたのだろうと、大いに反省させられた。

 しかし、待てよ――しばらく頭を冷やした後に、一寸考えてしまった。日本人として、読めない漢字があることは教養の欠如であることに違いないが、読めなくてもいいような漢字が出てくることは、出題者の意図を疑ってしまう。少し意地が悪いような気もするのだ。

 「南瓜(カボチャ)」や「不束(フツツカ)」などは、なるほどなるほどと、読めない自分が悪いのだと素直に反省させられるが、「樹懶(ナマケモノ)」とか「飯匙倩(ハブ)」とか「馴鹿(トナカイ)」などは「カタカナ」表記でいいではないかと思ってしまう。日本の寿司屋に行くと、魚偏に何とかと書いて、さまざまな魚の名前をあてがっているが、あれと同じで、読めても読めなくてもいい当て字のような気がする。因(ちな)みに、ぼくが学んだ東京水産大学(現東京海洋大学)では、魚の名前はみなカタカナ表記だった。

 紅葉で燃えるデナリ国立公園のシャトルバスはほぼ満席だった。ぼくのすぐ後ろの席には日本人と思われる若いカップルが座っていた。小声で話し合っているので、はじめはどこの国の人だかわからなかったが、山裾にダル・シープ(山ヒツジ)が現れたとき、トーンの強まった日本語が聞こえてきた。

「みてみて、しんじられな〜い! いっぱいヒツジがいる〜。 いっこ、にっこ、さんこ……。ワ〜、ぜんぶで五こもいる〜!」

 山ヒツジを、一個、二個、と数えるそのご婦人は、クマの親子が現れたときにはこう叫んだ。

「ワ〜、しんじられない! 大きいのが一人でしょ。そして小さいのが二こでしょ。ぜんぶで三こもいるぅ〜!」

 ぼくはアラスカに暮らしはじめて二十年以上になる。ときどき日本語が怪しくなるが、それでもヒツジやクマを一個、二個と数えたりしない。「匹」を口語で使うこともあるが、やはり普通は「頭」を使う。ヒツジもクマも、一頭二頭と数える。学校でそう学んだからだが、いまの学校教育ではそんなふうな数え方を教えないのだろうか。

 カンジキウサギが現れたときも、そのご婦人はキャーキャーと奇声を発しながら、一個二個と数えていた。一羽二羽とは数えないのだ。周りはぜんぶ外国人だったので、別段恥かしくもなかったが、なかには日本語を流暢に操る外国人の方もいらっしゃる。もしそんな知識人と同席をしていたら、ぼくは赤面の至りだっただろう。

 インターネットの力はすごい。可能性はまだまだ未知数である。漢字のテストにしても、インターネットならではの面白さがある。出題者が深い知見で臨むなら、閲覧者はゲーム感覚で相当な知識が身につくかもしれない。参加するみんなが意見を投稿し、どんどんと改善をして行けるのもいい。シャトルバスで同乗された御二方(おふたかた)には、少なくともそんな遊びに加わっていただきたい、といらぬ節介をしたくなる。

 ファイヤーウィードの花びらが散って、約ひと月、山の頂上に雪が降った。これから雨が降るたびに、山の雪線は少しずつ麓へと下がって来る。そしてある日突然、山も街も白一色で埋め尽くされる。

 今年の冬は寒いのだろうか。長く、暑い夏を経験したあとでは、冬への実感がまだ湧いてこない。一片(ひとひら)の雪を、一個二個と数えないよう、ぼくももう少し漢字の読みを勉強することにしよう。




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2009年08月24日

夏は終わり? 雪が降るの?

7ebfe3b9.jpg☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。ヤナギランの写真も大山さん提供。


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 夏が終わりに近づいてきた。

 ――と思う。ファイアーウィード(和名ヤナギラン)の花がすでに散ってしまったからだ。

 ファイアーウィードというのは、アラスカでは秋の到来を告げる野花で、ピンク色した三角錐の花の房をもっている。可憐な花びらは房の下の方から開花し、時間の経過とともに上に向かって花開いて行く。

 そして房のてっぺんが開花し、最後の花びらが落花すると、それから二週間後には初雪が降るとアラスカでは言い伝えられている。ファイアーウィードはアラスカの四季の変化を指標する、美しくもはかない運命をもった花だ。ところが今年はその働きまでもが狂わされている。

 今年のアラスカは五月からずっと暑く、ファイアーウィードは、普段よりも早い時期にあちこちで狂い咲きした。ここにも咲いている、あそこにも咲いているというほど、普通は目にしないような場所にも咲き乱れているのだ。

 そしていま、近所に咲き乱れていたファイアーウィードの花びらはみな散ってしまった。言い伝え通りならば、これから二週間後に初雪が降ることになる。しかし、この陽気では到底雪が降るなんてことはありえない。今月に入ると雨の日が多くなり、少しずつ肌寒さを感じるようにはなったものの、この陽気で雪が降ったら、それこそ天変地異になる。八月の終わりに冬がやって来たら、それこそ氷河期である。

 自然のサイクルが、変調をきたしているのだろうか。今年は、ただたんにファイアーウィードが早く咲きすぎたのだと思うが、それにしてもこんなに早く花が散ってしまうなんて、たぶんアラスカに住むようになって初めての経験だと思う。

 だいたい自然のサイクルが狂うことはそうそうあるわけではない。自然のサイクルがおかしくなるということは、何か普通ではないことが起こっているということで、もしかしたら現生人類が今までに経験したことがない何かが近いうちに起こるのかもしれない、などと思ってしまう。大げさな言い方だが、過去、地球が変化するとは、そういうことだったようだ。

 いま騒がれている温暖化のすぐ後に氷河期が来るのはまず間違いないようだし、北極と南極の磁極の逆転も過去一千万年の間に五十回も起きているという。地球が赤道まで凍って、地球全部が氷の塊(全球凍結)になったことも何度かあるらしい。

 生命の絶滅も、過去、何回か経験している。六千五百万年前に恐竜が滅んだことは誰でも知っていることだが、そのもっと前、二億五千万年前の二畳紀には、何と海洋生物の九十パーセント以上が地球から姿を消している。五億年という気の遠くなるようなスパンでみると、大量絶滅は十三回にものぼるらしい。

 いま漫然と暮らしているこの地球には、過去、さまざまな出来事があった。今日ある平安は明日もある、と思いたくなるのは人間のもつ保守性だろう。人類は楽観的な性質をDNAのなかに埋め込まれたことで困難を乗り越えてきたことも事実だと思う。しかし、どんどんと変貌を遂げる宇宙に歩調を会わせるかのように、この地球が刻々とその様相を変化させていることを思うと、今日ある平安が、明日にはなくなることもまた事実なのだ。

 人はこの地球上で何のために生きているのだろう――若い頃から解けない疑問の一つだ。五十年という人生の時を経ても、いまだにその解は見出せない。当然だろう、人類誕生以来、連綿と発せられ続けた問いかけだ。人間の存在自体が、永久に解けない疑問のなかにあるのだから、その人間が何のために生きているのかなんて判るわけがない。

「お〜い、今夜は何を食べる?」
「あるものでいいんじゃない。買いに行くのも面倒だし」

「あるものって、何があるんだよ?」
「わかんない。冷蔵庫のなかを覗いてみてよ、何かあるでしょ」

「何もないよ。ないから訊いてんじゃん」
「あ、そう、困ったわね」

 愚妻とこんな会話を交わしながら、今日も一日が過ぎてゆく。いつかこの地球から人類が姿を消す時が来るというような危機感もなければ、何のために生きているのかなんていう哲学も、実生活のなかには入り込む隙間がない。

 食べて、寝て、また起きて働いて、たわいのない会話のなかに笑いを見つけ、そうして時は過ぎて行く。こんな不思議な空間に地球は浮かんでいるのに、生命というこんな不思議なものを与えられているのに、人間は日々の生活をこなすことに忙しく、いつまでたっても人間存在の本質を見極めることができないでいる。創造主のなすがままである。



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2009年05月01日

アラスカに春がやってきた!

☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。


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アラスカに春がやってきた!

 先週末、アンカレッジに何百何千という渡り鳥たちが帰ってきた。「マザーグース」でおなじみのギースたちだ(グースは単数形で、ギースはその複数形)。

 アラスカの人たちにとって、ギースは春の到来を知らせる最初のサイン。アラスカはまだ寒くて湖の大半は凍っているけれど、ギースたちは確実に春を感じとって帰ってくる。ギースが姿を現せば、もう春はすぐそこに来ているのだ。長い冬を耐え忍んできた人々は、上空から舞い降りてくるギースの群れ見ると、重い鎧をいっきに脱ぎ捨てたような気分になる。

 キャビンフィーバーと呼ばれるうつ病の蔓延。そして若者の自殺。暗くうっとうしい冬のアラスカは、人々の心を負の遺産で埋め尽くして行く。だから極北の人々にとって春の到来は、生命のともし火に新たな力を注ぎ込んでくれる、大切な瞬間なのだ。

 渡り鳥たちは、誰からその術を教えられたのか、生命の営みを続けるために、正確に時を選び、確かなルートを選択して渡りを繰り返す。アラスカに住む前は、フクロウやミミズクのような夜行性の種は別として、鳥は夜には飛ばないものだと思っていた。ところがここアラスカに来てわかったことは、季節移動をする鳥たちのほとんどが夜を選んで旅立つということだった。

 春、アラスカにやってきた鳥たちは、それぞれの選びの地で営巣をし、小さな生命を生み出す。夏中かけて子供たちを育み、秋までたっぷりと栄養を取って体調を整え、冬が来る前に飛び立って行く。それが毎年、当然の儀式のように行われる。この地に住む者にとっては、渡り鳥たちが帰ってくると確かな春を感じ、彼らが去ると間違いのない冬の到来を知らされることとなる。いったいその正確性はどこから来るのか。彼らの行動原理は、長い間、謎につつまれていた。

 渡り鳥たちが移動を決める引き金となるものが何かは、まだはっきりとは解明されていないという。旅立ちを決定する本能を刺激する要因、たとえば「太陽光線の傾斜角」、「天候の変化」、「ホルモンの分泌」など、さまざまな要因が議論されている。だが、いまだに決定打はないらしい。「餌の不足」は渡りの引き金にはならないという。と言うのも、もしいまいる場所の食料が不足すれば、もっと食べ物がある隣に移ればすむ話で、季節移動という大掛かりな決定には直接関係しないのだそうだ。

 実際、長い距離を飛ぶ鳥たちは、その移動を可能とするためにたっぷりと体のなかに脂肪を蓄える。小型の鳥だと、季節移動を始める前に、体重が二倍にも増加するという。グースのような大型の鳥がここまで肥え太ると自身の体重で飛び上がれなくなるが、それでも均衡を保ちながら充分な脂肪を蓄えるのは同じだ。そして飛びながらゆっくりと脂肪を燃焼してエネルギーに換えていく。

 移動の時期が近づくと、彼らは一ヶ所に集まって群れを作りはじめる。集団になるのは、外敵から身を守る防御本能によるらしい。単独で行動するより、集団で行動するほうが生き延びる確率が高いからだ。

 しかし、彼らがそうまでして生き長らえようとする力は、いったいどこから来るのだろう。彼らと同じ空間に住んでみると、生存本能の一言では片付けられない、何か荘厳で重厚なものの存在を感じてしまう。

 いよいよ飛び立つ「時」がやって来ると、彼らは上空を流れる風を読むのだそうだ。風向きが、彼らの最後の決断を即すのだ。彼らが飛んで行く同じ方向に風が吹くまで、じっと待ち続ける。そして待ち焦がれた風が吹きはじめたある日、彼らはいっせいに夜の空へと飛び立って行く。彼らがあえて夜の旅立ちを選ぶのは、ワシやタカなどの外敵から身を守る知恵によるのだという。鳥たちは、心細い月の明かりと星の位置を頼りに、可憐な翼で夜の闇をかきながら進んで行くのだ。

 海を渡りのルートに選ぶ鳥たちが風を読み違えると、そこには生命の終焉が待ち構えている。嵐や強い向かい風に遭遇すると、避難する場所のない海上では、鳥たちは体力を使い果たし次々に海に落下して行くのだという。

 人間が長い時の流れのなかで風を読み違えたとき、いったい誰に助けを求めればいいのだろうか。すべてが偶然の産物だとはとても思えないこの世界で、人は何に向かって進んでいるのだろう。ぼくは時々、この世界の存在がとても不思議に思える。

 木々の若葉が芽吹くには、まだあとひと月ばかり必要だろう。気持ちを切り替えながら、いま少し冬のなごりを楽しんでみようかな。    (2009.4.24)




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2008年11月27日

未来を見通せる人々〜アラスカ

☆アラスカ在住の大山卓悠(おおやま・たくはる)氏から、貴重なご意見が届けられました。大山さんは写真家・星野道夫さんの友人で、星野さんが亡くなられたヒグマによる事故の原因を究明した『星野道夫 永遠のまなざし』の共著者のおひとりでもいらっしゃいます。

 目先の「給付金」を出す出さないでゴタゴタしている日本ですが、本当に未来を見据えての政治をやってもらいたいものです。ミクシイの日記から、ご本人の承諾をいただき転載いたします。

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■未来を見通せる人々・アラスカ      大山卓悠(おおやまたくはる)


 二〇〇八年十一月の選挙は、マスコミの既報通り、アメリカの歴史に残るものとなるだろう。

 特に大統領選挙は、選挙戦の前半は民主党のバラク・オバマとヒラリー・クリントンとの間で熾烈な指名争いが繰り広げられ、米国民のみならず、世界中の人々が固唾を飲んでその成り行きを見守った。

 選挙戦後半は、ブッシュ政権に続いて連取を目指す共和党マケインは、副大統領候補にアラスカ州の現職女性知事サラ・ペイリンを指名。付け焼刃的な選択だと非難されながらも、選挙戦を最後の最後まで大いに盛り上げた。

 そして投票結果は、周知の通り、民主党のバラク・オバマが大勝し、「米国の再建・チェンジ」を掲げ、初のアフリカ系アメリカ人として超大国の舵取りをすることになった。

 とここまではぼくが敢えて書かなくても誰もが知っていることで、マイミクのアヌーカさんも選挙終了早々、詳細を報告されている。

 ただここに、華やかなアメリカの大統領選挙の陰に隠れた、別の選挙があったことを記しておきたい。四年に一度、一部改選という形で行われる上下院議員の選挙のことだ。この改選は、連邦と州の上院下院で行われるので、この改選いかんによってはアメリカの政党勢力が大きく変わることになる。その意味では、むしろ大統領選よりも重要度の高い選挙といえるかもしれない。

 今年のアラスカの連邦改選議員は、上院で一名、下院で一名、計二名が対象となった。

 今回の注目は、議員生活四十年という大ベテランのテッド・スティーブンス上院議員の動向だった。齢八十五。ワシントンの上下院でも最長老の議員となった。これほど長きに渡って権力の中枢に君臨し続けると、その力は絶大なものになる。国の予算配分での発言力も甚大で、ここ数年、アラスカ州が受け取った国庫援助金は、高々六十万の人口しかいない州にしては気の遠くなるほどの莫大な額だった。

 いわゆるインフラ整備のために、国のお金がどんどんとアラスカに入ってきた。津波や大河ユーコンの流れに例えられるほど、次から次へ、これでもかというくらいスティーブンスはワシントンからお金を分捕ってきた。

 アラスカは住みやすさのために急速に変わっていった。特に都市部は建設ラッシュが集中し、例えばアンカレッジ市内には巨大なコンベンションセンターができた。空港の拡張工事がはじまると、間もなく空港の名前が「テッド・スティーブンス アンカレッジ国際空港」と変わった。改装に貢献した上院議員の名前を冠したのだ。

 皆はテッド・スティーブンスを賞賛した。次第に彼はアラスカの救世主として崇められるようになった。その程度は、神にも近い存在に祭り上げられた。二〇〇八年度の改選対象となったテッド・スティーブンスは、躊躇なく立候補を宣言した。上下院議員最高齢という不安材料はあるものの、再選はまず間違いないものと思われた。

 そんなとき、スキャンダルが起こった。

 スティーブンス上院議員が、石油会社から、長年にわたって賄賂をもらい続けていたというものだ。選挙期間中に裁判になり、投票前に有罪が確定した。

 スティーブンス上院議員は、しかし、選挙を降りなかった。無罪を主張し、アラスカの更なる発展を約束した。ただ、彼の主張する「アラスカの更なる発展」は、アラスカ住民、ことにアラスカに太古の昔からすむ先住民の人たちの思いとずれがあることに、彼は気づいていなかった。

 スティーブンス上院議員の対抗馬は、アンカレッジの現職市長マーク・ベギッチ。四十六歳。民主党。

 アラスカは、長く共和党が支配する州だ。スティーブンスの高齢、賄賂スキャンダルはベギッチ候補に有利に働くとしても、共和党の厚い壁までは崩せないと思われた。

 投票日即日開票作業は即座にはじまったが、接戦が続き、翌日もその翌日も勝敗が見えてこない。最後は不在者投票の開票待ちにまでもつれ込んだ。一進一退――日付はどんどんと変わる。当確を公示するには更なる時間を要した。

 そして十一月も半ばを過ぎた頃、漸く決着がついた。

 投票結果は、新人マーク・ベギッチが三五〇〇票の僅差で、現職テッド・スティーブンスを下した。正式な集票数はいまだに出ないが、ベッギジが勝利宣言をし、続いてスティーブンスが敗北宣言をしたことで決着がついた。つい先日のことだ。

 政治嫌いのぼくが、なぜこんなトピックを取り上げたかというと、今回の上院議員選挙を通して、アラスカに住む人たちの目がどこに向けられているのかが、はっきりと見えてきたからだ。ぼくはそのことで胸が一杯になり、本当に嬉しくなった。

 どういうことかというのを、これからお話したい。

 今回の上院議員選挙を振り返るアラスカの投票結果を示した地図が、当地発行の新聞に描かれていた。その地図を見て驚いた。テッド・スティーブンスに票を入れた地域は、アラスカ全体から見るとほんのわずかだったからだ。アラスカ最大の都市アンカレッジの近辺、アラスカ第二の都市フェアバンクスの一部、そして州都のあるジュノーの近辺。そんな狭い範囲の人たちだけがスティーブンスを支持した。残りの広大なアラスカのすべて、日本の国土の四倍もある大地に住む人々のほとんどは、「ノー」をスティーブンスに突きつけたのだ。

 アラスカは確かに広い。しかし、その人口はといえば、たった六十万人しかおらず、それもその半分の三十万人がアンカレッジに集中している。残りの人口も、フェアバンクスやジュノーという地方都市に集中している。だからスティーブンスが大票田を押さえることで再選は確かなものになるはずだった。ここ数年間にばら撒いたお金の力は、アンカレッジから遠く離れた僻地の町や村にも有効のはずであった。スティーブンスに反抗する者がいても、それらを押さえる鼻薬は充分効いているはずであった。

 その「――はずであった」思惑が外れたのだ。

 アラスカの都市以外に住む人々――その多くが先住民族で、エスキモーとインディアンの人々だ。彼らは、目の前にぶら下がっているニンジンには興味を示さなかった。ニンジンを見る代わりに、ニンジンのはるか先に続く未来に思いをはせ、一時的に空腹を満たす愚に走らなかったのだ。

 「今」が満ち足りる手段を耳元で甘く囁かれても、十年後の「今」、百年後の「今」が満ち足りないのであれば、彼らにとっては何の価値もない。甘い囁きは雑音にしか過ぎないのだ。

 テッド・スティーブンスは岩のように堅固な意思をもち、時として人々よりも先を見通す能力に長けていた。利に聡く、企業の重鎮たちと強固な信頼関係を築き上げていくのは、彼にとってそれほど難しいことではなかっただろう。

 ワシントンで発揮する力はカネに変わり、そのカネはアラスカに流れ込み、その恩恵を受けた者たちは彼を祭り上げ、彼の威厳と威信は存分に増し加わっていった。

 しかし、彼の根底には、いつの日からか私欲が渦巻くようになった。そして彼の周りには、その私欲に群がるコバンザメのような輩が、着きつ離れつ蠢くようになった。

 彼の経歴を見ると、決して順風漫歩の人生ではなかったことが判る。二十歳で従軍し、空軍でパイロットとして戦闘に加わっている。戦争が終わると大学に進み、苦学をしながら弁護士として社会にでる。若い頃はさぞ正義感に燃えた人物ではなかったかと思う。政治家に転身し、最初の奥さんを飛行機事故で亡くした。そのときの悲しみ、絶望感は幾ばくであったろう。しかし彼はある時点から変わった。権力を握ったものが堕ちて行く、なだらかな甘い蜜が漂う坂道に歩を進めたのだ。

 テッド・スティーブンスは、ブルックス山脈の北東に広がる北極圏野生生物保護区の油田開発を強力に推し進めようとしていた。油田を開発すれば、そのロイヤリティーが入る。金額としては莫大なもので、地域によればそこに住む一人ひとりが一晩で億万長者になれるほどのものだ。

 北極圏野生生物保護区は、写真家の故星野道夫さんに「ぼくにとって宝物のように大切な土地である」と言わしめたほどの場所だ。この地はカナダとの国境を挟んで、ポーキュパイン・ハードと呼ばれるカリブーの大群が季節移動をし、子育てをするところでもある。星野さんは十五年という歳月をかけてこの群れを追い、空撮で木村伊兵衛賞を受賞した。

 この地にはカリブーだけではなく、アラスカの他の地でも見受けられるほとんどの動物が生息する。オオカミは太古の昔から変わりなく原野を走り回り、沿岸域にはシロクマが棲息する。しかし苛酷な自然環境であるがゆえに、この地の食物連鎖は脆くて壊れやすい。ぎりぎりのバランスで保たれた危うい生態系なのだ。

 かつてアイゼンハワー大統領が、未来の世代のためにこのまま残しておこうと、野生生物保護区に指定した。しかし、その地で油田が発見されると、アメリカ最後の野生地をそのまま手付かずにしておくか、それともアメリカの経済政策に組み込んで行くか、人類が抱える環境問題のシンボル的な存在となって、四十年近くアラスカを揺るがし続けているのだ。
 
 その開発推進筆頭格がテッド・スティーブンスだった。

 今回の選挙で、スティーブンスのニンジンに喰らいついたのは、都市部に住む富裕層の連中だけだった。彼らはアメリカのグローバル・キャピタリズムの象徴のような人々で、日々利益を上げることが人生の究極の目的だと信じて疑わない種類の人々だ。

 片やニンジンに喰らいつかなかった人々は、今の世の中は何かおかしいと感じている連中だった。アラスカが大きく変わりつつあることを認めながらも、自分たちにとって何が大切で、これから何処に向かうべきなのかを真剣に模索しようとする人々だ。前者の連中と違うところは、未来に責任をもっているところではないかと思う。

 「今」のお金を手にしたい者たちは、十年後、百年後のアラスカなんか知ったことではない。自分の人生をいかに豊かにするか、そのことだけに腐心し、自分以外の人生、後世のことなどアイ・ドント・ケアなのだ。

 いや、そんなことはない、我々もアラスカの未来を長い眼で見据えてモノを言っているのだと反論する者もいるだろう。確かに、人間の社会は経済を抜きにしては考えられない。そのような社会が歴史として確立しているからだ。しかし、需要と供給を基盤とする経済と、搾取を基盤とする欲とを、混同して用いる連中がいるのが問題で、またそんな連中がこの世の中を動かしているということも事実なのだ。

 アラスカ先住民の人たちは、時代の波に翻弄されながらも、今の世のあり方にクエスチョンマークを投げかけた。もしかしたら彼らは、人類が行き着く港の所在を知っている頼もしい航海士なのかもしれない。そして、スティーブンス上院議員の落選・失脚は、新しいアラスカが希望に向かってゆっくりと動き始めた証拠なのかもしれない。

 彼らを水先案内人として未来を見つめるならば、先進国首脳会議などに出席する連中が見つめる未来とは異なったものが見えてくるのではないだろうか。                       (了)
               (参考「ノーザンライツ」星野道夫)


星野道夫 ノーザンライツ


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2008年09月01日

「アラスカ物語」

☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットを介してつながりました。福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私がブログに書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。このコラムは、大山さんのご承諾をいただいて転載しております。

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 先週末、妻と連れ立って、三日間ほどビーバー村に行ってきた。

 ビーバー村というのは、新田次郎著の小説「アラスカ物語」に詳しいが、大河ユーコンの北岸に沿う、点のような小さな村だ。あと十キロも北に行けば北極圏という地勢のなかにある。

 百年ほど前に、日本の石巻出身のフランク安田という人がこの村を作った。当時は、近くで金鉱も見つかり、隆盛を誇っていたようだが、いまはほんの六十人余りの人が住むだけの小さな村になってしまった。

 今年はそのフランク安田の没後五十年に当たるという。彼の偉業を称えて村でポトラッチをして祝うので、一緒に行かないかと誘いを受けた。ビーバー村を訪れることは「アラスカ物語」を読んで以来の夢だったので、一も二もなく「ウン!」と返事した。

 フランク安田の奥さんはネヴィロといった。北極海の町バローのイヌピアック・エスキモーで、二人の間にはハナという娘がいた。実はこのハナさんと、ぼくは知己だった。ハナさんの晩年の頃で、一生を教師として暮らした凛々しさと、いつも笑みを絶やさない明るさを併せ持つ、カワイイおばあちゃんだった。

 父親のフランク安田が持ち歩いていたという四角い皮の鞄があり、そのなかに詰めた数々の遺品をハナさんに見せてもらったことがある。当時、新田次郎が小説を書く際にやり取りした書簡もそのなかにあったことを覚えている。

 ハナさんが長寿を全うし、その葬儀の席で、ハナさんの長女に会った。フランク安田の孫娘に当たるその女性はシェリー安田と名乗った。そのとき以来、彼女とは長い付き合いが続いている。今回のポトラッチも彼女の招待だった。

 ポトラッチという聴きなれない言葉は、星野道夫さんの著作のなかで知った。「アラスカ 風のような物語」にこうある。

「そして、村に帰ればポトラッチが待っている。ある老婆が世を去り、一年がたった。ポトラッチとは、インディアンの世界における御霊送りの祝宴。死者の魂はこの日を境に旅立ってゆく。そのために、ムースの肉が必要なのだ。その頭を煮て、すべてを溶かしたヘッドスープは、この祝宴に欠くことのできないもの。この土地に生きるアサバスカンインディアンにとって、ムースはポトラッチのための“神聖なる食べ物”だった」

 星野さんはそのスープをすすりながら、深い思索に落ちて行く。

 星野さんの経験したポトラッチ――それまでのぼくの人生観では想像もつかない世界だった。御霊送りの祝宴とは、アニミズムの延長のようなものなのだろうか。巨大なムースの頭を煮るという野蛮な想像も踏まえ、彼らの精神世界を垣間見てみたい衝動に駆られたものだ。そんな、好奇心にも似た望みが、今回、やっとかなえられたのだ。

 気が滅入るほど天気が悪い今年のアラスカだが、このときばかりは天も祝福してくれたのか、ビーバー村の空は日本晴れだった。

 会場は村の学校の体育館。体育館の外には、ドラム缶が三つ、火にかけられていた。ムースヘッドのスープを作るときは、ムースの頭をそのままドラム缶へドボンと浸けて煮込むのかと思っていたが、実際はそうではなかった。一つひとつのパーツをていねいに切り取り、処理を施し、それらを細かくしてスープの具にしていくのだ。

 そして、ポトラッチの儀式がはじまった。

 白人とネイティブの長老二人が司祭をし、祈りが捧げられた。一人は英語で、もう一人はアサバスカン・インディアンのグッチン族の言葉だった。両人とも、祈りの最後に『アーメン』と付け加えた。キリスト教の祈りだった。

 二年前、南東アラスカのトーテムポール建立式に招かれたときも、彼らのポトラッチの儀式がキリスト教で行われたことに驚いたものだが、ここビーバー村でも同じくキリスト教が彼らの精神世界を支えていることを知って、またまた驚いてしまった。そしてこの二人は、それぞれのキリスト教会で牧会する、米国聖公会の牧師だった。

 一人は白人で、名前をスコット・フィッシャーといった。若い頃にアラスカ内陸部に入り込み、伝道をはじめた。ビーバー村のネイティブの女性と結ばれ、娘二人・息子一人の子宝に恵まれた。しかし、七年前に息子を事故で失い、また二年前には奥さんをガンで亡くしている。いまだ傷心のなかにいるのかと思ったが、彼がいったん口を開くと、そのメッセージは皆の心をゆすぶった。傷心であるどころか、逆に皆を励まし、深い慰めを与えるのだ。深い悲しみを背負った者だけがもつ、他人へのいたわりが溢れていた。

「この村の行く末を案じることはない。思い通りにならない人生を嘆くこともない。神はどんなときでもあなたと共にいるのだ。いつもあなたと共に歩んでいる。心配しないで日々を生きて行きなさい。春になればギースが平安を運んでくるし、厳しい冬には猟をして生き延びられるよう神がオーロラを与えてくれる。恐れることはないのです……」

 彼の言葉に聞き入る全員が、このとき生きる力を与えられたのではないだろうか。

 もう一人は、アークティック・ヴィレッジから来たトリンブル・ギルバートという牧師だった。彼は、英語がわからない古老たちのために、グッチン・インディアンの言葉でメッセージを語ることのできる人物だった。

 アンカレッジに帰宅してからのことだが、星野さんの本を読み直してみると、何とトリンブルは、生前、星野さんと親交をもっていたことが判った。その箇所を思い出していれば、彼ともっと深く交わることができたのにと思うと、残念でたまらなかった。

 帰途に着く直前、ビーバー村の砂利道のような滑走路に見送りに来てくれたトリンブルに、ぼくは次のような質問をした。

「あなたたちは、あなたたちの固有の宗教があるはずなのに、いつ頃、どのようにして、キリスト教を受け入れるようになったのですか? キリスト教を受け入れたといっても、全部が全部クリスチャンではないでしょうから、ポトラッチのような伝統的なセレモニーでキリスト教一辺倒のやり方をしたら、なかには反発を覚える人もいるのではないのですか?」

 トリンブルは、ぼくが言い終わると静かにうなずき、ゆっくりと、教養を感じさせる英語で話しはじめた。

「私の住むアークティック・ヴィレッジの住人は、全員がクリスチャンです。その他の地域でも、二三の例外を除けば、ほとんどがクリスチャンと言っていいでしょう。ですから、ポトラッチの祈りも、イエス・キリストの御名によって祈りますし、このやり方は二百年前から受け入れられているのです。
 
 もちろん私たちには、私たち固有の宗教がありました。正確に言えば、いまもあるといったほうが正しいかもしれません。私たちは、はるか昔から神がおられることを信じてきました。自然の恵みと、私たちの生存は、神の存在抜きには考えられないからです。

 しかしこれまで、その神がいったいどのようなお方なのか知らずに来たのです。そして、聖書の教えが入ってきたとき、やっとその答えを得ることができました。

 神とはいかなるお方か――聖書は、『神は愛です』と言っています。先祖代々、私たちが信じてきた方も『愛』の神でした。私たちには、聖書の述べるこの神が、私たちと同じ神だということが判ったのです。それ以来、私たちはイエス・キリストを救い主として崇めるようになったのです。

 しかし、昔から信じてきた固有の宗教をすぐさま切って捨てたというわけではありませんでした。それはそれとして置いておき、聖書の教えをゆっくりと時間をかけて取り入れて行ったのです。

 聖書にはすべての答えがありました。ですから、私たちは聖書から答えをいただきながら、自分たちの宗教観をゆっくりと融和させていったのです」

 飛行機の出発時刻が近づいてきた。搭乗がはじまるというサインを、タラップの傍で待つアヌーカさんがさかんに送ってくる。

 ぼくは、トリンブルともう少し話がしたかった。このまま別れてしまうには、余りに惜しい人物だと思ったからだ。何か大切なことを訊きそびれているような気がしてならなかった。それが何なのか判らないことももどかしかった。ぼくは急いでメモ帳を出し、トリンブルに連絡先を書いてもらった。彼は、名前と、住所と、電話番号を書いてくれた。

「eメールのアドレスはいただけないですか? 帰ったらすぐにでも連絡したいのですが」

 ぼくは、手渡されたメモ帳を見ながら彼に尋ねた。すると、彼はこう返事した。

「私はインディアンです。そんなものは必要がないのです――」

 本気とも冗談ともつかない言い方だった。ぼくはどういう顔をしていいのか戸惑っていると、彼は続けて言った。

「十月にアンカレッジに行きます。そのときにでも会いましょう」

 彼によると、十月中旬に、アンカレッジで開催される地球温暖化の会議に招かれており、そこでスピーチをすることになっているという。

「地球温暖化というと、科学的なテーマですよね。なぜ、あなたがそんなところでスピーチをするのですか……」

 トリンブルは教会の牧師であり、アラスカ内陸部の精神的支柱であり、また音楽家でもある。科学者としての一面ももっているのだろうか。

「私は、いろいろな顔をもっているからね」

 そう言って、彼の分厚い唇から笑みが漏れた。いかつい顔が笑うと、子供の顔になった。

 星野道夫さんは、彼の著作「ノーザンライツ」のなかで、トリンブルを次のように紹介している。

「日曜日の朝、マイナス四十五度の大気のなかに、教会の鐘が鳴り響いた。それは、本当に小さな、丸太小屋の教会だった。

 その朝集まったのは、数人の古老と、小さな子供たちだけだった。牧師の役目は、トリンブルという村の男で、誰もの尊敬を集める、素晴らしい人物だった。フィドル(バイオリンのようなもの)の腕が抜群で、ポトラッチではいつも中心人物である。昔からの知り合いだが、牧師の姿で会うのは初めてだった」

 フェアバンクスに向かう小型飛行機のなかで、ぼくは外の景色を見るわけでもなく、今回ビーバー村で出会った人たちのことをぼんやりと考えていた。

 村を経つとき、誰かが「次は一月に来いよ!」と叫んで笑った。一月のビーバー村は、日照時間がほとんどなく、一日中暗い世界が支配している。気温は摂氏五十度まで下がるという。アラスカ内陸部では、冬には風が止まり、煙突から立ち上る煙はまっすぐ空に向かって伸びる。

「風のない寒さというものは、本当に辛いんじゃ。風が吹けば、確かに寒い。体感温度が下がるからのう。だがその風を避ければ、逆に温度は緩むんじゃ。風さえ防げば、寒さが凌げるんじゃよ。ところが風のない寒さというものは、どこを向いても寒いんじゃ。逃げ場のない寒さというのは怖いもんじゃよ。わしのような歳になると、とても耐えられん」

 北極海の町バローから来た古老が話してくれたことだ。

 彼らが安穏と暮らす日々の基軸には、そんな厳しい冬を越さなければならない苦悩がある。強い夏の日差しのなかでニコニコと笑う彼らの顔は、真っ暗で雪明りに頼るしかない、すべてが凍りついた厳冬期には、一体どのように変わるのだろうか。

 オーロラの降る原野で、生命をつなぐムースを追い仕留め、神の恵みに感謝するとき、もしかしたら、そのときこそ彼らの顔が最も輝くのかもしれない。


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2008年03月05日

クマ捕獲、アラスカでは

  山形県のクマ問題の担当者との話し合いのことを書きましたが、これに対してアラスカ在住の大山卓悠(おおやま・たくはる)氏から、貴重なご意見が届けられました。大山さんは写真家・星野道夫さんの友人で、星野さんが亡くなられたヒグマによる事故の原因を究明した『星野道夫 永遠のまなざし』の共著者のおひとりでもいらっしゃいます。

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  予察捕獲頭数を決定する科学的・統計的根拠が、日本では希薄だなと思います。日本のような小さな国土で、なぜ県単位の管理しかできないのか。なぜ国の組織がないのか。野生動物への管理意識・危機意識がまだまだ未熟としか言えません。このまま行くと、ツキノワグマはニホンオオカミと同じ運命をたどる恐れが年々膨らむように思えます。

 野生の宝庫であるここアラスカでも、クマの間引きはあります。予察捕獲という意味合いに近いかもしれません。あまり公を刺激しない程度に公報に載り、その年の、それぞれの地域の捕獲頭数を決めて行きます。予察捕獲の理由は、他の野生動物とのバランス、たとえばクマが増え過ぎてシカの数が減るなど、が主とされますが、ゲームハンティングを楽しむ勢力への配慮も公然とあることのも事実です。

 ただ日本と大きく異なるのは、ヽ峠に動物管理局があり、常に野生動物の個体数を把握し、社会的・生物的環境に対して提言を行う。∀∨政府の野生動物管理局が各州に配置され、国全体としてのバランスを常に維持している。M住‘数を決定する際には、必ず公報で住民に知らせ、公聴会がもたれる。公聴会には、個人も含め、各利益団体が、それぞれの立場で意見を述べ、最終的には政治的・社会的・生物学的に議論を重ねたうえで最終捕獲頭数が決定される。

 ここで最も大切なことは、すべての基準の前に、個体数の把握があるというところです。個体数の把握なしには、なにも議論が進まず、当該組織に対して、絶対的な調査を、国も州も義務付けます。そしてもしある種の個体数が激減したことが分かれば、生物学的な資源回復が起こるまでは、いっさいの人為的補殺活動を封鎖するのが普通です。

 日本は野生に対して寛容であると同時に、管理意識をも置き去りにしてきた感があります。日本国土の野生とこれからも共存して行くためには、大きな意識改革が必要ですね。政治的なリーダーの出現が望まれます。



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2008年02月09日

PBWの法則

☆アラスカ在住の大山卓悠(おおやま たくはる)さんから、楽しい「アラスカ日記」が届きました。大山さんは写真家・星野道夫さんの友人で、星野さんが亡くなられたヒグマによる事故の原因を究明した『星野道夫 永遠のまなざし』の共著者のおひとりでもいらっしゃいます。文中、「TJ」とは、大山さんのことです。


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 世の中には、まったく役に立たないものがある。

 たとえば定理や法則などの類。学校であれほど習ったピタゴラスの定理や因数分解など、これまで普通の生活で使ったためしがない。学校を出てウン十年、まったくと言っていい、一切使ったことがないのだ。

 学問的な意義については問わないことにする。実際の生活で役に立つか立たないかを考えたとき、あの貴重な青春時代を犠牲にして必死になって机に向かったのはいったい何だったのだろうかと、つい首を傾げてしまうのだ。頭の訓練?冗談でしょ。でも、まあ、いいけれど……。

 この日記のタイトル「PBWの法則」――これもまったく役に立たないものだ。自分が作った法則だから、胸を張って言える。まず百人いたら百人が、千人いたら千人が、まったく役に立たないと言うだろう。

 いや、役に立つ!――と言うかもしれない唯一例外的な人種は、写真家か画家だけだと思う。それも、厳冬期の山の色調の変化に興味を示すごくわずかの写真家か、イマジネーションを絵の具に溶くだけでは飽き足らない行動派の画家くらいではないかな。

 友人に、写真家の松本紀生さんがいる。彼は冬至の前後に、マッキンリー山が真っ赤に燃える瞬間を写真に撮ろうとして、毎年年末に山中に入ってキャンプをする。もちろん厳冬期のマッキンリー山が山火事を起こすわけではない。朝日が昇る直前、地平線の下から伸びてきた射光が、山を真っ赤に染める瞬間がある。そのとき山は、文字通り真っ赤になる。

 一般に「アルペングロー」と呼ばれるものだ。日が沈んだ後、しばらくすると、いったん暗くなった山が煌々と輝きはじめる、あの輝きと同じもの。これは、地平線に沈んだ太陽の光が高い山を投光機のように照らす現象で、普通の人は日没後に山を見上げることはしないから、知らない人のほうが多いだろう。でも、高い山は、一度暗くなった後に、ほんの短時間、もう一度明るく輝くのです。

 で、松本紀生さんはこれの朝版を撮ろうとしている。なぜ朝なのか――それは、朝のほうが空気が澄んでいて、山の輝きが圧倒的にきれいだからだ。それも、一年のうちで日照時間が最も短くなる冬至の頃が、いちばん赤く燃えるのだ。

 ひとつ難点がある。この時期、アラスカは、チョ〜寒いことだ。

 オーロラを撮影する人はまず一晩中起きている。明け方近くになり、空が白みはじめたらもうオーロラは見えないので、重労働を終えた囚人よろしく、氷の体を寝袋に沈める。時間帯としてはそのときが一番冷えるし、体温低下も限界に近くなっている。寝袋に入って眠りにつくまで、しばらくカチカチと歯の根が合わないが、寒さから脱した喜びは至福この上ない。

 しかし、山が燃える写真を撮ろうとすると、そこで終わりではない。そのまま引き続き起きていて、朝焼けの「アルペングロー」の輝きを待つのだ。

「そのときの辛さってないですよね。寒いし、眠いし、いったいあとどれだけ待てば山が光りはじめるんだろうと、指折り数えるような気持ちになるでしょう。オーロラと一緒でいつ輝きはじめるか分らないので、かまくらのなかで待機する訳にもいかないし、体はジンジン冷えてくるし、そんなときTJさんは何をして気を紛らわしているんですか?」

 極地訓練を何年積もうと、極寒の寒さが平気になることはない。松本紀生さんの気持ちはよく分かる。だが――、

「山が赤くなる瞬間がいつ来るのか、松本さんは分からないの?」

「えっ!TJさんは分かるんですか?」

 松本さんが驚いた顔で訊き返す。

「分かるよ。ああそろそろだな、という感じでカメラをセットするからね」

「ええっ!ウソでしょう?またぼくを担ごうとしてるんじゃないですか?」

「ぜんぜん!ある法則があってね。それを知っていたら、あせることなくのんびりと撮影に臨めるよ」

 松本さんは、ぜひそれを教えてくれという。ニタついているので、半分信じていないようだった。

「その法則は、『PBWの法則』というんだ。PはピンクのP。BはブルーのB。WはホワイトのW。これを合わせてPBW――すなわち『PBWの法則』。これを知っていたら楽だよ」

 松本さんはまだ不審の色を隠さない。ぼくはていねいに説明をすることにした。

「オーロラが見えなくなる程度に空が白みはじめると、空の色が変わりはじめるよね?空は何色と何色に変わってくる?」

 松本さんは即座に答えた。

「ピンクとブルーですね」

「正解!」とぼくは答え、次の質問に移った。「空にはピンクとブルーの色の階層ができるけれど、それではピンクとブルー、どちらが上でどちらが下になる?」

 そこで松本さんははたと考え込んだ。なかなか答えが出てこない。

「あれ、どっちでしたっけ?ピンクのほうが上で、ブルーが下だったかな?それともその逆だったかな?」

 アラスカの冬の空。それも明け方の、寒気がピンと張りつめた寒い空は、夜の帳が去るに連れ、鮮やかなピンクとブルーの色調に変化する。色の違いははっきりとしており、ピンクの色調の帯とブルーの色調の帯が、空にくっきりと現れるのだ。そこに雪山のホワイト(白色)が加わり、遠景は三色の鮮やかな色の諧調に染まる。

「いいかい、正解はピンクが空の上のほう、その下にブルーの空が現れる。そしてその下に雪をかぶった真っ白な山々がある。それぞれの色の頭文字をとると、P・B・Wとなるだろう。それで『PBWの法則』と名づけたんだ」

 松本さんはぽかんとしている。ぼくはさらに説明を続けた。

「でさ、重要なのはこの順番で覚えることなんだ。頭文字を入れ替えたらまったく意味をなくしちゃうからね。大切なのはPとWではさまれたBの存在だ。なぜかというと、このB(ブルー)の帯の幅が刻々と変化していくからなんだ。PとWは変わらないのに、Bの帯の幅はどんどん狭くなってくる。この変化を見て、山が燃える瞬間を知るんだ」 

 ぼくは松本さんの表情を読みながら話を続けた。彼は虚空をにらんでいる。その瞬間の情景を一生懸命思い出しているようだった。

「ちょっと待って下さい。こんがらがっちゃった」

 軽く深呼吸をする松本さんに、真剣さが加わった。

「OK、もう少し分かりやすく言ってみようか。いまここに真っ白な紙があるよね。これを三等分する線を考えるんだ。すると、上・真ん中・下、と三つの階層ができるよね。上の部分に大きなハケでピンク色を塗る。真ん中には、同じく大きなハケでブルーの色を塗る。そして一番下は白い色を塗る。もちろん白い紙だと塗る必要もないけどね。

 これが、空が白々としはじめたときのアラスカの冬の典型的な空の色だ。この色がスタートライン。実際の撮影の場合、この色調の空を確認できたら、一旦テントなりかまくらなりに入って寒さをしのいでも大丈夫。まだ時間はたっぷりとあるから」

「で、それからどのように色が変わって来るのですか?」

 真剣な顔つきになってきた松本さんを見て、ちょっと意地悪をしたくなった。

「聞きたい?」と、もったいぶってみた。

「そんな言い方しないで、教えて下さいよ。ここまで話してくれたんじゃないですか」

 じれったくなったのか、松本さんはむくれたように言う。

「写真のライバルに、あまり手の内を明かすバカもいないからな。どうしよ〜かな〜」もう少しからかってやれと、ぼくのなかの意地悪虫が耳元でささやく。

「そんな〜。最初、写真を教えたのはぼくじゃないですか。そんなぼくに、TJさんは感謝の気持ちも示さないんですか?とにかく最後まで話を聞かせて下さいよ」

 松本さんは勘の鋭い人だから、「PBWの法則」の価値をすでに嗅ぎ取ったのだろう。むっとした顔のなかに、両手を合わせて哀願する姿が透かして見える。ぼくは心のなかで苦笑しながら、話を続けることにした。

「しょうがないな、可哀相だから最後まで話してやるとするか。さっきの三色に色を塗った紙を思い出してよ。真ん中はブルーの色だよね。このブルーの色が、時間とともにどんどんと消えてゆく。というかピンクとホワイトに挟まれた部分がどんどん細くなっていくんだな。それに伴い、空の上の方にあったピンクの帯が下へ下へと下がって来るんだ。山に近づいて来るってことだ。

 ブルーの帯は刻々と細くなり、そして最後には消滅する。すると空はピンク一色になる。そして、そのピンクが山にかかったとたん……」

 ぼくは一旦息を止める。

「山にかかったとたん……」

 ぼくの言葉尻をオーム返しに繰り返しながら、松本さんの喉がごくりと鳴る。

「じゃじゃ〜ん!山が燃えはじめる!」

「や、山が燃えはじめる――」

 松本紀生さんは恍惚状態に陥り、よだれを流しはじめた。

「ほ、本当なんですね、TJさん。それって、間違いないんですね?」

「間違いないよ。その間、結構間があるから、外で震えながら待っている必要もない。眠いのだけ我慢すれば、アップルサイダーを沸かして飲むだけの時間はゆうにある。これがわしの編み出した『PBWの法則』じゃ」

 ぼくは口をへの字に曲げ、胸を張った。

「へっへ〜、おそれいりやした、TJさん。感服至極です。もうこれで寒さとの戦いとはオサラバできます。そっか〜、そうゆう風に変わっていくんだ〜。気がつかなかったな〜。うわ〜、そうなんだ〜」

 松本さんの顔が、にんまりとほころんだ。

「いいか、決して順序をたがえるでないぞ。PBW、PBWと唱えるのじゃ。PBWは、山が燃えればWがR(レッド)に代わってPBRになる。そして『PBRの法則』と名前は変わるが、そんなことはどうでもいい。とにかくPBWが基本。ああ、それに夕方にはPとBが逆になるから、夕日の場合は応用を利かせてBPWで準備をするんじゃ。邪推をもつとこんがらがるさかい、よろしゅうに」

 ぼくは、仙人用語で御宣託を下し、最後は関西弁で締めくくって止めを刺した。しかし、本心は複雑だった。いかに友人とはいえ、写真の世界ではライバルだ。ライバルによりよい写真を撮らすために、わざわざ手助けをしてやる必要はない。敵に塩を贈った武田信玄や、「与える者はさいわいです」といったイエス・キリストには頭が下がるけど、正直、自分のなかには何となく割り切れないものがあった。

 そうして松本紀生さんは山に入って行った。マッキンリー山に入る直前、タルキートナの空港から電話がかかってきた。

「TJさん、いまから山に飛ぶんですけれど、例のあの法則、BPWでしたっけ、それともPWBでしたっけ?」

 一瞬、必死の形相で受話器を握る松本さんの姿が目に映った。ぼくはにんまりと笑みを浮かべ、彼の問いかけを無視して電話を切った。


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2007年11月22日

アラスカにやって来た青年

☆アラスカ・アンカレッジの大山卓悠(おおやま たくはる)さんから、新しいアラスカ日記が届きました。大山さんは、写真家・星野道夫さんの友人で、星野さんが命を落としたロシアでのヒグマの事故原因を徹底究明した『永遠のまなざし』の共著者でもあります。

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  この秋、デナリ国立公園にキャンプに出かけたとき、ひとりの日本人青年に会った。その青年は、ちょうど十九歳になったばかりだと、すがすがしい顔で自己紹介をした。

「大学に入ったばかりです。以前からあこがれていたデナリ国立公園に、夏休みを利用してやって来ました」

 青年は自分のことをSと名乗った。やせているから背が高く見えるのか、ベンチで百八十センチ近くの背丈を折り曲げ、痛めた足の甲にテーピングを施していた。

「足を痛めているのなら、無理はしないほうがいいよ」
 ぼくはそう勧めたが、笑顔とともに、真っ白な歯からカラッとした返事が返ってきた。

「大丈夫です。こうしてテープを巻いておけば、痛みはありますが、まだまだ歩けます。夢にまでみたデナリに今いるんです、妥協はしたくありません」

 写真を撮りに来たのだという。サンフランシスコで入国し、しばらくヨセミテ国立公園で撮影をしたあと、アラスカにやって来たそうだ。お父さんが写真好きで、小さい頃からお父さんについて撮影に行っていたせいか、写真にはこだわりを見せていた。

「カメラは、デジタルを使わないの?」

 S君のカメラは、ニコンの古いマニュアル式のカメラだった。

「デジタルはあまり好きじゃないんです。フィルムを一枚いちまい指で巻き取るこのカメラが好きなんです」

 高校では、写真部に所属。ただし、部員はS君一人だけ。通っていた高校にはもともと写真のクラブがなかったので、写真のことを知っている先生に顧問になってもらい、写真部を創設したのだそうだ。

「ところで、デナリではいい写真は撮れたかい?」
「昨日、久しぶりに雨が上がって、マッキンレーが姿を見せたんです。早朝のバスで移動してたのですが、山が晴れたのが判るとすぐにバスを飛び降りて、それから一日中、山を撮っていました」
 
 僕はS君に興味をもった。自分の意見ははっきりというけれど、訊かれたら答えるというタイプで、決しておしゃべりではない。はにかみながら自分のことを話すとき、彼のなかに、“いまどき”の青年を感じさせない情緒があった。まるで、何十年も前の日本からやって来たような風情をもっているのだ。性格が、まっすぐなのだろう。

 写真のことから、いろいろな話へと広がり、食べ物の話になった。ところが、S君の前では、食べ物の話は禁句だったのだ。

「外国で三ヶ月も過ごすとなると大変だよね。毎日、何食べているの?」

 そう尋ねた途端、S君はぐっと唇を噛み締めた。もしかしたら食べ物がなくてひもじい思いをしているのかもしれない。ぼくは気を回して、
「もし食料が足りないのなら、少し分けてあげるよ」
と申し出た。

 すると、
「いえ、大丈夫です。食料はありますから」
という。そして唐突に、
「アラスカで一番旨い食べ物って何ですか?」
と訊いてきた。

 僕はふと困ってしまい、
「アラスカで何が一番旨いかと聞かれると、答えるのに困っちゃうな。サケとかハリバットとか、あとはレイン・ディア(トナカイ)のソーセージくらいしかないからなぁ。それより、アメリカに来て何を食べたの?何が一番美味しかった?」
と逆に訊き返してみた。そうしたら、
「美味しいというか、食べ物にカネをかけられないので、たいしたものは食べていません。いままでで最高の贅沢は、6ドル50セントのハムサンドにポテトフライのついたヤツです」
と真剣な顔でいう。

 S君に言わせると、一人旅でオカネを浮かすには、寝る所と食べることをとことん切り詰めるしかないそうだ。飛行機やバスなど移動にかかるお金はどうしようもないが、寝るところはテントがあるし、食べるものはとにかく安いモノを大量に仕入れて、できるだけ長くそれをもたす努力をするのだという。だけど、帰国するときには、いままで我慢してきた分、とびきり美味しいモノを食べて帰りたいのだという。

「とにかく切り詰めてここまで来ました。でも一度失敗しちゃいましたけどね。アンカレッジで買ったフランスパンにカビが生えちゃって、捨てるに捨てられず、困っちゃいました」

 S君の話によると、次のようになる。

 アンカレッジのスーパーで、輪切りになったフランスパンが大袋に入って安く売られていたそうだ。彼は、フランスパンは日持ちがすると、勝手に思い込んでいたらしい。旅を続け、最後の最後まで残していたパンをいざ食べはじめようとしたら、何だか表面が白くて粉っぽい。あれ、こんなに白かったかなと思いつつも、あまり気にせず食べ続けていたら、ある日パンに青カビを見つけたらしい。千本木君は、恐る恐る、フランスパンの表面に付いている白く粉っぽいものを、あらためて観察したんだと。すると、粉っぽいと思っていたものは、びっしり生えた白カビの菌糸だったそうだ。

 普通ならここでパンを捨ててしまうところだが、S君は違った。病気の心配と引き換えに、貴重な食べ物を捨てるわけにはいかない。そう結論付けたS君は白カビと青カビが蔓延したフランスパンを我慢して食べ続けた。しかしさすがに青カビは美味しくなかったらしい。仕方なく、青カビの部分には挟むハムの量を多めにして、カビの匂いを消すなどの工夫をしたそうだ。

「最後に残った辺りは青カビだらけで、さすがにツメ先で削り取らないとパン生地が見えないほどでした。ええ、結局ぜんぶ食べました。腹ですか?下痢ひとつしませんでした。腹へってたんで、カビも消化されたんじゃないでしょうか」

 僕は出る言葉も失い、唖然としながら聞いていたが、S君は何でもないことのように話してくれた。

「好き嫌いはあるの?」
「何でも食べられます」

「美味しいものを食べたいのなら、まずはプライムリブなんかどうかな。日本にはまだないからね、お勧めだよ」
「何ですか、そのプライムリブとかいうのは?」

「ステーキだよ。大きな肉を塊のまま焼いて、焼きあがったらステーキサイズに切って食べるんだ。その柔らかいことといったらないよ。口のなかで溶けそうになるくらいだ。ステーキソ−スなんか使わないんだ。ホースラディシュに、しょう油をちょこっと垂らして、それを肉につけて食べるんだ。旨いぞー」
「そのホースラディシュというのは?」
「まあ西洋ワサビとでもいうのかな、鼻にツンとくる辛さで、大根おろしみたいなもんだ。これがまたプライムリブに合うんだよ。一度食べたら病みつきになるよ」

 そこまで話してはじめて気づいたのだが、S君の身体が話している間に前後左右に揺れてきたのだ。空ろな目で虚空を見つめ、口が半開きのまま、何やらぶつぶつ言っている。

「どうした?大丈夫か?」

 その一声で、S君ははっとしたように我に返り、咽をゴクンと鳴らした。

「そ、そんなステーキ、見たことも聞いたこともありません。それって、高いんですか?どれ位するんでしょう」

 息せき切るというような訊き方で、ぼくは思わずたじろいでしまったが、そうだな、レストランで食べるなら20ドルくらいかな、と言うと、
「あっ、無理です、そんなに高いものは食べれません」

 とこれ以上悲しいことはないという顔をして、下を向いた。

「そうか、あんまりオカネを使えないんだよな。そしたらピッツァなんかはどうだい。10ドル以内で食べ放題って所もあるし」
「ピ、ピザですか!ゆ、夢だったんです、アメリカでピザを食べるのは。食べ放題っていうと、いろんな種類のピザが食べられるんですよね。それも、たらふく。ウワッ、そ、それにします」

 S君の顔が、先ほどの悲しい顔から、これ以上の幸せはないという顔に変身した。
「食べ放題がいいなら、他にもあるよ。寿司を中心とした食べ放題のレストランもあるし、中華料理を中心にしたところもある。西洋料理がいいなら、それこそピザからステーキからホットドッグから、いわゆるアメリカ料理のオンパレードのような食べ放題もある。アンカレッジに来て電話をくれれば、連れて行ってあげるよ」

「ウワッ、ウワッ、ウワッ〜!」

 S君は意味不明な叫び声を挙げながら、足で土を蹴ったり、両手を天にかざしたり、身体をグルグル回したり、何かを必死で表現しようとした。ようは妄想のなかで喘(あえ)いでいただけなのだが、目がらんらんと輝き、心はすでに食べ放題のレストランにあったらしい。

「ところで、今夜の食事は何?」

 口から涎(よだれ)を垂らさんばかりに狂い踊るS君を見ながら、僕はちょっぴり心配になり、この不憫な青年を現実の世界に引き戻してあげた。S君はまたハッとした顔になり、自分を取り戻すと、途端にもとの悲しそうな顔になった。

「食パン4切れと、ポテトサラダです。デナリのキャンプに入ってからは、一日三食、ずっとこの献立です……」
「へぇー、ポテトサラダねぇ。毎日同じものだったら飽きるだろう?」
 僕は同情を込めて言った。

「いえ、それが不思議と飽きないんです。アメリカのポテトサラダは旨いんですね。そのうえ安いし、長く置いても腐らないし、腹持ちもいい。最高です」

 たんに強がっているだけかなと思ったけれど、S君はポテトサラダを本当に気に入ったらしい。食べ物が長持ちをするのは防腐剤などの添加物が入っているからで、そんなものはあまり身体には良くないのだが、そんな忠告をS君にしても無意味なのでやめた。青カビを食って腹も壊さない男にかける言葉ではないだろう。

 S君に会うのは、一日のうち、暮れ方のひと時だけだった。朝は早くに行動を開始し、一日中帰って来ることはなかった。日が傾きかけると帰ってきて、夕食を摂りながら僕らと団欒(だんらん)した。日記をつけるのを日課にしているらしく、食後、夜の帳が訪れるまで熱心にノートに書き込んでいた。

 僕はそんなS君を見ながら、うらやましいと思った。まだ二十歳前後の青年なのに、自分のやりたいことをすでに明確にもっている。人生は思い通りにいかないことをこれから少しずつ経験していくのだろうが、そんな理不尽は蹴散らしてしまうほどの情熱が彼にはあった。

 そして彼は、自分のことは自分でした。当たり前のことのようだが、日本の若者はなかなかこの当たり前のことができない人が多いように思う。何かというと人を当てにしたり、うまく事が運ばないのを誰かのせいにしたり、いつまでたっても大人になりきれない部分を引きずった、甘やかされた人が多いのだ。アラスカに住んでいると、特にそんなところが見えてくる。

 しかしS君にはそんなところは微塵もなかった。彼は、自分が出きる事と出来ない事をはっきりと自覚していた。そして、そのなかで最高の経験をしようと、自分のもつすべてをかけて向かって行く気概をもっていた。人の世話になろうなどとははなから思っていない。自分でできる限りのことをする。そこに価値を置いているので、出来ないことがあっても別に気にならない。目標の次元が違うのだ。

 マッキンリー山を眺めるときも、湖水をわたる風に対峙するときも、S君は凛とした目で前を見据えていた。ファインダーを覗いても、シャッターはなかなか押さなかった。自分の目の前に展開する自然が気に入った光に染まるまで、彼は待った。いい写真をものにする条件を、すでに身につけていた。S君は、きっと自分の夢をものにするだろうな――僕はそう確信した。


――後日談――

 S君がアンカレッジにやって来たのは、それからひと月余り経ってからだった。

 僕はS君を連れて、食べ放題の店に招待した。寿司もピザも肉料理も魚料理も、何でもありの店だった。五十種類以上の食べ物がある店内で、S君は羽衣でもまとっているかのように舞い上がった。

 彼は何度もおかわりをしたが、しかし皿の上にはいつもポテトサラダを乗せて来た。

「何でここまで来てポテトサラダなの? キャンプで食べ飽きただろう」
 僕が不思議そうに尋ねると、

「ほんとですよね、あれだけ毎日飽きるほど食べていたのに、何ででしょうか?ついポテトサラダに手がいってしまうんですよ。旨いから、まあいいですけど――」

 そう言って、S君は次から次にポテトサラダを皿に盛ってきて、頬張った。挙句の果てに、もうお腹が一杯で何も食べられないといって残念がっていたが、彼が食べたのはほとんどがポテトサラダで、その店にイモを食いに行ったようなものだった。

 あれ以来音信はないが、いまS君は、何をやっているんだろう。僕の目のなかには、カメラを構える彼の雄姿よりも、赤リスのように頬を膨らませてポテトサラダを頬張る姿の方が、鮮烈に焼きついている。


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2007年08月31日

アラスカからの風

 ☆アラスカ、アンカレッジ在住の大山卓悠さん厚子さんご夫妻とは、インターネットの「ミクシイ」でつながりました。昨年福島市で開催された星野道夫さんの写真展の感想を私が「ミクシイ」に書いたのを、奥様が読んでくださったことがきっかけだったと記憶しています。そして驚いたことにご夫妻は、星野道夫さんの家族ぐるみの友人でした! 

 大山卓悠さんは昨年、ロシアでヒグマに襲われて亡くなった親友・星野道夫さんの事故を詳しく検証した著書『永遠のまなざし』(共著)を出されています。まだお会いしていない大山ご夫妻と、心にしみるような交流をさせていただき、きっと私がアラスカの地に立つ日もある、と確信できるようになりました。

 「ミクシイ」に参加されていない方にも「アラスカの風」を感じていただきたくて、お許しを得て私のブログに転載をさせていただきました。今後もあるかもしれないと考え、このブログに新たにカテゴリーを設定してみました。

 今回のメッセージは、アラスカで顕著に進む温暖化の兆候と、それをどんな時間スケールで考えるかというテーマです。


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 八月も終わりに近づいたつい先日、何気なく山並みに目をやって、ハッとした。市内から望むチュガチ山脈に、残雪がないのだ。

 ぼくの住むところはアラスカ州のアンカレッジという街で、緯度からいえば北緯六十二度に位置する。あと四、五度北に上ればもう北極圏という環境にあるので、これまでは夏になっても消えることのない残雪が山肌のあちこちに見え隠れしていた。ところが今年、山のどこを見ても残雪が見当たらない。みんな融けてなくなっている。この地に住みはじめて二十年以上になるが、こんな景観にお目にかかるのは初めてのことだ。

 女房にそのことを言うと、
「アラ、ほんと!ぜんぶ雪が融けてるワ」
と驚いたように呟き、パノラマに広がる山脈を首を傾げて見つめていた。
「やはり、どんどん暑くなって来てんだなぁ。あと何十年もすると、ここいら辺一帯が大穀倉地帯になるっていう予測も、まんざらウソではないような気がしてきたな」

 地球温暖化を研究する科学者のなかには、あと数十年もすれば、アンカレッジから数百キロ圏内の広大な土地が、小麦の一大生産地域になるだろうと予測する者もいる。現在はジャガイモしか獲れないこの不毛の地が、将来は人類の食料庫に生まれ変わるというのだ。

「何だか山の緑も増えてきているような気がしない?」
 女房が山に目を凝らしながら言った。
「ええ?どういうことだ?」
「ほら、植物帯っていうのかしら、山の頂上に向かって草木が途絶える境界線が、以前に比べて心なし上がってきたように思えるんだけど?」
 
 チュガチ山脈は名だたる豪雪地域で、世界でも有数の氷河地帯だ。その中心部に行けば、万年雪と氷河を頂いた標高五千メートルにもなる山並みが連なっているが、アンカレッジ市内に望む山々は穏やかで、高くても千五百メートル程度しかない。それでも山の雪線が低いので、森林境界線もそれに比して低い。麓(ふもと)の森林は、標高が増すにつれ徐々にまばらになり、山の半ばに達するとそれから先は無機質だけの岩石地帯となる。

「そう言われてみると、森林境界線が以前よりも上のほうにずり上がったような気がするな」

 毎日、毎年、同じ目で見続けているせいか、日常のなかに組み込まれた風景の微妙な変化を見過ごしていたようだ。言われて見ると、麓から続く緑がずいぶん高いところまで競り上がり、上部に占める岩石地帯の面積がかなり減ってきたように見える。それは、植物の生息域が、確実に北に向かって伸びていることを意味する。

 先日も、地球温暖化を取材に来た日本の朝○新聞の記者が話してくれた。
「調査船で北緯七十度まで北極海を北上したのですが、海氷がまったく見えないんですよ。もっともっと北に行かないと、いまの北極には氷がないのですね」

 ホッキョクグマは、海氷がないと生き延びられないという。自分たちの食料となるアザラシが海氷に根付くからだ。海氷を求めて海に飛び込んだまま、何百キロも海上を漂い、ついには溺れ死ぬホッキョクグマがあとを絶たないらしい。地球温暖化の犠牲者の第一号といわれる所以だ。

 野生動物だけではない。八月にセイウチ猟に出る北極圏のネイティブたちも、今年は氷がないので海に出られなかったという記事も読んだ。
「普通なら、四、五十マイルも船を走らせれば氷があるのに、今年は三百マイルも、四百マイルも北に行かないと氷がない。そんな遠くに行く手段もなければ、猟をして持ち帰る術もない。もう諦めたよ」

 さらにこんなニュースも飛び込んできた。北極海沿岸で餌を求めて歩き回るグリズリーの数が増えてきたというのだ。北極海沿岸といえば、もともとホッキョクグマのテリトリーで、気候条件からいうと、とてもグリズリーが生息できるようなところではない。極限の寒さでも冬眠をしないで餌を捕食し続けられるホッキョクグマだからこそ生き延びられるのであって、冬眠を強いられて半年も食事をしないグリズリーには生きて行けない環境なのだ。だけども、年々グリズリーの目撃例が増えているという。子グマを連れたグリズリーも観察されているし、ホッキョクグマと縄張り争いをするグリズリーも出てきたらしい。ということは、北極海沿岸は、確実にグリズリーの生活圏の一部になってきているということになる。

 オーロラ研究の権威・赤祖父俊一博士の言によると、いまの地球温暖化現象は二酸化炭素などの温暖化ガスが主犯ではないという。確かに、人類が生み出したガスが温暖化の一翼をになっている部分はあるだろうが、それよりももっと大きな力が働いているというのだ。その力は、地球の周期でもあり、宇宙の周期でもある。十万年を単位として訪れる温度変化の周期――そう、氷河期の周期なのだ。

 十万年といわれる氷河期の周期のうち、八万年が氷で埋まる氷期で、残る二万年は間氷期と呼ばれ、地球は温暖な時期を迎える。亜熱帯地域まで迫っていた氷河が溶けてくると、露出した土地に植物が生育しはじめる。動物はそれによって繁殖をし、植物とともに北上を続ける。氷はどんどんと融けて行き、海面上昇が起こってくる。過去一万年間で、地球の海面は百メートルも上昇した。ユーラシアとアラスカを結ぶベーリンジアと呼ばれていた陸橋−−モンゴロイドがアメリカ大陸へ、またグリーンランドへ移り住むときに渡った幅数百キロに渡る陸地−−は海面下に沈み、ベーリング海峡が出来上がった。

 アラスカのシシュマレフ村の人々が地球温暖化の影響を受け村を手放そうとしているという。南太平洋のツバルという島嶼国(とうしょこく)が水没の危機に瀕しているという。近年とくにこの種のニュースを耳にすることが多くなったが、実は、そのような出来事はいまに始まったことではない。過去二万年の間、海面上昇と共に、人類は高みへ、高みへと移動してきたのだ。だから放っておけばいいというのではない。手を差し伸べられるところは差し伸べればいい。ただ、本質を見誤ってはいけない。

 過去、地球が経験してきたことからいうと、間氷期が終わりに近づくとき、決まって地球の温度が急激に上昇したらしい。最初ゆるやかな気温上昇が続き、最後には急激な温度上昇が起こるという。少なくとも、過去、四十万年間に起こった、十万年毎の四回の氷河期には同様のパターンがあり、現在の地球の温度を上回る温度を経験した時期もあったという。人類が二酸化炭素などを排出しない遥か昔に於いてのことだ。だから、急激な気温上昇は一つのサインであり、緊張(キンチョウ)をもって望まないといけない兆(きざ)しでもある。

 そしていま、現在の間氷期に入ってから、はや二万年の時が経ってしまった。近年の気温上昇は過去のパターンを踏まないと考える方に無理があるとすれば、この先にやって来るのは更なる気温上昇と、そしてある日突然に温度上昇が止み、気温の低下がはじまるという現象だ。それはまさしく、新たな氷河期の到来ということになる。

 人類に、次の氷河期到来を阻止する力などあろうはずがない。止める力がないなら、氷河期を迎え入れ、また氷河期を生き延びる術を身に付けないといけない。過去の氷河期ではほとんどすべての生物が死滅したことを考えると、これから先、われわれ地球に生を受けたもの全員が、植物も動物も含め、想像を絶する苦難に直面することになる。幸い氷期はゆるやかにやって来るようだから、これまでに培った人類の英知を集結すれば、恐竜と同じ道を辿らないで済むかもしれない。

 人類存亡の危機がやってきたとき、人は互いに愛し合うことができるだろうか。思いやりの心をもって支え合い、助け合いながら生き延びることができるだろうか。快適な気候条件のなかに於いても、憎しみ合い、殺し合う、いまの世界を見ていると、ついつい心が暗くなってしまう。人類の希望の灯火(ともしび)は「愛」なのだということに、最後の最後には気づいて欲しいものだ。そのような瞬間が来ることを心の底から願っている。







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