e917eaa9.JPG立石の地区センターで埼玉大の経済学部のゼミの学生が、立石の再開発についての研究発表をするというので聞きに行った。立石に外部の学生が入ってくれているとは知らず、どのような観点で見てくれるのだろう、また今後どのように関わってくれるのだろうかとひそかに楽しみにしていた。

しかし、期待していたものとはちょっと違い、発表を聞いているうちに無性に腹が立ってきた。内容は、学生たちが、現在の立石の再開発プランの問題点をふまえた上で、自分たちなりの町づくりプランを考えるということだった。再開発の視点から考えるグループと、現在の町のよさを生かすところから考えるグループのふたつがあった。でも、どちらのグループも現地の調査をあまりしておらず、全国の町づくりの成功事例をもとにしたプランが並ぶ。彼らはよかれと思って考え発表しているのだろうけど、彼らの理想をもとに自分たちの町が好き勝手にされていくような気持ちになる。なにせ自分の家がある人もいるのだ。自分の家がある場所をこうしたほうがいいなんて、いくら善意でも気持ちのいい話ではない。程度の差こそあれ、行政の説明みたいだなと思った。

事実、地元の人から住民の厳しい現実をもっと知ってほしいという意見があった。なんで再開発をするのか考えてほしいという意見もあった。会場のお客さんから拍手が起こった。学生も地元のお客さんの意見を真剣に聞いていたけれど、自分たちの気持ちがどの程度伝わったのだろうか。学生の中には公務員を目指している人も多いらしい。きっと将来、町づくりや都市計画に関わる人も出てくるのだろう。

確かに学生が関わってくれることはありがたい。でも、その関わり方が相互に影響を与えるものでないかぎり、意味は持たない。彼らの町への思い入れはそんなにないように感じた。なにかをすればなんらかの影響を与えられるはずだという考えは傲慢だと思う。特に、外から地域に入る場合。

きっと、この感情はかつての水俣で多くの市民が持ってきた感情なのかもしれないと思った。外から水俣病支援の人はたくさん来てくれる。でも、相手にするのは水俣病関係のことだけで、水俣の町全体のことは考えてくれない。
実際、自分が水俣に行った当初も、一部の人たちを除いて、現地の人たちの自分たちに対する目は厳しかった。当時、自分はその意味がわかっていたつもりだったけど、今夜、身をもって実感した。まさに当事者にならないとわからない気持ちである。
次年度、学生は違う町を研究するらしい。なんだか、とても悲しかった。こんな気持ちになるのははじめてである。