ふっきーの演劇ワークショップ日誌

演劇ワークショップと言ってもいろいろ。自分の考える「演劇」や「ワークショップ」を、現場だけでなく率直な言葉で発信していきたいと思い、このブログを作りました。が、最近は地元葛飾区立石の関係の発信が多くなってきております。

December 2006

みんなありがとう

今年の年末年始は障害者のヘルパーとして働きっぱなしである。
これもほとんど収入がなかった水俣のせいだと言えよう、なんて。

でもね、いまヘルパーの仕事をやっていて思うのは、
劇やワークショップで自分がやったことは
東京でのヘルパーでの仕事と大差はない。
障害者の言葉をただ聞くこと、
そして、障害者がのぞむことができるようにサポートをすることである。
シンプルだけど、いまの日本はそれができていない。
障害者の声が聞けないということは、健常者にゆとりがないということである。
自分たちはそういう社会に生きている。
だから、水俣での演劇は現地の人たちに新鮮に映ったのだと思う。
悲しいことだけど。

今年の水俣は大変だったけど、
問題があるひとつの地域に入って、最後まで逃げずに仕事ができた。
これはとても大きな自信になった。

今年もいろいろな形で自分を支えてくれた人たちに感謝しています。
一年、みんなありがとう。

フィリア・プロジェクトのパーティに参加をする

暴風雨の中、神田までフィリア・プロジェクトのパーティに行って来た。
会場がわかりにくいところにあったため、30分近く歩きっぱなし。
おかげで足の先から頭までびしょ濡れだ。

フィリア・プロジェクトは演劇パフォーマンスのユニット(?)で、
今年7月に胎児性水俣病患者をモチーフにした芝居をやった。
今年の4月に音楽家の港さんから紹介を受け、
なんと水俣までとまりがけで手伝いに来ていただいたのである。
彼らにはお世話になった。
現地ではバタバタしていたので、あいさつらしいあいさつもしないまま、
仕事や買い物をお願いしてしまった。
でも、舞台裏を知っている彼らの協力が本当にありがたかった。
彼らなしでは、本番はあそこまで落ち着いていなかっただろうと思う。

というので、お礼の意味も兼ねて参加をさせてもらうことにした。
「劇場に住んでいるかと思いました。かと思ったら、舞台に出ずっぱりで」
とは主催の二瓶さん。
いくらなんでも劇場に住んでいるって。
座敷わらしみたいなものでも思い浮かべたのだろうか。
劇団の人は癖があるの人が多いのであまり得意ではないのだけれど、
フィリア・プロジェクトの人たちはとても気さくな方たちだった。
衣裳を担当している生物の先生の話や、
不自然な足だけ父親の遺伝だと信じている役者の人の話がとても印象的だった。

今年は水俣が縁で多くの人とつながったなぁ。

如月さんのこと5〜「いっしょにやってみない」〜

講義の話が長くなってしまったけど、自分たちはその年の夏休みに
大学の近所の児童館で演劇ワークショップもやった。
こっちのほうもいろいろあった。
メンバーが何人か入れ替えがあったり、
児童館とのやりとりを密にしなければならなかったり、
実際の演劇ワークショップも子どもたちがのってくれなかったり。
如月さんに相談しながらしぶとくやった。
子どもたちのやりたいことを大事にするということはつらぬいたから、
お芝居の内容もぶっとんでいたと思う。
演劇ワークショップは成功裡に終わった。
参加した子どもたちや児童館の職員、
見に来てくれた家族や地域の人たちもとても喜んでくれたと思う。
なにより自分たちが楽しかった。
演劇サークルでの演劇に限界を感じていた自分にとって、
演劇で演劇以外の人とつながれた経験はとても大きかった。

後期の講義が始まり、如月さんに報告をしに行くと、
次の週にお茶の誘いをいただいた。
あこがれの人に講義以外の時間を作ってもらえるなんて。
なにを話そう。なにを聞こう。みんな大喜びだった。
翌週、一通り、自分たちの報告を聞いた如月さんが言った。
「今度、冬にワークショップがあるんだけど、いっしょにやってみない」
世田谷パブリックシアターで新しく企画している
中学生のための演劇ワークショップの話だった。
中学生の芝居作りを大学生がサポートし、
さらにその大学生を如月さんがサポートする二重のワークショップである。
大学生も立教大学以外にも、東大で教育学を学んでいる学生や
桐朋で演劇を専門に学んでいる学生も参加するという。
もちろん、ほぼ全員ふたつ返事で参加の意思を伝えた。
はじめて訪れた大きなチャンスだった。

如月さんと別れたあと、
友人から「如月さんをすごいと思った」と言われる。
なにかと思ったら、自分が話をするのに夢中になるあまり、
如月さんの顔に持っていた箸を向けてしまった瞬間があったそうである。
みんなはひやひやしたらしいけど、もちろん自分は気づいていない。
如月さんは自分の話を聞くことを優先してくれた。
こういうところが浅はかである。いたたまれない。
(つづく)

如月さんのこと4〜「福原君、勉強になるね」〜

最初は、一日で終わらせるはずだったのに、
如月さんのことを書くと筆が止まらなくなってしまった。
亡くなった人は美化される。それは確実だ。
如月さんとの思い出もそうだろう。でも、印象深いのだもの、仕方がない。

如月さんに「戯曲を読めば読むほど、ひどい子ねぇ」と言われた。
そこで、はじめて自分が書いた子はそんなにひどいのかと思った。
書いているときは夢中になっているので、わからないものである。
自分の演出も、日記を見られた子どもの心の傷が
どういうふうに母親への復讐に転化していくかを描くように心がけた。
あくまで自分としてはひどくないつもりである。

年明けの発表の日、教室に向かう如月さんに偶然お会いして、
「こっちは午後から練習していましたよ」と言うと、
「あたりまえでしょ。こっちもよ」と思いがけない一言。
如月さんもピリピリしている。とたん、自分も緊張してきた。
ふたりで並んだまま、無言で発表会場の教室へと向かう。

発表は自分のグループのほうが先だった。
自分は母親よりも子どもに比重を置き、演出した。
子どもは戯曲の世界を制御し、日記やシーンのすべてを演出できるのだ。
だから、シーンの配置や使う小道具などもすべて子どもが考え、用意していく。
いろいろな選択肢の中から、子どもがたくらみをめぐらすところを見せたかった。
自分が当事者なので、子ども中心の演出になったのだろう。
教育学科の学生は楽しみながら同時に、苦しんでいる様子を演じてくれた。
自分の中では、まあまあといったできだった。

一方、如月さんの演出は無駄を徹底的に排除した演出だった。
余計な小細工なし。
時間がなかったせいもあるのかもしれないけど、
その分、せりふの中身と動きが際立って見えた。
お互い、演劇なんてしたこともない素人の人たちを使っての
演出だったけど、如月さんの芝居は早くて、シャープだった。
自分が書いた本なのに、見ていてドキドキした。悔しかった。

ほかの人が演出していた芝居もふたつあった。
自分は如月さんの演出を見たショックと、
学生の演出と見くびっていたことも手伝い、
ひじをつきながら、ぼーっと見ていた。
すると、如月さんに横から「福原君、勉強になるね」と声をかけられた。
「ちゃんと見なさい」とは言われなかった。
恥ずかしくて「はい」と返すのが精一杯だった。

こうして、如月さんの後期の講義は
学生たちの大きな拍手に包まれて終わった。
大学の講義じゃないみたいだった。
(つづく)

立石

e367fb70.jpgいまわが町立石で再開発問題が持ち上がっている。

ここにも何度か書いたが、立石は東京の最東部、葛飾区にある町である。「昭和の町」と言っていいくらい古くからの商店街があり、きれいとは言えないけど、安くてうまい店が軒を連ねる。赤線の名残りがある場所もあり、レトロの言葉を地で行く大人の町だ。
水俣に行くべく、一人暮らしをしていたアパートを引き払ったため、自分は大学を卒業して以来、約6年ぶりに実家に戻ってきている。すると、駅前の商店街には「再開発に反対する会」の文字がちらほら。チラシが地味にはってある。元気のない商店街を象徴するみたいでかなり心細い。なんとなく再開発されそうなかんじがする。

話を聞くと、京成線の立石駅を駅ビルにしてしまい、まずは北口にある商店街を防災対策で整備するそうである。
演劇で地域に関わりだしてから、自分の頭の中に生まれ育った町のことが常にあった。自分はどうしてそこに生まれたのか。どういう影響を受けているのか。考えれば考えるほど、いまにつながっているものがたくさんあった。ただ、それが失われるのは自分にとって耐えがたいことだ。

水俣の吉本さんから「勝負をしろ」と葉っぱをかけられた。自分の中ではいまだかつてない大きな勝負を仕掛けるつもりである。だれもやったことがないユニークな方法で、実家と地元の問題に取り組もうとしている。

如月さんのこと3〜演出勝負をすることに〜

戯曲のタイトルは『ぼくのうさぎは家の中』
10月のお月見あたりの一週間の日記と
リビングでの親子のやりとりを追ったお話である。
日記はうさぎに子どもたちがさらわれていくという妄想を
散文調に書き、現実ではそれを見た親が子どもをいろいろ心配する。
でも、子どものほうが一枚上手で、親の思うこと、期待することとは
違うリアクションを与えていく。
会話や行動にもたくみに日記の内容をふまえながら。
テーマの「秘密」を幾重にも織り込んだ。

如月さんの後期の講義はさらにみんなの気持ちをつかんでいった。
前期の課題の戯曲を後期の講義に使ったのだ。
まず、学生が提出した中から、如月さんが4つの戯曲が選んだ。
講義でそれらの本読みをし、作品の討論会ののち、ひとつを選ぶ。
最後にグループに分かれて、それぞれが芝居作りをすることになった。

4つの中に自分の戯曲も選ばれていた。
もちろん作者は非公開。だれも友だちには教えていない。
だから、講義はとてもスリルがあった。
講義の終わった後は毎回、余韻覚めやらず、
仲間と喫茶店や居酒屋にくり出し批評を続けた。
みんな夢中だった。

当初、自分の戯曲は人気がなかった。
「むずかしい」「子どもが演じられない」「暗い」という意見が多かった。
でも、討論会や批評を重ねていくうち、
「子どもではなく、自分が演じたい」「おもしろい」と言う人が
徐々に増えてきて、最後の投票で一番の票を集めた。
演劇をやっている自分としては当然とも思ったけど、
そのときは素直にうれしかった。
如月さんが戯曲のデティールを自分以上に理解し、
学生に丁寧に解説してくれたことがうれしかった。

その結果、講義内で学生が自分の作った戯曲をもとに
芝居作りすることになった。
二人芝居だけど、如月さんのやり方は本格的。
役者以外の人はスタッフに。舞台監督や美術、音楽・・・。
そして、演出は自分を含めた三人が手を上げた。
話し合った結果、役者は演出によるオーディション形式。
なんだか教育学科の講義ではないみたい。
みんな真剣に盛り上がった。すごい緊張感だった。
そして、三つのグループができた。

あとはちょっと自慢。
残った役者希望の人を如月さんが演出することになった。
プロの如月さんと自分の戯曲で演出勝負である。
なんという贅沢。その日は興奮して一晩眠れなかった。
(つづく)

如月さんのこと2〜「いいから書いてみて」〜

如月さんの講義もユニークだった。
学期末のレポートの課題は、
戯曲を書くか、それともゲームをひとつ考えること。
もちろん、そんな課題はみんなはじめて。
でも、如月さんの意図もよくわかるから、みんなはけっこう本気になっていた。
如月さんはひとりおもしろいレポートを読んで、
評価できるなんてずるいと思った記憶がある。
学生から学んでしまおうという如月さんの貪欲な姿勢が透けて見える。
仕事できっと忙しいはずのなのに、合間の講義までも楽しんで、
自分の糧にしてしまおうとする姿勢、たくましさを学ぶ。
先生も学生に教えるだけでなく、学べばいいのだ。
そうすれば、先生だけに得をさせたくないから、
学生も必死になって学ぶ。
そこに、一方通行ではない、学びあいの現場が生まれる。
(そう言えば、如月さんは学生に先生とは一度も呼ばせなかった。)

で、自分はどちらを選んだかというと。
もちろん、戯曲である。
当時自分は本を書いて演出をしていたし、
プロとして演劇をやってこうと思っていたので、
そんじょそこいらの学生といっしょにされては困るという自負があった。
それにプロである如月さんに本を見てもらういい機会である。

条件はふたつ。
・戯曲のテーマは「秘密」。
・子どもが演じられること。
自分がまっさきに思いついた芝居のアイディアは
とても子どもが演じられないようなブラックなものだった。
でも、如月さんは「いいから書いてみて」と言ってくれたので、
とにかく書いてみた。
夏の暑い日、締め切り間際の一日で台本を仕上げた。

ふたり芝居。
日記を母親に見られたことに気づいた小学6年生の男の子が
母親が不安になるようなうその日記を書く。
母親は日記に書かれていることと現実の突飛な行動とのギャップに悩み、
日に日に神経衰弱に陥っていくという内容だ。
到底、子どもが意味を理解をして、牧歌的に演じられるような内容ではない。
この話は自分が小学生のときに母親に日記を見られたときに
思った気持ちをもとに書いた。
当時、気になっていた女の子のことを書いた部分を母親に読まれ、
何気なく会話にされた。
ひどく怒ったのだけど、いい子だった自分はニコニコ笑ってごまかした。
そのときのやりきれなかった気持ちを覚えていた。
台本に書かれたことは、当時かなわなかった10年ぶりの復讐でもある。
われながら執念深い男である。

演じることを前提としない本を書くのははじめてで、
それは無責任で楽しい作業だった。
(つづく)

如月さんのこと1〜命日〜

今日は如月小春さんの命日である。
亡くなられてからもう6年がたつ。時がたつのは早い。
話したいことはたくさんある。聞きたいことも。
だから、如月さんのことを思うとちょっとつらくなる。

当時、如月小春さんは立教大学で講師をしていた。
自分は比較文芸コースというコースの一期生で、所属する英米文学科よりも、自分がやっている演劇のほうがおもしろくなり、文学部の授業を学科関係なく自由に取れたり、芸術系の専門の実習科目を受けられたりする実験的なコースができたのを幸いとばかりに、二年のときにコース生になった。
だから、自分の専門は「演劇」である。でも、日芸や早稲田などとは違い、演劇の専門の講義が体系的にあるわけではない。自学自習である。多くの同期生も同じ。「映画」だったり「音楽」だったり「小説」だったり。自分の専門を越境しつつ、こだわりを持つ学生や講師と交流し、学んだことを自分の専門へと帰結していくという、ユニークな狙いを持つコースだった。

その中で「演劇」の講義を担当していたのが、如月さんだった。勉強不足の自分は如月さんのことをあまり知らなかった。
その当時のイメージ。昔活躍した女性演出家、実験的な芝居をやる、怖い人かもしれない・・・その程度。
当初、失礼なことに演劇の仕事がないから大学に講師をしにきているのかなとか、どうせ教えてもらうのだったら演劇界の最前線で活躍している(当時はそう思っていた)野田秀樹や鴻上尚史のほうがいいなとか、勝手なことを思っていた。

最初に受けた講義は三年生のときの「教育と表現」。
教育学科の講義である。
如月さんの言葉は本物だった。
生まれてはじめて言葉に圧倒される体験をした。
いや、言葉というよりも存在だったのかもしれない。
如月さんは将来先生になるかもしれない学生たちを前に、
どうして子どもたちと演劇をやるようになったかを語った。
子どもに「演劇ってなに?」と聞かれ、
答えられなかったことがきっかけだと言う。
彼女の歩んできた道は、演劇や出会いを大切にし、
誠実に向き合った結果だった。
頭が下がった。

講義後、如月さんの話にすっかり魅了された自分は、
いつの間にか教壇の前に行って、如月さんに話しかけていた。
「いま演劇をやっていて、将来演出家になりたい」とか
そんなことだったと思う。
如月さんの話の聞き方は穏やかだったけど、相手にされていなかった。
あまりにも気持ちがおさまらなかったので、
その日の夜に教育学科の友だちといっしょに、
自分でも子どもたちと演劇を作ってみることに決めた。
それが訓練ではない演劇ワークショップとのはじめての出会いだった。

次の週の講義で、如月さんに相談をすると、
快く話を聞いてくれた。
学生の自発的で無謀な試みをとても喜んでくれていたと思う。
如月さんとはじめて話ができた。
そこから、それまでやってきた作品としての演劇づくりと並行して、
演劇ワークショップの豊かな世界にのめりこんでいった。
(つづく)

八月のこどもたち―劇団NOISE・91夏・ワークショップの記録

聖バルナバ教会にて相思社ミニ集会

a44b4a78.JPG今回の最後の広報活動はミニ集会。会場は神楽坂の聖バルナバ教会である。

水俣で遠藤さんから今回の仕事を頼まれた際、東京に帰ったら集会の会場をさがしてほしいと言われていて、学生時代お世話になった立教大学のチャプレンに協力していただき、会場をお借りすることができた。その上、器材の協力もしていただき、感謝することしきりである。

気取らない、いい集会だったと思う。まあ、参加者が全員、身内に近かったせいもあるかもしれないけど、チャプレンほか、自分の東京の知り合いも遠藤さんや生駒さん、そのほかの関係者に紹介することもできた。もちろん、成沢さんや花崎さんも参加してもらっている。ちょっとしたお酒や食事を囲んで、とてもアットホームな雰囲気の中、生駒さんの話に耳を傾けた。今回、生駒さんのたくさんの話を聞いた自分としては、あの話を聞かせたいとか、ついつい欲張って思ってしまうのだけど、生駒さんの疲労もあるしね。自分ではないのでしかたない。
とにかく無理のない雰囲気の中、生駒さんは育った水俣の自然環境のことについて語った。ひとつひとつの言葉が地に足が着いている。東京の人はどれくらい「地に足が着いている」のだろうと思った。

昨日、生駒さんと地下鉄の駅に向かって歩いていたとき、どこかの家の玄関に生えている木を見て、「これはニッケ(肉桂)の木だろ。根っこが食べられる」と言われた。知らなかった。自分は家のまわりにある木のほとんどを知らない。隣人がいるのに知らない状況と大差ないのかもしれない。

言葉だけでなく、多くのことを学ぶ5日間だった。

生駒さんとどこに行く?

51b90bf2.JPG連日、生駒さんといっしょに行動しているが、仕事と言えど全然苦にはならない。ユーモアがあるだけでなく、距離感もほどほどで心地がいいのだ。生き方が真摯で、人間としてすごく学ぶところが多い。

本日は夕方まで予定がないので、生駒さんと自分は自由行動。せっかくなので、生駒さんの行きたいところに行くことになった。朝食時に、どうするか話をする。
最初は「テレビの人がいるところ」ということで、代々木のNHKはどうかという話になった。
遠藤さんが「スタジオパークの時間に行けば、テレビに出られますよ」とすすめる。
「でも、生駒さんが前に立っていたら、絶対にインタビューをされますよ。『どこから来ましたか?』と聞かれたら『水俣です』って答えて、話が止まらなくなるかも」
とは自分。冗談半分、本気半分である。さらに遠藤さんは「あと、都庁は無料ですよ」とすすめる。すると「石原慎太郎に会いに行こうか」と生駒さん。たぶん本気である。水俣で市長に意見をしに行くくらいだから。石原慎太郎とは環境大臣の時代に会ったことがあるらしい。「でも、そういう人はいきなり言って会ってくれませんよ」と遠藤さんは真面目に答える。
「じゃあ、国会に行って、総理大臣に」「無理です」
「熊本県選出の議員は?」「むずかしいでしょうね」
自分が「環境省だったら目があるんじゃないですか」と言ったら、遠藤さんもなにか思いついたようで賛成してくれた。

その後、遠藤さんが、環境省の水俣病発生地域福祉推進室というところで働いている
水俣出身の方にアポを取ってもらった。おとといのセミナーでもお会いしている方である。ふたりで12時に環境省にうかがって、その方に推進室を簡単に案内してもらい、そのあとで三人で最上階の食堂で食事をすることにする。とてもかんじがいい方で、その方の父親は生駒さんと同じチッソ開発に勤めていたそうだ。話が弾む楽しいランチだった。
食後は入り口まで送ってもらい、生駒さんが希望している国会へ行くことに。国会の裏の議員宿舎の前ではいくつかのグループがすわりこみをしており、シュプレヒコールを叫んでいる。生駒さんが「うるさいねぇ。あれはなんか効果あるの?」と苦笑いをしながら一言。「ないことはないと思いますよ」と無難に答えておく。
国会を見学するつもりだったのだが、本日はインドの首相が来日するらしく、観覧を断られた。そのため、国会正面から記念写真を撮るにとどめる。

まだ時間があったので、タクシーで代々木のNHKへ行くことにした。生放送のスタジオパークは終了間際。しかもミュージカルの人で自分も知らない人だった。
生駒さんにとって、NHKのセットやコーナー、企画展示など、それほど興味があるものがないらしくどんどん先へ進む。ニュースキャスターの体験コーナーの小学生が群がっているところで、「ここで水俣病のことを話そうかな」とぼそり。「そういうコーナーじゃないので勘弁してください」とお願いをする。他人だったらいくらでもやってほしいのだが、ここは自分の身がかわいいのでしかたがない。何事もなく、3時過ぎにはホテルに戻ってきて、一休みしてから夕方出かけることにした。
♪ラブ・ユー立石(先輩&友人柳田さんの人気ブログ)
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