ふっきーの演劇ワークショップ日誌

演劇ワークショップと言ってもいろいろ。自分の考える「演劇」や「ワークショップ」を、現場だけでなく率直な言葉で発信していきたいと思い、このブログを作りました。が、最近は地元葛飾区立石の関係の発信が多くなってきております。

April 2011

田舎に帰る

子どものときの夏休みのこと。
お盆になると、いつも一緒に遊んでいた同級生が
口々に「田舎に帰る」と言い、いなくなった。

自分だけが立石に残され、
存在しえない「田舎」の響きに憧れを抱いたものだった。

自分の両親の生まれは葛飾と墨田。
父は住んでいるところがそのまま故郷。
母は電車でわずか4駅。
行こうと思えば、いつでも行くことができる距離だ。

川で泳いだり、カブト虫をとったりできる
「田舎」が心から欲しかった。


昨晩、7,8年ぶりに昔の演劇仲間から電話があった。
上京して演劇を続けていた一人が
今回の地震を機に田舎に帰ることにしたらしい。
昨日は彼のお別れ会。
電話口で
「ふくちゃん、今回さ、いろいろなことがあって、
田舎に帰ることにしたんだよ」と訥々と語る。
「俺、今まで田舎に帰りたくなかったんだよ。
全然そんなこと思ったことなかったし・・・。
でも、今回は帰ろうと思ったんだよ。」

酔っぱらっていたこともあるのだろう。
詳しいことを語らなかったが、
上すべりをしていない言葉がすっと入ってきた。
「何かが変わったんだ」という彼の想いだけが伝わってくる。

自然と「それはいいことだと思う」という言葉が口に出た。
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福島は原発のある福島より大きい

かつて水俣が、世界の「MINAMATA」になったように
福島は、世界の「FUKUSHIMA」になるのでしょう。

世界中の人は「FUKUSHIMA」の名前を聞けば、
大規模な原発事故を思わざるをえない場所になってしまいました。

そこで、私は水俣出身の民俗学者谷川健一さんの文章を思い出します。
5年前に私が水俣に入ったときに、ずっと心に残っていた言葉です。

「水俣病が発生し、加害者であるチッソと、患者とその支援団体の対立が激化していくと、水俣病患者によせる全国的な支援が起こりました。国境を越えて、公害地”ミナマタ”の名は、世界のすみずみまで知られていきました。(中略)しかしその陰で、水俣の”先住民”である私が恐れていたことも進行していったのです。加害者と被害者の対立の合間で、水俣そのものの存在が忘れられるということが起こったのです。水俣病患者の支援者の大半は他所者ですから、『水俣病の水俣』には関心は抱いても『水俣病以外の水俣』には関心を寄せなかったというのが実情です。
 しかし、水俣病が非人間的な暴力行為であれ、それは水俣の一角に起こった出来事なのです。水俣の歴史からいうと、水俣には、はるかな過去の時代から、はるかな未来に向かって流れていく時間があります。それに比べると、水俣病は大きな問題を引き起こしたにせよ、一時期の所産です。私は『水俣は水俣病より大きい』と言ったことがあります。」(水俣学ブックレット1『水俣再生への道』谷川健一著 熊本日日新聞社)


地域でよい活動をしながら、その一方で地域の人たちと摩擦も生む
水俣病の支援者に違和感を覚えていた私は大いに共感しました。

だから、水俣にいる間も、私がずーっと考えていたのは、
生まれ育った葛飾や立石のこと。
誰しも生まれ育った地域に想いを寄せる感覚というのは、
きっと普遍的なものでしょう。

水俣に住んでいた人たちにとって、
「水俣病」というような名前をつけられるような事件が起こってしまったことは、
どんな住民であれ、
身を引き裂かれるような想いだったことは想像に難くありません。

今回は長期戦になるでしょう。

世界が福島に注目し、事態が沈静化したら
多くの研究者・支援者が福島を訪れることになるでしょう。

でも、「福島は福島原発より大きい」ということは忘れてはいけないことだと思います。

いつの日か、福島で楽しい演劇ワークショップができる日を祈って、
葛飾でできることをやっていきたいと思います。

水俣から学ぶこと

震災に伴い、福島では原発事故が起こった。
ただでさえ津波と地震の被害が大きかった地域だが、
今回の原発は地域の人たちを二重にも三重にも苦しめている。


前にも書いたが、この状況、水俣と酷似しているに思える。
*もちろん、福島は今現在進行中のことであり、
 時代や規模、被害等違う部分も多々ありますが・・・。


 /祐峽攣襪隆覿販冤

◆仝業を抱えざるを得なかった地域の経済状況と
  原発で潤っていた日本経済の構造

 事故後の政府の対応

ぁ”評被害と差別・偏見

ァ…弘くであろう補償問題

Αー然界への影響


いまだからこそ、水俣から学べることはたくさんあると思うのだ。

例えば、福島から千葉に非難をしてきた子どもに対して、
地元の子どもたちが「放射能がうつる」と言った件。
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110414k0000m040137000c.html

水俣でも、水俣病患者が一番きつかったのは病気ではなく、
地域での差別だったらしい。
仲がよかった隣人が水俣病を発症した人を差別する。
村八分にする。
それだけでも悲惨だが、水俣病が恐ろしいのは
地域の人たち全員が魚を食べていたこと。
だから、いじめた人、差別をした人、村八分にした人が
どんどんと水俣病にかかっていく。

また水俣病にはならなかった人も、
よその地域の人から差別をされる。
出身が水俣とわかると結婚が破談になることも多かったらしい。

水俣の子どもたちも修学旅行先で、
よその地域の子どもたちにひどい差別を受けていた。
だからこそ、水俣の先生たちは水俣病から目をそむけるのではなく、
水俣病のこと、地域のことを自らが学び、
子どもたちに教えることを選んだ。

千葉で差別した子どもたちも
グローバルな社会に出ていけば、
世界中の人から差別される日が来るのだろう。
そのとき、差別に耐えうるだけの自分を築けているだろうか。

入店・宿泊拒否をしたお店や旅館は
明日は我が身ということにはならないだろうか。

こんなときこそ、いまなお深い傷を残しながら、
魅力あふれる地域をつくってきた水俣に学びたい。


「みなまたの約束」
水俣は過去50年の歴史の中には、いろいろな失敗がありました。
そして、これらの経験を通じ、汚染された自然環境や
混乱した社会環境を元に戻すことの困難さを水俣は学びました。
これからの50年に向かって、自然とのつきあい方、暮らし方、
産業活動、コミュニティを「もやい」で捉え直し、
いのちの輝きを増していきます。
人が好き、自然が好き、住んでいる場所が好きと、
素直に言える「まち」をつくります。
(水俣病センター相思社のHPより抜粋)



↓詳細
http://www.soshisha.org/yakusoku/yakusoku.htm

いつの日か、この「みなまたの約束」が
「ふくしまの約束」になり、「とうきょうの約束」になり、
「にほんの約束」「せかいの約束」になる日を祈る。

夏まで持たない店も出てくるんじゃない

201104131342000
本日、お花茶屋の『真澄』にてランチ。
天気もいいし、仕事も一段落ついていたので、
今日は弁当づくりをお休みして、
どこかで食べようと思っていたのだ。

1時半過ぎなのに、席がほぼ満員の大盛況。
「たまたまだよ」とご主人。
「夜は全然戻ってこないよ。
被災地の支援をしたいけど、
うちのような個人店は自分のことでいっぱいいっぱい。
夏まで持たない店も出てくるんじゃない。」

節電。節約。自粛。
もちろん、日本全体が苦しい時期だから、
どこも一緒かもしれない。
でも、地域の個人の優良店がなくなったら、
最後に困るのは自分たちだ。

今日は日替わりランチ。
豚ヒレかつ煮と小鉢二品、ご飯、みそ汁、お新香。
一品一品仕事が丁寧で、
まさに「食べ物をいただく」という言葉がぴったり。

おしゃべりも楽しみ、食事も楽しみ。
「ごちそうさま」
あまりの居心地のよさにお金も払わず
出ていきそうになってしまった。
失礼しました。

こんなに楽しんで680円でした。
お花茶屋近辺のみなさま、
もしくは近くにお越しのみなさま、
ぜひ寄ってみてください!

地域の個人店も盛りたてていきましょう。

立石の水道道

201104031419000
今回の報道で、都心で飲んでいる水の多くは
金町浄水場でつくられていることを知った人が多いと思います。
では、どうやって運ばれているのか。

立石に水道道(すいどうみち)と呼ばれる斜めの道路があります。
豊田正子の『綴方教室』では、
水道道を彼女が四つ木方面から私の母校本田小学校まで
雪の中、父親のはだしたびを履きながら歩いていく様子が綴られています。


以下、転載。

「昭和元年(1926)から給水を始めた金町浄水場の水道管(幹線)が埋設されていることから付けられた名前です。金町浄水場の給水先は、葛飾・江戸川・墨田・江東・足立・荒川・台東・北・中央各区の大部分と千代田区の一部で、東京都東部の重要なライフラインとなっています。」(博物館に連れてって!五感で味わう《葛飾》の魅力)


昭和元年当時は、葛飾は農地が多く、
生活用には井戸か川、
農業用には用水路を使っていたようです。

ですから、もともとは川向うの都会の人たちが
水を使うための供給地だったわけです。

ここらへんは、程度の差こそあれ、
福島の原発にも通ずるものがあるのではないかと思っています。

「東京原発」という映画のDVDを借りてきました。
東京知事が原発を誘致することで巻き起こるドタバタを描いた映画。
見てみます。

猶予期間

そう、かに氏がコメントをくれたように、
今後30年の間に東京で直下型震災がかなりの確率で起こる可能性は高い。
そして、現在も東日本各地で余震が続いており、
震源地によっては東京で
震度6クラスの震災が発生することもありうるだろう。

怖い・・・が自然は待ってはくれない。
残された時間を猶予期間として、
小さいことから大きなことまで
できる防災対策を考えてみた。


◎個人や家族単位でできること
・家具の転倒防止
・窓ガラスの飛散防止
・最低数日分の備蓄をする
・非常時の家族の連絡先・連絡方法の確認
・いらないものを捨てる
・日頃から近隣住民とコミュニケーションをとっておく
・複数の避難場所・避難ルートの確認
・近くの消火器の位置の確認


◎地域でできること
・地域でネットワークをつくる(特に非常時動ける若者)
・行政や町会とコミュニケーションをとり、防災について調べる
・防災訓練に積極的に参加をする


◎長い目で考えること
・地域の特性を知り、それに応じたまちづくりをする
・貨幣経済一辺倒ではなく、
 相互扶助、自給自足の経済のバランスを増やしていく

3月11日のこと

市民活動支援センターの事務所にいた。

確か、私は区の他の施設の担当者と
コミュニティビジネスの講座の件で電話をしていた。
今まで感じたことのない第一波の揺れを感じ、
「これはヤバい!」と思い、
「またあとにしましょう」と電話を切らせてもらった。
私が職員の中で全館放送ができるマイクに一番近かったので、
すぐさま利用者に「窓ガラスの近くから離れること」
「机の下にもぐって身を守ること」を呼びかけた。

10数秒。まだ揺れは収まる気配がない。
初めて感じる怖さだった。
自らも机の下に隠れた。机の脚をぎゅっと握る。
目の前にある棚が倒れてこないことを祈った。

揺れはだいぶ長かった・・・長かったように感じた。

いったん揺れが収まったので、
施設長は館内、自分は建物の外周を見回った。

駐輪場の自転車が倒れていたり、
工場の人が積んであった籠が落ちている程度の被害。
館内はラックとパネル、倉庫の用紙類が倒れた程度。
地域の住民に「大丈夫ですか?」と声をかけると
興奮した様子で「怖かった」と返してくれたのが印象的だった。

すかさずテレビをつけて情報を集めた。

その後、何度か緊急地震速報が入り、
大きな余震が続いた。

センターの近くの工場の外壁がほとんど崩れ落ち、
目の前の道路が通行止めになっていると報告もあった。
近所の人たちがセンターの竹やぶに避難をしてきていた。
今まで体験したことのないような事態が
起きていることがわかる。

とにかくパニックにならないように!と自分に言い聞かせる。
手を見ると、擦り傷があり、血が出ていた。
机の脚を握ったときに、どこかにひっかかったのだろう。

合間をぬって、実家に電話をしてみるがつながらない。
94歳の祖母は駅前の友人の家に遊びに行っていた。
高齢者がふたり、どうしているのだろうと心配だった。

1時間ばかりたって、一度落ち着いたとき、
職員のみんなに許可をもらって、自転車で直行。
友人は無事。
「おばあちゃんはひとりで歩いて帰った」とのこと。

家まで一度戻った。父親がいた。
祖母は帰ってきて、隣の家を訪問していた。
母は買い物に。

とりあえず家族全員の無事が確認できたので、
再びセンターに戻った。
続々と寄せられる東北地方の惨状。
直接の知り合いはほとんどいないが、
縁のあった場所や人のことを思う。
東京でも余震が続いた。
家族のもとに歩いて帰る職員の人たちを見送る。

いずれ大きな地震が来ることは想像していたけれど、
「思った以上に早く来てしまった」とただ考えていた。

夜は長かった。
♪ラブ・ユー立石(先輩&友人柳田さんの人気ブログ)
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