参加者はめいめい、個人の印象深い体験を絵に描いたり、
身体表現をしたりして見せ合う。その都度、ディディのこまかい指示が入る。
かなりの早さ。着いていくのが精一杯である。
考える間もなく、与えられた課題をこなしながら、
徐々に集団での創作作業になっていった。

人の話もそれぞれの想いがつまっていておもしろい。演技から体温が伝わってくる。
でも、グループで選ばれたのは自分の小学5年生のときの話だった。
まずはグループ内で質疑応答の時間。自分はほかの人から質問を受ける。
自分ではあたりまえだと思っていたことが人にはあたりまえではない。
客観的に見えなくなっていたのだなぁ、と思う。
例えば、グループの三人はその先生が女性だは思わなかったみたいだ。
さらに彼女が身体障害者であったことも。
腰が原因で身長が伸びない障害らしかった。みんなから驚きの声が上がった。
弱者としてのコンプレックスのしわ寄せがもろに子どもに向かったのかもしれない。

次は配役である。四人でだれを演じるか。
物語を構成する役は、殴られた子ども、先生、それを見ていた友だちふたり。
グループの人の提案で自分は先生を演じることになった。
まずは集団で劇を作る前に、物語上、個人がどのような時間を過ごしていたかを
ひとりひとりがからだと声でたどっていく。
自分は教室に入る前から先生の物語を始めることにした。
やってみて思ったのは、
いままで先生の気持ちなんて考えたことがなかったということ。
自分が演じた先生は必要以上に子どもを恐れていた。
教室に入るまで怖くて怖くて仕方がなかった。
自分たちがあんなに恐怖を抱いていた先生がこんなにも弱い人だとは思わなかった。
結局、ひとりの作業では教室に入ることができなかった。
自分の中でなにが起こるかわからず、怖かったからだ。
グループ内で見せるときになって意を決し、なにも考えずに演じる。
とにかく仲間を信じてやってみようというかんじ。
ここまでかなり丁寧に作業をやっているので、大胆に表現をすることができた。
特に殴る箇所は。
グループの人たちからは当時見たことを忠実に再現しているみたいだと言われた。

その後は集団創作。やはり集団で立体的な演出の目が入ると楽しい。
物語で見せたい箇所が自然に整理されてくる。ここでも新たな発見があった。
殴られた自分だけでなく、それを見ていた友だちも同様に傷ついていたことだ。
いや、むしろ殴られなかった分、強く傷ついていたのかもしれないと思った。
だから、グループの演出では殴られる子どもとそれを見る関係が
わかりやすくなるような見せ方を考えた。
殴られる側と見る側が先生を間に対照的になるようにした。
言葉よりも子どもたちの目のやりとりを見せたかった。

全体での発表のあと、何人かの人たちから感想をもらった。
「すごくよかった」「つらい話を提供してくれてありがとう」
自分自身、虚構だけれど仲間の中で実際に先生の物語を生きたことは大きい。
あれだけ嫌いで、考えるのも嫌だった先生をちゃんと受けとめることができた。
いまなら彼女とも大人として話ができると思う。やっぱり演劇はすごい!!