ふっきーの演劇ワークショップ日誌

演劇ワークショップと言ってもいろいろ。自分の考える「演劇」や「ワークショップ」を、現場だけでなく率直な言葉で発信していきたいと思い、このブログを作りました。が、最近は地元葛飾区立石の関係の発信が多くなってきております。

June 2008

立石まち歩き7〜はじめて歩いた道〜

ff3b2cb4.JPG まち歩きの醍醐味はふらりと通った道に思いがけないものと出会うことだ。立石をはじめて歩くまち歩き玄人のみなさんに、そんな単純なことを思い出させてもらう。
思えば、おととし立石に帰ってきたときはまちを歩くだけでワクワクしていたものだ。ところが、まちのことに徐々に詳しくなるにつれ、ガイド的な役割が多くなってくる。自然、自分がおもしろいと思う立石を伝えたいと思うあまり、「なにもない」と思われる道から足が遠のいていた。
 いままで立石さまに行くコースは2通りあった。中川沿いから行って、立石さまが運ばれてきた水運を体感してもらうコースと、クリスマスになるとネオンが瞬く住宅街&星の王子さま&突然あらわれる巨木コースである。しかし、今回は安井さんの提案もあり、時間の関係で別ルートを通ることにした。新たに通ったのは、北口商店街から京成線のカーブ付近を突っ切る道。自分もはじめて。確かにこの道は方角的に立石駅方面から立石さまへの最短ルートではないかと思う。案の定、この方々はおもしろいものを発見していく。自分もはじめてだったので、同じ目線で楽しませてもらった。
 立派な家構えの民家。映画『間宮兄弟』や先日のアド街でも紹介されたラーメン&うどん屋さん。店頭の素朴なかんじのメニュー同様、映画やマスコミに取り上げられた様子も手書きで書かれているのだが、思いの強さとは裏腹に全く宣伝になっていないかんじがいかにもローカルな立石っぽい。道を抜けると、角には老舗の風格漂う立派なタバコ屋さんがあった。
 ひとりが「これだよ!これ!」と叫ぶ。
 そうそう。昔はどの町にも目立つところに一軒はあったかんじのお店である。横を通り抜けると、案の定、アイスクリームの冷凍機があり、下町の子どもが自転車を置いて群がっていた風景を想像させる。これは自分のデジャブかもしれない。新しさと古さが交わる楽しいまち歩きはまだまだ続く。
 

立石まち歩き6〜下町のお弁当屋さん〜

43221c52.JPG スナック街を抜けると、次の予定まで残り時間はあと1時間ちょっと(←まち歩きで時間を気にするのは野暮なようですが、理由はあとの日記で説明します。)立石にいらしてもらったからには、立石さまを案内しないわけにはいかない。しかも駅のレプリカも見てもらったわけだし。
 そこで、窮余の策。雨もおさまっていたので、お弁当を買って、立石さまのある児童遊園で食べようという提案をさせてもらった。仲見世商店街で惣菜なんかを買って食べるのが立石らしいかもしれないが、時間の関係上いたしかたない。自分もはじめてのお弁当屋さん「ぷーさん」でみなさんといっしょにお弁当の品定めをする。店頭に並べられている容器にすでにいろいろな惣菜が入っていて、そこにあたたかいご飯を入れてもらうのだ。こういう庶民的なのも悪くないなと思う。自分も庶民だけど。

立石まち歩き5〜スナック街の塩ラッキョウ〜

ffb87ff2.JPG すでに1時すぎ。お腹もすいてきたし、あとの予定も決まっているし、まち歩きのみなさんのペースは遅いし、かと言って、行くお店はことごとく土曜日がお休みで。これでは時間内に立石さまを案内できないことになってしまう。目の前にある、元赤線のディープなスナック街なんかに入ったら、この人たちは絶対に30分は抜けられないだろうと、あえておもしろくない道を通ろうとしたら、安井さんに「せっかくなので通っておきましょうよ」と言われ、無理に反対する理由もなく、あえなく通ることにした。安井さんはさすがに大人である。
 1メートル幅の狭い小道ではなにやら、大工作業をしている人たちがいた。当然、こんな大所帯が通ろうとすると、どちらかが声をかけなければいけなくなる。
 おばちゃんが「通っても大丈夫だよ」と気さくに声をかけてくれる。
三人のおじさん、おばさんたちから「なにやっているの?」「どこから来たの?」と質問攻め。いつの間にか「まぁまぁ、塩ラッキョウのおいしいのがあるから食べていきなよ」とみんなでお邪魔することになった。お昼過ぎのスナック街で、ラッキョウとウーロン茶をご馳走になる。途中、隣で作業をしていたおじさんが冷やかし半分に顔を出すたびに、おばさんが「うるさいから、あっちへ行け」と丁々発止のやりとり。下町を見に来た観客を喜ばす役者みたいな人たち。ふだんの仲のよい近所づきあいが伝わってくるとてもいい雰囲気だった。
 このお店は『博多』というお店。ママさんは日本舞踊の名取らしく、お店の奥にあるお座敷には何枚もの額縁写真が飾ってある。昔は八百屋もやっていて、赤線街だから夜中の2時ぐらいまでは開いていて大いに繁盛したらしい。帰り際、「今度発表があるから見に来てよ」と言われた。素敵な出会いが多い一日である。

立石まち歩き4〜「なにもない」と思っていた住宅街にあるもの

d473cd62.JPG その後、安くてボリュームがあるお蕎麦屋さんをお目当てに歩いたものの、あいにくお休み。そこで住宅街を通ったのだけれど、「なにもない」と思っていたところにいろいろなものを発見してしまうこの方々には驚かされることしきりだった。
下町なのに、ラテン系のデザインの共同住宅。門構えがいやに立派な古い家。芝生を植えたセットバックの家。ふつうの家と思いきやゴムの会社?さらには葛飾区のカタカナの「カ」の形をしたマークまで。みなさんは新鮮に驚き、いろいろと寄り道をして、写真を撮りまくっている。かつて、この道がこんなに注目されたことがあっただろうかというほどのにぎやかしさである。地元学では「あるものさがし」に「よそもの」をいれるのが原則だが、その意味がはっきりとわかった。

立石まち歩き3〜仲見世商店街〜

cdca1410.JPGまずは先日のアド街の立石特集で1位に選ばれた自慢の仲見世商店街を歩く。8人という大所帯で歩くのはかなり目立つ。最近では顔なじみのところも増えてきたので声をかけてもらえるようになってきた。ご無沙汰しているお店は恐縮してしまうのだけど。
この方々のまち歩きは、おそろしくスローペースだ。それもそのはず、年がら年中まち歩きをしているような方たちなので、じっくりと歩き、気になるものがあれば立ち止まる。しかも6人ともばらばらに。町よりもこの方々のほうが逆に興味深かったりもする。
商店街も終わりに近づいてきたとき、洋服屋さんのおばさんから「どっから来たの?」と声をかけられた。みなさんのあとに「自分は地元です」と言うと、「どこ?」と聞かれて、地元の話になる。ここらへんが地元の若者のアドバンテージだ。二階は使っているのか、お店はいつからなのか、店名の由来はなんなのかと、全員で取材攻め。そのお店は「関西屋」という名前で、戦後、関西からやってきて商売をしていたらしい。
ついでに、昔の仲見世の写真を見てもらうと、たまたま映っていたのがそのお店で喜んでいただいた。自分自身もその写真の中に、小学生のときの同級生の親御さんがやっていた懐かしい肉屋さんを発見した。彼女は自分が小学二年生のときに亡くなった。特に親しいというわけではなかったが、人生ではじめて出たお葬式だった。親御さんはいまも元気だろうか。
寺山修司の詩の中に「まだ一度も作られたことのない国家をめざす/まだ一度も想像されたことのない武器を持つ/まだ一度も話されたことのない言語で戦略する/まだ一度も記述されたことのない歴史と出会う」という言葉がある。まち歩きをすると、まだ一度も記述されたことのない歴史と出会うことの重要性をつとに感じる。

立石まち歩き2〜キャサリーン台風の説明〜

8cce8c3b.JPG駅を出て、駅前の踏み切りに行き、夜のワークショップの会場となる地区センターと南北の商店街の説明を簡単にする。ここで、この日のために用意していたものがあった。
図書館から借りてきた昭和30年ころの立石商店街の写真である。南北ともいまの商店街と見比べてもらう。チェーン店全盛の中、立石はいまなおやっている老舗のお店もあるので、写真で看板なんかを発見できるととてもおもしろいのだ。北口商店街はいまなお健在の大林酒店が見えるし、南口のアーケードには化粧品店の白菊や、薬のコバヤシもある。ちょっと誇らしげに説明する。(すみません。自分がやりたかったことなので、あまりみなさんの反応は覚えていない。)
さらに踏み切りの中から諏訪神社方面を見てもらう。別段、なんの変哲もない風景なのだが、写真集の中の1947年の写真を見てもらうと、同じアングルであたり一面が浸水したものがあるのだ。実は、葛飾区一帯を襲ったキャサリーン台風によって中川や荒川の氾濫し、死者も多数出る大規模な水害になった。0メートル地帯の立石では共通の体験としていまも語り継がれているものである。92歳の祖母から数百回は聞かされている話だ。(当時、彼女は地区に4軒しかない2階建てに住んでいたので、30人近くを2階に上げて助けてあげたらしい。どこまで本当かどうかわからないけど。)
みなさんに話をしていると、
「こりゃ、俺も体験したよ」と横からいきなり言われる。
20代から40代の若いメンバーにそんな人がいるわけはないので、見たら年配の方だった。話をうかがうと、当時は小学生で、10日近く現在の八広駅のほうに避難したらしい。さすが当事者!説得力が違う。まち歩きをしているとこういう出会いがあるのがとてもうれしい。

立石まち歩き1〜駅の中の立石さま〜

6cc28612.JPG6月21日。前回の『立石をチョット測ってみよう!会』一般コースに参加してくれた方から「友人たちを誘って立石をまち歩きしたい」とお誘いを受けた。そこで、お昼前に立石駅で待ち合わせをして、会の安井さんとともにガイドを務めてきた。
まち歩きメンバーは6人と自分たちを含めた計8人。彼らのほとんどが世田谷で活動している人たちで、すれ違ったり、名前を知っていたりする人もいた。顔が広いのか、業界がせまいのか。
「さあ、行きましょう!」と駅を出ようとした矢先、
「ホームに戻りましょう」とみなさんをちょっと驚かす。
案の定、虚をつかれたみたい。子どもっぽい自分はこういういたずらが大好きだ。

若い駅員さんに頼んで、ぞろぞろと改札を通してもらう。
お目当ては下りホームの端にある、地名の由来にもなっている奇石、立石さまのレプリカだ。実は、自分も見たのは10年ぶりくらいだろうか。乗客からも駅員からも忘れ去られたようにひっそりと隅にたたずんでいる。事実、自分も忘れていた。
「おおーっ!」と誰もが思わず歓声を上げてしまうくらい、植木が伸び放題、荒れ放題。柵や説明がなければ、全くもって意味不明のコーナーである。実際に見てみると、立石さまのレプリカはただの置石。本来はいくら掘っても出てこないと言われている奇石なのだが、ホームの石はただの置石でありがたみもそっけもない。植木を植えるくらいの手間をかけるのなら、その前に石を埋めようよと思う。石自体も実物とは色も質感も全く違う。レプリカでもなんともない。しかも本当の立石さまには植木などないし。他の追随を許さないぞんざいさ加減が逆に猥雑な下町の立石っぽいかんじもする。このコーナーを提案して作った人にぜひとも一度お話をうかがってみたいものである。皮肉ではなく。
「シュールだね」とひとりがぽつりと言った。すでに、ほかのみなさんは熱心に写真を撮り始めている。ホームの立石さまがこんなにも脚光を浴びるのは、はじめてなのではないか。向かいのホームからは一般の方々が不思議そうに眺めていた。
地元の人でも本当の立石さまがどこにあるか知らず、中にはこちらを本物と思っている人もいるらしい。ホームの立石さまには、街道の道標で地表に露出部分が多かった当時の江戸時代の絵があるので説明にはもってこいなのだ。比較すれば、実際の立石さまももっとおもしろいだろう。
こういう妙なものを喜んでくれる方々といっしょのツアー。幸先はとてもよい。

立石をチョット測ってみよう!会 応用コース

dcb14ae5.JPG5月24日。天気予報は雨。立石のイベントには一度たりとも雨男ぶりを発揮していなかったのだけれど、今回の雲行きは怪しい。まぁ、と言っても、実測調査をする場所は呑んべ横丁で屋根があるので安心なのだが。
本日の進行はすべて建築家の安井さんにおまかせ。人数も応用コースだから少なかろうということで。自分は気ままに参加した。集まったのは、建築の関係者3人と自分。
軽い打ち合わせをした後、練習問題として、呑んべ横丁の入り口にある看板を測ることにした。看板にはむかしのアサヒビールのマークが書かれている。いま見てみると、このレトロなデザインが逆にめずらしく、斬新に思えてくる。4人なので、ペアになって立体図と平面図を測り始める。安井さんのペアは平面図を書き始めたのだけれど、自分の希望で横にある無造作にある植え木鉢や起き自転車なども加えてもらう。どう考えてもこれらは無造作としか言いようがないのだ。まずはなにかを表現しようとする意思が微塵もないので、ふつうに見れば全く美しくない。使われている形跡もない。坂口安吾の「生活で使われているものは美しい」という日本文化私観からもはずれている。ただ存在しているだけ。現在、日本各地で昭和レトロ町を再現していても、こういう洗練されていないところは省略されているだろう。しかし、立石の呑んべ横丁の看板を表現するのに、必要な構成要素なのだと思う。細部の朽ち果てかげんに立石のリアリティと哀愁があるのだ。と勝手にわけのわからないウンチクを並べてみる。
練習を終えて、今度は実際の横丁の実測調査に入る。時間内に全部はできないので、自分たちのペアはまずは「おでんや」付近から。安井さんのペアは全体の店の間取りを測っていっているみたいだ。自分にとって、実際の寸法を測って記入していく作業はかなり楽しい。測ったところは細部がわかっているので、自然と愛着が沸いてくるのだ。現在、やってからすでに二週間以上たっているが、お店の窓や扉の装飾のいいかげんな間隔など、すぐに浮かんでくるのだ。測ることを堪能した一日だった。

『水俣ば生きて』について書く

5月30日から6月4日まで、弟が両親といっしょにオーストラリアへ旅行に行っている。その間、自宅には90歳をこえた祖母と自分のふたり。自分が外出をしてしまうと祖母がひとりになるため、有給休暇を取った。家での家事の傍ら、たまっている事務作業をしようという算段である。
「たまっている」と書いたが、やりたいことはおもにひとつ。おととし、水俣に住み込みながら演劇づくりをしたときのことを書きたいとつねづね思っていたからだ。水俣での演劇づくりのことは2006年のブログを読んでいただければわかるが、製作はとても困難なものだった。行政主導のイベントへの参加拒否、水俣病患者と障害者の距離感、施設同士の権力闘争、町の人と福祉関係者の距離感、そして外部の自分たちへの嫌悪感。幾重にも悪条件が重なり合う状況。来てから一ヶ月ほどで受け入れ先だった施設の代表と決裂したときは、家を出て施設の前でひとり座り込みを始めようかと本気で思ったほどだ。
一般に演劇作りと呼ばれる部分、考えられる部分は最後の数ヶ月のほんの一部分に過ぎない。それ以外はどうしたら参加者が集まり、演劇づくりの場を準備でき、思ったことを表現できるかを考え、いろいろなやり方で作業をしてきた。自分自身が水俣に住む当事者となり、どんなに大変な状況でも楽しむことを課した。自分がへこたれたら、さらに厳しい状況にある参加者を演劇に誘うことなど不可能だからだ。自分たちや、自分たちを信じてくれた人たちの想いは徐々にいろんな人に伝わり、出会う場となり、演劇の表現となり、それを受け止めてくれる人たちを作った。本番やその後のふりかえりは、地域での演劇の無限の可能性を十二分に感じさせてくれるものだった。
しかし、どんなに意味があることでも、安定したお金をもらっての仕事にはなかなかつながらない。つながらない以上、社会への影響力も少なく、この種の演劇が次の世代に伝えられる保障はない。だから、水俣での演劇づくりのことを書いて、世に問いたいと思う。と久々に大風呂敷を広げてみる。
♪ラブ・ユー立石(先輩&友人柳田さんの人気ブログ)
Profile

ふっきー

Recent Comments
Recent TrackBacks
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ